別館「滄ノ蒼」

phase3.海原

(しかしまあ、えらいトコだよなぁ)

 

 パラメキア大陸の北東岸である。

 岩肌がむきだしになった峻険な山脈を背に、まばらな低木の生えた岸のすぐ横から、茫洋と海が広がっていた。

 ここから、サテどうやって人の気配のない野を越えていったものか、と途方に暮れているのは(ただし、彼の表情はあくまでも飄然としており、全くうろたえているようには見えないのだ)、パルムあたりで名を馳せる、自称・世界一の盗賊である。

 彼の背には戦利品の大きな袋があり、そのかさばり具合も歩みを重くしている要因だった。

 このあたりはちょうど街道からずっと離れているだけでなく、商船の航路からもはずれており、隊商などを捕まえて同行させてもらえる目算は限りなくゼロに 近いと考えてよかった。一番近い町といえば、4~5里ほど山脈を回りこんだ先、パラメキアとカシュオーンの国境の町アンスルウ――パラメキアの民以外は入 ることすらできず、かれらもそこからは一歩もでてこない、顔のない無愛想な町だった。

(山脈から降りてきたら延々砂漠だわ、歩いて歩いてやっと抜けられたと思ったら猫の子一匹見あたりゃしねぇわ……参ったね)

 荷物が多いのはいつものことだが、できることなら遠い陸路を歩いていくのはご免こうむりたいところだった。

 考えながらも、ポールの足は交互の動きを止めていない。後ろに遠ざかりつつある山脈の断崖から、時折、急な風が吹き降りてくる。右手の海は、波打ち際近くから急に深くなっているらしく、黒みがかった藍色をしていた。

 

(……お?)

 水平線に、小さな白い点を見つけたのはそのときだった。

 ありがたいことに、どんどんこちらに近づいてくるように見える。ポールは波打ち際まで寄って、上着を脱いで振り回した。

「おーーい!」

 気づいているのかいないのか、白い点はそのまま大きくなってくる。商船であるらしき外観が、どことなく見て取れるようになった。

「おーーーーーい!」

 相手も気づいたらしい。船首に大男が現れて、こちらに向かって手をふっている。

「乗せてくれよーーー!」

 ぶんぶん手を振りながらも、今一度、所持品を思い浮かべる。一番高価な宝石は肌着に仕込んであるし、いつものように戦利品はできるだけ分散して荷に作ってある。万一のことがあっても、まあ、大丈夫だろう。仕事柄、それなりに修羅場もくぐっているのだ。

 大きく帆を揚げた船は、浅瀬のぎりぎりまで近づいてきて、縄ばしごをおろした。船首には大男のほかにも何人かの船乗りが集まって、こちらを指さし、なにやらわいわい言い合っている。

 ポールはざぶざぶと海に入り、縄ばしごに飛びついた。

 素早くはしごを登り、するりと甲板に上がり込む。そこには船長の印らしき房飾りのついた短刀を差した人物が立っていて、腕を組んでポールを見下ろした。

 思ったよりずっと若い、しかも女だった。

 角張った顔の不精髭の男と、禿頭の強面を従えている。

 あだっぽい、鋭い目。きゅっと笑う形につり上がった気の強そうな紅唇。長い髪にさっと巻き付けられたミシディア織の布と、首のわずかな装飾品が、健康的 ななまめかしさを主張していた。強調された胸元に思わず目をひかれ――ポールは礼儀正しく視線をはずし、ちょっと頭を下げた。

 女は口を開いた。

 潮風が舞いあがるような声だった。

「この船、バフスクの東をまわって北の海に出る予定なんだけどね、船乗り以外の人間なんて何週間ぶりかに見たんじゃないかねェ? なんだってこんなところを旅してンだい、あんた」

「俺は商人なんだが、ちょいと珍しい仕事があってね。……お姐さんが船長かい? ちょうど良いや、できたら安く乗っけてもらえねぇかな?」

 困った顔をつくり、お人好しそうに眉を下げて、手を広げてみせる。

「炊事も甲板掃除もお手のもんさ、索具もちっとは扱えるぜ。商船なら人手も必要だろ」

 女船長は軽く鼻を鳴らし、「まァね」と言った。

「ふん……ちゃんと足も影もあるようだね」

 遠慮なく頭からつま先までぐるりとポールを見回す。一瞬、ポールの担いでいる大きな荷物に目をとめたようだったが、くるっと顎をしゃくると、踵を返してすたすた歩きだした。

