別館「滄ノ蒼」

2、崩壊後

 
 空が赤黒くうすぐらくなってから、食事は明らかに粗末になった。
 たいていは豆や芋。良くて根菜や干し魚。幸いなことに魚は生でも手に入る。世界崩壊の影響は海の中にも及んでいるとはいえ、小魚の類は数を減らしていないらしい。
 いまはそれらが、人々の命を支えている。新鮮な葉野菜などめったに見ることはない。燻製肉すら貴重品だ。燻製にする肉も木材も、数少ないのだから。
 それでもロックにとっては、食事が厄介な作業であることに変わりはない。
 腹具合を気に留めて、クラッカーの残りや干し肉の痛み具合に気を使って、足りなければどこで手に入れるかを考えて。そんなことたちに手を取られなければ、もうちょっとでも先に進めるのに。たぶん、出口のないほうへと進んでいるのだろうけど。
 モンスターを解体する。小型のものなら、小動物と要領は同じだ。血抜きして、足先と頭にぐるっとナイフを入れて、皮をはぐ。肉を取り、骨は煮立て、内臓は土をかぶせる。はいだ皮は売れるだろうか。否、買い取りをしてくれる店があるかどうか。今は世界中どこに行っても、崩れた壁と剥がれた石畳の陰で、どいつもこいつも『裁きの光』を恐れて縮こまりながら、必死に食っていこうとしている。
 小鍋がことこと揺れている。モンスターの骨と、乾燥薬草と、すこしの穀物と、そのへんの草を水にちぎり入れたもの。骨にこびりついた肉片をこそげ落としながら、口に運ぶ。
 考える。今日行ったところと、得た情報のこと。
 考える。明日どこに行くか、どこを探索するか、必要な情報はなにかということ。
 ごく遠くから、ごうん……と音が響いてくる。大きくて空を飛ぶものの音、機工の音だ。腹の底がぞわりと冷える。聞き覚えがあって、どこか違う音。あれは旗頭だ、世界を救おうとする意思の。ここに仲間がいる、お前も来い、と主張している。
 考える。明日入る洞窟に、どんな対策が必要か。どんな装備をしていくべきか。そうして、思考をそらす。旗のもとに集まるべきではないのか、自分でもつかめなくなってしまった望みなど追う意味はあるのかと、こころの底ではずっと思っているのだ。
 ぱきっ、と網からクラッカーをはがす。端の所がすこし焦げて、あたたかな匂いがする。――食えるときに食わないと。自分が自分の足手まといになる。
 考える。誰かと囲む食卓のこと。仲間と作るスープや、ともに覗いたオーブンの中身。
 ティナやセリスは最初の頃、薪の燃やし方も知らなくて、エドガーは瓦斯オーブンの直し方を知っていても芋の皮の剥き方が覚束なかった。セッツァーは料理するとなると細かい所にこだわって、リルムはお菓子の生地を泡立てるほうがすきで、モグは魚を焼くのが上手かった。ストラゴスはよく薪ストーブの火の番を買って出てくれて、時々うとうとしながらも火種をかき回し、鍋がふつふついう温度を保っていた。意外だったのは、ストラゴスがいない時にはよくシャドウが火の番を代ってくれたことだ。インターセプターはいつも主の後ろで伏せをしていて、食べ物の匂いには鼻先だけをひくひくさせていた。
 そんなことが、やたらと思い起こされた。
 ……魔物を捌いて煮立てたスープが、不意に、しょっぱいと思った。
 考える。必要な装備のこと。どんな道具を携帯するか、最低限を残して切り捨てるべき装備はなにか。思い出す。白い肌、隣を向けばちょうど目に入る横顔、すっとした鼻筋、あわい青碧の瞳。長いまつげがこちらに気づいたように揺れると、強くあやうい視線がロックをみつめる。
 思い出す。女にしてはしっかりした幅の、それでも線の細い、白い肩先が二の腕にふれる気配。
 思い出す。遠慮がちに開かれる、淡い桃色の唇。――ロック、あのね、と、考え考え、口に出せるようになった、澄んだ声。なめらかそうな首筋。かすかに匂い立つ、白金の髪。ふと触れたゆびさきのつめたさ。
 
