別館「滄ノ蒼」

良き王の肖像

 

 

 お互いにとって、婚儀は義務だった。
 彼にとっては、新しい王朝の正当性を確保するため。
 わたしにとっては、母と自分の身を守るため。
 それでも、手を取り合ってバルコニーに出て、人々に向けて優雅に手を振り、にっこりほほえみ合って見せる、その程度の分別はあったのだ、お互いに。

 お互いにとって、閨事(ねやごと) は義務だった。彼もわたしも、子をなす必要があったから。
 新しい王朝を、一代で途切れさせるわけには行かなかったから。国母とならなければ安全とは言えなかったから。お互い黙ったまま寝室に入り、肌を合わせた。
 彼は明らかに房事の手順を知っていた。迷うことなくわたしの体を開かせ、するすると行為を完遂した。そのこと自体は、特に不思議だとも思わなかった。だって彼は、英雄王と呼ばれるひとだ。どこぞの町娘と恋に落ちたことだって、娼婦に誘われたことだって、当然あるだろう。
 けれど、行為の途中で、彼は戸惑ったように何度か手を止めた。ことが終わっても、彼は黙ったままだった。
 不思議そうに、わたしの肩や腰に触れていた。
 子供が珍しい動物でも撫でるような動きだと、なんとなく思った。
「陛下、どうなさいましたの?」
 そう訊くと彼は、「……女性がこんなに細くて柔らかなものだとは、驚いたので」と、ぽつりと言った。
「これほどかたちの違う相手と交わると、子ができる。不思議なものです」
「幼子のようなことを仰いますこと」
「俺は幼子のようなものですよ。玉座など得てしまいましたが」
「……え?」
「……村の森で、友とちゃんばらでもしていたころと変わっていない。木の剣を振り回して駆け回っていたら、それで満足だったはずなのに、こんなところまで来てしまった」
「なにを……仰っているのです?」
 彼の視線はわたしを通り過ぎて、どこか遠くにうっそりと焦点を結んでいた。
 ――ああそうか、と思った。
 このひとがわたしを娶ったのは、心底、義務だったのだ。彼はわたしを見ていない。わたしを愛することはないし、わたしに愛されようとも思っていない。長い時間をかければ信頼を築くことはできるかもしれないけど、それが恋情に変わることはないのだろう。
 いなくなった誰かのかたちに、欠けてしまったから。
 きっとそれは、女のかたちをしていない。
 涙など出なかった。最初から、得られるわけもないのだった。夫を持って最初の夜、月の光が明るく窓から射す夜に、わたしは嫉妬の感情を捨てた。

 やがてわたしは赤子を産んだ。彼によく似た息子だった。
 十日目の祝が開かれ、父親として初めて、彼が赤子を抱き上げる。慎重な手付きで、おそるおそるといった表情で。
 傅育役たちが告げる。
「五体満足の王子でございます」
「泣き声の大きな王子でございます」
「王子は魔法使いではございません」
 それを聞いて彼の目に、ひどくほっとした色が浮かんだ。赤子に笑いかけ、名を与える言葉を宣る。
 それを見守りながら、わたしは違和感を感じていた。
 彼は、三人目の傅育役の言葉で表情をゆるめたように見えた。……でも、彼が王座を求めるために掲げていた義は、何だった? 魔法使いと共に、というものでなかったか? そのために革命まで成したのではなかったのか? 確かそう聞いたのに。
 ……そういえば、とわたしは思い至った。わたしの知る限り、閣僚にも将校にも、魔法使いなんていないのだった。革命が終わって――わたしの一族が滅んでから、何年も経っていなかったのに。

 息子は幸い、乳をよく吸う子で、見る間に重くなっていった。しきりと這い回り、立てるようになると、父親の脚にまとわりついては手を焼かせ、膝によじ登っては抱き上げられ、笑い声をあげた。
 そのたびに、彼は息子に笑顔をむけ、時には肩車などしてやった。
 こうふくな親子の図だった。傍目には。
 彼の王朝とわたしの立ち位置は、安定した。



