別館「滄ノ蒼」

色ノ無イ城

 その人物は、おそらく今現在、世界で最も有名な者だろう。
 マティウス、というその本名を知る人間はそう多くなく、彼はたいてい、単に皇帝と呼ばれている。
 皇帝の魔手は世界中を撃っているが、戦場においてもパラメキア領内においてさえも、皇帝の姿を見た、という者は意外なほどに少ない。それもそのはず、今 行っている征服の戦いにおいてさえ、彼が出張ったのは唯一、最後まで抵抗を続けるフィンの宮城を落とすときだけだったのだ。

 いつも皇帝は、ただ立っている。ほとんど人の気配のない、無機質な、この色のない城の中心に。

 白金の真っすぐな長い髪が、さらりとなびいた。
 パラメキアの砂漠をふきぬける熱風は、山岳地帯をかけのぼる間にむきだしの岩肌に冷やされて、この帝国の至高の座所に届くころには涼やかな風となる。

 その主――皇帝は凶相である。
 姿形じたいは極上の玻璃細工ともたとえられるほどだが、頬にも指先にも血の気はない。酷薄な唇はいつも優雅につりあがり、微笑さえたたえている。美しく彩られた切れ長の目元は氷で磨かれた鋭利な刃のようで、変温動物の艶めかしさを感じさせる。
 その薄い唇が少し開かれるたびに。
 その端正な目がすっと細められるたびに。
 幾千の帝国兵団が旗を翻し、魔物が湧きあがり、パラメキアは世界を蹂躙する。

 ――しかしマティウスはいつも、ただ立っている。
 全くといっていいほど人気のない、侵攻を始めてからは人よりも魔物の這い回ることが多くなった、この無機質な、色のない城の頂点に。

 ただし。
 数日前から、彼の視界には色がついている。
 ちょうど目の高さにふわふわと浮かんでいる大きな泡のようなものの中に、何かが倒れていた。
 濃い金色の髪がうねって、その持ち主の、ぴったりと目の閉じられた顔を半ば隠している。やわらかい桃色の肌は瑞々しく息づき、パラメキアの城のなかにあってひときわ異質な生命感を放っている。

 旧フィン王女にして反乱軍総帥、捕囚となったヒルダだった。

 マティウスは腕を伸ばし、泡のなかからヒルダをつかみ出した。
 こぽ、と音をたてて薄い膜は消え、ヒルダの細い体はくにゃりとマティウスの腕の中に崩れ落ちる。気を失っているものは、重いものだ。胸にもたせかけ、抱きとめた。
 皇帝と呼ばれるこの腕のなかの、王女と呼ばれる女。その身体は温かく、その髪は香ぐわしい。

 ……もしも。
 ……もしかして。

 自分が兵を起こさなければ、自分が魔物どもを召喚しなければ。
 征服が必要なければ、二国の間に国交があれば、この女が婚約などしていなければ。
 マティウスはこの美しい王女と、何のてらいもなく恋文など交わしあう可能性でもあったのだろうか。

「くく……く、」
 マティウスは、繊細なつくりの口の端を冷たく引き攣らせた。
 自嘲のようでもあり、冷笑でもあるような、わずかな笑みだった。

「――馬鹿なことを」

 自分は皇帝である。
 この女は王女である。
 そうである限り、互いに滅ぼしあわ「ねばならぬ」。
 それは間違いない事実である。詮無い問いだ、愛し合う可能性など。何よりも世の中から排除せねばならないのは、生温いもたれあいの言葉だというのに。

「――欲しいか?」

 誰もいない広間に向けて、幼い子供のように、脈絡なくマティウスの声は発せられた。
 硬質の白一色の床に音がはねかえり、わんわんと反響するなか、大扉が重たげな音をたてて開かれ、黒づくめの甲冑を纏った人物が入って来、膝を折った。

「これが欲しいか?」

 唐突な、問われているのかどうか疑わしいような、どこか楽しそうな言葉がまた、投げつけられた。
 黒一色の騎士は、主君の長い爪がフィン王女の髪をもてあそぶのを、何の感情もこもらない様子で見あげる。

「――それは、貴方のものだろう」
 皇帝の長く尖った爪は、ヒルダの細い顎を無造作につまみ、頬の線をなぞった。
「わかったようなことを言うものだな、我が帝国のダークナイトよ」
 マティウスは、腕の中の女の、花弁のような小さな紅唇に唇を寄せて触れる寸前で止め、控えている男に向けて優美な流し目を送る。
 ダークナイトは、動じない。
「それは、貴方の虜囚だろう」
「面白みのない男だな、そなたは――ダークナイト、全くその名の通りだ」
「その名を俺に与えたのは――貴方だろう」
 漆黒の面頬の陰となっているその顔の筋肉を、騎士はしかし、微動だに動かさない。

 ヒルダの目は、相変わらずぴったりと閉じられている。無表情なままの女の体を、マティウスは臣下の前に投げ出した。
「欲しいか?」
 どさり、音をたてて崩れ落ちたヒルダの肩からは、金の髪が波打ってこぼれおち、まわりの空気を淡く染めたように見えた。乱暴な扱いの衝撃にも、表情はなんの反応も示してはいない。もし開かれたなら、その目は夏の空の色を宿しているはずだ。

「どうだ?――『レオンハルト』」

 不意に名を呼ばれ、黒い騎士の動かない視線は、わずかに有機的な色をおびて揺れたようだった。
 彼の目の前の、小柄な女の体のまわりだけ色づいた空気が、にわかに密度を増したように思えた。

「欲しいと思うなら……いや、思っておらぬでもどうでも良い、」
 行け、兵を率いて野を魔物で埋めつくし、世界中をわが帝国の旗で圧するがいい。
 ――私のために。
 マティウスは血の気のない口の端を、あでやかにうっすらと吊り上げた。
 色無き城の、その頂点にただ座している皇帝の前に、レオンハルト、と呼ばれた男は深々と叩頭する。

「……御意のままに」


(2008.12)
☆inspired from ; "Adore",The smashing pumpkins