別館「滄ノ蒼」

カーサ・アネーモナ201/202

 
 
<202>
 力強くのび始めた若葉が、きらきらあかるい金色の陽光をはね返している。
 だが、5月のあたたかな外遊びなどオーエンには無縁だ。誰かと一緒に出かける当てなどない。むしろ、連休明けに〆切がいくつも設定されてしまっているので、忙しいのである。
 パソコンからちょっと視線を上げ、壁を睨んだ。ペールブルーの壁紙のむこうで、玄関を出たり入ったり、あっちこっちがたがたと動き回る気配がしている。
 隣に入居者が来たらしい。
 何やら急にどん! と音がした。なにか荷物を落としたのか。それとも転んだのだろうか。
 かと思えば、思い切りギターの音をかき鳴らし、あわてて音を止めたりする。
 どうも落ち着かない奴らしい。浮かれた学生なのか。
 大変に邪魔だ。オーエンは気持ち手加減して、壁を蹴りつけた。
 
 
 
<201>
 爽やかな初夏の大型連休とは名ばかりで、カインの連休最終日は引っ越しの片付けで終わってしまいそうだった。
 明日は仕事だから、経路と込み具合を確かめに早めに出なければならないのだ。
 それでも、引越し祝いと称して、友人たちが食材をさまざま持ってくる予定になっている。
 時計を見ればもう夕方に差しかかっている。片付ける場所の残りは、あとは玄関とキッチンだけ。そう思うとうんざりした。こまごましたものがまだ沢山ある。
 ちょっと息を吐いて、ダンボールのガムテープを剥がして真ん中にどんと置いた。調理のためにどうせ出すのだ、ついでに適当な位置に収めてもらおう。人手が来るのだから使わせてもらう。
 そう決めると、急に手持ち無沙汰な気がした。
 開け放った窓から、鬱金色のひかりをまとった空気がゆるく吹き込んできた。引っ越してきたばかりの部屋はまだ、がらんどうに家具を置いたにおいがする。なんとなく腕をくんで、天井を見上げた。
 天井はコンクリートで、黒いライティングレールが二列になっている。壁の1辺はアクセントクロスと言うのか、ペールブルーだ。そういえば共用部分の壁もコンクリート打ち放しで、玄関のドアはネイビーブルーで、室番号はなんだか不思議な書体だった。このアパートの内装は、あちこちがすこし凝っている。
 ライティングレールからは、シーリングライトがいくつか下がっている。ひとつ、向きが変に思えた。電気を点けてみると、案の定、スポットライトが冷蔵庫を照らしているみたいでなんだか妙だ。向きを変えてやろうと、椅子を引っ張ってきて登ったが、あと少しのところで届かない。
 ――ジャンプ。
 指先があたって、向きが変わった。
「熱っつ!」
 とっさに掴むのをやめて、着地する。どん! と大きな音が立って焦るが、1階は駐車場になっていることを思い出した。良かった良かった。
「これ、白熱灯なのか……」
 前住人が残していったものかもしれない。これはちょっと危険だろう。買うものリストに「電球」と書き込んでおかなければならない。
(あとは……)
 スニーカーとブーツのコレクションを片付け直したい。とりあえずダンボール箱の上に並べたものの、眺めるものではなくて履くものなのだ、ちゃんと玄関の近くに飾らなければ。玄関は広い割になぜか靴箱がないから、今後シェルフでも置くことにしよう。
 そう思いながら椅子を置き直していると、はずみでエレキギターを触って、ギュイーン! と音が出た。
「わわっ」
 慌てて弦を抑え、音を止めた。ほぼ同時に、壁がドン! と鳴らされた。どうやら隣室から強めに壁を叩かれたらしい。
 アンプにヘッドホンを繋ぎ、スタンドに丁寧にギターを置き直して、壁の向こうに怒鳴る。
「すまん!」
 というか、隣の人、いたのか。ギターの音は結構響くものらしい。気をつけよう、と決心を新たにしていると、スマホが点滅した。メッセージアイコンを開き、送信者欄を見れば、サークルの同級生だったソウタだ。
『あと10分くらいで着くと思う。表通りまで出てくれ。あ、ハルトとイツキが増えたから4人で行く』
 『了解』のスタンプを返しながら、カインはクローゼットからパーカーを取り出した。
 
 
 
<202>
 インターフォンが鳴ったのでオーエンは眼鏡を外し、立ち上がった。通話ボタンを押すと、赤銅色らしい頭頂部が大写しになっていた。同時に、よく通る声が気さくに呼びかけてくる。
「初めまして。201に越してきたナイトレイだ、よろしくな!」
「隣に入居した人なんだ、へぇそう。おまえの名前なんか僕はどうでもい――」
「なあ、今からうちで鍋やるんだ、鍋! お前も来ないか?」
「……は?」
 こいつ今、なんて言った? 鍋が? 来ないか? 誘われた? ……隣に?
「嫌」
 インターフォンの向こうで、一斉に「「えー!?」」と声が上がった。こいつの後ろに何人いるのだ。煩い。
「知らない奴の学生ノリの宅飲みなんかにわざわざ混ざりに来いとか、意味分かんないんだけど。しかも鍋? この時期に」
「いいじゃないか、来いよ! ちなみにうちの上の部屋の人も来るぞ!」
「な、んでだよ!?」
「たか……た……何とかさんだ! いい奴っぽかったぞ」
「だからなんでだよ。そいつもおまえも狂ってるの?」
「夜なのにうるさかったらすまん、て挨拶に行って、ついでに誘ったんだ」
「なんでだよ」
 距離感が全くバグっている。陽キャとはそういうものなのだろうか。それともすでに酔っ払っているのか。
「僕、明日早いんだから。とにかく嫌」
「そうなのか。そういうことなら仕方ないな。残念だが、また誘うよ」
「いらないってば」
「じゃ、そういうことで、今回は残念だが、また」
「聞けよ。いらないし知らないし興味ないから来るな。せいぜい静かにしてよね」
「……わかった」
「ついでにいいこと教えてあげる。……インターフォンのカメラ、そこじゃないよ」
「なんだってー!?」
「頭ばっかり見えてる。ふふ、間抜け」
 オーエンはインターフォンを叩き切った。仕事机にずんずん戻り、ラテメーカーにカプセルを仕掛け、椅子に座り直す。パソコンのスリープを解除し、書きかけの記事をにらみ直した。
 だが、ドアの外ではまだわいわいやっている気配がする。
 玄関に出る。そっとドアスコープをうかがって見れば、隣室のドアの前で、上を見上げて騒いでいる連中がいるのがわかった。家主らしき青年が出てきて一緒にカメラを見上げ、ひとしきり笑い声があがる。
 どうやら隣人は、インターフォン越しに来訪者を確かめたことがなかったのかもしれない。チャイムが鳴ると相手を確かめもせずにドアを開けるタイプなのだろう。
「……間抜けな上に馬鹿。……なんなの」
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 一応気を使ったのか、ソウタ達は21時過ぎに帰っていった。カインが頼んだとおり、調味料の整頓やら食器の片付けやらもしていってくれた。カセットコンロを仕舞って、シャワーを浴びる。窓を開け放つと、隣室はすでに暗く、静かだった。
「明日早い、って言ってたっけ。……何してる奴なんだろう」
 インターフォンごしの声。耳に心地よかった。……けど、せせら笑うような調子を帯びて、初対面だというのに結構な毒を吐かれたような。
「よく考えたら、……なんて奴だ」
 改めて引っ越しの挨拶に行くつもりだったが、壁ドンされたし。玄関に出てくることすらしなかったあたり、「来るな」と全力で言われている気もする。
「……話してみたいな」
 これまで、カインの周りにはそんな奴はいたことがなかった。類は友を呼ぶ、と言うのか、てらいなく率直に、堂々と。よう、隣に座っていいか? と手を差し出す奴らばかりだったから。
 隣人の、低くてやわらかく、静かな声を思い出そうとする。内容はどうもぼやけ去って、悪意を耳元でささやくような印象だけが残った。お前と話してみたいんだ、などとのこのこ正面から行ったら、優しく迎え入れてくれた次の瞬間、絞め殺されるかもしれない。
「いやいやいや」
 顔も知らない相手に対して、失礼なことを考えた。どんな奴でも、話してみなければわからない。
 そんなことを考えながら、カインは寝床に潜り込んだ。
 
 隣室で洗面を使っているらしい音で、目が覚めた。目覚ましを見れば、短針は5のあたりを指している。あわいきんいろの光が室内窓からうすく射し込んできていて、遠くから鳥の鳴き声がした。
 夢うつつのまま、耳をすました。ひっそりと響いてくる、隣の音。水音、足音。鍵を取り上げる音。扉を開けて。戸締まりの音。かつかつと階段を降りていく踵の音。やがて階下から、バンとドアを閉める音、バルルルル、と地を這うようなエンジンの音。バルルル、ギュイン、前面道路に曲がり込むと同時に加速し、車は遠ざかる。
(ほんとに、早かったな。……何してる奴なんだろう)
 そう思いながら、カインは再度、まどろみに落ちた。
 