        §



 彼は新貴族に爵位を与え、国境の守りを整え、制度を改め、記録を残した。そのたびに街中で反対が起きたり中立派を懐柔したり賛同の声を取り込んだりしつつ、新しい王朝は形を作り上げていった。
 議会が大きく割れたのは、彼がある法律を提案したときだった。
 「軍や官に応募した者に対し、門地も出身も、魔法使いであるかどうかすら問わず、選抜試験の結果をもって採用する」というものだった。
 多くの者は嫌悪をあらわにし、古くから彼を支持してきた者たちも、急進的すぎると二の足を踏んだ。民がずいぶん流出してしまっていて、国を支える優秀な者が数多く必要だという理由づけは誰もが理解していた。それでも、慣習的な決まりを捨てることには困難があった。
 彼は何度も議会を招集した。反対意見を聞き取り、丁寧に反論し、他国や過去の慣習法を調べ、学者に理論的な問題点を奏上させた。
 時間をかけて、時には夜を徹して、偏執狂的なほどに。
 法案を推敲する彼の横顔は、話しかけられるのを拒む雰囲気すらただよわせていた。ぎらぎらした視線。仇討ちでもしようとするかのような目を、じっと向けていた。
 口さがなく勘繰りを口にする者も多かった。いわく、王は異国人や魔法使いから利権を約束されたのだ、だとか。革命軍の掲げた綺麗事を今さら持ち出して来たのは誰のためだ、とか。
 それらに対し、彼は議会で述べた。
「この国のために成さねばならないことはたくさんあります。でも、誰かひとりのためにそうする理由など、今、誰にも、どこにもない」
 それで議会の大方は黙った。残りはまだ不服の空気で、わたしの発言を求めた。
「王妃の意見を」
 わたしは法案に賛成しかねたが、反対もしなかった。
 異国人も貧民出身者も魔法使いも、嫌悪を催す存在だ。労働力、あるいは石を取るのが使いみち、それが当たり前だ。けれど、出身の正しさがどうとか、貧民や魔法使いだからどうとか、彼という夫がいながら言えることではなかった。だから、
「前の王朝は血筋や出身を重視した結果、地位の硬直化と財産の独占を招いたように思いますわ」
 とだけ述べた。
 それで議会は、王の意見に傾いた。
 法案が成立した夜、彼はわたしの手を取って、言った。
「……ありがとう」
 わたしは特に感慨もなく、答えた。
「陛下の思うようには、……ならないかも知れませんわよ」
 条件が平等だからと言って公平に競えるわけではないことを、わたしはよく知っていた。わたしの父は、建前上は王族だったけど、傍系の末流でなんの力もなかったから。一族の証である装飾品は祖父の代で売り払ったし、王宮に入ったことすらなかった。王座など望むべくもなく、世間からは忘れられ、肩書だけがさびつき、けれど平民のように職を求めるすべもなかった。
 同じことだ。もし異国人や魔法使いだからという理由で屋敷に招き入れないことが禁じられたとしても、そもそも門が開いているとは限らないし、屋敷の存在すら知らないまま死んでいく者のほうが多いだろう。
「そうかもしれません」
 彼はそう言って、唇を噛んだ。
「でも、俺はこのために革命など起こしたのです。これだけのために、王座を求めた」
「誰かひとりのために成す理由などないのに、……ですか?」
「……そうですね」
 ふらりと彼の視線は遠くを向き、なにかを堪えるように鋭くなった。まるで睨むような。
「義理は――通さなければ。裏切られた相手だとしても」
「……裏切られた?」
「……言いすぎました。忘れてください」
 彼ははっとしたようにわたしの手を離した。