「……っ」
 
 ロックはジャケットの襟をかき寄せて、乱雑に火の始末をした。くすぶる木切れを踏みつけ、足先で土を寄せる。体温が上がって、視界がすこし、くらりとする。
 すぐにでもベッドに転がり込んで、毛布にくるまって、身体の真ん中に熾きた炎の処理をしたい、そんな衝動に突き動かされていた。
 何年も感じていなかった感覚だった。
 ロックは焚き火の残りを踏み終わると、唇をかみしめて立ち上がった。
 
 
 
        §
 
 
 
「セリス殿」
 
 カイエンに呼ばれて、セリスは振り返った。
 
「ストラゴス殿から伝言でござる。枯れ枝を、細いもの多めに頼むとのことで」
「わかったわ」
 
 うなずいて、枝拾いに戻る。言われた通りに、細めの枝で、燃えやすそうなものを拾い集める。松ぼっくりのたぐいもだ。宿の薪ストーブを見ているのはストラゴスだったから、彼が火をかきたてているのだろう。家のものよりも旧型だといって、多少ぼやいていたが。
 
「枝の束は持つでござるよ。セリス殿、それ、その横の、細かい焚き付けの籠を頼もう」
「ありがとう、カイエン」
 
 セリスは籠を取り上げ、宿へ歩を進めた。まばらな木立の林は、花々や実をつけているものがほとんど見当たらない。赤っぽくどんよりと垂れ込めた空の下では、咲き誇る花もたわわな木の実もずいぶんまれになった。
 前を進むカイエンの足元で、朽ちた葉がかさかさと音をたてる。その隙間から、ぽこぽこした緑色のものが、顔を出しているのが見えた。
 
「カイエン、足元に野草が生えているわ。食べられるかしら?」
「おお、これは……」
 
 カイエンはかがんで、しげしげと観察した。
 
「これは大丈夫でござろう」
「そうね。この形のものは、卵でとじたことがあったはず」
「こちらはいかがか」
「これは確か、食べられるけど苦いって……」
 
 言いかけて、セリスは口をつぐんだ。急にじわりと、鼻の奥に痛みがさしたから。ほそぼそと生えている野草を摘み取って、籠に投げ込む。カイエンは黙したままそれらをまとめてくれ、静かに言った。
 
「……参ろうか」
「……ごめんなさい」
「構わぬよ」
 
 すん、と鼻を鳴らす。上を向くと、ぐんぐん動いていく赤灰色の雲。涙がにじむのを飲み込んで、一心に歩いた。
 どうしても、あちこちで思い出すから。野草の種類を教えてくれたひとのこと。キノコは毒と毒でないのを見分けるの難しいから覚えなくていいんだよ、とすねたように言ったひとの声を。
 あのひとは今頃、何をしているのだろう。あいかわらず1時になったら食事をとって、キノコは口にしないままなのだろうか。
 セリスは唇をかんで空を見上げた。濁った色の空にたよりない陽光がうっすらと反射していて、視界がすこし、にじんだ。
 
 
 
 こぽり、と溶けた岩の音が洞窟に反響する。目に映るのは、はっとしたように振り返る人の姿だ。何か赤く光るものを、握りしめている。
 やっと会えた。やっと会えた、やっと会えた!じっとそのひとのかたちを見つめる。そのひとのすがたを、思い起こす。
(痩せた……ね)
 頬がそげて、顎の線が鋭くなっていた。元々すっと細かった鼻筋が、目立って見える。肩幅は変わっていないのだろうけど、肩の厚みが違って見えた。腰のダガーは見覚えのないものだ。すこし禍々しく曲がったかたちの。
 目は合わない。視線は交わらない。けど、そのひとは、そのひとが、確かにそこにいる。すれ違い、肩先がかすめ合う。そのひとの温度が、通り過ぎていく。
 ――ねえ今、あなたは。食事を時間で決めるんじゃなく、食べたいと思ったものを食べている? 美味しい、って、言えるようになった? やっぱりキノコは採らないまま?
 声は出ない。言葉は交わさない。けど、セリスはそのひとの後ろ姿をじっとみつめた。彼がこれから、何をしようとしているかはわかっている。その結果がどうあろうとも、笑って祝福しようと、心に決めた。
 