 
 
<202>
 くあ、と欠伸をしながら、オーエンはハンドルを切った。
 爽やかな朝の空気が、実に押し付けがましい。6時にもならない内から起きているなど、3年に一度あるかないかのことだ。普通なら、いくら取材だといっても朝の時間帯は全力で拒否するところなのだが、今回は仕方ない。指定されたのが、通常開店時間の前だったのだ。
 K市に新しくできたという、朝カヌレなるものを供する飲食店の取材だ。本業はパン屋だそうで、こんな時間を指定してきたのはそのためだ。作っているところを見たいとなると、当然、焼いているのは早朝になる。
 取材費めいっぱい買い込んで帰るのでなければ、元が取れたものではない。
 ガラガラの車の流れをいいことに、思い切りアクセルを踏んだ。
 
 昼前に帰ると、隣室は静かだった。車を駐車場に入れる時にちらりと見上げた感じ、かろうじてブラインドがかかっていて、カーテンは開け放たれていた。平日だから、普通に出かけているのだろうか。
(……ま、どうでもいいけど)
 一昨日まで静かだったはずが、ずいぶん久しぶりに感じる。これ幸いと、買い込んできたケーキやら何やらを冷蔵庫に放りこみ、ソファベッドに倒れ込んだ。
 
 目を覚ましたときには、夕方だった。濃さをました金色の光が、カーテンを揺らしている。
 静かだ。
 ベリーアンドレアチーズのタルトを出してきて、真ん中にフォークを入れる。三分の一ほど食べ、残りに蜂蜜をだーっと回しかけ、さらに食べ進める。
 その日は夜半過ぎまで、スイーツ店の紹介記事を書いた。
 開け放した窓から、時折、緑の匂いを含んだ風がゆるく入り込んでくる。ずっと静かだった。
 
 目を覚ますのはたいてい午前10時ごろだ。それがほんの少し早かったのは、真下からエンジン音が響いてきたからだ。
 トトトト、と軽やかな音は、耳慣れた愛車とは違う。トットットットット、バヒュン。エンジンが切れて、ドアの開閉音がない。闊達な足音、とんとんと階段を上がる音、ガチャリと扉が閉まる。壁のちょうど向こう側に近づいてきて、ばたばた何か片付けている気配。
「……完全に起こされたじゃないか。最低」
 壁を蹴ってやろうかとぼんやり考えたが、どうも洗面所の方へ行ってしまったらしいので、何も仕掛けずに起き上がった。
 


        §

 

 
<202>
 ひと月もすれば、隣人の生活パターンは見えてくる。
 3日に一度、丸一日いなくなる。そして次の日、シャワーを浴びる時間帯がかぶるらしいのだ。
 オーエンがソファベッドに潜り込むのは3時とか4時だから、通常なら10時くらいまで寝ている。それが、3日に一度、少しだけ早く目が覚める。真下からトットットッと響いてくる音のせいだ。
 仕方ないので、舌打ちしてシャワーを浴びにいく。すると、壁の向こう側でもガタガタと湯を浴びている気配がするのだ。ざあざあ水音がしていて、時々、ゴツッと壁にぶつかっている。響いてくる音の位置からして、おそらくオーエンと身長は同じくらいだ。長い手足を持て余しているのかもしれない。
「ふふ、間抜け。額でもぶつけたら? 目が覚めるだろ」
 オーエンはせせら笑いながら湯を使う。何となく、先に上がってやりたい。ぶつからないよう、素早く。シャワーヘッドを叩きつけるように架けて、バスルームを出た。
 
 陽が傾きかけたころ、昼食のようなおやつのような食料を買って帰ってくると、隣室から殺人的なまでにスパイシーな匂いが漂ってきていた。
「……またカレー煮てるのかよ……」
 むっとした梅雨時の空気にカレーとは。暑苦しくて仕方ない。というか、こいつの辞書に料理のレパートリーという言葉はないのか。それとも学生のよくわからないブームなのか。カレーライスは死ぬほど嫌いというわけではないけど好きでもない。オーエンは玄関扉を蹴って閉め、換気扇と空気清浄機をオンにした。金槌かなにかの音まで聞こえてきたので、イヤホンを耳に突っ込んだ。
 
 次の日は最悪だった。夜通しキーを叩いてしらじらとした光が射し始めて、いい加減頭が働かなくなっているところに、壁の向こうから目覚ましの音が聞こえてきたのである。
 ふらふら揺れる視界で、記事を送信しているところだった。そこに喧しいアラームの音。こっちは締切だったというのに大迷惑だ。手元の時計を見てみると、ちょうど6時。年の半分はまだ夜が明けてない時刻ではないか。すでに目覚めかけていたのだろう、奇特なことにアラームは一瞬で止まった。道理でいつも、ソファベッドに潜っていると気づかないはずだ。
「ほんと、うるさい、こいつ……」
 オーエンはパソコンを落とすと壁を殴って席を立ち、シンクにマグカップを投げ込んで、ソファベッドに寝転がった。
 
 
 
<201>
 カレーは3食分を一度に作る。今日明日、食いつなぐぶんだ。1回か2回は誰かと飯に行くことになるだろうから、あとはモヤシかブロッコリーでも茹でれば完璧。今日はカインは非番だから、同期が誰か来るかもしれない。仮眠したので頭はすっきりである。
「あ、そうだ。シューズラック、組み立てないとな」
 ハイカットスニーカーをひとつ買ったので、玄関のシェルフがふさがってしまったのだ。空きスペースにちょうど良さそうなのを注文したものの、まだ開封していなかった。カレーを火にかけたまま、カッターを手に取る。段ボール箱を切り開いていくと、黒のアイアンが現れた。
「~~♪、~~♪」
 スマホの音楽アプリをオンにして、いい加減にメロディを口ずさみながら、ビニールカバーを剥がし、部品を並べ、ネジを締めていく。
 バイクに乗るようになってから、スニーカーでもハイカットのものや、ミドル丈のブーツが増えた。クラッチが操作しやすくて、機体に傷をつけないつくりで、底が厚すぎないもの。だが、これからの時期はさすがに、サンダルが恋しくなる。
「♪、~~って、マジか」
 なんと数カ所、釘を打たなければならない部分があった。
「金槌なあ、あったっけ? あったよな」
 工具箱を引っ掻き回せば、すぐに見つかった。学生時代の自分に感謝である。
 段ボールを重ねた上で、とんとんと釘を打ち込んだ。逆側もとんとんやって、完成。立てて眺めている所に、カレーの匂いが香ばしさを増してきたので、慌てて火を止めた。
 
 寝入り端、枕元の壁からかすかに、振動するような音が聞こえてきた。
 ぐいーん、こぽこぽこぽ、ぐいーん。重なるように、ウイーン、カタカタカタ、ウイン、カシャン、これはどうやらプリンタの音か。
 隣の人、この時間に仕事をしているのだろうか。
 普段、どうやら部屋にいることが多いらしいが、その割にずいぶん静かだ。
(何してる奴なんだろう……、話してみたいな)
 ゴールデンウィーク明けのあれ以来、引っ越しの挨拶は改めて行ってみたのだが、留守だか居留守だか、出てこなかったのである。手土産のクッキーだけ取手に掛けてきたものの、食べてくれたのかどうか。
 そんなことを思いながら、カインは眠りに落ちた。
 
 寝起きの良い質なので、目覚ましが鳴る数分前に目が開いた。アラームが鳴ると同時にストップボタンを叩き、タオルケットをはねのける。顔を洗ったら、近所を一周、走りに行くのだ。
 洗面所から出てくると、壁がガン! と鳴った。
「おい、大丈夫か!?」
 隣の人、頭でもぶつけたのではないだろうか。壁に駆け寄って耳をすませてみたが、うんともすんとも言わないので諦める。その日はそのまま走りに出た。
 
 それからしばらく、夏の間じゅう、壁が鳴ることはなかった。寝入り際にときどき、プリンタの音を聞いた。ウイーン、カタカタカタ、ウイン、カシャン。ぐいーん、こぽこぽこぽ、が聞こえないなあと、一度だけうっすらと思いながら眠りに落ちた。
 
 
 
        §
 
 
 
