別館「滄ノ蒼」

時ノ名前

 

 魔方陣の中心に立つ。
 ここアルテアの地方領主に仕えていた魔道師のためのものであったそれは、宮廷の魔法陣よりは少々簡略化された様式で描かれていた。
 くだんの魔道師は、今はもうアルテアにはいない。帝国軍の様子を探るべくパルムあたりに敷かれた中隊に同行し、消息を絶ったのだという。ミンウは魔方陣の前の主である魔道師のために一度瞑目し、祈った。
 四方に向けて呪文を放ち、陣の力を強める。これから行使しようとする魔力にとっては、この「場」の理が寸分の乱れもなく整っていることが重要だった。こ の世界の理が完璧に整っている魔法陣内で、あえてそれを一瞬、乱す。それによって起こる反発力を使って、理からはずれた時間軸の幻影(イメージ)をおろす というものだからだ。
 精神を統一し、未来の幻象(ビジョン)を覗こうとつとめる。
 とくに、フリオニールの。
 新たな戦いにでていこうとしている彼の未来を、垣間見る。不吉な像があれば、有益と思われる対策を少しでもとっておくために。
 ぱし、ぱし、と小さく澄んだ音が立ち始めた。
 魔方陣が明るく輝きはじめたのだ。ふわりとあたりの空気が揺らめき、祝詞を紡ぎ続けているミンウの姿を包んでいく。彼は幻象が、それも未来の幻象が降り てくるよう、強く希った。運良く幻影が降りてきたとしても、「未来」が見えるか「過去」が流れ込んでくるかを取捨選択する自由など全くない。ミンウの魔力 をもってしても、確率は五分五分だった。
 魔方陣から放たれる光がひときわ大きく、ぱし、と音をたて、ミンウはがくりと膝をついた――



        *



 ミシディアの図書館だ、と思った。
 一般に開放されている閲覧室よりも奥、入ることは魔道師しか許されない区画だ。
 初めて招き入れられれば、たいていの者は目をみはるだろう。ゆるやかにのぼっていく、幅一丈あまりの螺旋階段を囲むようにして、外側が一面の本棚になっ ているのだから。定期的に、本を収める高さのとれない隙間が書棚の間に現れ、そこにはぼんやりとランプがともっている。明かりと呼べるものはそれと、天窓 からごく弱く降りそそぐ光だけであって、こもった空気はひやりと乾いて、古い羊皮紙のにおいがこごっている。
 本でできた、それは――塔だった。

 ときおり、本を抱えたフリオニールがミンウとすれ違っていく。
 彼は目を伏せていて、表情は読み取れない。ただ、いつもの軽鎧を身につけたまま、何か厚い本をかかえて、螺旋を降りていったり、あるいはミンウをおいぬいていったりする。
 思わず呼びとめようと手をのばしかけた。だがこれは幻影の中だ、ミンウは手を引いて首を振った。
 また、フリオニールが降りてきた。
 ゆっくりと、一歩ずつ。相変わらず厚くて重たげな本を胸に抱えている。題名が書かれているはずだが、薄暗いせいではっきりと読み取れない。螺旋階段の内側の、吹き抜け部分の天井が明かり取りの窓になっているのだが、それはあまりにも高いところにあった。
 仰ぎみると、大きな魚が滞空し、薄い尾鰭をゆらゆらひらめかせている。
 ぼんやり射しこんでくる光はそこを通り抜けて、螺旋を降りていくフリオニールの髪をうっすらと照らしていた。
 銀髪がふと立ち止まり、小脇に本を抱えなおす。
 見ていると、フリオニールの前にいつの間にか、黒っぽい短髪の、狩猟服の男が立っていて、二人は笑いながらなにか話し合っていた。
 おそらくあれが、ときどきフリオニールの話に出てくる義兄なのだろう。
 身長はフリオニールと同じくらいだろうか、肩ががっちりとしていて、目つきが切れている。邪気なく義兄と談笑し、じゃれあうフリオニールの後ろ姿を、ミンウは少しの驚きをもって見つめていた。

