別館「滄ノ蒼」

不凍液

 

 男は暗殺者だった。
 すでに何人屠ったかなど、とっくに――最初の数人で数えるのを止めていた。
 自分の腕を金で購うという点で、世の職人と自分は何ら変わらない。とぎすまされた刃物を振るう相手が、石か木の板か、生きた人間かというだけだ。
 いつの間にかその「腕」がひそかな評判を呼ぶようになっていたが、男は淡々と、自分の仕事を正確にこなしつづけた。短刀の先が胸郭をえぐり、肋骨に当たるごつりとした感触に、もちろん頬の筋肉ひとつ動かすことはない。注文のまま、受け取る金と引き替えに獲物を処理する、それはただの作業だった。
 相方や手下を伴うことはなかった。犬を連れているのが、その類の者には珍しいかもしれなかった。
 犬はその飼主に似て、他人に顔を向けることも愛想を売ることもなく、男の合図に忠実に、犠牲者の足にかみついて転ばせ、胴を抑えこみ、のどを噛みさいて、発せられようとする悲鳴を消し去った。

 注文をこなすだけ、金は手に入った。
 どんな手を使ってでも怪しまれずに標的に近づけば、あとは肉と骨をばらすだけだった。
 倫理観だの罪悪感だのといった、まっすぐ日のあたる教科書から、男は最も遠いところにいた。手についた血を洗い流すことに、何のためらいも感じはしない。乾いた眼で血のこびりついた自分を見やり、得物を研ぎなおす。装束の汚れがひどければ焼き捨てる。単純な手順、淡々とこなせば特に困ることはなかった。自分はこの仕事に向いているのだろう、とさえ思うこともしばしばあった。

 ただ、仕事が終わるたびに、なぜか少しばかり胸焼けがした。

 報酬を受け取ると、男は酒場のすみに座り、極限まで冷やしたジンを注文する。口に含むと、鼻に抜ける強烈な薬草の香りが、自分の内臓を冷やしてくれるような気がした。
 今、雨の音は酒場のざわめきに混じって、単調に流れ続けている。
 酔客が扉を開け閉めするたびに、粒々とした水の音は少しだけ大きくなり、またすぐに密やかになる。屋外の湿った夜気が流れこんできて、傍らの犬がぴくりと耳を立て、頭を起こした。男が首すじを軽くたたいてやると、つまらなさそうに目を閉じて再びうつぶせる。
 ランプの暖かな光に照らされて、グラスの中の透明な液体がゆらりと揺れ、反射が男の目を刺した。

――不凍液、と呼ぶのだそうだ。

 酒精は、いくら冷やしても凍りつくことがないために、そう云うのだという。
 …俺とは全く逆だ。自分はずっと凍りついたまま、光に照らされれば眩しすぎて、生温かい陰の中にしかいられない。
 にわかに胸焼けが酷くなったように感じて、男はグラスに半分ほど残っていた無色の液体を、一気にのどへ送り込んだ。



        *



 男はときおり、賭場の隅にも足を運ぶ。そこでは賭け事に興じるのが目的ではなかった。
 いつものようにグラスの中身をなめつつ、賭場の主らしき銀髪の男がディーラーに何ごとか指示していくのを眺めやる。人の行きかう音に耳を澄ましていると、忍ばせた気配が近づいて来て、男の後方5歩程のところで立ち止まる。それと男が後ろにちらりと視線を投げるのとは、ほぼ同時だった。
 いつもの「仲介屋」が、紫煙を吐き出しながらにやりと笑った。
 何も言わずに其奴は男の隣に座を占め、灰皿に煙草をおしつけて、調子はどうだ、などと言う。

 「仲介屋」に名前などない――正確には、男にとってそんなことはどうでも良いことだった。
 仕事を持ってくる者。いでたちは平凡な道具屋か何かのようだが、目深に帽子のつばを下げ、いつも目元を隠している奴。ふわふわと幽霊のように足音をたてず、事務的に情報だけを持ってくる商売人。男と其奴をつなぐのは、ただ「金」という共通の価値だけで、其奴にとって男はただの仕事の処理先だった。
 男のほうも、いつも暗い色の布で顔を覆っていたから、「仲介屋」は男の、目の色と声色と、連れている犬の毛色しか知らない。互いに名乗りあったことはなく、あったとしても偽名だった。お互い様なのかも知れなかった。

 「仲介屋」はいつものように、あっさりと次の仕事を告げてきた。
 なんとかという町の貴族の何某というのが、標的だった。仕事の期限を教えられ、半金を渡される。情報収集とその他の準備の手間賃だ。
 政治抗争だか怨恨だか知らんが依頼人はえらく熱心で、成功の暁には何万ギルでも言い値を支払うそうだぞ、と「仲介屋」は言った。足元見たな、お前もずいぶんボッタ食ったんじゃないのか、と男が返すと、其奴はまた、にやりと笑った。
 


