別館「滄ノ蒼」

祭ノ宵

 日が傾いて、朱を帯びた黄金の光に、宵闇色の気配が混じり始めた。
 しかし祭りの喧騒はいまだ収まる時を知らず、行きかう雑踏が生み出す熱は、街全体を押しつつもうとする強い日差しを、まだ撥ねつけ続けている。
 風はない。露店のきわをのろのろと流れていく人波で、かろうじて空気が流れる。城壁沿いのそれは、からりと乾いているのが救いだ。いかにも華やかな都城の乾いた風というよりも、人々の息遣いや露店の食べ物の水分が肌にまとわって、汗の代わりに体温を揮発させていく。

「やはり、街中は風がない分、暑いな。――人に酔ってはいないか? はぐれた奴は?」
「平気だよ、レオン。お前こそ大丈夫か?」
「俺は平気だ。……おい、マリアはどこに行った」
「マリア、あそこ。ナイフの飾り、見てる」
「……全くあいつは……」
「俺たちがそんなに動かなけりゃ大丈夫だ、『見てくるから待ってて』とか言ってたから。……なあ、飲物でも買わないか? 少し喉が乾いたよ」
「ああ、いいな。あの屋台にするか……お前はここにいろ。マリアの奴はお前を目印にして行っちまったんだろうが、フリオ」
 フリオニールはそれを聞いて、ええ、という顔で唇をとがらせた。
「俺も行く。屋台が見たいんだ。それにレオン、飲物の器、一人でいくつも持てないだろ?」
「しかしだな……」
「オレ、このへんにいる。だから、二人、行ってくる、いい」
 ガイが代替案を出したので、二人は彼の方を見上げた。
 確かに、周囲の人波よりも頭一つ抜けた、大男と言っていい体格のガイが立っていれば、目印としては申し分ないだろう。
 けれど、喧騒をまきちらしながら遠慮なくぶつかってくる人波の中に彼をひとりで置いておくのは少しばかりかわいそうな気がして、フリオニールはレオンハルトの方を見た。ただでさえ人の多い場所が得意なほうではないガイだ。今だって、通りすがった老人が目を見開いて振り返っていくのを、困ったような顔で首をすくめ、見送っている。
 ガイの保護者役を自任するフリオニールとしては、放っておけないところだった。
「そこ、道の真ん中だからさ。もうちょっと脇の方に居たほうがいいぞ、ガイ」
「うん」
「飲物、なにが欲しい?」
「まかせる。すこし、腹減った」
「わかった」
「おい、行くぞフリオ」
「あ、待ってくれ」
 フリオニールはガイを露店わきまで引っぱっていき、ついでに日よけの麻布を被せなおしてやってから、レオンハルトのところまで人ごみをかき分けていった。
「おまたせ」
「フリオ。あのな、……お前はガイに対して、少しばかり過保護な気がするぞ。あいつはお前の二つくらい下だろう? だったらもう14だ。お前が見ていなくてもちゃんとやれるはずだぞ」
「そうかな……。あいつ、誰かに話しかけられると、いつも俺のこと探すんだ。聞かれたことには答えられるはずなのに。しゃべること自体が苦手なんじゃないかな」
「そういうことじゃない。お前が代わりに全部やってくれると思いこんじまうぞ」
「でもあいつ、未だに後ろから触られて唸らないのは俺だけじゃないか」
「それでもだ」
「そうかな」
 言い合いながら、兄弟は飲物の屋台に近づいた。
 日よけの天幕のために台の上は濃い影になっており、眩しさの落差にフリオニールは目を細める。
 レオンハルトと並んで、値段と品書と財布の中身の相談だ。
 雑ぜ物の錫の金椀(かなまり)に冷えた水を一杯、それに果汁や蜜をたらして、好みによっては食紅で少し色をつけた飲物だ。言うまでもなく、入れるものが増えるごとに、少しづつ値段が上がる。
 果汁はなんの果物のにするか、果物の切れ端は入れるか否か。悩みながらも、兄弟各々の器を確保したところで、隣の露店に目を向ける。ガイのために、何かつまめるものを買って戻りたい。視界の端でレオンハルトが釣銭を受け取っているのをたしかめながら、フリオニールは金椀を持ち上げ、外に出ようとした。
 金椀のふちはすこしゆがんでいて、あちこちぶつけたような安っぽい傷がある。
 桃色と金色を帯びた直射日光が目を射して、少し目を細めた時だった。
「あっ!」
 通りすがった通行人と肩がぶつかったらしい。片手が緩んで、器を取り落としてしまった。かしゃん、と軽い音がして金椀が地面に触れると同時に、おっと、と小さな声があがった。
 慌ててフリオニールが視線を向けると、その通行人は自分の足元に視線をあてている。
 白い裾の端が濡れていた。
 どうやら、落ちた飲物は彼の足先にひっかかったらしい。
「……す、すみません!」
「――いや、」
 彼は白魔道師のいでたちだった。褐色に近い肌色に、涼しい切れ長の眼。鼻から下が布で隠れているために表情が読み取りづらいが、もともと表情が変わらないほうなのかもしれない。
「――君こそ、飲物をだめにしてしまっただろう。すまないね」
「……いえっ!」
 彼はじっと立ったまま、フリオニールが頭を下げるのを見下ろしていた。
 なんで、足を拭こうともしないんだろう?
 不思議に思いながら、フリオニールはおそるおそる頭を上げて、気づいた。
 白魔道師は両手に、本やらなにやら荷物を抱えているのだ。おまけに背には、壁掛だか敷物だかまで背負っている。それでかがむことができないのだ。
 そう気づき、あわてて彼の足元にしゃがんで手早く水気をぬぐい、金椀を拾った。
「あの、……あの、良ければ俺、荷物持ちます! 俺が不注意だったせいで、あなたの足を濡らしてしまったんだし」
「いや、気にしなくていい。この時期だからね、この程度ならばすぐ乾くだろう。君こそ、その飲物は誰か連れのためのものじゃないかい? 早く持って行ってあげるといい」
「そんなわけには!」
「おいフリオ、何してるんだ」
「あ、……」
 両手に金椀をのせたレオンハルトが横にやって来た。
 義弟の表情と、手にしている空の椀で、状況を見て取ったようだった。相手に向き直り、すっぱりと頭を下げる。
「弟が失礼したように見受ける。ご不便はないだろうか」
「いや。こちらこそ不注意だった。頭をあげてくれ」
「ありがたい。――おいフリオ、荷物を持って差し上げろ」
「いや、……」
 白魔道師は固辞しようと口を開きかけたが、本を抱えた腕で脇に挟み込んでいた包みがずり落ちかけて、思い直したらしい。
「……では、頼もうか」
「はいっ」
「フリオ、買った?」
「なに、どうしたの? 何かあった?」
 ちょうど、ガイとマリアが人ごみをかき分けてくる。
 フリオニールは簡単に状況を説明し、ガイに金椀をおしつけた。彼は魁偉な肩をすくめながらそれを受け取り、ちらりと白魔道師のほうを見やる。
 マリアはレオンハルトから椀を受け取って口をつけたが、「フリオ、飲まないの?」と訊いた。
「俺はいいや。だめになっちまったから」
「ええ? じゃあ、これ。あげるわ、ほら」
「おっ、ありがとな」
 やはり喉が渇いていたらしい。フリオニールは一息に飲物を飲み干した。時節柄、水の温度はとっくにぬるんでいたし、都城の水道管のものだろう金気が少し鼻をかすめたけど、美味しかった。
「……あ、ひどい、フリオ! 全部飲んじゃうなんて!」
「えええ!? 全部くれたんじゃなかったのか?」
「ちがうわよ!」
「全く毎回お前らは……」
「マリア、これ、すこしあげる……」
 そして兄弟がわやわやと言い合うのを、白魔道師は眺めやり、目元をふっと細めていた。

