別館「滄ノ蒼」

彼ノ手

 

 ばらばらと床を鳴らし、廊下を走り抜ける。階段を駆け下りる。急な角を曲がる。段差を飛び越える。スピードは緩めない。開けたドアはそのままだ。

 足が縺れたのか、躓いたのか、遅れそうになる気配。
 小さくマリア、と名を呼ぶ。その細い手首を掴む。
 彼女が少し瞠目して、ぎゅっと手をにぎりしめるのがわかる。

 必ず、守りきってみせる。
 守りきらねばならない。
 絶対に。再会の時まで。

 ――えっ…その声は、…?

 この手を離してはいけない。
 この手を離すわけにはいかない。
 ……脱出するまで。飛空船に乗り込むまで。

 ひたすらに。出口を目指し。胸が騒ぐ。ざわざわと。ざわざわと。


 ――レオンハルト。


 義兄であり親友である男の、顔立ちや表情ははっきりと思い出せる。
 しかし、どんな声だっただろう。どんな時にからかうような目をされただろう。

 大戦艦が。揺れる揺れる揺れる。音をたて。轟轟と。囂々と。

 生々しく甦るのは、全てを失った始まりの夜の匂い。
 煙や硝石や火や、血や汗や森の風。
 剣を構え、後ろ手に掌を向けて、自分たちを庇う男の姿。

 遥か階上で。炎が燃え上がる。動力炉。太陽の。囂々と。轟轟と。



 崩壊する。



 彼の手は掴みそこねた。しかし、此の手はここにある。
 力を込めて握りしめ、引き寄せる。
 離してはいけない。離すわけにはいかない。もう少し、走りきれば。


 ――レオンハルト。


 俺たちは二人とも、お前を失った。何よりも守りたかった、お前を。
 俺たちは二人とも、置いていかれた。誰よりも傍にいてほしい、たったひとりの兄である、お前に。

 誰よりもお前に、無事でいてほしい。


 誰よりもお前を――恨んでいる。

(2007.4?)