        §



 七の鐘が鳴ると、王妃は王の私室を訪れ、就寝の挨拶をする。そのような慣習だった。
 部屋の奥の窓際にイーゼルが増えていたのは、息子が七つを過ぎたころのある日だったろうか。
 何日かのうちに、白く塗られたパネルが載り、数日後には淡い黄土色に塗りつぶされていた。色味が変わらないまま数週間が経って、そのままにしておくのだろうか、ふと気になり、聞いた。
「……陛下。絵を描かれますの?」
「え? ええ」
 彼はぱっと絵を振り返る。戸惑ったように、わたしに向き直った。
「拝見してもよろしくて?」
「……構いませんよ」
 彼は手を差し出す。エスコートされて近づいてみれば、キャンバスに人のかたちの素描があるようだった。迷ったような線が何重かに引かれ、何度か消した跡も見えた。
「これは、どなたですの?」
「友人……です。古い」
「お優しそうな方」
「ええ。熱情と誠実を身のうちに持った、正しくて強くて心根の優しい、者でした」
 イーゼルの奥には、真新しい筆と絵の具が一揃い、きちんと並べられていた。西から取り寄せたのだろう、瀟洒なラベルにはわたしでも知っている銘柄が優美な書体で書かれ、開封されるのを待っている。
「完成はいつごろでしょうか?」
「さあ、どうでしょう……絵を描くのなど、十何年ぶりですから」
 彼は木炭にちょっと触れて、クッと小さく笑った。
「左手だからというせいもありますが、うまく手が動きません」
「……ご無理は、なさらないでくださいまし」
「ありがとう」
 礼をとって、わたしは踵を返した。
 ドアを閉める間際に振り返ると、彼はイーゼルの前に立って、キャンバスに向かいあっていた。
 やさしい手つきでそっと、画布をなでていた。
 けれど、彼の横顔は、見たことのないものだった。
 鬱屈した無表情で、自分の絵を見下ろしていた。冷たいを通り越し、底のない水をのぞき込みでもしたような暗い目を、線画に向けていた。
 民を導く英雄の顔ではなかった。慈愛と威厳に満ちた王の顔でもなかったし、子を可愛がる父親の顔でもなかった。ただ、何か温度のないものにこころの底を預けてしまった者の顔はこういうものなのだろうと、思った。
 わたしは背筋が冷えたのに気づかないふりをして、ドアを閉めた。早く息子に、おやすみのキスをしてやらなければならなかった。



        §



 彼の私室の窓際に、イーゼルは常にあった。いつも埃よけの布がかかっていたから、何が描かれているかはわからなかった。
 人物画は、完成したのかもしれない。
 もしかしたら、ずっと描き直しの途中なのかもしれない。
 見せてほしい、と請うことはなかった。できましたよ、と彼が言うこともなかった。
 そのまま何年も過ぎた。
 彼とわたしは、良き王と王妃であり続けた。

 時が経って、わたしは自分で歩けなくなった。よく見えなくなった。食欲がなくなり、眠っていることが多くなった。就寝の挨拶は、わたしが行くのではなく、彼の方が来るようになった。
 乾いたあたたかな手がわたしの手をとる。ご気分はいかがですか、お見舞いのほど恐れ入ります、と挨拶しあった後、沈黙が落ちた。
 ……どうも、彼の顔がよく見えない。
 銀色だった髪の色がずいぶん褪せたなあと、ぼんやりと思った。老いたのだ、彼もわたしも。お互い顔にはしわが増え、しみが浮いているだろう。
「……絵は」
 何か話さなければ。ゆるりとそう考え、口をついて出てきたのは、そんなことだった。
「え?」
「絵は、完成なさいましたの? 一度見せてくださった、あの人物画は」
「……ええ」
 では、と続けようとした言葉は、おだやかな彼の声にさえぎられた。 
「でも……塗りつぶすつもりです」
「まあ、どうして?」
「上手く――描けなかったので」
 彼は優しく自嘲する。絵描き崩れがひさしぶりに筆をとったところで、下手の横好き以上のものではなかったと。
「塗りつぶします。そして上から、風景でも描きましょうか」
「この城の庭を? それとも、城下の様子を?」
「……故郷の村を」
 彼の声が、静かになつかしさを帯びた。

 ――ああ、

 ――早く。


 このひとははやくしねばいいのに。


 だってそうでないと、添い遂げる相手がわたしになってしまうのに。
 一度だって愛さなかった、わたしに。
 わたしのことは丁重に扱ったけど、彼はわたしを愛さなかった。わたしを抱いたけど、わたしを描かなかった。最高級の画材をわたしに費やさなかった。わたしのために法律を変えなどしなかったし、わたしのために王座を求めなかった。憎悪も、怒りすらも、わたしには向けなかった。
 もう描けないと言いながら描きたいと思うのは、わたしのいた景色ではなかった。
 涙など出なかった。
 最初から、得られるわけもないのだった。
 夫と過ごした最後の夜、月の光が明るく窓から射す夜に、わたしは嫉妬の感情を思い出した。彼を見つめ、そっと手を握った。そしてせいいっぱいの優しい笑みを浮かべ、目を閉じた。


(2021.7.4)