<202>
 隣室のチャイムが鳴らされる音に、オーエンは顔を上げた。続けて2度め。画面上の文章もちょうど切れがよいので、ふと気が向いて、眼鏡を外した。
 リビングのドアを開けて、玄関に出るだけで暑い。秋になったのはカレンダー上の話で、まとわりついてくる空気はまだまだ熱を含んでいるのだ。
 ドアスコープを窺えば、思ったとおり、隣室の扉の前に人影が見えた。宅配便だか友人だかわからないが、間の悪いことだ。隣人はついさっき、出ていく物音をさせていた。
「――隣の人、今いないはずだけど」
 扉を開けて顔を出してやれば、訪問者はスマホから顔を上げて、目を瞬かせた。きっちりした硬そうな生地の、紺色のブレザーを着ている。ダブルの金ボタンがちらりと光った。
「何も知らないの?」
「……あ、メッセージ来ました。コンビニからすぐ戻るって」
 すんません、と会釈する青年は、童顔で多少幼ない雰囲気をしているが、短髪で姿勢がよく、なかなかの体格である。
「なんなの? 隣の人、なにか官憲のお世話になるようなことでもやらかしたわけ」
 言いながら、オーエンの視線は、青年の胸元のバッジで留まった。
「……違うね」
 金色の縁取りの中に、『Y市消防局』とある。
「あ、はい、消防士なんすよ自分。ナイトレイ君、同期で」
「ナイトレイ……って、言ってたっけ。ナイト……騎士さま、だね」
「あはは、よく言われてるっす」
 笑って、青年はキタミと名乗った。流れでなんとなく、オーエンも名乗る。
「消防士なんだ。……学生かと思ってた」
「あー、去年は似たようなもんでしたけど。ずっと研修で、今年度からT署に配属されたんで」
 4月くらいまでみんな寮から通ってたんすわ、それだとさすがにちょっと遠いっすね、などとキタミは言った。
 それで隣人の引っ越しはあの時期だったのか、と得心しながら、オーエンは適当な相槌を打つ。
「そうなんだ。今日はどうしたの?」
「行事でよその署に集合なんすよ。迎えに寄ったけど、ちょっと早かったみたいすね」
「時間、大丈夫?」
「余裕っす」
 階下に闊達な足音が響き始めた。階段をかつかつと上がってくる音。
 適当に話を切り上げて、オーエンは扉を閉めた。
 
 
 
<201>
 白のライトバンに乗り込んで第一声、キタミは言った。
「お隣さん、美人だな!」
 カインはシートベルトを締めながら、怪訝な顔をした。
「……男だよな?」
 一度聞いた、インターフォンごしの声は、明らかに男性だった。住人自体は実は女性で、彼氏に代わってもらった、という雰囲気でもなかった。
 あの声と、壁ドンと、プリンタの音と、ぐいーん、こぽこぽ、というなにかの機器の音。あとは、どうやら車でときどき出かけるらしいこととか。カインは隣人を、それだけしか知らない。
「うん、男だった男だった。けどさ、オーエンさんて、なんつーの、イケメンって言うよりも色白美人っての? ミステリアスな? そんな感じ。ちょっとぞくっとした」
「へえ、……オーエンていうのか? 隣の人」
「おいおい名前も知らなかったのかよ、しかし気のない返事だな」
「いや、何してる奴かとか聞いてないしな……」
 もっと言えば、他人の美醜に特に興味はない。とりあえずネクタイを結ばなければならないのだ。シートベルトをしているからやりづらくて仕方ない。
「おい揺れてるぞ。あんまり飛ばすなよ、ネクタイが堅いんだって」
「カインが隣に住んでる奴の名前も知らなかったとか、そういうこともあるんだなあ……」
「なんで感心してるんだ」
「なあカイン、マップ見てくれよマップ。中央署って国道をどこで降りるんだ」
「待ってくれ、まず経路の検索をだな」
 
 帰りは久しぶりにバスに乗った。上着を脱いでも、むっとした初秋の空気は首元にまとわりついてくる。ネクタイを引き抜きながら帰り道を歩いた。日がだいぶ傾いてようやく、手加減した体感温度になる。
 アパートの一階は駐車場で、道路沿いの柱のところに郵便受けが設置してある。自室の分をチェックし、チラシの類を抜く。ついでにちらりと隣室の郵便受けを見てみれば、『owen.』と書かれている。細いペンで、さらさらと書き流したような字だ。
「……本当だな、『オーエン』だ」
 今までこんな所、まともに見ていなかった。部屋の扉の横には室番号が書かれているものの、名前を書いている者はいないから、盲点だったとも言える。
「改めて。よろしくな、『オーエン』」
 カインは自室の郵便受けの名前を上からぐりぐりと書き直して、階段を上がった。
 
 
 
        §
 
 
 
<202>
 頬をなでる風がひとすじ、涼しかった。りん、とどこかで、虫が鳴いた。
 郵便受けに入っていた紙類は、基本的に右から左へゴミ箱に叩き込む。が、週に1度ほど入っているコミュニティ情報のフリーペーパーは、何となく目を通してしまう。Y市周辺の飲食店や不動産の、載っている店の半分近くは前回と同じだったりする、あれだ。専門学校を出てからしばらく仕事を貰っていたことがあったから、記事の書き方などが変わっていないか気になる。それだけだ。ひと通りページをめくり終われば、古紙雑紙の束に投げ込むのである。
 ちらりと違和感を覚える。いつもと同じ郵便受けだ。視線だけ少し動かしてみると、隣の郵便受けのせいと気づいた。名前が、濃くなっていた。大きく四角く、男子っぽい字だ。なんだか暑苦しさが増している。
「『ナイトレイ』……騎士さま、だね。はは、おまえはもうすこし静かに暮らせってのに」
 郵便受けを軽く爪弾き、自室へ向かった。階段下にちらりと黒のネイキッドバイクを認めて、軽く鼻白む。
(何だよ。いるの)
 階下のエンジン音や足音がよく聞こえるから、車ではなく二輪車、しかも春から見かけるようになった機体、これが隣人――ナイトレイのものだろう、とあたりはつけていた。じっくり寄って見たことはないけど。
 階段を上がる。またカレーの匂いがした。
 室内に入れば、うっすらと聞こえてくる、隣室からの音。洗濯機が揺れる振動、テレビが点いているのだろう声の気配、洗い物でもしているのだろう水音。
 チラシを捨てて、着替える。木のルーバーで仕切られた仕事場にハンガーパイプが下がっているから、ジャケットを掛けてすぐ、パソコンを立ち上げた。元々はここがベッドスペースの想定なのかもしれないが、オーエンのソファベッドはルーバーの向こうだ。仕事中はちょっとだけ、鳥籠に閉じこもっているような気分になる。机を壁にくっつけているせいで、隣室の音が割と聞こえてしまう、ということでもあるのだが。
 隣のテレビの気配が消えた。
 時計を見れば、23時前である。オーエンは伸びをして、書き上がった文章を印刷する。画面上で注意してはいても、紙に印刷するとなぜか誤字を見つける、ということはまれに起こる。そこらの山よりよほど高い矜持が、自分の生み出すものに穴を許さない。
 ウイーン、カタカタカタ、プリンタが仕事しているあいだに、バスルームに入る。頭から降りそそぐ湯に、上向いてしばし、ぼんやりした。
 と、壁の向こうから、ガチャリ、ガタガタ。ザアア、水音が響いて、隣人がすぐそこで動いていることが知れた。
 やはり時々、ゴツッ、と壁にぶつかっている。
「……間抜け」
 オーエンは軽く舌打ちし、シャワーヘッドを叩きつけるように架けて、バスルームを出た。
 
 
 
<201>
 カインは今日は非番だから、あまり出かけるわけにいかない。夕食はカレーを煮返して済ませた。家事を片付けた後はずっと、メディスンボールを持ち出してきて筋トレしていた。
 特に呼び出しもなく、夜が更けていく。
 汗を流しに、バスルームに入る。がしがし体を洗って、頭を洗って、ざあっと流す。そこで、気づいた。どうやら隣の人も、風呂にいる。
(静かな奴だな)
 水の音しか聞こえないのだ。ユニットバスはカインには狭くて、しょっちゅう肘やらなんやらぶつけるのに、向こうはちゃんと体を洗えているのだろうか。要らぬ心配をしているうちに、壁からガチャン、と音が響いてきた。たぶん、シャワーヘッドを掛けた音だ。
 しゃわしゃわと頭から湯を浴びながら、なんとなく、壁に触れた。
 
 寝床に潜り込むと、プリンタの音が伝わってきた。ウイーン、カタカタカタ、ウイン、カシャン。まだこの時間に仕事しているのだろうか。
(何してるんだろう。パソコンでなにか書いてるのか? ……作家とか?)
 うつらうつらと眠気がのしかかってくる。ひそかに聞こえてくるのは、ぐいーん、こぽこぽこぽ、ぐいーん、なにかよくわからない機器の音。
 ……あ、久しぶりだ。この音。
 隣人は変わらずにそこにいる。無意識のままにゆるりと安心して、カインは眠り込んだ。
 
 
 
        §
 
 
 
