別館「滄ノ蒼」

彼ト彼ノ背 vol.2

 

1.

 ダークナイトはいつものように皇帝の座所に入ったのだが、珍しいことに彼の主君は玉座にいなかった。
 一瞬、少しばかり面食らい、彼は思わずあたりを見回した。広間はいつもと同じくだだっぴろい印象であり、隅の方には魔物どもが何匹か、じっと体を蠢かせ ている。豪奢な壁飾り、毛足の長い絨毯、大きく切られた明かり取りの窓は古めかしい様式で、ときおり抜けていくかすかな風を含めて全く音がない。常と変わ らない、玉座の間の風景だった。
「陛下。お呼びと伺い、参上いたしました」
 甲、と踵を揃えて呼ばわる。よく通る彼の声は広間の反対側の壁までまっすぐに届いて、反射した。幾匹かの魔物どもがなにやらこちらに反応した様子だが、肝心の皇帝は相変わらず、気配すらない。
 視線を下げると、空っぽの玉座が妙に生々しく目についた。
 ……そう言えば――、とダークナイトはとりとめなく考える。
 主君の、「皇帝」という肩書に伴うであろう通常の業務をこなしている姿というものを、彼は見た覚えがない。
 一部の業務――世界各地に散らばっている兵たちや魔物どもをどう動かすかという、すなわち軍務については、ほとんどの指示がダークナイトを通じて下される。そして確かにその分野について、彼の主君は実に無駄なく矢継ぎ早であり、かつ冷徹で苛烈であった。
 だが、一国の君主というのは――普通の君主というものは、まず司法と行政の最高責任者としての業務をこなさねばならない、そのはずだ。まして戦をしてい る以上は税を徴収し、生産量に気を配り、人口と土地を管理し、より内政を安定させ、常以上に注意深く問題を裁決し――つまり平和な時節よりもずっと、皇帝 は忙しいのだ。普通ならば。
 だが、皇帝が道路整備だの出生率だのイモチ病だのイナゴ害だのと口に出す姿など、ダークナイトは見たこともない。そもそもあの皇帝はそんな言葉を知って いそうに思えない。それ以前に、このパラメキアの城では役人らしき者の姿も見たことがないように思う。誰か有能な者に国土の経営をほうり投げてあるのか、 それとも単に別の場所で仕事をしていて、それで留守なのか、
 ――ならば。
 この、空の玉座を埋めることくらい、自分でも務まるのではないのか。

 知らず湧きあがる考えに、ダークナイトはほんの少し身震いした。口に出せば僭越どころか不敬で、即刻首が飛ぶだろう。だが、どうしても振り払うことはで きそうになかった。おそらくそれは、あの主に仕えた時から頭のどこかにずっとひっかかっていたのだろう。いつか――いつか必ず、至高の座を占めて、成り代 わってやる――

