別館「滄ノ蒼」

誓ノ名前

 

「つっ……!」
 ぱ、と鮮血が散る。
 魔物の尾先の鉤爪が、フリオニールの肩先を薙いだのだった。



 息づかい、武器の音、硬革と金属がぶつかる音。魔物の唸り、弓弦の震え、草を踏みしだき、身体をさばく音。小さくすばやく、魔法詠唱の声。淡い青色の魔光が身体を包む、音にならない音。
 風は、そよとも流れていない。野を照らす冷たく乾いた陽光は、あくまでも静かだ。
 フリオニールは剣を構えなおし、姿勢を低めた。膝元のナイフに手を伸ばす。また飛んできた鉤爪を、今度は弾き返す。地面に転がる。自分の体重で草がなぎ倒される音。はね起きつつ投げたナイフは、魔物の頭部をかすめて飛んでいった。
 毒の鉤爪が、今度は足元を狙ってくる。てらりとどす黒く光る、おぞましい色合い。その形。
「フリオニール!」
 体勢を立て直せないままかろうじて避けた青年の前に、白魔道師は割り込み、盾を構える。
 間一髪、ガツッ、と音を立てて鉤爪は革盾にぶつかった。だがそのまま勢いを殺された尾は上に流れ、褐色の頬をかすめた。反射的にミンウは身体を引く。はね上がった尾の先が重力に従ってまっすぐ下に振り下ろされ、毒の鉤爪は盾を支える左腕に食いついた。
「……!」
 言葉にならない叫び声をあげて、フリオニールは夢中で跳びこみ、剣をふりおろした。魔物の尻尾が切りとばされる。さらに一閃。今度は胴体を、真ん中まで斬り下げた。魔物がのけぞり、叫び声を上げる。
「「――火炎よ(ファイア)!」」
 人の手のひらほどの炎がふたつ横合いから飛んできて、魔物の頭部に弾けた。フリオニールは跳びさがると同時に、炎が飛んできた方向を見やる。ちょうど、マリアとガイがそれぞれ魔法をこちらに放ち、走ってくるところだった。
 魔物はすでに、砂塊が崩れおちるように形を失い始めている。
「フリオ、大丈夫!?」
「俺はいい! 来てくれ……ミンウが……!」
 フリオニールはミンウの横にしゃがみこんで毒消しを使おうとしたが、その腕を押さえて、ミンウは体を起こす。そしてそのまま、フリオニールの肩先に掌を向け、回復(ケアル)を詠唱し始めた。その眼は少しうつろになっている。魔物の毒がまわりはじめているのかもしれない。
 それでも白魔道師は、呪文を正確に紡ぎだす。
「……大地の力よ、萌えいづる力よ……」
「――ミンウ!」
 フリオニールは悲痛な声をあげて、ミンウの手をはねのけた。目を向けて合図するまでもなく、ガイが後ろから白い袖をはがいじめにする。それでもなお白魔道師は、「離せ」とつぶやいた。
「……離せ。血が、流れているぞ……フリオニール、見せるんだ」
「だめだって! あなたのほうがひどいじゃないか…!」
「みせ、るんだ……!」
「だめだ!」
 意を決して、フリオニールはミンウの正面に向き直った。
 こちらをゆるりと見上げた深い色の瞳は、焦点がずれ始めている。それに気づいたとき、決心は完全に固まった。
「――すまない!」
 短い言葉が発せられると同時に、白魔道師は崩れ落ちた。
 素早く固められたフリオニールの拳が、みぞおちに突きこまれたのだった。