 ――これは「過去」なのか「未来」なのか。
 まだ、わからない。



――
「俺、あんまり難しい言葉は読めないんだ」
「そうなのか? ――ああフリオニール、その本はあちらの棚に納めてくれ」
「わかった、二番目だな。――ほら、俺の村って田舎だったしさ。村には小さな経堂があって、同じような年の子供が何人か集まって読み書きを習ったんだけど……って、これが普通なのかな?」
「そうだな、大概の村の子供はそうしたものだ」
「あ、ここの隙間だな……ん、で、その経堂の坊さんが読み方と書き方を教えてくれたんだけど、たぶんあんまり学のある僧侶でもなかったんだろうな。難しい 単語の意味や綴りなんか結構いい加減に教えられてたぞ、このアルテアに来てからちゃんとした意味や綴りを知った言葉がいくつかある」
「それで、難しい綴りは読めないということなのか。書く練習はしなかったのか? ――次はこの本だ、フリオニール」
「これも同じところだよな。――うん、書き取りの練習なんてあんまりした覚えがないなあ。レオン――兄や他の大きな子には、例文の暗唱ができればあの坊さんは丸をくれるから、手本の中身を覚えちまえって言われた。大声で暗唱して、できた者から外に飛び出していったもんだ」
「――そうか。まぁそんなものだろうな」
「それでもさ、兄はなんでもよくできる奴だったように思うよ。往来文の手本はあっと言う間に覚えていたし、書取もそつなくこなしてさっさと野原に飛び出していった。ちゃんばらでは俺、かなわなかった」
「フリオニール、今度は四番目の棚からさっきと同じ装丁の本を出してきてくれ――そうか。義兄どのは、強かったか?」
「うん、強かった。――でもそのぶん努力してたんだ、レオンは――夕食後は、毛皮の処理なんかしてる父の横に座って書き順の質問とかしていたし、水を汲み に行く時だって木刀を持っていた。父がそれなりに有名な狩人だったからかな、恥ずかしくない息子じゃなきゃいけないって、俺にもそう言って――」
――



 幻影は突然、幻影に割りこまれる。
 いつだったか、アルテアの図書室でフリオニールと交わした会話が迫って来て、ミンウはそれを振りはらった。
 過去の記憶が混ざりこんでくるのならば、もしかしたら今のぞき見ている幻象は「過去」なのかもしれない。そう思い、少し落胆するが、幻象は最後まで見てみないと「過去」のものか「未来」のものか結論付けることはできない。
 再度見れば、フリオニールは義兄と肩を並べて螺旋階段を上りはじめており、そのうちミンウとすれ違っていった。ゆっくりと、訥々と。彼の話し方と同じように、飾り気ない歩みで。
 ミンウも装束の裾をさばいて、螺旋を上りはじめた。ふと見上げれば、天窓から差し込む光はあいかわらずぼんやりとしていて、ひらひら薄い魚の尾鰭はゆっくりとゆらめき続けている。
 ひたり、しゃらり、ひたり。
 いつもどおり足首に鈴をつけたサンダル履きのミンウが階段を踏む足音が、やけに現実的に響いた。



――
「手本を読んだり書いたりしたのではなく、音で覚えてしまったわけか」
「そういうことだ。……だから、難しい単語は読むのに苦労するし、読むより書く方はもっと苦手なんだ。――ミンウ、俺まだあと二冊ぐらい持てるよ」
「そうか、ならもう一冊。――文章など読めれば十分だ。役人や商人や魔道師になるのでなければ、大して字を書く機会などないよ」
「――はは。どれも、俺には向いてなさそうだ」
「こら、そんなことを言って――私は、君は優秀な白魔道師になれると思うぞ」
「勘弁してくれよ、買いかぶりだって。回復ひとつ唱えるのだってそんなに上手くないのにさ……詠唱を終えるとくたくたになっちゃうんだよ、俺」
「魔法を使えば疲れるのは当たり前だよ。――回復(ケアル)と回避(ブリンク)と防壁(プロテス)を立て続けに唱え、一気に流れ込んでくるこの世の理(こ とわり)の力を受け止め、魔法として実体化させることができる、それでいながら常に冷静を保とうとする、そんな精神力を持っている人間は、そうはいない」
「そう……なのか?」
「ふつうの人間はたいてい、一度詠唱をしてみようという時点でうまくいかないものらしい。魔法の詠唱自体はだいたいの人間が覚えられるものだろう? 店な り師なりから本を手に入れれば良いのだからな。魔法に対する適性というのは、そうだな……この世の理の負荷を受け止められるかどうかと、その流れ込んでく る理に対する知識理論の本質を感覚的に理解できるかどうか、だな」
「本質の、理解」
「表層にはその者の素直さ、として現れることが多い。頭で理解するのと体全体で受け入れる違い、といおうか……、体全体でうけとめることができる者は希少だ。その上、それをくり返しても、この世の理につぶされないでいる精神を持っているということは、才能といっていい」
「……」
「どうした? 照れなくていい、事実を述べたまでだ」
「……ミンウ、この本も同じところにしまえばいいんだよな。……あなたこそ、どうなんだ? 出身はミシディアだったよな、魔法はいつから学んだんだ? どんな子だった? 俺、あんまり想像がつかないや」
「私か? 私は……」