<202>
 きんいろのぴかぴかした空気が射し込んでくる。部屋を出れば、どこもかしこもなんとなく、金木犀の匂いがした。
 オーエンが施錠していると、ふと、視界のすみに人影が映った。顔を上げると、隣室の扉に、若い女性がもたれかかっている。
 彼女は胡散臭そうな目つきで、軽く会釈してくる。茶色のやわらかいカールが揺れた。
「こんにちは。隣の人、今いないと思うけど?」
「わかってますけど」
 愛想のない返事だったが、オーエンは言葉を重ねた。
「ああそうだ、引越し挨拶のクッキーを選んでくれた子? ごちそうさま、美味しかったよ」
 何ヶ月前のことだという件ではあるが、扉にメッセージカードと一緒にかかっていた、可愛らしいリボンがついた包みの話だ。どう見ても女子のセンスだったので、隣人のセレクトではないだろうなと思っていたのである。隣人自身のセンスであれば、引越し蕎麦とか、いいところ地元銘菓でも持ってきそうだ。
「はぁ? それ、あたしじゃないですけど」
「ああ、そうなんだ」
 応えながら、オーエンは笑みを深めた。なんとなく苛つき、嗜虐心が頭をもたげる。
「そっか。……かわいそうに、なんにも知らないんだね……」
 隣人の彼女だかなんだか知らないが、ばさばさの完璧なまつげに巻髪にヒール、ふんわりひらひらした、あちこち引っかかりそうな服。それでバイクの後ろに乗ろうというのか。服装も化粧も所作もなんというか、気に食わない。
「え? 何なんですか?」
「なんでもないよ。どうせ君には言ってもむだ。ま、気をつけてね」
 部屋の鍵をひらりと仕舞って、オーエンは退散した。
 
 
 
<201>
 扉の前に女性の姿を見つけて、ちょっとだけうんざりしながら近づいた。
「来てくれたのか。連絡してくれればよかったのに、何かあったのか?」
「カインのバイク、乗りたいし。ていうか隣の人、すっごい美人だね」
「……男なんだよな?」
「男の人。年上だと思う。なんかすっごいムカついたけど並んで立ちたくない感じ」
「おい、その言い方は良くないぞ」
「えー、なんか感じ悪かったけど」
「あのなあ……」
 ため息をついて、カインは彼女の腕をつかんだ。近くのカフェにでも連れて行かなければならない。歩いて、だ。
 
 班長がT署地域の防災訓練の打ち合わせに行くというので、カインも連れられていくことになった。車内では何故か恋バナになり、交際していた女性との顛末まで喋らされてしまった。半分むきになって、もうしばらく交際相手はいい、などと言うと、班長は大笑いした。班長こそどうなのかと聞けば、よしきたとばかりに惚気話が始まって、ああそうですか良かったですね、以外の感想を封じられてしまった。
 Y市庁舎に着く。防災課を訪ねれば、そちらで、とミーティングスペースを示された。
「会議室が空いてなくてすみません。資料を持ってきます」
「いえ、どうも。よろしくお願いします」
 所在なげに二人で座っているうちに、カインの耳は音を捉え、ハッと顔を上げた。
 ぐいーん、こぽこぽこぽ、ぐいーん。
 まもなく、担当者がコーヒーを持って現れた。
「コーヒー大丈夫でしたら、よろしければ」
「ありがとうございます。……どうした? お前」
「……あ、いや、なんでもない……です」
「じゃ、始めましょうか」
 コーヒーメーカーの音だったのか、と思いながら、カインは資料を広げた。
 
 夜の仮眠は交代で取る。活動服のままで、あまり休めたものでもないが、一人で横になれる時間は貴重なものだ。
 枕元の壁から、ウイーン、カタカタカタ、と響いてはこない。
 明日の夜は聞こえるかな。ぐいーん、こぽこぽ、コーヒーメーカーの音。夜ふかしのひとの勇敢なお供。
 すこし、うとうととした。
 
 
 
        §
 
 
 
<202>
 ぐいーん、こぽこぽこぽこぽ……。ぐいーん。
 新作だというので取り寄せた、烏龍茶ラテの出来はどんなものだろうか。
 オーエンは眼鏡を外し、目頭を揉んだ。ここしばらく、なにかの〆切ばかり近づいている気がする。仕事が多いのは別に良いが、投稿作の執筆時間が削られるのが難点だ。電子タバコをくわえ、蒸気を吸い込む。
 ラテメーカーの音が止まった。マグカップを取り上げ、ふうふうと冷ます。口をつけて、
「……? は?」
 もう一口。熱いせいかもしれないから、ゆっくりと。
「……外したかも。なにこれ、寝惚けてるの?」
 ラテなのに甘さが中途半端。烏龍茶の香りも行方不明。ちいさく罵りながら、キッチンカウンターまで持っていく。ガムシロップのボトルを出して、思い切り逆さにした。
 そのままベランダに出る。今日は隣室は静かで、カレーの匂いなどしない。オーエンはカレーを好んで食べない。子供は好きなものだろう、さあ食べろ鍋いっぱい感謝しろ、なんでお代わりしないの、せっかく用意してやったのにふざけるな反省しろ、親はそんな人物だった。
「……っく」
 フラッシュバックを奥の扉に叩き込む。鍵をかけて押し込めて、泣きそうな顔をするちいさな自分を絞め殺す。おまえはもういない、僕になったんだ、僕が飲み込んで消化して、とっくに大人になったじゃないか。
 マグカップを持つ手が震えた。情けない。口をつければ、甘ったるくて熱い液体が喉を落ちていく。頬をなでる風は思ったよりも刺すように鋭くて、いつからか金木犀の匂いはしなくなっていた。
 遠く、サイレンの音が聞こえる。
 ウー、と高い音にカンカンカン、と交じるから、どこかで火事が起きているのだろう。
 オーエンが苦しんでも苦しまなくても、世界は回る。寝惚けた味のラテはシロップで甘くできるし、温かい飲物があれば夜風に冷えることもなくて、隣人は働いている。
 サイレンが遠ざかる。夜のけはいに紛れて消えるまで、オーエンはそれを聞いていた。
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 カインが洗濯物をベランダに出していると、どこからか、なーう、と鳴き声がした。
 見れば、隣との隔板のあたりから、茶トラの小さないきものがこちらを見ていた。
「……猫か」
 なんだお前、野良か? と視線を向ければ、警戒した顔をじっとこちらに向けつつ、するりと尻尾を足元に引き寄せる。
「あ、こら」
 そいつがじいっと見ているのは、どうやらカインの手元のタオルだ。飛びかかりたいけど人間には近寄りたくない、そんな表情に見える。
「どうしたらいいんだ、これ」
 とりあえずタオルを掛けてしまい、背後のガラス戸を閉めておく。猫の動作はどうも予想できない。突然家に飛び込まれても困る。
「えーと、お前、遊びに来たのか? にしても、どこ通ってこんなところに来たんだろうな」
 2階とはいえ、ベランダの手すりの上だ。どこかの植栽を伝って上がり込んだものかもしれない。ちょっと試しに手を出してみると、あからさまに身を引いて、今にも唸りそうだ。緑の目の中の瞳孔が、すうっと縦長になっている。
「……ええと」
「……ミイちゃん!?」
 人の叫び声が聞こえてきて、カインは慌てて声の主を探した。前面道路からこちらを見上げている年配の女性がいて、「ミイちゃん!」と呼んでいる。
「あんた、こいつを探してたのか!?」
 呼んでみれば、女性は慌てた様子で、「そうですうちの子です、私、ここの大家のマサキと言います」と一息に返してきた。
「今朝、窓を開けて出て行っちゃって……!」
「そうかわかった、そこで待っててくれ!」
 カインは女性に手を振ると猫に向き直る。腕まくりをして手を広げた。
「――よしお前、連れて行ってやるからこっちに来い!!」
「――ギニャシャアアアアアッッッ!!」
 ……思い切り威嚇された。
 手を出そうと身動きしたら、膨らんだ背中でフーっと言う。身を乗り出そうとすれば、じりっと後退される。睨み合ったまま動くに動けないでいると、隔板のあちらから、ひらり、ゆびさきだけが手招いた。
「――駄目だよそんなんじゃ。……おいで」
 茶トラはぴょいと振り返る。ひら、白い手先が招く。チチチ、と舌を鳴らしているらしい音。カインは動くに動けないまま、隣人に話しかけた。
「頼む、捕まえてくれ。大家さんが」
「うるさい黙って」
 低く簡潔に言葉を封じられる。チチチ、舌を鳴らす音。小さな茶トラの背中がにょろりと反転する。ゆうらりと尻尾が揺れて、猫は隔板の向こうに吸い込まれていった。
「おいで。そう。……ふふ、いい子」
 密やかに呼ぶ声に、耳を澄ます。秘めごとでも囁くような吐息のけはい。やがて、猫がぐるぐる言うのが聞こえてきて、カインはほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとな! よかった!」
「……チッ」
 洗濯物が下がっているので隔板の向こうを覗き込めないまま声をかけると、何故か舌打ちが返ってくる。
「まだるっこしかっただけ。お前、そんなんじゃ猫に好かれるわけないでしょ」
「一言もないな」
「……じゃ」
 ガラス戸の閉まる音。猫は無事、隣人――オーエンに抱きかかえられて行ったらしい。
「大家さん、よかったな! 今、こっちの人が連れていくはずだ」
「ありがとうございます……!」
 見下ろして声をかけると、マサキは何度も頭を下げた。駆けこむように駐車場に入っていき、姿を現したときには茶トラを抱きしめていた。
 