 
 
        §
 
 
 
(痩せた……な、セリス)
 うすぐらい洞窟の、赤っぽい光の中で。一時にはもう姿を見ることすらかなわないのかと絶望した相手が、そのかたちが、たしかにそこにある。
 女にしてはしっかりしていたはずの肩幅は、記憶にあるより細い。まろやかだった腰の線は削げ落ちて、少年じみたまっすぐなかたちになっていた。下げている剣は見覚えのないものだ。彼女が持つにしてはずいぶん無骨な。
 目は合わない。視線の高さは似ているはずなのに、交わらない。そのまま、すれ違う。肩の高さがほぼ同じなのは、変わっていなかった。
 ――なあセリス、お前はひとりの時、何を食べてたんだ? スムーズに火をおこせるようになったか? スープの作り方や兎のさばき方は覚えて、慣れただろうか?
 俺は魔物を煮て食べた。厄介な作業だった、定期的になにか腹におさめないと動けなくなってしまうから。食事なんてしなくてすむならいいのに。ずっとそう思っていた。
 けどしばらく前から、その鬱陶しい作業が、隣でいっしょにやってくれるひとがいたなら、耐えられる、それどころか愉しいものなのかもしれないと、思うようになっていたのだ。
 もしも隣に、白金の髪の持ち主がいれば。もしも隣で、焼きすぎた肉や焦げたクラッカーに笑ってくれるひとがいれば。もしも今、隣に、サンドイッチをつくってくれる人がいれば――
 手のなかの赤い石が、ひどく重い。
 肩のあたりに、うしろからの視線を感じながら、洞窟の出口へと足をすすめた。
 
 
 
 地下室から出て、外の明るさに目を細める。
 そこには金色の薔薇が立っていた。
 
「……セリス?」
「ロック……ど、して」
 
 ――ひとりなの、と、唇が動いた気がした。
 
「行こう」
 
 ロックは構わずに、セリスの腕をつかんだ。びくりと肩を震わせて、それでも振り払うことなく、ついてくる。その素直さが、愛おしくて、すこし悲しい。彼女のいびつさが、まだこの手の中にあるようで。
 思わず、握る手に力がこもった。また、びくり、と小さく伝わってくる。離したくないと、思った。そのまま、歩を進めた。
 しばしの間、黙々と歩く。あいかわらず空は空虚な赤灰色で、上をみあげてものっぺりとした雲がのしかかってくるばかりだ。
 
「あの、……ロック」
「何?」
「……だいじょう、ぶ?」
「なんで?」
「だって、レイチェルさん、が」
「それなら大丈夫だ。……あいつが、レイチェルが、俺の心に光をくれた」
「……光」
 
 セリスの腕が、きゅっとこわばった。歩きながらでも、俯いたのがわかる。ロックにとっての光はレイチェルで、セリスではない、そう考えたのだろう。唇をかんで、てのひらに爪をたてて。それでもこころの痛みを気取られないように、これから発せられる恐ろしい言葉を受け止めようと、覚悟を決めてしまっている。
 それがわかるから、ロックは言葉を重ねた。もう、手をつかみ損なうわけにはいかない。宝物はすぐここに埋まっているはず、きちんと陽のもとに出してやらなければ。
 
「レイチェルは俺の心に光をくれた。どこから光がさしてくるか、教えてくれたんだ」
「え?」
「セリス」
 
 ロックは足を止め、向き直った。青碧の目と視線が合う。海の深い所をすくいあげて、ひかりで薄めて、うすくうすく凍らせた色合い。揺れる。そのいろが有機的で、ずっと見ていたくなる。ふるえる睫毛が落とす影も、うすいまぶたも。
 暗闇に手を伸ばす。指の先をさぐる。何かにこつんと、触れた気がする。ひとことを、ようやく、口に出した。
 
「やっとわかったんだ、俺。お前が……光だったって」
「う、……そ」
「本当だ。俺、ずっと薄暗いところにいたけど、一人でいたけどさ、……思い出すのはお前のことばっかりだった」
「そんな、……こと」
「信じてもらえないか?」
「あ、……」
 