「来な。働き次第で運び賃は相談してやるよ」

「有り難ぇ! 恩に着るぜ、姐さん。せいぜい働かせて貰わぁ」

 足取り軽く女についていきながら、ポールは軽口をたたいた。

「いやぁ、こんな綺麗なお姐さんが船長の船に乗れるたぁ、俺よっぽど日頃の行いがいいんだよな。しかしお姐さん、ほんとに商人には見えないよな」

「……最近商売を継いだところでね。ちったァ静かにしたらどうだい、居候」

「……すんません」

 後ろにぴったりとついてくる禿頭を振り返ると、ぎょろりとにらまれた。そちらにも軽く頭を下げて見せ、懲りずになおも問う。

「お姐さん、名前は? 俺はポール。パルムのポールだ」

「レイラ」

 簡潔にそれだけ言うと女は振り返り、にっと口の端をつり上げた。

「さて、そうと決まればかつかつ働いて貰うからね。とりあえず船倉と水置き場を教えてやらァ」

 レイラの後ろについて船の内部に降りていく間際、ポールはこの船の帆を見上げた。

 国章も紋章も入っていない、商船にはめずらしい単色の帆がひるがえり、ポールは目を細めた。

 

 

 

 ……そして盗賊は下着一枚で、筵で簀巻きにされて甲板に転がっている。

 すでに夕刻を過ぎ、空の半ばほどまでが血のような赤にそまっていた。

「馬鹿野郎! ほどきやがれよこの縄! くっそ! この!」

「はん! 海賊の船なんか呼び止めたあんたが悪いんだヨ! おとなしくするか、海に放り込まれるか選びな!」

「海はやめて海は! くそこの!!」

 ぐにぐにと大きな芋虫はのたくって、ぴょんと体勢を変え、甲板に正座した。次の瞬間、目の前には剣の切っ先がつきつけられていた。

(うへぇ)

 内心、息をのむ。だが顔には出さず、あくまでも表面的には飄々としたまま、ポールはさっさと腹をくくった。

 「なにがあっても逃げ残る」が、修羅場での彼の標語なのだ。彼は戦士でも魔道師でもない。自分の手先と口先が資本の、あまり大きな声ではいえない商売が生計だった。

(一番高価な宝石は肌着に仕込んである、これは取られてねぇ。装飾品やら銀器やらの包みは……あきらめるか。あとはパラメキアくんだりまで出張った戦利品、だが――)

 ポールに刃を突きつけているのは角ばった顔の無精髭だ。ゆっくりと居並ぶ海賊たちを見回した。強面の禿頭と目が合い、そいつはレイラの後ろで短刀を構え直す。

(ま、口先八丁の出来しだいってとこかね)

 口を開き、いい加減な命乞いを3行ほど並べてみた。だが、海賊たちはともかく、レイラは全く聞いている様子がない。

 口をつぐんだ。

 不意にレイラは抜き身の短刀を下げたまま近づいて来、小さく喉元で笑うと、ポールの後ろ髪をつかんで短刀を持ち直した。ポールは思わず目を瞑り、引き結んだ口の端をゆがめる。

(――殺される、か?)

「あんたが乗り込んで、一日でわかったのサ――」

 ぶちぶち音がして、筵がはらりと緩んだ。

 どうやら縄目が断ちきられたらしい。ポールは急いで甲板に倒れ込み、転がった。体に巻きつけられていた筵から転がり出る。手首はまだいましめられたままだったが。

「この船の正体に、あんたならすぐ気づく。そんな奴を陸にもどすわけにはいかない。もとよりそんなこたァ言うまでもないけどね、こんな要領のいい、器用な奴なら余計にそうだ、ってねェ」

「……ずいぶん気合いの入った扱いじゃねえか俺。なんとか海に放り込まれるのは勘弁して貰いたいんだけどよ」

「確かに、あんたの腕は惜しいさネ。そうだねえ――」

 レイラは顎のあたりに指先を当てて、ちらりとポールを見やった。大げさに眉尻を下げ、表情だけで両手を合わせて拝んでみせると、女海賊は片眉をはねあげ、短刀を持ち上げる。

