別館「滄ノ蒼」

陽光ノ祈リ

 

 白麻の衣装をまとった少年は、物慣れない様子でそっと城壁沿いの中庭に下り、木陰を探した。
 略装ではあるが、肩から背に流された飾り布とわずかな装飾品によって、その少年はこの宮廷に仕える白魔導師――それも、年齢に似合わずかなり高位の――であることがわかる。

 名を、ミンウと言った。

 出仕してまだ日は浅く、フィンの城にもまだ詳しくない。ミンウは道順を確かめるように、ゆっくりと庭園の木々の間を進んでいく。高い城壁の向こうから は、彼と同年代であろうと思われる騎士見習いの少年たちの、威勢のいい訓練の声が、ゆるやかな風に乗ってかすかに聞こえてくる。

 城壁近くの木に目をとめた。
 やや小ぶりながら力強く伸びた枝には明るい色の葉が繁り、空から射しこむまばゆい光を適度にさえぎっている。根元のやわらかな地面にはさりげなく野の草が配され、枝葉がつくる影を、ゆらり、うけとめていた。

 さわ、と葉ずれの音がした。
 ミンウは幹にもたれる形で座を占め、複雑な手印の結び方をちょっと確かめてから魔道書を開き、呪文の発音を練習しはじめた。
 先日彼が使えるようになったばかりの、高位の白魔法だった。
 使う気がなければ魔法が発動することはないが、まわりに人がいないにこしたことはない。呪を正確に唱えるには、それなりの集中力を要する。魔道書を目で 追いながら難しい部分を何度か繰り返し、ゆっくりと手の動きを確かめる。変声期を過ぎたばかりの少年の声の響きは、低く静かに、枝に止まった数羽の小鳥の もとにだけ届く。

 突然もたれていた木がざわりと揺れて、後ろからちいさな人影がぴょんと飛び込んできたのに驚いて、ミンウは手を止め、顔をあげた。
 気づくと、金糸のような巻き毛をした、少女ともまだ呼べぬような幼児が、しげしげと彼の手元をのぞきこんでいた。

「――ねえ、これはなんの御本なの?」
「…魔道書ですよ」

 なんとも間の抜けた答えだな、だとか、これはどこの貴族の子女だろうか、だとか、ぼんやりとミンウは思い、子供を眺めた。
 横に張りつくようにして、子供はいっしんに本を覗きこむ。身動きした時、しゅる、と衣擦れの音が立った。その音で、それが極上の布でつくられていることに、ミンウは気づいた。
 フィンでは珍しいミシディア風の染めの上から繊細な刺繍が施された衣装で、子供の身には少々きゅうくつそうな作りの襟元には、銀細工のちいさな野薔薇が飾られている。

――これはどこの貴族の子女だろう。この宮廷に出入りを許されているのは、確か。
 先日、侍従長から教わったばかりの宮廷の決まりごとを記憶からひっぱりだして、ようやくミンウは思考をめぐらせた。


――フィン宮廷にいる人間はそう多くないですよ。
 先を行く侍従長の背を追っていくと、静かな廊下にはかつかつと足音が響く。
――侍女や近衛兵を除けば、騎士たちや大臣、貴方のような宮廷魔道師、それに伺候を許された十五歳以上の貴族の子女たち、といったところですかな。外つ国の賓客だとか使者だとか献上品だとかもしばしばですがね。
――そうお気になさらずとも良い。そうそう王に出くわすことなどはないですから、まぁ気楽になさい。
――そうお気になさらずとも


 そこまでゆっくりと頭の中で反芻して、ミンウははじかれたように姿勢を正し、最敬礼の姿勢をとった。
 今目の前にいるような幼い子供は――宮廷の中にはただお一人しか居はしない。

「ヒルダ王女様ーぁ」

 口上を述べようとしたところで、中年の女の声が割って入った。振り返ると、丸々とした侍女が体を揺らして、こちらに走ってくるのが見える。
 小さな王女は目を見開き、くるりとミンウの後ろにまわりこむと小さく舌を出し、いたずらっぽく肩をすくめて、「見つかっちゃった」と言った。
「ヒルダ様、本を読めと、仰せになったのでは、ございません、か、いきなり鬼ごっこだなどと――ほんとうに逃げ足が速くていらっしゃる――本を持ってこられたと思ったら、突然走っていってしまわれるなんて、もう本当に、――あら」
 はあはあ、息の上がったまま、侍女は抗議の声をあげかけ、ミンウに気づいて口に手を当てた。
「そなたは、先日出仕された白魔導師どの…」
「ミンウと申します」
「ミンウ?」
 ちいさな王女の、夏の空の色の目が、まっすぐに少年を見上げた。
「ねえミンウ、あなたは白魔導師なの?この御本は魔法の本なのね?」
「…左様にございます」
「ヒルダ様、ミンウ殿は読書中でいらしたご様子、お邪魔ですよ、参りましょう」
 子供はミンウを見つめたまま、むう、と腕を組んでみせ、まじめに考え込む顔をする。
「…じゃあプターナ、お前だけ戻って。私、御本はミンウに読んでもらうわ」
「…はい?」
 再び間の抜けた返事をしてしまった白魔導師を尻目に、侍女はあきらめたように、はいはい、と言ってスカートをちょっと持ち上げ、お辞儀の動作をした。
「そういうことでミンウ殿、申し訳ありませんがよろしくお願いしますわね。何かありましたら私…わたくしは王女付きのプターナと申します、」
 ヒルダ様は言い出したらお聞きになりませんの、などといいながら、侍女は持っていた本をミンウに押し付け、にっこり笑って「では」と言うと、さっさと行ってしまった。
「プターナのお許しが出たわ。ねえミンウ、ここに座って、御本を読んでちょうだい」
 内心困り果てているミンウにはかまわず、ヒルダは小さな花のように笑いながら白い長衣の裾をつかんで座らせた。自分もそのまま、すとんとそのひざの中に座りこみ、本を広げる。