          *



 目覚めると、白い袖はまくられて、左腕ががっちり固められていた。
 ――ああそうだ、魔物に刺されたのだ。それで気を失ったのだろう、……そして、どうなったのだったか?
 ゆっくりと感覚が戻ってくる。上半身の後ろに荷物だか詰め物の袋だかがあてがわれて、半身を起こして座ったような姿勢だ。体には掛布がわりのマントがかけられている。
 ミンウはぼんやりと左手を見やった。包帯代わりの細く裂いた布が巻き付けられ、肘の上あたりが縛られている。これは――誰の処置だろうか? 巻き方の癖を読み取りつつ、同行者であり弟子でもある者たちの顔を思い出していく。
(……おそらくフリオニールか)
 自分が教えた通りの巻き方、細布の裂き方。素直にそのままをなぞるが、まだ慣れていない様子がうかがえる。三人のうちで一番指先が器用なのは意外にもガ イで、巻き目がきっちり整ったやり方をすぐに身に着けていた。マリアは、薬草の見わけ方や煎じ方は実に手際良いのに、こういった包帯の処置だけはなぜだか やたらと不得手な様子だった。
 小さく、笑みがこぼれた。左手を持ち上げて動かしてみると、それに合わせて適度に締め付けられる感覚が波打つ。視覚も聴覚も戻ってきている。異常は感じられない。
 乾いた草がかきわけられて、ざ、と音を立てた。
「――ミンウ、」
「……フリオニールか」
「良かった、気がついたか」
「ああ。どうやらなんともないようだ、ありがとう」
 水を汲んで戻ってきたらしいフリオニールは、地面に膝をついて器をおろすと、少しぎこちなくミンウの額に指をふれた。
「うん、熱はないみたいだ。傷口も見るぞ」
 くるくると裂布がほどかれていくと、血と酒精の混ざった匂いがした。
 ミンウはふ、と目を細めた。
「当て布に酒を染み込ませるのをちゃんと覚えていたか。消毒の手順が教えたとおりで感心した」
「必死に、思いだしたよ」
 フリオニールは、軽く唇をかんだ。
「戦闘中の必要がない限り治療(エスナ)は使わない。傷口から毒を絞り出す。酒精か沃度で消毒する。患部を低くして安静を保つ」
「そのとおりだ。回復魔法を唱える順番は?」
「毒が体から抜けてから」
「よくできた」
 黙ったまま、フリオニールは布切れを交換していく。小さく回復(ケアル)を唱えると、患部にかざしていた手をミンウの腕に触れ、握りしめた。
「……だめだよ、ミンウ」
「なんだ?」
「だめだって。人のことばっかりかばって、癒して。痛いって感覚すら忘れたふりなんかして」
「そんなことはない」
「そうなんだよ。白魔道師は傷ついたものを癒やすのが役目だ、苦しんでいるものを救うのが仕事だ、それはそうだろう。けど、けどさ……あなた自身が傷ついたままでは本末転倒じゃないか」
 声を震わせて。鋭い目をして、フリオニールは言った。
「あなたは、自分の痛みにだけ、鈍すぎる」
「……」
「……俺たちはそんなに頼りないか?」
 あなたにかばわれてばかりで悔しいのだ、と。
 行動をともにするようになってからを思い返せば、意外に時がたっていないことに驚く。教えられることがあまりに多くて、学ぶべきことも山ほどあって、背 中を追いかけるだけで精いっぱいだ。……けれど、だけれども、あなたは師であると同時に、共に闘う仲間でもあるじゃないか。魔道師を盾にするなんて、戦士 のはしくれとしてこれほど情けないことなんてないじゃないか――と。
 そう言って、目を伏せた。
 そうすると、フリオニールの顔立ちはまだまだ少年に見える。
 ややきつく見えるまなじりのあたりの皮膚は薄く、繊細だ。長い睫毛が影を落とす頬の線は思ったよりも細い。戦いの最中は、数多くの戦士を見てきたミンウ ですら驚くほど、すっかり歴戦の勇士の目をして、血みどろの手で武器を握りしめているが、きっと相当に気を張っているのだろう。ミンウは改めてそう気づい た。