 金椀を屋台に返しに行ったマリアが戻ってくるのを待って、一行は歩き出す。
 ずらりと連なった露店からは、あいかわらず威勢のいい呼び込みの声がとびかっていた。
 泡をたてる油の匂いや甘い粉の匂いがあちこちから流れ出し、混じり合って、鼻先をかすめて流れていく。
 飾り飴などが何十本も並んだ木台の隣には木箱が置かれ、つめこまれた鳥の雛がぴよぴよと、そのまた隣の古武器屋の、冷やかし客の気を引いていた。

「せっかくフィンの街まで来たんだ、もう少しあっちの方も見てみたいな」
「そうね、見てあの風船! きっと面白そうな小物を売ってるわ」
 フリオニールが絨毯を抱えなおしながら言うと、マリアは喜んで応じたが、義兄は軽く眉をひそめ、懸念をあらわす。
「白魔道師様までお付き合わせすることになるんだぞ」
「私は構わないよ。特に用があるわけでなし、お供しよう。荷物も持ってもらっていることだしね」
「すみません」
「そうだガイ、何か食い物を買うか? 揚げ物の屋台があるぞ」
「うん。レオン、なに食う?」
「少し考える。フリオ、どうする」
「そうだなあ、鳥の串がいいかな」
「フリオ、そういうのさっきも食べてなかった?」
「いいじゃないか」
「私もひとつ、同じものを頼もうかな。――これで」
「え、……いいですいいです! 俺、出しますから!」
「なに、大した金額じゃないしね。年長者が出すと言うなら、甘えておくものだ」
「そんな……。えっと、それじゃ、頂きます。ありがとうございます」
 ぴょんと頭を下げたレオンハルトとフリオニールを見て、白魔道師はふふっと笑うと、ガイに銅貨を渡した。大柄な身体が、はねるように屋台に駆け寄っていく。