 白い石壁に、くっきりと強い太陽の光が照り返す。
 子供らが教書を読む声が、窓硝子のない経堂から響いている。
 大気は熱く乾いていて、鮮やかな紫の花がときおり、風に揺れる。
 蜂の羽音はけだるげに低くうなり、子供らの眠気を誘う――
 あれは、いつだっただろう?
 石版に手習いの文字を書き重ねていると、不意にこの世界の地中深くからわきあがる条理の幻影を見て動けなくなった。それは、いつのことだっただろう?
 10歳のころか。否、その頃にはすでに魔道師の修行に入っていた。見習いの身分で、師匠について住み込みで、朝から晩まで白魔法の原理について学んでいた。
 7歳のころか。読み書きを習い始めたのは、数えの7歳になって初めての朔の日だ。それは常の子供と同じだ。
 同年代の子供と一緒くたにひと所に集められたのが珍しくて、前の子のフードをひっぱったり横の子の白墨にちょっかいを出したりした。座っていた机に、小さな刃物で彫ったような落書きがあったのを、妙にはっきりと覚えている。



「私は……、平凡な子供だったな」
「――ほんとかよ」
「信用ないな、そんなに笑われるとは」
「知ってるぞ、修行に入った頃から誰より優秀な白魔道師だったって。たいていの見習い道師は、この世の理の理論をつかむのも一苦労なんだけど、ミンウは最初っからそれを知っていて、息をするのと同じくらい自然に、『理』を受け入れることができたんだって」
「誰がそんなことを……?」
「ヒルダ様も仰っていたし、侍従の……ケインだっけ? あの人も言ってた」
「……私は、そんな大したものではないのに」
「なに言ってるんだ、あなたがいなかったら、フィンはもうどこにもなかっただろうし、俺は――」
――



 ――俺、は。
 フリオニールは立ち止まり、うつむいて、眼の奥におびえのような怒りのような色を宿す。
 ちょうどミンウのいる段の、螺旋の斜め上あたりで立ち止まったために、その表情はよく窺えた。……あのときと同じ表情だ、身体の大半の血を失い、紫色の 唇をして、悪い夢にうなされるように譫言を繰り返していた、あのときの。回復(ケアル)の術も大して効かず、フリオニール自身の体力に望みをかけるしかな かった。ようやく意識を取り戻したときには、まだまだ少年の顔をして、親や兄を奪い去った帝国への怒りを露わにしていた、あのころの。
 遠い天窓の薄ぼんやりとした光が、フリオニールの横顔を照らしていた。その頬にだんだん明らかになっていく、憤りの色。
 顔を上げる。
 その目つきは思った以上に鋭く、ミンウは内心、息をのんだ。思わず斬りつけるような視線の先をたどる。ひらり、上空でゆったりと動く尾鰭が光を透かした。

 フリオニールは義兄と、対峙していた。
 鋭い目をして、腰の柄に手をかけて。何段か先にいる、黒っぽい服装の男に、じっと視線をあてて。
 相手もまた、フリオニールを見下ろしている。
 わずかに目を細めて、頬の筋肉ひとつ動かさず、凍り付いたような切れた目つきで。
 男は小脇に抱えていた、厚い本を差し出すかのように腕を伸ばした。あれはフリオニールが抱えていた本だ、表紙に大きく書かれた飾り文字の、古典的な書体がはっきりわかる。題名は、なんといったか、ずいぶん重いだろうに男は眉ひとつ動かさず、腕をすいと横に動かして――
 その本を、手すりから差し出して、
 螺旋の内側の吹き抜けに、
 落とした。
 