「――魔道師ミンウ殿、」

 フリオニールは姿勢を改めた。
 白い袖の左腕をつかんだまま、片膝を立ててひざまづく。腕をつかんでいること以外は、目上の戦士に対して礼を取るのと同じ体勢だった。
 ミンウが視線を向けると、フリオニールは小さく息を吸って、まっすぐに彼を見上げた。
「白魔道師ミンウ殿。俺は誓おう、あなたを盾にはしないと。あなたの弟子として、戦士として、常にあなたの前に立とう」
 ミンウは少し目をみはって、フリオニールを見た。睨みつけるような視線を向けてくるのは憤りや悲しみを抑えているせいだろう。素直に感情が表れるまっすぐな気性なのだ。それは彼の美点であり、欠点でもある。
「そうさせてくれ。……頼むから」
「……わかった」
 白魔道師は若い戦士に答礼するため、自分の武器である杖を引き寄せた。
 剣士同士であれば剣身を寝かせて合わせるところだが、今のフリオニールは剣を抜いておらず、右手はミンウの腕をつかんだままだ。ために、杖を寝かせたまま、フリオニールの肩に軽く触れる程度に持ち上げる。そしてそのまま、ひざまづいた弟子をじっと見た。
 深い色のその目は、どこまでも静謐だ。
「フリオニール、君の誓いを私は受け入れる。そのために私は君を援護しよう。守りの魔法と癒しの技を、斃れぬ限り使い続けよう」
 小さく息をついて、しかし魔道師は言葉をつづけた。
「――ただひとつ、頼みがある」
「なんだ?」
「戦闘の中で、もしも仲間の一人を助けられないときは。たとえば血路を三人分しか開けない時は――」
 深い色のその目は、やはりどこまでも静謐だった。 
「私を切り捨てて、君は生きろ」
「……っ!」
 だめだ、なんでそんなこと言うんだ、と叫ぼうとしたフリオニールを、ミンウは目線だけで押しとどめる。
「――君の方が若いからだ」
「そんな……」
「戦場離脱は、若いものからが原則だ。野の獣ですら、若い個体を先に逃がすものだ」
「……」
 フリオニールは唇をかんでうつむいてしまった。ミンウの左腕を握りしめる手に力がこもる。
 だがその肩に杖はつけられたまま、穏やかな声は重ねられた。
「そうしてくれ。――頼む」

 ……君は、君たちは、希望なのだ。
 進む先の対価が自分の命程度ならば安いものだと、そう思えるのだ。
 声に出さないまま、掴まれた腕をそのままに、ミンウは目を伏せた。そんな言葉を押しつけるのはただの自己満足だと、そう自分でわかっていたから。あくまでも、戦場での作法をひとつ教えるのと同じだ。死も喪失も犠牲ではない、否、贄と考えてはならないのだ。
 鳥が一羽、どこか遠くでのどかに鳴いた。
「君のために命をかけて留まる者があっても、自分を責めてはいけない。――それも同時に、誓ってくれないか」

 フリオニールはしばらくの間、じっと身体をこわばらせていたが、ふいに肩口から力をぬけさせた。
「……多いな」
 泣き笑いのような表情で、顔をあげる。
「あなたに誓わなければいけないことが、多すぎる」
 顔をくしゃくしゃにして、それでもフリオニールは居ずまいを正した。
 膝をつきなおし、真正面からミンウを見据える。こんどは大きく息をつくと、ゆっくり誓詞を紡ぎだした。いまだ掴んだままだった手に、もう一度、強く力がこもった。

「白魔道師ミンウ殿。俺は戦場に身を置く者として誓う。あなたの援護を受け入れ、あなたの盾として戦おう。――あなたを決して犠牲にはしないが、あなたの犠牲もまた、……受け入れよう」

 相手の肩先に杖を当てなおして、ミンウはふわりと目を細めた。

「君の誓いを受け入れよう。――戦士フリオニール殿」

 杖を下ろし、地面に置く。白い袖から、つと手が伸びて、それは相手の肩に置かれた。
 触れて、初めて分かった。かすかにそこは震えていて、そしてひどく熱かった。
「……二つ目の誓いは実現せずにすむよう、私も努力しよう」
「当たり前だっ……!」
 フリオニールは再度、じっとうつむいた。

 空の色は淡く、高く、風がかすかに小枝をざわめかせていく。
 木陰の土は冷たいが、互いの肩は日に照らされて、表面的な熱を帯びていた。
「……言葉には、力があるから。世界の理を動かす霊性を捕えようとするのが言辞だから。――だから口に出すのだよ」
 詠唱するたびごとに、一日の戦いを終えるごとに、心に刻め。
 「仲間」の顔から「師」の貌に戻ってそう言い置くと、ミンウはフリオニールの手をそっとほどいた。

(2012.11)