 
 
<202>
 隣人――ナイトレイは、動作がいちいち大きくて煩い。
 暇があれば身体を動かしているらしいが、なんだかんだと器具の音が響く。玄関を出入りすればガチャン! と扉が音を立てる。シャワーを浴びれば壁にぶつかる。鍋ひとつ洗うのだって、流しにガン! とぶつけている。
 隣室の洗濯機の音まで、他のよりやかましい気がしてくる。がらがらとガラス扉を開けて、何やら歌を歌っているし。洗濯物を干しているのだろう。
(あ、そういえばこの曲)
 どこか聞き覚えがあると思えば、5・6年前に流行した曲である。タイトルはなんと言っただろうか、たしか『サイレンス』だったか。タイトルの割にアップテンポなのが意外で、それで覚えていた。
「……えっと、どうしたお前?」
 よく通る明るい声が伝わってきて、オーエンは少し、びくっとした。思わずベランダを見やる。換気のために少し開けていたガラス戸の向こうには、向かいの建物しか見えてはいない。……なんで、だれかの顔がのぞいているのなんか期待したのか。
 そっとガラス戸に近づいて開け放ってみれば、やはりなんだかうるさい。
「――よっしお前、こっちに来い!!」
「――ギニャシャアアアアア!!」
 猫の威嚇が盛大に聞こえた。見れば、ふっくら丸く立ち上がった茶色のしっぽが、隔板のところにゆらり、ちらり、のぞいている。
「ふん、ざまみろ」
 オーエンは鼻を鳴らして、ベランダに出た。隣人が何をしたか知らないが、猫に好かれるタイプだとは思えない。おそらく真正面から、目をかっぴらいて手を広げたのだろう。
「おいで」
 チチチ、と舌を鳴らし、指で小さく手招く。猫の視界をかすめる程度に、ひらり、ちらりと。餌でも振ったら早いのかもしれないが、あいにくそんなものはない。なんだか心配そうに、隣人は声をかけてくる。
「頼む、捕まえてくれ。大家さんが」
「うるさい黙って」
 やっぱり煩い。声がでかいと言うのだ。――大家がどうとか言ったか? ならばあの、前面道路からこちらを見上げている女性が飼い主か何かだろうか。
「おいで。……そう、怖かったよね。……ふふ、いい子」
 チチチ。舌を鳴らして、気まぐれに指先をさしだすと、にょろ、と近づいてきた。そっと鼻に近づけ、挨拶。すり寄ってきた顎を、軽く撫でた。やがて、猫の喉からぐるぐる音が鳴り始める。
「ありがとな! よかった!」
 ……隣から、また声がかかる。だから煩いというのに。もう少しじっとしていろというのだ。オーエンは思わず舌打ちする。
「チッ……。そんなんじゃお前、猫に好かれるわけないでしょ」
 辛辣に投げてやると、一言もないな、と低い苦笑が返ってきて、なぜかびくりと背中がはねた。よく通って明るい調子なのは変わらないけど、なんで口調でそんなに雰囲気が変わるのだ。急いで茶トラを抱き上げ、家に入った。
 
 その日のうちに、礼だというので、オーエンはアップルパイを手に入れた。パウンド型ひとつぶんの、ずしっと四角く伏せた猫みたいなかたち。一人暮らしなのに大きすぎたらすみません、と大家は恐縮していたが、オーエンには小さいほどだ。
 ――黄色のクリームとぐちゃぐちゃになったあまくてしゃくしゃくの茶色のやつ。分けてなんかやらないから。
 意味もなくペールブルーの壁の向こうに舌を出しながら、だだっとメイプルシロップをかけて平らげた。 
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 12月に入ると、バイク乗りには厳しい季節になる。早いところダウンや電熱ウェアを出してきたほうがいいかもしれない。カインはヘルメットを抱えて、階段を上がっていった。
 玄関をがちゃがちゃ開けてすぐ、上り框にヘルメットを転がす。中に手袋を投げる。ブーツを脱ぐ。ジャケットとオーバーパンツを脱ぎ、デイパックと一緒にそこらに掛けると、インナーを脱ぎながら廊下を歩いた。脱いだものを洗濯機に直接投げ込む。着替えを出して、脱衣所へ放り込む。入浴前には水に口をつけるくらいしかしない。下手にそのあたりに座りでもしたら、寝落ちてしまいそうだった。昨夜は仮眠を叩き起こされて出動したのだ。
 がたがた音を立てながらバスルームに入り、鼻歌を歌いながら湯を浴びる。なんとなくメロディになるのは『サイレンス』、大学祭で一度コピーバンドに参加した曲だ。高校の時に流行っていたし、ずいぶん練習もしたから、すみからすみまでよく覚えている。
 ややあって、ガチャン、ザアア、壁の向こうでもシャワーを浴び始めたらしい。
「お、こんにちはオーエン」
 手の代わりに壁にハイタッチして、がしがしとあちこち泡立てる。湯を浴びながらしばし、ぼんやりと壁に手をのばした。カタカタ、サアアア、とひそやかな生活音。顔も知らないそのひとが、この向こうで生きて暮らしているあかしだ。
 と、そこから不意に、ガチャン! と音が響き、ダン、と鳴った。ガタガタ、浴槽にでもぶつかったような音もした。サアアア、と水音は止まない。いつも静かなのに、どうしたのか?
「……おい、大丈夫か!?」
 カインは思わず壁を叩いた。倒れたりなどしていないだろうか。職業柄、誰にもどこにも連絡できない状況の厄介さはよく知っている。ことによると救助が必要なのではないか、と最悪の想定をしながら湯を止め、壁に耳をつけた。
 ややあって、壁をこつこつと叩く音が響いてきた。なにか言っていたかもしれない。水音が止まり、出ていく気配がする。ガチャン、と折戸を開閉する音が響いて、ようやくカインはほっとした。
「珍しいこともあるもんだ。あいつがぶつけるなんて」
 ふるるっと震える。少し身体が冷えていた。温まり直すべく、シャワーの蛇口をひねり直した。
 
 眠りから浮かびあがり、うっすらと目を開ける。壁の向こうから、聞き慣れた音が響いている。
 ウイーン、カタカタカタ、ウイン、カシャン。ウイーン。今日はいつもよりもうすこし頑張って、プリンタが働いているようだ。
 ぐいーん、こぽこぽこぽこぽ、……ぐいーん、寒くなったので、コーヒーメーカーも大回転しているらしい。夜のほうが忙しいそのひとと、お供の機器たちは、いつもと変わらず壁の向こうにいる。
 かすかに伝わってくる物音に、カインは意識を預け、眠りに沈んでいった。
 
 
 
<202>
 また階下からトットットッとエンジンの音が響いてきたので、オーエンは不承不承起き上がった。隣室の扉ががちゃがちゃ開き、人のけはいがあちこち移動する。空気がどうも活動的になっているのだ。
 ずるずるバスルームに入る。隣人はすでに入浴中だったようで、がたがた壁から音が響いてきた。
「……あいかわらず、うるさ」
 頭からしゃわしゃわと湯を浴びながら、ゆっくりと壁にゆびさきを触れた。
 