(…物怖じしない、方だ。)

 ミンウは、ふ、と切れ長の目元をゆるませると、ここからよ、とせがむ幼い声に従い、重たげな革の装丁の厚いページを繰った。

 頭上の枝が、さわ、と揺れた。

「――むかし、あるところに、こなやがありました。水車小屋でこなをひくのを商売にして、まずしくくらしてはいましたが、ひとり、きれいなむすめをもっていました。
 ところで、ひょんなことから、このこなやが、王さまとむかいあって、お話することになりました。そこで、すこしばかり、ていさいをつくろうため、粉屋はこんなことをいいました――」
 その話はヒルダの気に入りらしく、楽しそうにミンウの顔を見上げて、物語をそらんじてみせる。
「『わたくしに、むすめがひとりございますが、わらをつむいで、金にいたします』」
 二人は目を見合わせて笑いあい、声色を変えて物語のつづきを読み進める。
「『さあ、すぐと、しごとにかかるがよい。今夜からあしたの朝はやくまでかかって、このわらが金につむげなければ、そちのいのちはないものとおもうがよいぞ』――」



 幾度も、幾日たっても。
 飽きることなく、くり返し語られる物語。
 石造りの東屋で、長い廊下の途中で、いつも王女は白魔導師の裾をひく。
「ねえミンウ、御本を読んでほしいの」
 重厚な革の表紙の、子供の手には大きすぎる昔語りの本は、幾度も少年を陽だまりの庭へと誘う。
 ちいさな手に抱えられた本が時として、おとぎ話などではなく驚くほど難しい内容だったとしても、一生懸命さし出される、古びた厚い革の表紙を、いつもミンウは受け取るばかり。

「これは、兵法書…ですか」
 いつものように差し出された本を見て、なぜこのような、と驚くと、ヒルダは少し頬を膨らませて、「だって昨日、ミンウが図書室でよんでいたでしょ」などと言う。
「どんな御本か、知りたいのだもの」
 だから読んでちょうだい、と、ちいさな王女はやはり、重そうに古い本を差しだし、ミンウの裾を引っぱる。

――ねえ、ミンウ。御本を読んで。
――承知いたしました。


 喜んでくださるなら。
 笑ってくださるなら、良い。
「――善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも、戦うに非ざるなり。人の城を抜くも、攻むるに非ざるなり」
 幾度でもこの声で、繰り返すことのできる限り。このひざの上の、ちいさな重みのために。
「人の国を破るも、久しきに非ざるなり。必ず全を以て天下に争う。故に兵破れずして、利全かるべし――」
「…むずかしいわね」
「自軍を傷つけず、計略(はかりごと)によって短時間で勝負をつけるのが戦の肝心な点だ、ということです」
「…よく、わからないわ」

 陽だまりの中。木陰の下の、やわらかな草。しずかな中庭には、少年の声が流れる。

(――しかし今は、このような本は必要のない世)
 庭一面にばらがさきみだれる城、鳥のさえずりが聞こえる庭。城下は、人々が威勢良く商売する呼び声で活気あふれているだろう。
「…危に非ざれば戦わず、主は怒りをもって師を興すべからず――」

(――だから)
 ひざの上のちいさな王女は、うつらうつらと眠そうに目をこすりはじめている。
(――だから、私は。)
 ささやかながら、この身の力を尽くしましょう。
 このひざの上の姫君が統べることになるであろうこの世が、永久(とこしえ)に今のまま、ばらの咲きみだれる美しい野であるように。
 眠り込んでしまわれたこの王女を、何十年後かに国母として慕うようになるであろうこの国が、業火に焼かれることなど決してないように。
 間諜に褒美を与える必要も、軍の配置に心を痛める必要もなく、この方が幸せであるように。
 そのために。このひざの上の、ちいさな暖かい重みのために。

――私は、この手にはあまりにも大きな護りの力を、人を癒す力を、もっともっと強く身につけましょう。

 あたたかな風が、頭上の枝をそっと揺らしていった。
 ちいさな王女はすっかり白魔導師の胸にもたれこみ、すうすうと寝息をたてている。
 ミンウは本を草の上に伏せ、やわらかに照り輝く太陽を見上げて、まぶしげに目を閉じた。

(2008.12)

 

☆引用「ルンペルシュチルツヒェン」(http://www.aozora.gr.jp/),「孫子・呉子」(明治書院)