「あたしらの漕手として、ずっとこの船にいてもらうことにしようか」

(うへぇ)

 ポールは口をへの字にとがらせ、内心舌打ちした。彼はあくまでも陸の人間だった――命をとられないにしても、毎日毎日青くうねる波ばかりみて過ごすな ど、考えただけで気が違いそうだ。騎乗してかける荒れ野、立ちのぼる砂煙、戦利品として曳いていく家畜があげる鳴き声――そういったもののみちあふれた世 界の、住人だった。

 

 そうしているうちに、海賊たちはポールの荷を船倉から引っ張りだしてきて、中身を甲板にぶちまけ、物色している。そこここで、口笛があがった。

「すげぇ宝石じゃねぇか!」

「こっちのは見たことねぇ意匠の首飾りだぜ!」

「姐さん見てくれよ、この銀の燭台!」

 手下どもが頭上に掲げてしげしげと見ているものたちをちらりと見やったレイラは、すっと目を細めてポールの喉元に短刀を突きつけなおした。

「……あんたも大概、堅気じゃないようだネ」

「いやその。俺はしがない行商人ですぜ? 今回の仕入れはちいっと珍しくてよ――」

「ちゃんと隊列組んで船も用意して行くもんサ、あんなもん扱う大商人様だったらね」

 レイラは先ほどの燭台に向けて顎をしゃくった。

「だいたいあの意匠――双頭の猛禽なんて、しばらく昔、7・8年前にパラメキアから流れ出てきた品にしかついてるもんじゃないって相場が決まってる。ってことは、盗品だろ、パラメキアの――相当ヤバいことしてるねェ、あんた」

 じゃあ姐さん、これは、などと言いながら、刺青の大男が袋をひとつ持ってきて開け、飛び下がった。

「こいつが大事にしまってたこの袋ン中身だ、どうにもこうにもまがまがしいモンばっかりで――俺ら、どうしたもんかと――」

「なんだいこれ……黒装束に、宝石飾りの胸当てに、金でできた髪飾りがふたつ、あとは霊薬(エリクシャー)かい……」

 そしてとどめは、異様な形の赤い剣だった。

 見るからに、切っ先にふれれば生命力を吸い取られそうな雰囲気を漂わせている。

 海賊というものは、陸の者たちよりもずっと迷信ぶかいらしいとはポールも聞いたことがった。だが、実際に目の当たりにするのは初めてだった。大男は後ろ手を組んで、なにやらもごもごと口の中で唱えているようだった。

 

 チャンスだ。

 ポールは、ここぞとばかりに口を開いた。

 

「おっと兄さん、その頭ん中で思ってらっしゃるとおりだ。それはいかにも禍つ国から流れてきた禍つ武器、姐さんのおっしゃったとおりの、触れれば魔を呼ぶ 災いなる武器防具だ。俺に返しな、どんな風に持てば魔を避けられるか、とくとごろうじろ、この風来商人パルムのポールなればこそ持ち出せた禍つ武器、パラ メキアの外にあればこそ魔を祓うこともできるだろうって寸法だ――」

 体よく戦利品の袋を手元に取り返し、しっしっと大男に向かって舌を出す。大男は飛びさがり、甲板に尻餅をついた。さらにポールは声を張り上げ、つながれた手首のままでそこらの樽をぺしりと叩く。講釈師のようなものだ。

「さて、取り出したるはこの問題の赤い剣だ。おそらくかの禍つ国では災いを敵に与えるものとして捧げられていたものだ、それがもしも切っ先を反転させ、禍つ国に向かったならどうなるか、折伏の戦士と魔道師がこの柄を握ったならどうなるか――」

 いい加減な言葉をつづけながらちらりとレイラをうかがうと、海賊は毒気を抜かれたような顔をしてこちらを見ている。一言でいえば、呆れているようだった。

 とどめに、ポールは一言、ぶちかます。

「その武器防具があれば、きっと俺、世界を救うぜ?」

 

