別館「滄ノ蒼」

紫ガ告グ

 

 それなりに時が経っているのだ――と、言われた。

 最下層の魔物であるこの身が、何か大きな力によって魔界から呼び出され、おそれおおくも皇帝陛下の御座所に詰めるという光栄に浴するようになってから。 自分の体はやや成体に近づいた気がしていたが、皇帝陛下が、少し面白そうに――そうだ、陛下が「面白そうにしている」のが分かったと、自分は思ったのだ ――お前達もこちらの世界に来てからそれなりに経ったな、と仰ったので、そうなのだろう、と思ったものだ。

 人の身であらせられる陛下の持っている「時間」の感覚は、どうにも自分には理解しがたいままだ。
 この御座所を離れ、建物から出てみたならば、明るい空――「昼」――と暗い空――「夜」――が交互に土を照らし出す中で、大量の人間が剣など手に持って走り回っているのだそうだ。
 自分よりも生命力が強く、そのためにこちらの世界でも繁殖することのできる我が同類たちは、その人間たちを喰らいながら陛下の御為に活動しているのだそうだ。
 自分は、明るくも暗くもない、魔界と似た明るさのこの御座所で、ときどき粘液のあふれる音を醜悪に立てながら、もぞもぞと沢山ある突起をうごめかせ、少 し横にずれてみたりするしかない。しかし、もしも不敬にも、「あの方」以外の人間がこの御座所に入り込もうとしたなら、自分はそいつに襲いかかり、好きに 喰い散らかして良い。陛下も「あの方」もそう仰った。だから自分は、そうするのが良いのだ。それは、もちろんそう決まっていることだ。

 空気の粒子ひとつ動こうとしない静謐の中に、陛下は座して、目を閉じておられる。
 幾体かの同類たちが、自分と同じように、壁際でひっそりと触手を蠢かせたり、瞼のない目を動かしたりしている。
 そんなとき、陛下は突然、独り言のように我々にお言葉をくださるのだ。たとえば、
「お前たち魔物の気配を、余は何よりも好もしく思うぞ」
 であるとか、
「人間などつまらぬな、手足をもいでも目をくりぬいても魔物の造形には到底及ばん」
 であるとか。
 そのたびに自分は――我々はできる限り体中で喜びを表す。触手のある者は触手を振りあげ、体をゆすり、グジュルグジュルと音を天井に反響させる。すると陛下はうっすらと目を開け、ほんの少し冷たくお笑いになるのだ。そして、御座所全体が陛下の淡い瘴気に包まれる。
 我々はそれに、尚のこと歓喜する。

 再び陛下は目をお閉じになり、空気がまた冷えていく。
 我々――否、自分はまた、体の動作を緩慢に、おとなしくさせる。

 このところしばしば、そんな時には玉座の後ろから、やや埃っぽい外の風が吹きこんでくる。
 聞いた話によれば、玉座の後ろは、飾り布一枚を隔てて螺旋階段室になっており、恐れを知らぬことにただ一人、「あの方」が専用の通路に使っているのだそうだ。
 陛下について、僭越ながら納得のいかないことがあるとすれば、それである。
 自分――否、我々魔物は皆、「あの方」と呼ぶその人間の男を、別格に扱わねばならぬ。それは皇帝陛下直々にくだされたことであるので、そうなのだろう。 だろうが――ただの人間であり、いつも顔を隠した黒ずくめの甲冑姿の、大して美味くもなさそうな男に道を譲ることを、やや不満に思わないでもなかった。

――来る。

 体中の目をめぐらせ、「あの方」の気配を探った。空気が動き、妙な磁力が加わったような気がして、粘液の分泌がやや少なくなる。しゅう、と身が音をたて、すこし縮んだ。

「ただいま戻りました、陛下」
「ダークナイトか。遅かったな」
「八騎ほど、後から参ります」
 
 恐れ多くも陛下の後ろから現れ、歩きながら事務的に報告するダークナイトは、いつもの黒い鎧の上から、さらに黒のマントを被っている。

「申し訳ありません。――少々、手間取りました」
「お前にしては珍しいことを言う」

 自分――否、我々は、ひっそりと体を蠢かせて、人間の一歩分ほど壁側に下がる。隣とぶつかりながら身を縮めると、ぐじゅぐじゅと小さな音がした。「あの方」が陛下のもとに来たならそうするようにと、そう我々は命じられている。

「は…、私も腕には少しばかり自信を持っていますが、相手も強くなっていましたのでね」

 次の瞬間、自分――我々は、体中の目を剥き、悲鳴をあげられるならば上げるところだった。
 ダークナイトが、わずかに身動きしたかと思うと剣を鞘走らせ、陛下に斬りかかっていたのだ。

 