 すこし考えるそぶり。それでもセリスの視線は、ロックから外れない。ロックはセリスをまっすぐに見つめた。長いまつげがふるりとふるえて、淡い青碧がロックの目に焦点を結ぶ。
 セリスの手がさまようように持ちあがって、きゅ、と自らの袖をにぎる。
 
「あの、」
「……うん」
「とまどって、て」
「なに、が?」
「だって、あなたは……ずっと、レイチェルさんを、蘇らせるために」
「……そうだな」
「だったら」
「蘇ったよ。最後に……話ができた。前を向きなさいって、今守りたいものは、大切なものはなにかをちゃんと見ろって、……教えてくれた。だれが、俺の光なのかも」
 
 手をとっても、いいだろうか。
 ロックは手を伸ばす。彼女の手をそっともちあげて、白いゆびさきを見つめた。切り詰められた爪、剣を握り続けて固くなったてのひら。いとおしい温度。気づけば思い出していた髪の色も手先の所作も、このひとにつながっていた。
 
「情けないぜ。自分で、気づけなかったなんて」
 
 青碧が、伏せられて。
 ぱたり、と涙が落ちる。
 ぱたぱたと、透明なしずくはセリスの頬を濡らし続けた。
 
「ほんとうに……?」
 
 ロックが頷くと、繋がれた手に力がこもる。いつもひんやりとしているのだろう白い指先は、赤味がさして熱い。
 
「セリス。……隣に、いてくれ」
 
 つよく手を握り合いながら、額をあわせた。
 そのままずっと、二人は立ち尽くしていた。
 
 
 
 崖の上で、肩を寄せ合って座った。
 ぽつぽつと、言葉をかわし合う。なにかをおそれるように、紡ぎ出さない言葉がある。その不器用でやさしいやりとりが、寄り添いはじめたばかりの二人に似つかわしい。
 空はあいかわらずうっそりと赤黒くて、中天を過ぎたあたりがなんとなく白っぽい。生ぬるい風が、それでも二人の間を抜けてはいかない。そっと身体を寄せ合うことを、許しあったのだから。
 
「セリス、セリス……ひさしぶりだ……ほんとうに。大丈夫だったか?」
「あなたも。……ねえ、ちゃんと食べていた? 食べるものはあった? ずっと、心配だったの」
「まー、なんとかね。でもやっぱり皆、大変なんだよな。魚とか芋とかばっかで、穀物だって貴重でさ……、俺は、さ、」
「何?」
「俺、魔物を煮て喰ったこともあるよ。他に食えるものがなかったから」
「……そう」
「不味かった」
「まずかった、って」
「すっげえエグみがあってしょっぱいのな、あいつ。味付けでなんとかなんないかなと思ったけど、だめだった」
「そうなのね」
「食料って、なんとかなってるんだ?」
「そうね、……ギルがあって、水辺を歩いていれば、なんとか。……でも、モンスターしか食べるものがないことは、あったわ」
「え、やっぱり? ……大変だったな。まずくなかった?」
「ふふ、……苦かった」
「そうなの? ……種類によって違うのかな、味」
「そうかもしれないわ。でも……食べ比べる気には、なれないわね」
 
 くすくすと二人は笑う。そっと、頭を寄せ合った。
 
「よかった……あなたが、無事で」
「お前も、無事で良かった」
 
 沈黙が落ちる。天使が数人通り過ぎたあたりで、ころろろろ、と音が二つ、重なった。
 二人の腹の虫がなった音だった。
 
「……!」
「あははっ」
 
 ロックはふはっ、と吹き出すと、セリスの肩を抱き寄せた。耳を赤くしてされるがままになっているセリスは、そっと彼をみあげて、言う。
 
「……お腹、すかない?」
「あはは。本当だな、もう2時とか? あ、もっと遅いか」
 
 ずっと話してたんだな、と、ロックはもう一度、セリスの肩をなでた。
 空の色は相変わらず、赤黒くたれこめて、うっすらと暗い。吹くとも言えないほどのろりと流れた風の先を見やれば、赤褐色の大地がずっと続いているのがみて取れた。
 それでも、弱々しい陽の光が、太陽の本来あるべき位置を教えてくれる。中天を過ぎて幾分か経ったあたり。セリスにはよくわからなくても、ロックが見れば陽の傾き具合から何時ごろかわかるのだ。冒険を重ねた年月、そしてレイチェルを失ってからの年月、数え切れないほどの回数、空を見上げていたから。
 