        *



 なんとも都合の良いことに、くだんの貴族がパーティーだか園遊会だかを開き、男がそこに紛れ込んだのは約半月の後のことだった。
 無駄に広大な庭の裏手、運河沿いの茂みの蔭で、男は扮装を変えた。いつもの覆面を外し、下級貴族じみた衣装に身を包む。犬には「伏せ」の合図をする。男の指笛が鳴るまでは、犬は全く忠実にそのままの姿勢でいるだろう。人ごみの中とはいえ、今回の仕事に犬連れは少々目立ちすぎる。
 どこか気怠そうに緑色の目を細めた男の、明るめの色の短髪が宵風に揺れた。
 今一度、鋭い視線で犬に合図すると、男は辺りに人の気配がないのを見定め、軽々と高い塀を乗り越えた。

 幾何学的に配された庭木にはくまなく照明が灯されており、思った以上に人が多かった。しかし、標的を見つけるのは大した手間ではない。なにせこのパーティーの主催者だ、取り巻きがうじゃうじゃとたかっている人間を探せば苦労はしなかった。二、三匹集まっていたのが離れたかと思うとすぐに新手が寄ってくる、まるで蠅のようだ。
 焦らず、標的が一人になるのを待つのだ。
 男は隙なく獲物を視界の端に収めたまま、大皿からひとつクラッカーを失敬して口に放り込んだ。夜が深くなるにつれ、人のさざめきと喧噪は増し、闇はぶよぶよと膨張する。

 獲物――仮にAとしておこう――Aは、周りの連中に下がるよう手を振ると、やや千鳥足で庭の裏手へ向かった。すかさず男も、特に隠れるでもなく、さりげなく影のように後をつける。どこか卑屈にAを目で追っている貴族がなぜか目について、あれが依頼人なのかもしれない、と男は思った。
 明かりと人目のちょうど死角にあたる場所で、Aに声をかけるのは随分簡単だった。気分が悪くなったのを装い、休憩室はどちらでしょう、などと適当なことを言ってAを見上げる。
 …勿論、既に標的の「変態趣味」を調べあげた上でのことだ。
 Aはねっとりと男をねめつけると赤い舌で厚い唇を舐め、「いや君、休憩室などより裏庭のほうが風が冷えて気分が晴れるぞ」と言って、男の腰に手を回してきた。
 男はとっくにとうの立った年齢と年相応の容貌なのだが、Aにとってはそれが美味そうに見えるらしかった。
 こんなに簡単に、あっさりと獲物が釣れるとは。男は内心拍子抜けしたほどだった。

――馬鹿だ。

 茂みに入ると、Aは途端に男にのしかかって、自分のものを相手の腹にこすりつけはじめた。
 太った指がぶよぶよと服の隙間から這入り込み、胸板を探る。腰から下の衣装が解け、肌が空気に曝される。男は眉ひとつ動かさないままに背をしならせ指をからめ、冷静に、事務的に、相手をじりじりと快楽の檻に追い込んでいく。Aは単純なまでに快楽に身をまかせ、うめき声をあげはじめた。

 …まだ。
 まだだ。
 相手はまだ、どこか理性を保っている。

 男の体の上で、獲物はハアハアと息を荒げ、無感動な脂肪の塊を揺らして尻を振る。必死にかがみこんで、男の肌にべろべろと舌を這わせ、唾液の音をたてる。大袈裟な動作とは裏腹に、その欲望の象徴は赤く矮小で、殺される直前の小動物そのままだった。

 …もう少し。
 あと少しだ。
 一番無防備になる瞬間を。

 醜悪に涎を垂らしながら恍惚と空を見上げ始めた獲物の禿頭は、後頭部から月光に照らされていた。
 すっかり弛緩して、必死に蠢いている。
 水の音が聞こえた。
 背後には池がある。そして運河につながっている。
 ちょうど好い。
 男は獲物の背中越しにそっと短刀を抜きはなち、逆手に持ちかえた。

(…パパ)

 その瞬間、小さな女の子に、暗殺者は呼ばれたような気がした。

 …呼ぶのか。お前は俺を呼ぶのか。たったひとりで置いて行った、お前の母さえ守れなかった俺を呼ぶのか。男を受け入れてこうして腰を動かしている、愚かな俺を呼ぶのか。どれほど他人の体液にまみれたかもう忘れた、そんな俺を父と呼ぶのか。

――馬鹿だ。

 男は冷えた目で自分の上に乗った肉塊を今一度見やると、正確にその喉仏の下を掻き切った。
 
(パパ)

 …引き留めるのか。お前は俺を引き留めるのか。お前から逃げ出した、暖かな暖炉の火を消してしまった、俺をお前は引き留めるのか。修羅の道を、一方通行の夜道を追われていくだけの、そんな俺を引き留めるのか。