「何をしておる」
 後ろから、涼やかな声がかかった。
「――陛下」
 瞬時に頭からも顔からも不穏なうごめきを消し、姿勢を正して振り返る。礼を取ろうとしてダークナイトの動きが止まった。そこにいるはずの、彼の主人の影も形もなかったのである。
 内心困惑したが、ダークナイトはそれを表面的にはおくびにも出さず、ゆっくり辺りに目を向けた。相変わらず広間に音はなく、豪奢に静まり返っている。再度、後ろから声がかかった。
「私はここにいるぞ、ダークナイト」
 その声はあくまで軽やかに。
 向き直ろうとしたダークナイトがその瞬間見たものは、鈍い琥珀色に放射する光の塊、そしてその向こうで冷然と笑みを浮かべ、こちらに掌を向けている皇帝の白い顔だった。
「――石化せよ(ブレイク)」
 眉ひとつ動かさないまま、皇帝の薄い唇は詠唱を紡いだ。
 光が、ぐんと音を立ててダークナイトに迫った。
「……!!」
 とっさに剣を抜き打ちに構え、体内の魔力をそこに流し込んだ。
 今ほどまで自分の内にあったエネルギーが媒介を得て実体化し、熱をもった赤い輝きがはじける。ダークナイトを飲み込もうとしていた琥珀色は赤光に大部分 溶け込み、残滓が彼を避けて後ろに流れていった。しかし一部が避けきれず、太腿から下はもろに琥珀色の魔法を浴びた。うっそりと、感覚が鈍麻する感じが足 先から膝にかけて這いのぼって、しばしの後に消えた。
「他愛のない奴だ」
 再度、詠唱が小さく響く。――石化せよ(ブレイク)。今度はごく小さな光が、ダークナイトの足先に向けて放たれた。黒鎧の騎士は、今度はそれを避けよう ともせず、構えていた剣もおろして顔を上げる。膝から下に鈍色の光がどろりとまとわりつき、それを最後に完全に脚の感覚がなくなった。
 続けざまに放たれた、今度は火炎(ファイア)の魔法を、ごくわずかに身を捌いてかわす。せいぜい松明程度の火球だった――皇帝は全く本気ではなく、退屈 しのぎか気紛れなのだろう。次々と火球を臣下に向けて投げつけてくるが、酷薄な唇はうっすら笑った形を品よく保ったまま、相変わらず眉ひとつ動かさない。
 ダークナイトは無駄のない上半身の動きだけで飛来する熱の塊を撥ねとばし、斬りはらい、まとわりつく小さな炎を避けながら、装備している金の小針を取りだすタイミングを冷静に計っていた。
「これで、終(しま)いだ」
 皇帝の片手が高く差し上げられ、新たな詠唱が始まる。
 詠唱が完成していくにつれ、掌の上で、ばぢ、と稲妻が音を立てて激しくはじけた。光球がぐんと膨れ上がり、皇帝の手がそれをこちらに向けて投げつけよう とした瞬間、ダークナイトは腰の物入れに手を突っ込み、金の小針を握りこんだ。ぷつりと皮膚が破れる感覚。癒しの淡い光が彼を包むより先に、横に跳躍す る。皇帝の魔法が灼いた場所にダークナイトの姿はなく、黒い騎士は完全な体勢を整え、背中の半月斧を抜いて皇帝の胸に投じた。主はすいと体を傾げるだけで それを避ける。武器は壁まで飛んで突き刺さり、ぱらぱらと壁の欠片を散らばせた。
 主従はしばしの間にらみあい――同時に殺気をおさめた。
 主は薄い笑みをうかべたまま眉ひとつ動かさず、臣は口元に淡く不敵な笑みを浮かべて膝を折った。
「申し訳ありません、陛下。――玉座の間の壁を傷つけてしまいました」
「ふん」
 皇帝は薄く唇の端を上げ、ぷいと臣下に背を向ける。
「愚直なる我が手駒め。武器と魔力だけで私に歯向かうか、律儀なことだ。――まあ良い」
 飼い犬には似合いだ。言いながら、皇帝は指示書を懐から取り出し、ダークナイトに放り出した。自分のもとににダークナイトを呼び出した、そもそもの目的を忘れていたわけではなかったらしい。
 黒鎧の臣下は粛々と書類をおしいただくと、主を見上げた。
 いつものことだが、皇帝はさりげなく彼から間合いを外している。空気が張り詰めた次の瞬間、武器に手が伸びた時にはもう遅いのだ。主は隙なくちらりとこ ちらを見やる、あるいは瞬時に魔力を表出させ、掌の上に稲妻をひらめかせながら冷たく笑う。この皇帝は戦士であるよりも魔道士であるはずだが、殺気や空気 の変化を察知する力は、どんな戦士よりも上回るようだった。
 ダークナイトは小さく、自分に向かってつぶやいた。
「……私は、陛下、いつか必ずあなたを討ち、この国の全てを手に入れて、支配してみせる――あなたに替わって」
「つまらぬ奴だ。貴様は私に捕らわれておるな」
 なぜ聞こえたのか、皇帝は振り返るとダークナイトの顔をのぞきこんで、阿呆め、と唇の端をゆがめた。
「その限り、私を討つなど――私になり替わるなど、世迷言にすぎぬ」
 そして杖を持ち上げるとダークナイトの肩につきつけ、軽蔑したように笑う。
「貴様の身も心も――すべては私のものだ」
 紫と黄金の衣を優雅にひるがえし、皇帝は踵を返した。
 後には、膝を折って礼をとる黒鎧の騎士と、涼やかな声の残響だけが残された。

「――壁を直しておけ、ダークナイト」





2.