「……大丈夫?」
「うん。……俺さ」
「何?」
「平気になったよ。平気なんだって、気づいた。昼飯、遅くなっても」
「……ええ」
 
 白金色の頭が、そっと彼の肩に寄せられる。
 1時になると判をついたように昼食をとっていたロックが、今はもう、食べ損ねたとしても焦ったり慌てたりしなくなったのだという。
 それは食事をおろそかにするということではなくて、壊れた時計を抱えこんでいた彼が、時計の壊れたことを認めて一息つき、改めて時を数え始めた、ということなのだろう。
 もう平気なのだと。一度時計は壊れたけど、もう一度時を数えてもいいのだと、これからも時はつづいていくのだと、そう気づかせてくれたひとがいたことは、なんと幸運なことか。
 
「……よかった」
「うん」
 
 ロックは白い肩を強く抱き寄せる。白金の流れが頬に触れる。ゆびさきでかき分けて、そっと唇をよせた。
 かるくふれたその部分が、あたたかい。やわらかくて、呼吸に合わせて微かに動く。
 生きているのだ。
 生きていて、息をしている。
 じんわりと届いてくる体温を、ロックは味わった。
 そうしていると、「あのね、」と、セリスがひとつ、口に出した。
 
「あのね……ベクタの話を、してもいい?」
「うん。何?」
「あのね、……」
「うん」
「ベクタはね、いつも……うすく曇ってて」
「うん、」
「今みたいに、こんな赤黒いいろとは違うのだけど。うっすらした白い空が、太陽の光をやわらかく遮っていて、城の動力機械の音がずっと響いていて」
「そっか」
「ロック、覚えてる? 魔導研究所に入る前に見た、ベクタの街」
「うん。暗かったけど覚えてるよ」
「そう」
「あちこちで機械の音がしてて、ぴっちりした石畳の道で、夜でも煙突から煙が出てるのが見えた。空が、白っぽく煙ってて」
「そうね。隅から隅まで、軍と魔導のための都で、……隙がなくて」
 
 セリスは立ち上がった。あたたかな体温をほどいて、崖の下方を見下ろす。すこんと抜けた視界は、地平線でくっきりと、赤灰色と赤褐色に塗り分けられている。緑は乏しい。広葉樹のたぐいは葉を落とすか茶色くかすれさせるか、今の異様な空の下では、葉緑素を含むものたちはかろうじて変性して生きているのだ。
 ぬるい風がのたりと抜けていき、白金の髪をわずかになびかせた。蒸気機関のうなりもクレーンの伸縮音も、腹の底に響いてはこない。
 ひどく静かだった。
 
「ここからの眺めは、全然違うわね。街はないし、木が生えているし、鉄と煤の色じゃない」
「……そうか」
 
 セリスはガーターにつけた貴重品入れから、なにかを取り出した。
 鈍く光る鎖、ペアのタグ。
 ――ドッグタグ。
 ロックが見咎める間もなく。迷いの一つもない様子で、するりと流れるような動作で、一息にそれを、崖下へと放った。
 きらりと輝くこともなく、木々の陰にのみこまれて、見えなくなる。
 ふ、とひとつ息を吐いて、セリスは顔をあげた。
 ゆっくりと流れた風が、彼女の髪をさらりと巻き上げていく。
 
「……セリス、今のって……」
「大丈夫よ。手放しそびれていただけ」
「でも、さ、持っておく、って」
「覚えてたのね。……覚えてて、くれたのね」
 
 セリスは髪を後ろに払った。気まぐれな風はあちらかと思えばこちらに吹き飛んで、金糸を乱す。音もなく、見上げれば赤黒い雲だけがぐんぐんと空一面で動いている。それは涙で滲むことなどなく、セリスの目にははっきりと映っていた。
 
