別館「滄ノ蒼」

1月3日

 時雨が静かに、そしてつめたく絶え間なく、天から落ちてくる。
 侍の生まれ育ったこの国の雨は、冬のさなかだろうと夏の雷の頃だろうと、霧雨といっていいやわらかさで、体を押しつつむように降る。
 いくつになっても、季節を告げてくるのは見上げた時に頬に感じる温度だ。
 今は冬の時節にふさわしく、水分に触れ続ける膚の部分が、鋭く冷えていくのを感じる。まるで、無数の細い針が降りそそいでくるかのようだ。

 侍は刀の柄に手をかけたまま、精神を統一するために目を閉じた。
(妻も子も、拙者が心のままに行くよう言ってくれた。ならば進むのみ。進むのみでござる)
 つい先だって心に決めた意志を繰り返す。息をひとつ吐き、刀を抜き打ちに鞘ばしらせる。弧を描いたその軌跡は鮮やかに反転し、また違う弧を描いて雨粒を断ち割り、次の瞬間には鞘の中に戻っていった。
 刀の鍔が、がちん、と重い金属音をたてる。
「カイエン! いまの、もういちど見せろ!」
 ふいに声をかけられ、侍は驚いて振り返る。雨の中でも鮮やかな若草色の髪の少年が、跳ねながら近づいてきた。
「すごいぞ! おれも、カタナ振れるようになるか? 練習したらできるか?」
「……ガウ殿には少々重いかもしれぬな。持ってみるでござるか」
 侍は目を細めて少年の頭をなで、まだ細い手に柄を握らせると、後ろから少年の両手を支えてやる。
 力任せに刀を振ろうとしたガウの手を押しとどめながら、構えの姿勢を直した。
「腰を少し落として、地面を這うような心持ちのほうが良いでござるよ」
「うう……むずかしいぞ」
 刀など持つのは初めての少年の危なげな姿勢に、侍はもういちど目を細めた。
 かつては息子に、同じように教えたものだ。背後の城壁の中で。息子がドマの重臣の末席に加わる未来を夢見て、何度も同じ構えを繰り返させたこともあった。

(パパ、痛いよ、重いよ…)

 あの大きな目と、細い声が目に浮かんだ。侍は思わず体を堅くして、視線を伏せる。不意に蘇る幼い少年の姿はあまりにも生々しい。
 なきべそをかいていた息子はもういない。妻とともに、あたたかな記憶として心の底に沈んでいくものになった。そしてこの少年は、息子のかわりではない。
 かわりにしては、ならない。
 そうよぎって、手の力がゆるんだ。ガウはするりとその中から抜け出し、刀ごと草原に四つ足で跳んで、カイエンを見上げた。
「これすごくつかれるぞ!カイエン、刀のわざってすごいんだな、おまえやっぱりものすごく強い、それに今日、また強くなった」
「であれば、よいのだが」
 小さく笑って、目を伏せる。年齢的な限界はとうにすぎている。反射能力の上達や持久力の向上などは望むべくもないだろう。技の精度が研ぎすまされる目があるのならば、喜ばしいことではあるが。
「また強くなったぞ!カイエンがさっき起きてきた時、おれ、わかった」
「……さようか」
「前とぜんぜん、顔がちがうぞ」
 侍はようやく、淡い笑みをガウに向けた。

 迷いは無用、かの瓦礫の主を討つのみ、と思い定めた。
 ……そのはずだが、意志の向く先と蘇る記憶とは別のもののようだ。先ほどのように、ふとした瞬間にひやりとしたものがよぎる。暖かく切ない記憶の海からたちのぼるものであっても、おそらくその感覚は、ずっと消えることがないのだろう。
 きっと、一生。

 視線をあげると、ガウの細っこい後ろ姿が映る。
 彼はしばらく、やまない雨が足下のわずかな草を打つのを見ているのだろうか、しゃがみこんでいたが、ふいに犬のように体をぶるるっとふるわせて、伸びをした。その拍子に、再度浮かびかけていた息子の目の色が、思考からふるい落とされる。
 気づけば時雨は霙になっていた。細い針の先のようだった水分の粒は、ざらりとした感覚を頬に残して冷たい水の筋を垂らしていく。カイエンはマントを引き上げて頭からかぶり、懐に手拭を探した。さすがに冷える。
 首筋を拭っていると、マントの陰にガウももぐりこんできた。入りきれずに頭だけ突っ込んできている状態ではあったが。手拭を折り返し、その短い髪や頬に布を当ててやる。
 ガウは、まだ抱え込んでいた刀ごと飛空艇を指さし、カイエンを見上げた。
「カイエン! みんな、まってるんだぞ。中に入れ」
「ガウ殿……。かたじけない、だが、拙者はもう、誕生祝いなどするような年でもないのでござるよ」
「誕生祝いはしなきゃいけないものだって、ティナが言ってたぞ!」
 言いつのる少年に、侍は小さく苦笑して首を振った。まだ細い肩に手を置こうとしたところで、まっすぐな目がのぞきこんでくる。
「カイエン、おれの誕生日、おしえてくれた。だからおれ、おかえしにカイエンの誕生日、いわいたい」
 あなたがいてくれてうれしいのだと、そう堂々と伝えるための手段なのだ、と。
 先だってだれかの誕生日に、またほかの仲間が言っていたな、と何となく思い出す。

 ――自分がこの少年に誕生祝いをされるなど。

 そう思ったのは、もしかしたら、幼い子が親の誕生祝いを開こうとするような違和感を感じていたからかもしれない。自分は彼に命こそ与えていないが、親代 わりのような気分がしていたのは間違いない。シュンとガウは年ごろも違うし、外見も似てはいない、本を読むのが好きだったシュンと目の前のガウはむしろ正 反対に近い。――けど。
 重ねていた。
 人と交わるのが初めてだというガウに懐かれたことは単純に嬉しく、行儀や言葉の世話を焼いた。だが、もしかしたらこの少年に「オヤジ」と呼ばれることもあるかもしれないと、ちらりとでも思わなかったことがあるか――
 目の前を、霙の粒がひとつ、ぱたりと落ちていった。
「カイエンはおれのオヤジじゃない。だからおれ、カイエンにイノチをもらったわけじゃない。けどカイエン、おれに誕生日や、いろんなものをくれた。ナカマとかトモダチとか、くれた。だから、ナカマといっしょに、いわいたい」
「さようか……」
「だから、いくぞ」
 なお固辞の言葉を重ねようとしたが、断わりの理由はすでに弱まっていたことに、侍は気づいた。
 ひそかに息子と重ねていた自分のこころを否定され、改めて自分の存在を肯定されたように思った。
 互いに背を預けあえる「仲間」として、同志として。ただの一人の男と、一人の少年として。保護と被保護ではなく、打算もなく、ただ共に同じ方向を見て戦える存在として。
 この年になってそのような仲間ができるなど、得がたいことだ。……

 空を見上げる。
 霙は止みそうにない。だがそれが降りくる空の色は明るく、ちぎれた雲の細かいかけらは花びらのように落ちてくる。やわらかく、果てなく。
 頬を濡らす粒は軽くひそやかで、尖った感触を感じないのは初めてだ、と思った。

「まっすぐ戻ることに致そう」
 言って、カイエンはガウの手をとった。

 

 

 

「雲の彼方は春にやあるらむ」