――馬鹿だな。俺は馬鹿だ。
――げらげら。
 男は自分を嘲笑する。少し胸焼けがした。

 獲物の咽喉から刃物をすっと引き抜くと、Aは目玉を剥いたまま、尻を突き出した間抜けな姿勢で、男に向かってゆっくりと倒れこんでくる。音もなく静止画が近づいてくるようだ、と男は思った。
 ひゅう、と気管から空気の漏れる音がした。
 男がつけたばかりの切り口であるそこからは、どす黒い内臓の内側がわずかに覗いている。
 ずるずると、黄色い脂肪が流れだしてくる。
 水分がぶよぶよ溢れだす。
 血はほとんど出ない。
 生臭い匂い。

――げらげらげら。
――俺は馬鹿だ。

 ぶよぶよ。醜悪な色の。
 脂肪が。赤っぽい液が。
 ずるずる。
 溢れて。
 短刀の柄を伝って。
 ごぼり。
 男の手は、獲物の体液にまみれる。
 何度目か判らぬその温度の感覚に、男は少し辟易したように目を細める。

(やるじゃねえかよ、お前、クライドよぉ)
――げらげら。下品な声。
(一緒に何度も女買いに行ったお前が、男なんかと寝ちゃ殺し、とはな)
――げらげら。嘲笑う。
(知ってるだろ?俺ァずーっと待ってるんだぜ、お前がこっちに来るの)
――げらげら。囁いてくる。血塗れの。
(それまでにお前は、あと何人殺すんだろうな、え?)
――お前が俺を殺したみたいによ。げらげらげら。

 ぶよぶよと獲物の体液で汚れた手に。真っ赤に染まった幻の手が。
 傷だらけの手が。忘れえぬ男の顔が。近づいてきて。
 びしゃり、と頬に。脂肪が垂れ。体液が散り。
 その熱さにも目を閉じることはなく。 

――ああ、馬鹿だ。俺はお前の言う通りの馬鹿だ、ビリー。守るべきものなどすべて、自分から手放して何一つ持ってはいないのに、未だ生だけは手放せない馬鹿だ。

(パパ)
 甘ったるく柔らかな幼子の声が、また男を呼んだ。

――馬鹿だな。

 びくびくと痙攣していた生暖かい人体は、すでに完全に生命力を失いつつある。
 ほんの少しの間、男は仕留めたばかりの肉塊の下で、夜空を見上げていた。


 しばしの後、男は仕事の標的だったものを引きずって、池に入って行った。
 ざぶざぶと水路を抜け、運河に入る。岸に寄って指笛を吹くと、黒い疾風のようなものが吠え声一つ立てずに飛んできて、尻尾を振った。引っ張ってきたものから服を剥ぎ取り、腸に穴をあけて水から上がると、犬は主と入れ違いに水に飛び込み、肉塊の足先をくわえて運河の真ん中まで泳いで行った。
 死体は河の底をゆっくり流れていくだろう。ひと月も経てば白くふやけ目玉は溶け、魚に食い荒らされて、傷跡も体の特徴も何もかもなくなった、ただの水死体になるだろう。
 岸まで泳ぎかえってきた犬は、耳から尻尾の先まで勢いよく水滴をふるい飛ばし、伸びをする。男は服装をいつもの黒衣にあらため、しっかり覆面しなおすと短く犬を呼び、歩き出した。



        *



 男は再び賭場にいた。
 いつの間にか向かいには、帽子を目深にかぶった道具屋まがいが座っている。スロットやカードや駒に熱中している客たちの誰も、小さな卓で向かい合っている二人組に注意を払いはしない。

 …どこぞの運河の底から水死体があがったそうだ、と其奴は言った。
 ひと月以上水に浸かっていたせいで誰だか全くわからんが、行方不明になっていた貴族の某だろうと言われてるらしい、などと相手が続けるのを聞きながら、男は他人事のようにグラスに酒精をそそぎ、手札を眺めていた。
 ふと、目元を隠した男はにやりと笑い、近いうちにまた仕事を持ってくるぞ、と言い置くと音もなく立ち去った。
 空席になった卓の上には、金貨がひと山、残されている。
 覆面の男はそこからコインを一枚つまみ上げると給仕に投げ、冷えたジンを注文した。
 足元の犬が、はたり、と尻尾を揺らし、頭をおろして目を閉じた。

――不凍液。
 いくら冷やしても凍ることなく、その流れ込む喉を浄化する透明な液体。
 ランプの眩い光を反射して冷たく揺らめく、無色の硝子杯。
 
 一息にその中身を咽喉に送り込む。
 鼻に抜ける強烈な薬草の香りが自分の内臓を凍りつかせてくれるような気がして、男は胸が焼けた。

(2009.10)