――
「この世を支配できるものは何だ? それは力だ。力とは何だ? 強くあることだ。この世の理などに左右されないほど容赦なく、統一への意志を振るうことだ」
「……違う! 力というのは……そういうものじゃない!」
「お前は弱かったために、望んでもいない戦いを続けなければならなくなっただろう。……俺は弱かったために、すべてを失った。親も、弟妹も、友人も知人も、親から継ぐはずだったものもだ」
「お前はそれを取り戻そうというのか、レオン!?」
「取り戻すだと? もうどこにも無くなったものをか? そうじゃない、俺は別のものを得るのだ。もっと大きなものを」
――



 双方はにわかに剣を抜き、青眼に構えた。
 その眼に読み取れるのはただ、目の前の邪魔者を排除しようとする意志だけだ。兄弟だからという事実は、それをためらう理由にならない。
 張りつめた空気がふくれ上がり、脚に、腕に、緊張がこもる。
 次の瞬間、
 足を踏み出し剣を振り上げ殺気どうしが交錯し、
 剣戟の音が響く――

 目を見開いていたミンウは、振り払うように視線を落とした。
 幻象だとわかっているのに。一瞬、止めなければ、と思った。螺旋階段を駆け上がろうとした。何の意味もない。「覗き見て」いるだけだから。ギイン、と再度、刃のぶつかる音がした。
 
 あの本は、まだ落ち続けている。

 どこまで落ちても床はなく、本が床にぶつかる音がたつこともなければ本が傷むこともない。永遠に螺旋階段の内側を落ち続けていくのだと、ミンウは「知っていた」。
 はるか上に向けて、首をめぐらす。
 戦っている二人の人影はゆっくりと消えていった。さらに視線を上げていくと、ゆらゆら透けるような薄布のようなものが目に入る。
 大きな魚の尾鰭は、どす黒く紅い色に変わっていた。



――
「……ミンウ? 大丈夫か、ミンウ!?」
「おい! どうしたんだよ!?」
「大丈夫か!」
――



        *



 気が付くと、眼前にはフリオニールの顔があった。
 自分を魔方陣に寝かせて、襟元を緩めてくれていたらしい。心配そうに眉をひそめて、唇をかんでいる。
 ……ああ、まだ少年の面影がある。けれどもうじき、それはなくなる。
 ミンウはぼんやりとそう思った。
 フリオニールは強くなった。身体も厚くなり、背も少し伸びたようだ。顔つきはずっと大人びて、口元は厳しく引き締まり、燃えるようだったまっすぐな目は、強い光はそのままに、祈るようでもある冷静さをたたえるようになっていた。
 帝国との戦いがそうさせたのなら、皮肉なものだ。
「ああ、すまない、フリオニール……私は、気を失っていたのか」
「……そうだ。ちょっと見に来たら倒れてるから、俺、びっくりしたよ……」
「すまない。もう大丈夫だ」
「良かった。――術はうまくいったのか? あとで聞かせてくれ」
「……ああ、……そうだな」
 ミンウはこめかみを押さえて起き上がった。一瞬、くらりとする。先ほど見た幻影を思い返して、うっそりと背中が冷えた。
「……ようやく街に戻ってきたばかりだというのに、戦いの話ばかりになってしまうな……」
「――そうだな。けど、戦がなかったら俺はここに来ることもなかった。それに――俺はあなたに助けられたから、恨みだけでない何か大きなもののために戦えるようになった、そう思う」
 まだ18歳のフリオニールが、こんな顔をするのか。
 静謐とすらいえるような、揺らがない、まっすぐなくせに悲しみをたたえているような、危うい表情。
 ああ、彼はもう、立派な一人の戦士になりつつあるのだ。
「――行こう」
 フリオニールにうながされ、ミンウは立ち上がった。
 
 何と告げれば良いのだろう。
 何と読み解けば良いのだろう。
 不吉としか言いようのない予感に、ミンウはひそかに身震いした。

(2013.9)