 結局皆で同じ串をぱくついている。
 フリオニールはあいかわらず敷物を巻いたものを背負っているので、時々それが前にずり落ちて来るのを押さえていた。
「時間、ほんとに大丈夫ですか? お付き合わせしちゃってますけど」
「ああ、構わないよ。めぼしいものはもう買ったからね。これと、これと……うん、それで全部だ」
「それにしても、ずいぶん色んな物をお買いになったものですね」
「どうも祭りの雰囲気にあてられたようだね。君たちだってそうだろう?」
「そうですね。なぜだかやたらと美味しそうに見えるし」
「こいつはさっき、よくわからん金物屋に張りついて立ち上がろうとしなかった」
「お前だって……」
「白魔道師様は他になにか、要るものはないんですか?」
「そうだなあ、そこらで薬草学の稀覯本でも売っていたら、少し……いや、だいぶ……荷物が増えないこともないかも、知れないが……」
「本」
「……あそこに古書店らしき建物があるな」
「うっ」
 兄弟は串焼きの肉切れを同時にのみこみ、顔を見合わせた。
 「さすがに止めておこう。装飾品ならともかく、これ以上は重過ぎる」白魔道師は笑って言い、串の最後の一切れを齧った。口元を覆う布を外しているが、顔立ちが露わになっているところをよく見れば、思ったよりも若い。ターバンから黒髪の端がわずかにのぞき、短髪なのだろう地毛の長さを思わせる。
「君たちこそ、この後はどうするんだ」
「あ、俺たちは、あとは土産を買うくらいですね。帰る時間にはまだまだだけど」
「ちょうど、なんとかという演し物があるって聞いて……」
「あちこちで名を売ってる一座らしいんですよ。村じゃとても見られないから」
「演目は、ええと、何だっていったっけ……」
 マリアがそう言ったところでちょうど、口上が辺りに響いた。
「――さあさあ、ここでご覧になられるは、うたたねの一場の幻。他愛ない物語は、根も葉もないつかの間の夢」
 人ごみが一斉にそちらを見て、ざわりとする。
「あれだ!――お芝居だ!」
 通りの突き当りに仮設舞台が設置されている。そこでどうやら、例の芝居の演し物があるらしい。
 あたりを埋めていた雑踏のうち半分くらいの老若男女が、そちらのほうに動き始めた。かっと桃色に照りつける夕方の光線が、人の流れで揺らされて、雑踏から排出される体温と湿気をまとって舞い上がる。
「行くか?」
「もちろん!」
「よし、こっちだ」
「白魔道師様、こっちです!」
「ああ、行こう」
 大きく手を振るマリアの方に、白魔道師は裾をさばいた。すでにからからに乾いていたそこは、麻の衣擦れの音を立てたはずだが、喧騒と食物が焼ける音とにまぎれて、誰の耳にも届くことはない。

 石畳はひたすらに昼間の熱を放出して、人々の歩みにつれて、のたりとその上を流れている。
 道の脇にふと目をやれば、商家の板壁がゆらゆら揺れた。
 一行は、空気の流れよりもほんの少し速い程度の急ぎ足で周囲の人をさりげなく抜いていく。芝居の始まりを告げる口上は続き、人を呼び寄せる楽の音が遠くなったり近くなったりした。
 ふいに、賑やかしの笛の旋律が、止まる。
 仮設舞台の脇から役者がぽんぽんとかけ上がって来、次々にポーズをとる。頭にひときわ大きな飾りをつけた男が舞台の真ん中にすっと位置取ると、黒子が舞台際に灯火を並べていった。

「彼が主役かな?」
「きっとそうよ」

 ざわめきが引いていき、群衆の視線が舞台中央に集まる。乾いた色の空は端から藍色をおびて、ちょうど目の高さまでしみ込んできたところだった。
 役者が口を開く。朗々と台詞が紡がれはじめる。

『やあみなさん、こんばんは。僕は妖精、妖精王にお仕えする者。――なんと、僕をご存じかい?』

 兄弟たちはすでに、くいいるように舞台上を見つめていた。
 白魔道師がそっと周囲を見回せば、老いも若きもみな、同じように役者に注目している。近くの子供がひとり、手元の棒菓子がぐにゃりとなったのに気づいたらしく、あわててそれにかぶりついた。
 ふいに片袖が軽くひっぱられて、白魔道師は振り向いた。フリオニールが背中の敷物を押さえるのも忘れて、無意識に白い袖をつかんだらしい。
 夕日の色と闇の色が溶け合った陽光を受けて、まばたきも忘れたようなフリオニールの目は、飴色の光を宿して光っていた。
 白魔道師はそれを見てふふっと笑い、また舞台のほうに目を向ける。
 灯火に照らされた妖精たちが、舞台上で跳ね回りながら心地よい対句を掛け合い始めていた。



 舞台がしまわれたあと、兄弟たちは半分ぼうっとしながら白魔道師の後ろについて、荷物を運んで行った。土産だと言って小さな菓子包みなど持たされたときも、礼を言うのがやっとのありさまだった。
 そして兄弟たちは村に帰りついてから、彼の名前すら聞かなかったことに気づいて皆で頭を抱えることになったのだった。

 

(2016.2)