 呆然とした空気が流れた。 

「あはははは!」

 レイラは短刀を下げると、空を見上げて大笑いした。

 さんざん腹を抱えて笑い、それを納めると、まっすぐにポールを見た。

「気に入ったヨ、あんた。――決めた」

 すたすたとポールの正面まで歩いてくると、女は彼の鼻先に指を突き付けて、言った。

「あんたを、買う」

「は?」

「あたしはあんたを買うよ、一晩中。お代はその武器防具の袋の中身と、あんたを陸で降ろすことだ。――どうだい」

「そりゃあ――」

 ポールは目をすがめて、口の端をひん曲げた。

「……大変に有り難ぇや」

「来な」

 ポールの声は半分も聞かずに、さっさとレイラは船室に足を向ける。

 なんだか微妙に同情するような視線が手下どもから送られてくる気がしたが、それを気にしないことにして、ポールは後を追った。

 

 

 

        *

 

 

 

 ざざあ、と波の音が聞こえる。

 男は起きあがると半袴だけを身につけ、灯りの眩しさに目をすがめた。船の揺れに合わせて、小さな火も緩やかに揺れている。

 女は眠っているようだ。

 立ちあがる。波の上下が身体の重心をさらおうとする。抗って床を踏みしめた。上半身が潮につれてゆるりと揺れたとき、壁のすみのほうに、小さな扉が切ってあるのに気づいた。

(なんだ、こりゃあ?)

 思わず近づき、しゃがんで手を伸ばす。貴重品の類をしまっておくところとも見えず、通路の入り口には小さすぎる。引手の金具には、ごく簡素ではあるが装飾が彫りこまれている。……普通の船には、あまりない造りだ。

 扉金具に指先が、触れた、そのとき、

「――なにやってンだい」

 人の気配など一切させないまま、ポールの首筋には短刀の切っ先がつきつけられていた。

「うへぇ」

 素直に両手を挙げる。視線だけをめぐらせて振り返れば、女は彼を見下ろしながら、口の端だけをにやりとさせた。一応、という感じで敷布をつかんでいるが、特に体の線を隠す風もない。

「身ぐるみ盗られたからって、海賊船で盗みを働こうってのかい? いい度胸じゃないか」

「んな訳ゃねえだろ、中を見たかっただけだって」

 両手を挙げてふるふると頭を振りながら応える。レイラは短刀を下ろすとポールの横に回り込み、ぺたんと片胡坐で座った。

「おいおい」

 ポールも床に尻をつける。敷布を肩にひっかけてやると、女は煩わしそうにそれを腕にかきよせた。

「船の守り神さんだよ。珍しいのかい」

「ああ、……なるほどね、そうなのかい。……こんなところに造るんだな、知らなかったぜ」

「船長室の床と蹴込板との間は、常に波の下を見据えておくべし、ってね。海賊が船に乗ってりゃ、見習いから抜けて短刀をもらう時に、そう教えられるもんサ」

「へぇ」

 波の音が、ざざ、と響いた。

 ポールは半眼になって天井を見上げ、波のおもてを想像した。藍灰色の海が泡だって、闇に向かって規則正しくしぶきをあげているのだろう。

「あんたはサ……」

「なんだ?」

 ざざあ、と波の音が、やや長く響いた。

「あんた、なんであんなところにいたんだい? 動くもんなんかそうそう見ない所なのにサ」

「俺か? …そうさなぁ…」

 ざざ、ざ。

「言っとくけど、禁制品の買い付けだのは信用しないからネ」

「うへぇ」

 ポールは頭の後ろで手を組み、軽くひっくり返りそうになった。だが懲りている様子も神妙にする様子もない。すこし考えるような色を目元に走らせたあと、ポールは声を抑えて言った。

「……気にいらねぇのよ」

「なにがだい?」

「知らねぇか? ディストの飛竜がどんどん死んでるらしいってなぁ――」

「ああ、何か聞いたことがあるよ。変な斑点ができて弱っちまうらしいねェ」

「どうやら、飛竜の育つ湧水が黒く輝くようになってから、だってな。で、なんでもな、……ディストで飛竜が死にだす一ト月だか前だそうだ、カシュオーンのパラメキア境あたりで、見た奴がいるんだ」