「邪魔だてするか」
 魔物と化した皇帝の背後から、延髄めがけてレオンハルトは鉾槍を突き上げた、次の瞬間に返ってきたのは、あくまでも涼やかな声だった。
 ああ、これはやはりあの皇帝だ。あの冷酷な精神が、まちがいなくこの中にある。姿形は化物となっているが、奴は何も変わっていない。
「……邪魔だと?」
 レオンハルトは敵の急所に突き刺さった武器を、力をこめて深くえぐりこむ。化物の鎧がきしんだのか、あるいは骨が砕けたのか、耳障りな音が鳴った。
「そんなものはない」
 言いながら、黒鎧の戦士は口元に凄絶な笑みを浮かべた。
「いいか、俺にそんなものはないんだ、親愛なる皇帝陛下」
 さらに深く貫き通す。刃の、その先がふっと軽くなった。皇帝の躰を突き抜けたのだろう。
「俺はただあなたを、ずっと前から、最初から、あなたの下に連れていかれた時から――」
 ただ、殺してやろうと思っていた。
 それだけだ。
 そう言いながら、レオンハルトは鉾槍を握りしめたままもう片方の手で背中の半月斧を抜き、化物の背中に突き刺した。ちょうど心の臓の裏側にあたる場所だろう。鉾槍を勢いよく引くと、血飛沫とも体液とも毒とも判じがたい液体が噴き出した。
「どうだ、皇帝よ」
 まばたきもせず、主だったものを見上げる。
「俺はまだ……あなたの目には阿呆に映っているか」
 半瞬の後、皇帝の笑い声としか思えぬ音が響きわたる。
「貴様は――半端だな。未だに私に捕らわれておる」
「なんだと?」
「ここまで来て私に呼びかけるか。『パラメキア軍のダークナイト』は、貴様の中に何割生きている?」
 姿は魔物と化した仇敵の、声だけはどこまでも玲瓏と響かせながら、其奴はレオンハルトの頭を鷲づかみにした。
「貴様の身も心も――今もまだ、私のものだ」
 その声だけで。その声色だけで。その圧倒的な空気だけで、レオンハルトは膝を折りそうになった。力を込めて半月斧の柄を握り、斬り下げた。みしり、と手元から反動が伝わってきた。
「黙れ……黙れ、黙れ!」
 力任せに武器を突きこみ、その体をえぐる。なんの体液かわからない、どす黒い液体がレオンハルトに何度も降り注いだ。
 このパンデモニウムでそれだけが妙に生々しい、むっとした臭気が彼を包む。鼻の奥が、脳が、恍惚を感じる。帝国の将だった男は帝国の皇帝だった男を、無 我夢中で幾度も幾度も突き刺し、斬り刻み、握りつぶした。艶やかな鎧と肉体だったものは肉の塊と化してゆく。水っぽい、どす黒いものだけが目に映る。斬り つけるたびに弾力をなくしていくその手ごたえを、ひたすらにレオンハルトは味わっていた。
 だが、その視界はにわかに眩く輝いた。
 神々しく明るく、強い力を放つ魔法が飛来して、魔物の体に炸裂した。
 そして、光が――人の形をとり、レオンハルトに向かって飛び込んできた。

「――レオン! レオンハルト!」

 名を叫びながら。背中にまわりこんで組みついてくる。
 反射的にレオンハルトは、其奴に向けて腕を振り上げた。避けられ、さらに強く組みつかれる。抑え込まれて動けない腕が腰のナイフをさぐろうとしたところで、不意に体が浮くような感覚がした。
「血に酔ったか!?」
 耳元で叫んだ声は、フリオニールのものだった。
「俺がわからないか!? レオンハルト!」
 後ろに引き倒され、床に倒れこむ。義兄に組み付きつつ受け身をとろうとした無茶な態勢のフリオニールは下敷きになった。二人は床を転がり、勢いを逃がす。後ろからがっちり組みつかれて倒れたまま、レオンハルトははね起きようともがいた。
「よく、わかっている。だから――邪魔だてするな」
「そうじゃない! 邪魔してるんじゃないんだ、」
「だったら離せ! 今すぐに……!」
「離さない!」
「あれは俺の獲物だ!」
「俺の――いや、俺たちの仇でもある!」
 悲痛なほどの義弟の叫び声に、レオンハルトは背筋が冷えた。
 そうだ、奴は――父母を焼き、村を蹂躙し、祖国を滅ぼした、あれは仇敵――だった。
 戦っている間、そのことすら、意識にのぼりもしなかった。
「もういい、奴は倒れた! お前は、俺は、仇を倒したんだ! ……だからもういい、もういいんだ……」
 レオンハルトの体から力が抜けたのを感じ取り、フリオニールは義兄に背中から組みついたまま、半身を起こした。密着した鎧の胴越しに、互いのどくどく言う鼓動が伝わる。レオンハルトは義弟に抱きかかえられるような体勢で、ぼんやりと皇帝だった肉塊を眺めていた。
 はあ、と小さく息を吐いて、フリオニールは義兄の背中に顔を埋めた。
「レオンハルト、お前、……」
 とくり、とくり。だんだんと鼓動はゆっくりになっていく。義弟はまだ熱いレオンハルトの背中に、さらに強くしがみついた。
「お前……笑ってたぞ」



 ……レオンハルトを打ちのめすのに、その一言は十分すぎた。
 全身の筋肉から力を抜いて義弟に体を預ける。
 ――上向いて目を閉じると、目の覚めるような紫と黄金の色が、涼やかに通り過ぎたような気がした。

(2011.9)