 フラッシュバックは唐突だった。一体何がトリガーになったものか、視界がすっと狭くなる。はっきり寄った眉間のシワ。なじってくる声。ああそういえば、なんだか騒々しいTV番組が流れていたかも。ほら見ろあのTVの子のほうが不幸なんだから同情してあげなさいなんでそんなこともできないの、泣くないじめられたんじゃないくせに、お前のために言ってやってるんだからありがとうでしょう。
 水音がいやに大きく耳元で響いた。
 知らぬ間に、壁にもたれかかっていた。視界がだんだん広がってくる。額をしゃわしゃわと湯が流れ落ちた。ダン、と壁を叩かれたように思った。
「……え? 何」
 もう一度、壁が叩かれた。やられると煩いものだ。それでもオーエンは壁に耳を寄せた。
「なにか、言ってる」
 a、i、o、u、a、と響いたように思えた。
 ――ぁ、い、ょ、ぶ、か。
 ――大丈夫か。
「……は、なに、言ってるの」
 オーエンは小さく笑った。無理にでもゆっくりと口の端を持ち上げて、強気に。くつくつと喉を鳴らす。湯が額を流れ落ち、顎から胸元を伝っていく。
「なんで君が気にするの。呑気にシャワー浴びて、歌でも歌ってなよ」
 足を踏みしめた。壁から身体を離す。自分で立って、ちいさな自分を片付けるのだ。いつもどおりに。強情な笑みを貼りつけて、髪をぐしゃりとかきあげた。
「いいから……風呂に戻れよ、いつもどおりに」
 鼻歌うたって、ガンガン肘をぶつけていろ。
 きゅっと湯を止めて、コツンと壁をノックしてやった。心配なんかしなくていいよ、なんともないよ、と。
 返事が返ってくるかなど構いもせず、バスルームから出てしまった。
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 ソウタからメッセージが来たと思ったら、忘れ物の連絡だった。
『悪い、カウンターのところに煙草を置いていった。次の時にでも持ってきて貰えるとありがたいけど、捨てられても文句は言わねぇ』
 というのが内容である。
 探してみれば、確かに流しの横にジッポライターと煙草の箱が置いてあった。よく聞く、赤と白の箱に黒字の銘柄。一昨日集まった時に忘れたらしい。ソウタは吸うときはベランダに出ていたはずだが、片付けようと思ってそこらに置いていったものか。
『あったぞ、保管しておく。遊ぶ機会があったら、再度言ってくれ』
 そう返信しながら、カインは煙草の箱を持ってベランダに出た。夜気が首筋を打って、ひとつ、ぶるりと身震いする。
『一本だけ吸っちまうぞ』
 もう一言、そしてフリック、スタンプ、送信。
 
 ライターは慣れないと点けづらいものだ。火に煙草の先を近づけ、吸い込む。普段は吸わないから、カインの動作はぎこちなく見えるだろう。
 ぐっと煙がのどを打って、思わず煙草を口から離す。
「うわっ」
 思ったよりきつい煙だった。けほけほと咳き込んでいると、隣のガラス戸の開く音がした。隔板の向こうから、ひら、と手が招く。
「……ねえ、それ。寄越しなよ」
「え?」
「煙草。もらってあげる、吸えるから」
「え、あんたは大丈夫なのか?」
「きみは吸えないんでしょ? それともイキがってるの?」
「あ、ああ。じゃあ」
 けほ、と喉を鳴らしながら、カインは煙草を差し出した。
「届いてない。もうちょっと手を伸ばして」
「こうか?」
 エアコンの室外機が鎮座していて、隔板から一歩程度、近づけないのである。よいしょと腕を伸ばすと、長いゆびさきが煙草を掠め取っていく。一瞬だけ、カインの指がひやりと冷たくなった。白いゆびが触れたからだと、気づいた。
 隣人――オーエンは煙草をくわえて、どうやら隔板にもたれたらしい。ごくちいさく、とん、と音がした。
 彼と普通に話しているのも不思議なものだ。知っているのはうっすら響いてくる物音と声だけで、顔も知らないままなのに。
 美人。すっごい美人。そう聞きはしたけど、思っているのは顔を見てみたいというよりも、言葉を聞きたいということ。そのひとの言葉を、もっと直接聞いてみたいということだ。
「なあ、あんた、オーエンだっけ。名前」
「そうだけど。ていうか、聞くなら先に名乗れよな」
「そのとおりだな。――俺はカイン。カイン・ナイトレイ」
「そ。よくできました」
 カインはなんとなく手を伸ばして、隔板に触れた。遮断されていて、姿は見えず音は聞こえて、気配も伝わってくる、そんな隣との薄いさかいめ。
「この間、大丈夫だったか?」
「この間?」
「風呂場で。ぶつけただろ? 体調が悪かったんじゃないのか?」
「へえ、……聞こえてたんだ」
「返事、してくれたよな? 動けるぞ、って」
「別に」
 ひねくれた返事が、それでもちゃんと返事として返ってくるのである。カインは思わず、ちいさく笑った。
「はは。してくれたんだな」
「あのさ。それ、僕は平気だったよって言えばいいわけ? 安心したいの? 自己満足」
「ああそうだ、安心したいんだ」
「あっそ……じゃあ、なんともなかったよ壁にぶつかっただけ。はい、これでおしまい」
「……本当か?」
「しつこい。君に言ってどうなるものでもないだろ。僕が自分で何とかするしかないことなんだから」
「それでも、すこしは背負わせてくれ。心配だから」
「心配? 勝手に不安を感じて当人にぶつける、の間違いじゃない。君になんて任せる荷物はないよ」
「……俺が、あんたを不安に思うのは、可怪しいことか?」
「……へ」
「あんたの言葉は、内側を見せてくれないよな。あんたが何をして、何を思って、どんなふうに暮らしているのか、俺は知りたい」
「なん、」
 なんで、と問う声は、尻すぼみに消えてしまった。
「なあ、会わないか? あんたと話してみたい。あんたの言葉を直接聞きたいんだ」
「……嫌」
 即、拒絶が返ってきたものの、ためらうような吐息の、ふ、という音とともに、ふわりと煙草の匂いが漂った。
 
 
 
<202>
「なあ、会わないか? あんたと話がしたいんだ。あんたの言葉を聞かせてくれ」
 隣人――ナイトレイ、否、カインーーの言葉が、隔板越しに届いてくる。その響きは誠実で、まっすぐにオーエンに呼びかけてくるが、オーエンのこころの中で鳴り響くのは警戒のアラートだ。――会ってはいけない。こいつに会っては。
「……嫌」
 ようよう拒絶の言葉を絞り出した。
「何でだ?」
「きみに言いたくない」
 だって、会ってしまえば、きっと、
「俺のこと、そんなに信用ならないか?」
「そういうことじゃない」
 きっと、会うだけでは足りなくなるのだろう。声を耳元で聞いて、言葉を直接与えて、与えられて、それから、――それから?
「……俺、あんたに会いたいよ」
「……僕は、会いたくない。だって、きっと」
 ぐちゃぐちゃになってめちゃくちゃになってしまう。自分のコントロールできない感情で、僕は溺れてしまうだろう。そんな僕なんておかしいじゃないか。
 オーエンは隔板から身を離すと、部屋に入ってガラス戸を閉めた。けほ、と喉が鳴る。
「……灰皿、ない」
 仕方ないので、シンクにラテの空カプセルを置いて、ぐりぐりと吸い殻を押し付けた。
「最悪。今どき紙巻ってさ。匂いがきついし、まだ口の中が苦いし」
 オーエンはけほけほと咳き込む。のどの奥も舌の裏も、いがいがする。
「……ほんと最悪。会いたい、なんて」
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 彼の音が、聞こえる。
 ギュイン、と前面道路から曲がり込んでくる車の音。バルルル、と唸っていたエンジンが、バババババ、地を這うようなアイドリング音に変わり、やがてバヒュンと止まる。なんだかちょっとだけ、散歩から帰ってきた大型犬がうろうろしてるみたいだ。
 コンクリート敷きの階下から、足音が伝わってくる。かつかつと鋭利な革靴の音。平らな所とテンポを変えずに階段を上がるのが、おそらく彼の癖だ。一段抜かしで上がったりなどせず、駆け足になることもなく、でも鋭く静謐な足音のまま、段を上がり切る。キュッと踵を返し、自室の前へ。素早く静かに、カチャリ、解錠して、扉が空気を動かすけはい。隣人がーーオーエンが帰宅した。
 今日は夕方に帰ってきたから、あとで煙草を吸いにでも、ベランダに出てくるだろうか。
 
 ヘッドホンをつけてエレキギターを弾いていると、壁がとん、と鳴らされた。
 耳を澄ますと、うっすらと歌声が聞こえてくる。カインはギターからヘッドホンを外し、アンプの音を絞る。アコースティックギター程度の音量にすると、旋律を奏で始めた。
「サイレンス」、Bメロから。旋律が盛り上がり始める部分。壁にもたれて、壁の向こうの声を背中全体で聴いて、壁越しに伴奏を返していく。きらきらした日常を歌う、青春ソング。毎日忙しくて、行くところとやる事なんて山程あって、それは毎日目まぐるしく入れ代わって、でも君と過ごす時間だけが静かに穏やかに、変わらずにそこにある。ギターとボーカルがじゃれ合うように、音階を駆け上がる。壁の向こうの声を追って、コードを進める。
 サビに入る。高音域を揺らす声。伸びやかに、大切に、君がとなりにいる時間をうたう。言葉がなくとも信じられる瞬間のこと。急転、低音域へ。密やかに君を思いながら、忙しい日々を過ごす。
 最後のコードを鳴らすと、壁の向こうでもボーカルが消えていく。
 
 しばらく、カインは背中を壁に預けてぼんやりしていた。
 同じ曲を歌いあったのは、ほんの2分ほどのことだった。それがあまりに鮮やかで。幻のようだけど、声を聞きあって、音をわけあって、同じ歌を共有した。壁ごしに共にした時間が、ずっと続けばいいのにと、思った。
 