「見た? なにをだい?」

「黒く光る小っさい球みてぇな輝石みてぇなもんが、パラメキアの山脈から、蝗の群れみてぇに北の方に――海のほうに、飛んでってたってな。それも、見たの は一人じゃねぇ。俺は行く先々で何気なく聞いてみたんだがな、カシュオーンの東端あたりの村の奴ら、どこで聞いても覚えていやがる。海のあっちにあるのは ディストだけだ、蝗にしたってなんでそんなとこに向かって飛ぶんだ、って口をそろえやがった」

「おや、気味の悪い」

 で、あんな場所にいたこととそれがどう繋がンのさ、と、レイラは先をせかす。「まぁ焦るなって」と威張りながら、ポールは続けた。

「五年も十年も、何の災厄も領主の代替わりすらない地方だからな。珍しいことはよく覚えてるもんだよな。――で、実はな。入ってみたとこだったのさ。パラメキアの山脈に」

 目だけを見開いたレイラに向かって、続ける。

「陸からじゃ入れねぇってんで、飛んで入ってみたらずばり城だったんだよな。パラメキアの城。山脈の東側を越えると、まずあるのが城だったんだなあそこ」

「飛んで入った、だって?」

 レイラはもはや、あきれたように口笛を吹いた。

「……いくらなんでももう、ツっこむ気にもならないヨ」

「まぁ文字通り飛んだんだ、凧使ってな。そんなもん俺しかできねぇやな。大したもんだろ」

 いまだかつて、入ったことがあるという者にも出てきた者にも会ったことがない、といわれる城だ。どれほど豪奢なところなのかをとくと見てやろう、とポールは思っていた――それまでは。

 だが、入ってみたパラメキアの城内にはだれもいなかった。

 色鮮やかな薄布を重ねた居室らしき場所はあった。独特の意匠で飾られた廊下もあった。だが、そこにはいっさいの生命の気配がなかった。人影はおろか虫や鳥の鳴き声すらせず、何とも言いようのない瘴気だけが満ちていた。

 ……あれは、善くない場所だ。

 半月もあそこにいれば、どんな強靱な精神の持ち主も狂うだろう。

「って訳で、その辺の宝石やら武器やらだけ失敬して、即行で出てきたってわけよ」

 ぞっとしないねぇ、などとレイラは適当な相槌を打ちながら聞いていた。

「だからって何で飛竜が関係あンのさ」

「昔な……いや、何でもねぇ。……他人のガキの頃の話なんざつっこむのは野暮ってもんだぜ、レイラ姐さん」

「ふうん……」

 

 レイラはうつむいて、目を閉じているらしい。

 なんの気なく、そっと手を伸ばしてみる。布に指先が触れたかどうかという瞬間、ポールは手首をひねりあげられていた。猫のような女の目が、にやりと笑って見上げてくる。

「海賊の頭やってる女をなめんじゃないよ」

「……大した、腕だぜ。参った」

 レイラはポールの手首を放り出すと、しばらく膝を抱え、体をゆらゆらさせて遊んでいたが、やがて何か思い至ったらしく、ゆっくりと口を開いた。

「――あれもそうだったのかねェ」

 

 ざざざ、と、波の音が頭上で響く。

 うっすらと闇に刷毛を入れたような、かすかな東雲色が波の表に映っているだろう。

 ざざ。ざ。

 ざざざ。

 

 

 

 四ツ月とちょっと前、そのときもパラメキアの東岸だったそうだ。

 燃料と食料の調達のために、船は碇をおろしたらしい。

 その港で、そう珍しいことでもないが――ちょうどポールがそうしたように、だ――船に乗せてくれ、と申し出てきた者がいたのだという。

「黒っぽいフードなんかぴったり被ってサ。魔道師にしたって、なんだか変な感じだとは思ったんだよね」

 いかにも黒魔道師でござい、という格好のそいつが問うた言葉は、どうも尋常ではなかった。

「いずこへ参られる、ジェイドは通らぬか、なんて言うのサ」

「ジェイドお!? あの『人外の海峡』か?」

「ああ、船乗りだったら口つぐんで親指隠してさっさと通り過ぎる海さ。そんなとこで降ろしてくれなんて、なんなんだと思ったんだけどネ。――黒魔道師のどこぞの流派の聖地かなんかあンのかね?」

