別館「滄ノ蒼」

11月24日

 
 ふと、目が覚めた。
 反射的に、傍らの短刀を手で探る。今までうとうとと浅い眠りに揺蕩っていたのだと気づいたのは、前髪をくしゃりとかき分けながらのことだ。あたりに視線を走らせ、何も潜んでいないかを感じ取る。獣や魔物の息遣いが、こちらを窺ってはいないかどうか。小屋の窓からさしこんでくる日の光に、頭が覚醒していく。
 そうしておいて、となりにそのひとの気配がないことに気づいた。
 あわてて跳ね起きた。必死に小屋じゅうを見回し、彼女の姿を探す。みつける。
 「……」
 その名を呼んだつもりだが、喉がひきつって、声が出ていないようだ。
 小屋の奥側に、彼女はいた。ずるずるといざって近づいてみる、手を伸ばせば彼女の後ろ姿は窓の外を眺めたまま、すうと遠くなり、届かずに宙をかいた。もう一度。後ろ姿のスカートのすそに触れたように思ったゆびさきは、わずかに暖かかった。本当に暖かかったのかもしれないが、指が冷え切っていたせいでそう感じたのかもしれなかった。本当はどちらだったのだろうか。
 自分の手を見れば、傷も皺も全くない、つるりとした肌をしている。しかも、やや小さくて関節が目立たない。少年のようだ。
 もう一度顔をあげると、彼女の姿はもう、そこにはなかった。小屋を出ていったのだ、と自然にわかって、不思議に思う。窓から眺めていた景色を、外で直接見るために出ていったのだと。
 ――そうか、これは夢の中だからか、と、ぼんやりと思うと同時に立ち上がった。
 「……」
 彼女の名を呼びながら小屋を飛び出した。ひどく息が苦しい。上がっていく呼吸を抑えながら、大して深くもない森を駆ける。木々の間から差し込む陽光はずいぶん眩くて、さくさくと枯れ葉を踏んでいく軽い足音を聴覚は探していて、それでも、探しびとはここでは見つからないという考えが、頭の片隅では鳴り響いていた。
 眠りに落ちる前、彼女はこちらを振り返りながら窓の外を指し、明るい声をあげていたのだ。
 
「紅に、黄、朽葉色。きらきら光って、宝石箱をひっくり返したみたいね! ……奇麗!」
 
 ほそい手が、こちらの頬に伸びて、ふわりと撫でていった。彼女の背はずいぶん高かった――否、自分が子供の背丈になっているからだ、影になってよくわからない彼女の表情を見上げながら、ああ窓の外は色づいた山々が確かに奇麗だと、そう思っていた。
 彼女はずっといたのに、なぜいなくなったのだろうか。もしかしたら彼女の手を離して眠ってしまったせいかもしれないし、自分が必死で守ろうとしたものは彼女のいる所ではなかったのだったかもしれなかった。 
 ……本当はどちらだったのだろうか。どちらでも、なかったのだろうか。
 
 
 
 ふっと意識が浮き上がった。
 誰かが下の地面に立って見上げている。ロックは木の上でまどろんでいたのだが、その気配だけで、瞬時に覚醒してジャックナイフの柄を握り直す。冒険者として長く過ごし、身体がそうなっている。
 見下ろせば、黒髪に藍色の鎧。侍がこちらに、呼びかけるところだったようだ。
 
「ロック殿」
「……ああ、カイエン、悪い。……もう戻るから、」
「お気に召さるな」
 
 視線をめぐらせば、遠くの山の斜面が一面に見える。そこは赤や黄に色づいていたはずだ――世界が崩壊する前だったら。
 あたりには、枯木立ばかりだ。視界に、赤も黄色も緑色も、映りはしない。葉緑素を含むものはことごとく、乾いた土と濁った色の空に追い立てられ、残った生き物たちに蚕食されているのだ。
 
「ロック殿、」
「え、あ?」
「相すまぬ。起こしてしまったでござるか」
 
 いや、と応えながらロックは身体を起こした。ナイフにかかっていた手を離す。ナイフは最近手に入れたもので、完全に馴染むにはもう少しかかりそうだ。やや癖がある、すこし曲がった形の。侍を見やれば、彼もまた、帯刀しているのは最近手に入れた得物だ。おおらかな造りの、打太刀、といったか。ちょっと所在なげな風情で、あたりを見ている。
 
「カイエン」
「む?」
「すまない、探させてしまったか?」
「否。セリス殿が言っていたのでござる。ロック殿は、この景色ならばこのあたりの木の上であろう、と」
「あー、そうか。さすがだ。来てくれてありがとうな、カイエン」
 
 ロックはかりかりとこめかみを掻いて、木から降りる体勢を取った。枝に手をかけてひょいっとぶら下がり、よっ、と言って地面に着地する。
 手をはたいていると、カイエンが、「雨でござるよ」と言った。
 