 
 
 それから数週間の間、壁が鳴らされることはなかった。オーエンが歌っている様子はなかったし、ベランダに出る気配もなかった。
 一度、彼の車を見た。
 鍵の音をさせて出ていくドアの音を耳が捉えたから、ベランダに出た。バヒュン、バババババ、地を這うようなエンジン音が回転速度を上げて、ギュインと前面道路に曲がりこんでくる。ルーフだけの彼の姿は、グレイの英国車のかたちをしていた。
 
 
 
 
        §
 
 
 
<201>
 隣から響いてくる物音で、カインは目を覚ました。何やら人が歩き回っているような。それに、話し声のようなものも聞こえる。起き上がり、適当にパーカーをひっかけて、ボトムスを履き替えた。隣では笑い声らしき気配が、玄関の方へ近づいていく。違和感を感じて、玄関へ向かった。――オーエンは、誰かと笑いあいながら歩き回るような奴だろうか。ドアスコープを覗いて、様子をうかがう。
「……え?」
 隣の扉がガチャリと開いて、出てきたのは年嵩の女性だった。後ろから、三十過ぎくらいの男性が出てくる。
 思わず息をのむ。どくりと心臓が跳ね、体温が上がった。いてもたってもいられなくなって、ドアを開けた。
「……こんにちは。確か、大家の」
「マサキです。こんにちは、ナイトレイさん」
「あの、オー……ここの部屋の人って……?」
「ああ、……こちら、内見の方ですよ」
「内見、て」
 顔色が変わったのが、自分でもはっきりと分かった。――内見? 不動産の? つまり? 新しい住人候補が、退去した部屋を見にきた?
 ちらりと部屋の中が見えた。開け放たれたドアの向こうに、シングルソファらしきものが見えている。……オーエンのものだろうか? つまりまだ、多少の荷物は置いてある?
「202の方が留守の間、他の内見の方が来るかもしれません。お騒がせしますが、よろしくお願いします」
「あ、ああ。そうですか」
「隣の人ですか? もし越してきたら、よろしく。では」
 男性に会釈されてしまったので、カインはなんとか礼を返し、隣の自室へと踵を返した。焼けついたように働かない思考を殴りつけ、引っ掛けていたサンダルを脱ぎ散らす。尻ポケットからスマホを取り出すと同時に、思い直してリビングに向かい、ラップトップを立ち上げた。
 いつの間に引っ越しなどしていたのか。いや、カインは3日に一度、丸一日いなくなるわけだから気づかなくてもおかしくない。オーエンは今はどうしているのか。どこかに泊まり込んでいるのか、残してある荷物はいずれ引き取りに来るのか。
 ――202の方が留守の間、他の内見の方が来るかもしれません。
 わかるのは、いずれ隣室からオーエンが完全にいなくなるということだ。つまり、顔も、連絡先さえ知らない彼とのつながりは、お隣さんというものが唯一で、それがなくなってしまう。
 カインは不動産情報サイトを検索し、大きいものから見ていった。沿線から自宅の近辺を絞り込み、該当する間取りを探す。比較的すぐに、隣室らしき室情報に行きあたった。
 『内見可、3月以降入居可能』
「来月……」
 今は2月の上旬だ。諸々の賃貸手続きを考えると、おそらく長くてあと10日間程。それっきりで、オーエンは完全に隣を引き払うらしい。
 1度くらいは荷物の搬出なりで戻ってくるはずだ。出入りを捕まえることはできるだろう。カインが留守にしていなければの話だが。
 一縷の望みと思えば、手放す気はなかった。
 なぜ、どうして、いつの間に。こんなにも。鋭く静謐な足音が。車の音が。彼の名が。うっすら響いてくる物音が、数度聞いただけの、あの声が。
 これほどにも、愛おしい。
 
 
 
        §
 
 
 
<202/1004>
 ある出版社の文学賞を受賞したこともあり、引っ越しを決めた。
 出版社までのアクセスだけでいえば、現在の住処は多少不便なのである。オーエンはあっさりと、新しく部屋を探すことにした。都心から電車一本で着くところが良い。幸いなことに、条件に合う部屋はすぐに見つかった。主な家具と身の回りの品を新居に移せば、生活と仕事の拠点はすぐに移動できる。旧居は退去予定を伝え、立ち入って構わない旨を申し出た。仕事の資料やらなんやらは既に新居にあるから、一度宅配便の手配をして、最終的な片付けをすれば良いだろう。
 退去の挨拶などして回る気はなかった。
 都市圏のアパート住まいで、普通そんなことは必要もない。それに、隣人と顔を合わせることを考えると、こころのなかが悲鳴を上げる。
 ――会ってはいけない。
 ――そいつに会っては。
 きっと、会うだけでは足りなくなるのだろう。声を耳元で聞いて、言葉を直接与えて、与えられて、それから、――それから、何を望むというのか?
 オーエンはパソコンの画面をにらみ、一心にキイを叩いた。新居の壁は一面真っ白で、どうやら防音がしっかりしているらしく、隣人の生活音に気づいたことはない。向こうがプリンタを使ったりシャワーを浴びたりしても、おそらくこちら側に響いてはこないのだ。
 くらりと視界が揺れた。時計を見れば、そろそろ午前6時。喧しい目覚ましが鳴る時刻だ。窓の外は、底冷えする藍色に染まっていて、まだまだ暗い。
「……おやすみ、騎士さま」
 白い壁に触れ、小さくつぶやいて、オーエンは席を立った。
 
 
 がらんどうになった202号室から宅配便を送り出す。残りの細々した物をトランクに投げ込む。荷造りはこれで最後だ。トランクを閉じ、部屋を見回す。扉を出て施錠したら、鍵を大家に返却して、新居に移動しなければならない。
 冬の陽が、しらじらと床全体を照らしている。カーテンがないと、窓がずいぶん大きいように思った。いったい入居前には、こんなふうに思っただろうか。壁の色がわりと気に入っていたのだとか、隣の物音が言うほど筒抜けにはならないものだとか、ベランダは思ったよりも広かったのだ、なんて。
 もう一度全体を一瞥し、吹っ切るようにトランクを持ち上げた。一息に靴を履き、扉を閉めて施錠した。足元だけを見て廊下を歩き、階段を降りていく。駐車場を横切ることだけ考えた。 
 道路から一度、見上げる。隣室の窓は薄暗い。かろうじてブラインドがかかっていて、カーテンは開け放たれていた。
 目をそらし、伏せる。多分一生、後悔するのだろう。隣人と顔を合わさなかったことを。物音と声と名前だけ知っているその人と、会わなかったことを。何をして、何を思って、どんなふうに暮らしているのか、聞かないままだったことを。騎士さま、と、からかってやらなかったことを。
 
 視線を感じた。
 待ってくれ、と声をかけられた気がした。
 よく通る、闊達な声音だった。
 オーエンが首を巡らすと、隣室のベランダに人影があった。
 向き直る。見上げる。
 食い入るようにこちらを見つめているひとがいる。
 赤銅色の髪が肩から垂れている。背丈は自分と同じくらいで、姿勢が良くて、肩幅が広い。
 視線が交わった。
 きんいろの彼の目が、驚いたように見開かれる。くっきりした眉が跳ね上がる。
 自分の顔が、ぐしゃりと歪むのがわかった。
 
 ――この人だ。
 
 このひとに、会いたかったのだ。
 
 オーエンは我知らず、足を踏み出していた。二歩目で早足に、三歩目で駆け足になる。来た道を――通り抜けてきた駐車場を走り抜け、降りてきた階段を一気に駆け上がって、すぐに右手へ。たたらを踏み、思わず咳き込んだ。扉を睨む。目の前には、凝った書体の201。
 ネイビーブルーのドアを殴りつけようとした瞬間、そこは内側から勢いよく開かれた。
 
 
 
        §
 
 
 
