別館「滄ノ蒼」

Awake to find

 

 

 どん!どん!と響き渡った大きな音に、ルカが「何なの!?」と声を上げた。
 私はまた、急げ急げと何かにせかされたような気がして、首が痛くなるほどに音のした方を見つめた。
 ―近づいてくる。
 きっと、近づいている。

 熱気が増す
 ごう、と風が鳴る
 ぐるんと廻りかけた舵を縛って
 かんかんと足音を甲板に高く響かせ
 濃い影に沈んだ船室の角をぐるりと回りこんで

「…エッジ…!」

 間違えたりなんか、しないよ。
 いくらびゅうびゅう空気が吹きすさんでいて、すぐにもつれるこの碧の髪が目にかかっていても、
その人影が倒れこんだまま、目から光をさえぎるように、大きな手で顔を隠していても。その隣に膝
をついて驚いたようにこちらを振り返ったのは、見覚えのある黒い髪の彼女だから。
 …細身の長い体に近づいてゆけば
 燻銀のみじかい髪が、かすかにゆれて
 ゆるり、とそのなつかしい手がずらされて
 どんな刃物より研ぎ澄まされた、鋭い目が現れる
 向けられた視線に私は射抜かれそうな気がして、どくん、と体の奥が鳴る

「どうして…エッジが空から落ちてくるの?」
「よぉ、リディア…天国じゃねぇよな、ここは…」

 先に言葉を発したのは、私たちのどちらだったんだろう。
 歴史は繰り返すって奴だ、などと言いながら片肘をついた鋼色の視線がこちらを向き、ふ、と細め
られて私は、おなかの上のほうに何か丸くてほわほわしたものが入ったような気持ちになった。

 身動きすれば一瞬で斬られてしまいそうな磁力を発する、強い強い、切れ長の目が
 私をまっすぐに見ると、ちょうど、ひなたぼっこする子犬でも見つけたように
 目を向けられた私まで、ふわふわと陽のぬくもりでも恋しくなるように
 くしゃり、目尻が下がって、あどけないほどに優しくなる

 ―私はそれを見るのが、とてもすきだったんだと思い出したんだよ。

 目元のしわが、深くなったね。額の線が、鋭くなったね。
 久しぶり。久しぶりだね。大丈夫?―起きて。起こしてあげる。
 自然と手が伸びる。またこの手の、大きな手のあたたかさに触れたい。

(…御館様)

 関節の目立つ大きな手が、私の差しだした小さな手にゆっくり近づいてくるにつれて
 向けられていた深い水のような冷静な視線が、苦しげに揺れて伏せられた
 じっと控えている彼女の名前を、私はまだ知らないのだけれど

 胸の中の深いところが、ずきん、と鳴った。

 …ああそうか、起き上がらないこのひとを助け起こしたいのは私だけじゃない、
 このひとの鋭い視線がやわらかくなる瞬間が見たいのは、私だけじゃないんだ。

(…おやかたさま)

 私の知らないこのひとの呼び方
 私が使わない、このひとの呼び方
 呼び方ひとつのうちに、なんてたくさんのものを、このひとは背負っているんだろう。

 手が触れた時、そのくっきりとした男らしい眉の、片方だけがぐっとしかめられたのがわかった。
 …きっと黒い髪の彼女には、見えていない。

「ねえ、詳しい話をあっちで聞かせて?…私達も、話さなきゃならないことがたくさんあるから」
「…おう」

 繋がれた手に、力がこもったのが伝わってくる。
 その持ち主が起こした身体の陰になって、彼女の姿は、もう見えない。

(2009.1)