「ひと雨来そうでござる。ちょうど艇内の準備もできた故、呼びに参っただけのこと」
「本当だな。ちょっと水の匂いがしてる」
 
 ロックは鼻を、すん、と鳴らした。相変わらず空はのっぺりとした赤灰色だ。のしかかってくるその色は、軽く質問する言葉すら押しつぶしてしまう。――俺は、魘されてなかったか?
 きっとこの空のせいだ、あたたかな思い出になったはずのことが、鬱々とした夢として現れたのは。見上げれば、うすよごれた色の雲が、水のけはいを撒き散らしながら、ぐいぐい右から左に動いている。けれどこの季節、空は高く青く、山の斜面は赤や黄に色づいていたのだ、世界が崩壊する前だったら――
 
(紅に、黄色、オレンジ。宝石箱をひっくり返したみたい、綺麗ね! ねぇ、トレジャーハンターさん)
 
 そう言って色づいた山並みを指差し笑った、黒髪の少女の姿も表情も、はっきりと思い出せる。しあわせだった、幸せで純粋で幼くて、一生懸命に恋をしていた。それを今でも、ふとした瞬間に思い起こして、温く、どこかむずがゆい心持ちがよみがえる。なのに同じくらい、彼女は二度と戻ってこないひとでもあるのだと、腹の底がひやりとするのだ。
 その気持ちは、侍がきっと一番よくわかってくれるだろう。
 ロックはカイエンをそっと窺った。――聞いても、いいだろうか? 彼にとって、家族を失った記憶はまだ、生生しいはずだ。
 あたりの山並みを穏やかな目で眺めている侍は、何を見ているのだろう。
 
「なあカイエン。聞いていいか?」
「何でござろう」
「奥さんのこと、なんだけど」
「何故?」
「どんな人だったのかなって。……カイエンが良ければ、だけど」
「ふむ、……」
 
 侍はもう一度、山並みを見やった。今は赤茶色に塗りつぶされて平坦な色合いだが、かつてはそこも、鮮やかな黄色や紅に染まっていたはずだ。目尻がふっと細められ、やわらかく皺が寄る。
 
「ミナに、晴れ着用の錦を贈ったことがあった」
「錦って、ドマの布とかか?」
「左様。季節に合わせた柄行きの織物でござる」
 
 山並みを優しく眺めながら、侍は続ける。
 
「奇麗だと喜んでくれた。山の紅葉の、赤や黄や朽葉を写し取ったようだと。ちょうど今ごろの季節でござった」
 
 そのようなことを近頃よく思い出すようになったのでござる、と侍は言った。
 天真爛漫に笑う女子であった。笑うと目尻がくっと下がって、白い前歯がすこし覗いた。こちらを見上げる顔も、明るい声も、しあわせを伝えてきてくれた。
 春は満開の花の下で。夏は滴るような緑を指さして、秋に似つかわしい柄行きを楽しみ、冬は凍りつくような空気のつめたさに笑いあった。それがあったから、温かな記憶を重ねることができたから、今はこんな空の下にいても、希望や光明を思い描くことができている。
 
(紅に、黄色、オレンジ。宝石箱をひっくり返したみたい、綺麗ね! ねぇ、トレジャーハンターさん)
 
 レイチェルもそうだ。天真爛漫に、きゅっと目尻を下げて笑う少女だった。歯並びが綺麗に揃っていて、明るい表情と声をしていた。
 彼女は二度と戻ってはこない。そう思うたびに腹の底はひやりとする。けれど、このこころのなかに生きているから。記憶から二度といなくなることはないから、その限り、希望を失うことはないのだ。
 
「さて、そろそろ戻るでござるよ。皆、待ちくたびれておろう」
「はは、そうだな。料理が冷めないうちに、着かないと」
 
 先月のティナのように、髪を結って、着替えて現れるわけでもない。祝いの席だけど、ロックの格好はといえば、いつものジャケットにすりきれかけた巻布のまま。せめてもと、きゅっとバンダナを結び直した。セリスにはきっと、もう、という目をされるだろう。
 時の止まったレイチェルとの年齢差は、またひとつ広がった。
 ロックは彼女を置いていくばかりだ。
 けど絶対に、今のような壊れた色合いの世界には、置いていきたくない。
 あのころの景色を取り戻して、その中にある彼女の姿を思い起こせるようにする。紅と黄とオレンジ色の、彼女が愛した彩りの景色を。
 今のロックには、ともにそれを目指してくれる仲間がいる。理解して、ともに歩いてくれるひとがいる。
 そう思いながら、ロックは飛空艇に足を向けた。
 
 
「錦たちきる心地こそすれ」