<201/1004>
 きんいろと、赤と。明るくまっすぐな視線と、苛烈で甘い視線と。
 交わる。
 互いに無言のまま。
 ごく自然に、腕をのばしあう。
 肩をひきよせ、互いを腕の中に閉じ込めた。
 身体が熱い。玄関内になだれ込む。ドアは蹴って閉めた。トランクをいつの間にか取り落としたかもしれないけど、知ったことじゃなかった。ぐしゃぐしゃに切羽詰まった表情でにらみ合い、見つめ合い、襟をひきよせあって、は、と息を吐いて、
「……あんたの、名前は?」
「……知ってるだろ。ていうか、聞くなら先に名乗れよな」
「そのとおりだな。――俺はカイン。カイン・ナイトレイ」
「よくできました、騎士さま。……はは、犬みたいに熱いね、きみ」
「あんたもな。なあ、あんたの、名前は?」
「――僕は、オーエン」
「……あんたが」
 オーエン、と、何度もカインは繰り返した。名の響きを口の中で転がして、味わうように。
「オーエン。あいたかった。あいたかった、会いたかった!」
「僕は会いたくなかったよ。だって、ぐちゃぐちゃになってめちゃくちゃになって、自分のコントロールできない感情に溺れて、そんな僕なんておかしいじゃないか」
 お互い、うでに力を込める。きつくきつく抱きしめあう。背中が、首が、頭が、喉が、熱い。鼻の奥が痛い。
 オーエンは足元のトランクを蹴った。靴棚に当たって、ガツッと音がする。上段のハイカットスニーカーが片方、転げ落ちたのを見やりもせず、カインの頭を抱き寄せた。額を合わせる。自分より高い体温が流れ込んできて、すっとなじんだ。ぐいっと髪を撫でる。真摯で力強い視線が、ごく近く、同じ高さからオーエンを見つめてくる。彼のゆびさきが、熱い手が、後頭部をなで返してきた。強く額を押し付けあって、は、と小さく吐く息すら押し殺して、そっと、窺うように、鼻先を寄せあった。
「……キスしても、いいか?」
「聞くなよ。――して」
 オーエンが相手の頭をつかみ、カインは相手の頬にてのひらを添わせて、距離をゼロまで近づけた。
「……ん、……っ!」
 がち、と歯がぶつかったけど、構わずに熱く濡れたものを腔内に侵入させあう。びしゃ、唾液の音が立つ。互いの舌先が、互いの口腔でうごめく。酸素を求めて口を開け、角度を変えて味わい、一瞬だけそっと離す。しばらくの間、ゆっくり食みあって、ようやく飢えていたものが埋まった気がした。
「……ふ、」
「ん、……っく」
 唇を離し、頬を撫であい、目を合わせる。視線に射殺されるまいとにらみつける。そうすると、カインのきんいろが瞬く。すこし愉快。オーエンは口の端をゆっくり、無理にでも持ち上げて、強気にわらった。なんだか涙が出そうだ。
「……ねえ」
「何だ?」
「……あの棚、DIYしてたやつ? 釘、打ってただろ」
「え? ああ、そうだな」
「はは、無計画」
 ずいぶん適当に並べたものだねと言って、相手の前髪をそっとかきわける。癖のある手触りがいとおしい。自分のゆびさきごと、赤銅色に唇をあてた。
「……はは、そうだな」
 カインも同じ動きで、灰銀をゆびさきで梳いて、唇をよせた。
 髪の先を食みあい、鼻先で髪をかきわけながら、近づける。
 再度、そうっと、重ね合った。
 最初は触れるだけの。そして次第に深く。襟元の肌に触れる。音を立てて舌先をすすりあった。服の隙間に手を忍び込ませる。呼吸が荒く、胸が弾む。ひどく熱い。背を撫で上げる。びくん、と刺激が走り抜けた。
「ひあ、……、」 
「ん……ふ、……っ」
 ぴしゃ、と水音をたてながら体を離した。
 目を開ける。くっきりした眉がひそめられたまま、きんいろが切羽詰まったように目の前のひとをみつめる。オーエンは、とろりと甘やかな赤い目を挑発的にまたたかせた。顎に流れ落ちた唾液を、ぐいっと指先でぬぐう。
「ここで剥く気? ちょっとの我慢もできないの? 行儀が悪いね……ベッド、すぐそこなんだろ」
「来て――くれるのか」
「どうしようかな。最後の一枚ってときに帰っちゃうかも」
 天邪鬼を口にしながら、オーエンは靴を蹴り脱いだ。靴棚に当たって、ガツッと音がした。
「おいで」
「……俺んちなんだが」
「へえ、しないんだ?」
「いや、……そうじゃないけど」
「ふふ、えっちだね」
「お互い様だな」
 再度、腕を伸ばしあう。唇を合わせながら、部屋の奥へ足を進めた。
 8歩と少しで、ベッドスペースの前。
「……あ、こうなってるんだ」
 セミダブルサイズの小上がり。横に棚があって、パーカーが無造作にかかっていて、音の喧しそうな目覚ましがある。オーエンは勝手に上がり込んで、辺りを見回した。
「そっか。そりゃあ……閉めないよね、カーテン」
 棚の逆側が大きな室内窓になっていて、今はすこしだけ開いていて、やわらかな外光が磨硝子に反射していた。
「カーテンがどうした?」
「いつも開けっ放しじゃない。変態が覗いてたって知らないよ」
「盗るものはないし二階だから問題ないな」
「二階だから平気? きみは二階なら入れないの?」
「俺、は、登れるな。ロープがあるといいけど」
「さっすが消防士。泥棒だってできちゃう」
「やらないぞ!?」
 さっさと室内窓を閉めきり、オーエンはとろりと目を細めて、カインを見上げる。
「来ないの?」
 シャッと音を立ててカーテンを閉め、襟首をつかむ。勢いで倒れ込んだ。互いに上着を脱がせ合い、競うようにボタンを外し合い、じゃれ合うようにベルトを抜く。
「……ふふ、こんな薄明るい所で脱がし合うなんて、悪いことしてる気分になるね。そう思わない?」
「なぜだ? これは別に悪いことじゃないだろ」
「ふん、面白くないの」
 くすくす笑って、オーエンは赤銅色の頭を引き寄せた。
「めちゃくちゃにして。シーツも枕も、ぐちゃぐちゃのべたべたにしてやるよ」
 
 
 
 男二人では抱き合ってまどろむにも狭くて、カインはシーツの間から抜け出した。
 水のペットボトルを冷蔵庫から取って、直接口をつける。もそもそと起き上がったオーエンに渡してやると、何やらうにゃうにゃと文句を言いながら受け取った。
「身体、大丈夫か?」
「なんてことないよ、こんなの」
 ……ちょっとばかりひりひりするだけだと、意地を張るのである。ついさっきまで睦み合い、かすれた声でそんなこと。ぐわりと熱が上がりそうなのをおさえて、代わりに灰銀色を撫でてやれば、嫌そうに首をすくめるしぐさ。年下のくせに、などと言って唇を尖らせてみせる。
「あーあ、君がさんざんスるから運送屋が着くのに間に合わないかもね。予定が狂っちゃって、僕、可哀想じゃない?」
「……ていうか、そういえばあんた、車は?」
「もう向こうに置いてあるんだってば。駐車場、ここより狭いんだよね。最悪」
 カインはオーエンのとなりに座ると、ペットボトルを取り返して口をつけた。白い肩を抱き寄せ、肩先に唇を落とす。
「送ってくよ。場所、どこなんだ?」
「S駅の西側。K公園の近く」
「N署の管轄か。……もしかして、……もしかしなくてもすごい所だな!?」
 高層の建物が多くて、火事対応等も防災活動も忙しい地域なのだと、カインの職場でも何度か話題にあがっていた。実際S駅といえば、ビジネス街も観光スポットも近くに抱える大きな駅だ。新居は一体どんな高級マンションだ、とおののくカインにむけて、オーエンは悪辣な笑みをにいっと向けた。
「ついでに力仕事もしてよね、家具の組み立てとか」
「そしてこき使う気だな!?」
「ひどいなあ騎士さま、僕のお願い、手伝ってくれないの?」
「いや、手伝う、手伝うけども!」
「仕方ないからご飯あげるし泊めてあげる。嬉しい?」
「……ああ!」
 あんたのことをもっと知れるな、とカインが笑うと、最初に言ったの、嘘だから、と、オーエンはためらいがちにつぶやいた。
「最初?」
「言っただろ。きみのこと、いらないし知らないし興味もないって。――嘘だから」
 ムカつくけど撤回する。内に入れてあげるから、君の好きなときに来ればいい。でも、僕は君の思うようになんかならない。僕は僕の思ったようにするんだから。
「僕を好きなときに好きなようにできるなんて、思わないことだね」
「……オーエン。聞いてくれ」
 真摯に金色の瞳をまたたかせて、カインは恋しいひとを真正面から見つめた。長いゆびに触れ、てのひらを重ねる。
「俺は消防士だから、何かあれば行かなきゃならない。家にいたって呼び出しが来ることもあるし、災害の時にはあんたを放って何日も離れることになるし、連絡のつかないところに派遣されることだってある。あんただけを見ているわけには行かない」
「……へえ」
「けど、俺は俺のできることをする。仕事だからってだけじゃない、あんたがいるからだ。
 俺は、あんたのいるこの街を守る。この街を守ることで、あんたを守る」
 苛烈な赤い視線がカインを見つめる。
 手を伸ばし、赤銅色の髪をかきわけ、頬を撫でる。額をぺしっと軽く爪弾いて、鼻の先でちいさく笑った。
「……管轄外だろ」
 

(2022.6.5初出)