「聞いたことねぇぞそんなの」

 だが、魔道師ひとり乗せていれば凪の海は約束されるから、乗せることにしたのだという。

 その黒魔道師は、見送りに来たらしき従者にたっぷり前金を払わせ、ほとんど身一つで乗り込んできた――ちなみに従者の相手をした水夫が言うには、そいつ は帰り道を急ぐ様子で、まっすぐパラメキアの山脈に入って行ったそうだ。魔道師のほうは、ほとんどあてがわれた場所から出てくることもなく、めったに水を 飲みにすら上がっても来ず、そっと船倉を覗いてみれば、ひたすら壁に向かってなにやら唱えていたらしい。

「なんだなんだ、そいつぁ」

「だからサ、いっかにも変だったんだって。修行中だか禁欲中だかで呪文唱えるしかしちゃいけないのかと思ってほっといたのさ、さわらぬ神に祟りナシってやつさ」

 そのおかげか、とくに海は荒れることもなく、航海は順調に進んだのだそうだ。あとはさっさとくだんの黒魔道師を降ろそう、と船足を速めていたところだったという。

 ジェイドが遙か水平線上に見えたあたりで、異変は起こった。

 

 空を見上げれば、彼方に黒い雲が渦巻いていた。

 それはちょうど、ジェイドのあたりと見えたのだという。

 いつの間にか甲板に、例の黒魔道師が上がってきていたのだそうだ。それだけでも異様な事態だと、直感的に思った。それだけではなかった。

「急にがたがた震えだしたと思ったら、なんだかその雲を拝むみたいにして、おお、おお、これじゃ、この気じゃ、なんてぶつぶつ言ってたのサ。気味が悪いったらありゃしない」

 そして、凪いでいた海がいやに荒れだしたそうだ。

 水夫の一人が、おい魔道師どうしたんだ、海をおさめてくれよ、と怒鳴ったのだが、ぎらぎら眼を輝かせて、おお、おお、と叫ぶばかりだったのだという。

 おまけに――

 見ると、その魔道師の足元には影がなかった。

「気の荒い野郎が斬りかかってねェ」

 もちろん本気ではなかったはずだ。単なる脅しだったのだろう。

 だが、鉈が黒いローブをかすめた瞬間、魔道師の身を包んでいたそれは、ばさりと崩れ落ちた。その中にいたはずの人間は影も形もなく、かわりに、ひゅう、と煙が立ち上った――

「――あとには、いやにすべっこい、小さい黒い石だけが落っこちてた」

 乗組員みんなが顔をみあわせた。おそるおそる鉈の先でそれをつっついてみたところ、刃がぼろぼろと崩れ落ちたのだという。

「それぁ…」

 明らかに不吉だ。

「あれが、パラメキアの化物だったのなら――」

 レイラは、頭上にあるのだろう水面を見上げるようにして目を細めた。

「――あんたがパラメキアから手に入れた武器は効くかもしれないねェ」

「……だろ?」

 ポールは柄にもなく、低めた声でつぶやいた。

「俺のよく当たる嫌な予感って奴が……縁起でもねぇが、もし、万が一、大当りだったら、そりゃあ貴重な切り札になるって寸法だ」

 こめかみのあたりに手をあてて、少し自嘲するように小さく笑う。

「いや、理由なんざねぇな。気に食わなかっただけさな――なんとなく、『帝国』って響きがな」

「もし当たったら――いや、当たらなくてもサ、」

 半眼になったレイラの目には、燭台の小さな火が映りこんで、ごく小さくゆらめいていた。

「あの山ン中に目をつけたあんたは世界一の盗賊って言っていいさ」

「ずいぶん褒めるじゃねぇか」

「なに、あたしだって気に食わないだけさ。――魔物の力を呼び出そうとしてるんだか黒魔道師を集めて何かの儀式でもやってンだか知らないけどさ、もしも海が荒れるようなことになったら許せるもんか」