「……わかったの、今が手放すときだって」
「……そっか」
「ええ」
 
 頷くと、セリスはロックを振り返って、「ご飯、食べに行きましょう」と笑った。
 
 
 
        §
 
 
 
 今朝の残りそのままの鍋が、焜炉に載っていた。半端な深さのスープの底に、豆が沈んでいる。それをつつき、硬さの具合をはかって、ロックは袖をまくった。焜炉の下を開けて、燃料を投げ込む。手際良く火をつけて、空いている鍋を探す。
 
「なーセリス、スープ頼んでいいか? 俺、芋を茹でるから」
「わかったわ」
 
 セリスは小鍋を火にかけた。干し魚をほぐして、ハーブの類と一緒に炒める。豆スープの残りを加え、水を足して煮立てる。思いついて、そこらの鉢に伸び茂っている葱っぽいものも少しちぎって入れた。
 その間に、ロックは芋に火を通していた。ギル貨にも満たない大きさの小芋ばかりだから、早い。
 芋を笊にあげて、皮をむく。手を洗って水滴を振り切ると、ことこと煮込まれている途中のスープのレードルを、横からすくい上げた。
 
「……あ、美味い。これ」
 
 口をつけ、ごくんと飲み込んで、目を細める。
 
「大丈夫? 何かよくわからない魚の干物だったんだけど……」
「や、美味いよこれ。……あったかいもん食べたの、久しぶりだし」
「そう、」
 
 再度、レードルを掬い上げて、うまうまとスープを口に含んだ。
 
「俺、これ初めて食べたけど。お前が作ったから、美味い」
「……ん」
 
 ロックの左手が、セリスの右手に重なった。
 そっと溶けてゆくように、握りあう。体温がゆっくり行き来して、たいらかになじんだ。
 
「お前さ、そういえば、さっき思ったんだけど」
「……何?」
「スープ作ってる途中で、葱を入れてたよな。伸びてたやつ、摘んで」
「ああ、そうね? ……良くなかったかしら?」
「いや、そうじゃなくてさ。そういうこと、覚えたんだなって」
 
 重ねた手を、ロックはそっとなでた。剣を握って、手作業や水仕事をおぼえて、節々やてのひらの皮膚が分厚くなった、愛おしい手だ。すっと細長くて、指の先がつめたい。そんなことは、以前はよく知らなかった。ふと触れたはずみで、つめたいなあとうっすら思った位か。いま彼女の手をとって、はじめて、そんな手をしているのだなあと気づいたのだ。
 
「……いろいろあったもの」
 
 拗ねたようにロックを見やってみせる、いつもは白い頬が、すこし朱をおびている。ロックはそこに、するりと指先をあてて、もう一度セリスの手にふれる。
 
「――大丈夫か?」
「大丈夫。大丈夫よ」
 
 見つめ合いながら、手を握り合った。ゆびさきを掬いあい、てのひらをなぞり、からませあった。――ふふっ、と小さな笑い声が漏れる。互いの手を持ち上げて、頬を寄せ合ったりしていると、しゅわしゅわとスープの沸く音がし始めた。
 
「……あ、まずい。焦げる」
「……そうね」
 
 名残惜しげに、手を離す。鍋を火からおろして、焜炉の始末をする間にも、そっと手を伸ばし合って、指先を絡ませ、戯れる。
 それでもこつこつと時計の音は止まらず、食卓の準備は進んでいった。
 小芋には、少し塩を振る。スープには魚醤を味付けに回し入れる。干し魚のスープはありあわせの材料だったから、味がどうなるか不安だったけど、うまくいったようだ。
 
「こんなもんか」
「十分よ」
 
 ささやかな料理を皿によそう。関節のめだつ器用な手と、爪の短いすんなりした手が、忙しげに働く。トレイに皿を並べ、スプーンを出し、揃えて置いた。
 二人が、仲間とともにいつでも動けるようにするために。
 探索や戦闘をこなして、前に進んでいくために。
 命を保つために。
 テーブルについて、揃ってぱちんと手を合わせた。
 
「いただきます」