――パリン。
 次の瞬間、軽やかな音が鳴って陛下とダークナイトの間に淡い紫の壁が生まれ、刃を受け止めていた。

「遅い」
 陛下は肘掛にもたれたまま、すいと袖を払う。
「お前は本当に強いのか? ダークナイトよ。笑わせるわ」
 防御(プロテス)の薄紫がぐんと厚みを増し、剣がはじき返されようとする。ぎりぎりと音を立てて全身の力を込め続けているダークナイトの口元が――笑みを作った。
 魔法壁に、ぴしり、薄くひびが入った。それはすぐに消えるが、淡い裂け目はまた紫の壁に入り、緊張した音を立てる。
「命じたではないか。かの反乱軍の戦士を急襲し、可能であれば討ち取ってまいれと。余はお前を買いかぶっていたかな?」

 きりきりと。糸が張りつめられる。ぎりぎりと。薄紫にひびが入る。

「陛下。あの戦士は――奴は、魔法は大して遣えない。このような防壁(プロテス)も雷撃(サンダー)もほかの魔法も、あなたの足元にも及ばない。だが――どんどん強くなっている。一度立ち合っただけで、一合ごとに腕を上げるのがわかった。武器も魔法もです」

 不意に殺気が消え、すっと剣が引かれた。小さな金属音とともに、それは鞘に納められる。
 同時に薄紫の楯も消え去り、陛下のお姿が再びあらわになった。自分は――我々は安堵の動作を示すために、グジュルグジュルと音をたてて身を伸び縮みさせた。
 陛下は、髪一筋乱すことなく、優雅であらせられた。
「強いか、あれは。……もっと、強くなるか。――楽しみなことだ」
「御意。……軽く遊んでやるつもりで居たので、意外に手こずったのです」
 あでやかな眉を少しあげて、陛下はお言葉を続けられる。こちらにちらりと視線をお向けになり、それは我々を興奮させる。
「かの戦士を見たとき、余は一目で気に入ったのだ。あの銀の髪はなかなか風情があるではないか。あの髪の、そうだ――」
 
 陛下は不意に玉座から立ち上がり、つかつかとダークナイトに近づいた。
 その肩をつかむ。黒い騎士は思わず体を引こうとする。
 あっと目を瞬かせた次の瞬間、陛下は勢いよく黒いマントを引き剥がし、宙に投げ上げた。 
 頭上に魔界が口をあけたようだと、自分は思った。

「あの銀髪の生首を――せめて髪ひと房なりとも――早く余の前に持って来ぬか、ダークナイト」

 黒布が、ゆるりと舞いおちる。
 ダークナイトの口元はわずかにゆるみ、ゆっくりと吊りあがっていく。

「悪趣味ですね、あなたは――」

 再び、見えぬ糸が。きりきりと。引き攣る。空気が冷える。この身は縮む。グジュグジュと。

「あの戦士――奴が、私のよく知っている男だと、それをご存知で――そんなことを仰る」
 黒い、無骨な小手がやにわに動き、その顔から面を取り去った。現れたのは彫りの深い、厳しい、まだ若い顔と、短く揺れる髪。
 男は、恐れを知らぬことに正面から、立ったまま陛下を見る。
「だから私は、そんなあなたを――いつか」

 倒す。

――ガキン!
 仮面を投げ捨てたダークナイトは、また陛下に斬りかかる。
 丸腰であったはずの陛下は一瞬にして凝縮させた魔力で杖を形作り、刃を受け止めて冷たく笑っておられる。ダークナイトもまた薄く笑い、剣戟を繰り返す。空気が、激しく掻き回される。

「強くなるが良い、ダークナイト。余を討とうと思うならば、いつでもやってみるが良い。……そのために、余の後ろの通路をお前にやったのではないか」

 陛下は、わずかな動きで剣を受け流される。

「もっと強くなるが良い。余を楽しませるが良い。……そうだ、これではどうだ?」

 薄い唇から漏れ始めた呪文に、自分――我々はにわかに恐れ慄き、ざわめいた。
 高熱の火炎が放たれる、黒魔法の詠唱。
 まともに浴びれば溶け去ってしまうだろう。体中の目で身を隠せる場所を探す。突起を蠢かせる。粘液を床に残しながら後ずさる。翼のある者は不躾を承知でバサバサとはためかせて飛び立とうとし、足のある者は背を向けて走り出そうとしている。

 火焔が、広間中に奔った。
 黒い鎧が壁を蹴り、梁の上に飛び上ったように見えた。
 炎が踊る。続けざまに補助魔法が唱えられ、我々――自分の動きを奪っていく。
 熱と衝撃波が、正面側の目を十数個、焼き尽くす。身をかばおうにも自分に腕はなく、走り出そうにも自分に足はなく、悲鳴を上げようにも自分に喉はなかった。


 ……自分は溶け去る、消える、熱で、陛下の、強烈な、耐え切れず、この世界から、見ないまま、昼も夜も、この御座所の外も。
 意識を手放す瞬間、声が聞こえたように、自分は思った。


――この広間の守備兵であったのでしょうに、魔物どもは倒れてしまいましたよ、陛下。
――なんだ、全て死んだか。また魔界から召喚せねばならんとは難儀なことだな――

(2009.12)