「……そうだな」

「あの変な男は――」

 船にかき分けられた藍灰色の海の、泡立つ音がする。レイラは鼻の頭に皺を寄せた。

「……全く、乗せ損だったョ」

「俺と違ってな」

「この野郎。――そうだね、あんたはお得だったね、身軽だし器用で気がきくし。陸に戻すのがちょっと惜しいくらいだ」

 くるくる動く切れ長の目をすいと細めた船長は、にやりと笑ってついでの言葉を投げつける。

「おまけに、そんなに悪くもなかったしねェ」

「……この野郎。娼妓の真似事なんぞやったのは初めてだぜ俺ぁ」

「はん、褒めてるんじゃないサ。ものの役に立たなかったら海に放り込んでやろうと思ってたもんだ」

「……そうならなくて、大変、まったく、ホントに、ありがてぇこってすぜ姐さん」

 

 ――いつか。

 漠然と、ポールは想像する。

 いつかこの海賊を連れにして、陸を駆けることがあるだろうか。

 鞍を並べて夜の森を疾走したり。焚火を囲んで酒を回し飲みし、猥談を披瀝しあったり。

 全く色気抜きに、最高の相方として仕事ができそうな気がした。

 だがおそらく、そんな誘いは鼻の先で笑い飛ばされるだろう。ことによると、それこそ海に放り込まれるかもしれない。そしてポールは、せっかく首尾よく陸におろしてもらう約束をした相手の、藪をつついて蛇を出すような真似をする馬鹿でも無神経でもなかった。

 また遠く、波の音が響いた。

「夜が明けるねえ――」

 レイラはひょいと立ち上がると、顎をしゃくる。

「荷物をまとめとくんだね、お天道様がてっぺんに来るころにはバフスクの東岸だよ」

 反射的に荷袋を探して視線をめぐらせて、ポールは小さくつぶやいた。

「……ずいぶん久しぶりな気がするぜ。陸に上がるの」

 振り返ったレイラを上目遣いに見上げ、口の端をゆがめる。

「船にのせてくれて感謝するわ、姐さん。俺を陸に戻すのを惜しがってくれて有難かったぜ。けどな、俺ぁ他人様と顔つき合わせて波に揺られてるのは向かねぇんだよ。あんたが陸に上がらねぇのと同じだ。やっぱりさ、それぞれの分ってもんがあんだろうよ」

「……ま、そうだね。よっぽどのお導きがあれば別かもしれないけどねェ」

 髪をかきあげて、レイラはかりかりと頭をかいた。

「例の武器防具の荷物だけどさ。一つだけ差ッ引かせてもらうよ」

「お、何だ。俺の思い出にってか?」

「ンな訳があるかい。あんたを降ろすのが思ったより早くなっちまったからね、その間の働き代金ってこと」

 海賊は身をかがめて荷袋をごそごそ探り、金の髪飾りを取り出して髪に挿す。

 そして、ポールには簡単に命令だけ残し、さっさと部屋から出ていった。

「――明六ツを過ぎたら、昼まではいつも通り働きな」

 

 

 

        *

 

 

 

「世話になったぜ」

「じゃあね」

 海鳥の鳴き交わす声が響いていた。

 船は、ゆっくりと波に身をまかせてはいるが、もはやほとんど揺れてはいない。

 「賊」を名乗る二人は、ごく自然に、互いの拳の甲を軽く打ち合わせる。

 それは侠客同士の挨拶だった。健康を祈り、好い仕事をしろと言いあう意味の。

「陸に飽きたら来な、索引きを任せてやるよ」

「そうかい。……ま、縁がありゃな」

 互いに半歩下がって今一度、今度は腕を伸ばして拳を合わせると、ポールはくるりと身を翻し、軽やかに陸へ飛び移った。

 レイラも踵を返し、進む先の水平線をみつめる。

 

 ――そう、縁があればまた会うこともあるだろう。それまで精々暴れてりゃいい。

 

「帆を上げな!」

 ざざ、ざ、と、船体が海のおもてをかき分けはじめる。

 国章も紋章も入っていない、単色の帆がひるがえった。

 

 空は抜けるように青く、太陽の光が甲板を焼いていた。

 塩辛い風は、船よりも先にどこまでも波の上を走っていく。

 

 

(2013.3)

respect for;極妻の岩下志麻様