別館「滄ノ蒼」

灰霧

 

わたしの頭の中にはぼんやり灰碧色の霧がかかっている。
わたしの頭の中では、なにか大きな音がひびいている。

……
わたしがすこし身動きすれば、ヒトの体は簡単になぎ倒されてしまう。
わたしがすこし手を動かせば、ヒトの腕はちぎれ、
わたしがすこし顔を向ければ、ヒトの首はへんなふうに曲がり、
大きな鋼鉄の乗り物は亀裂を生じてくだけていく。

わたしの頭はいつも、なにかよくわからない熱いものにしめつけられている。
目にうつる世界はいつも、赤い色と黒い色だけ。
まわりでなりひびく音は、いつもいつも同じ。
ヒトの声も機械の音も、わたしにはちがいがよくわからない。

わたしがすこし身動きすれば、ヒトの体は赤黒くはじける。
肉片や脂肪や、どろどろした粘液がはねとんできて、わたしの肌に点々をつける。
そしてときどき、そのどす黒い飛沫が目に入って、視界が半分赤くなったりするけど、わたしはいつも少し手を払うだけ。
するといつも、ぶしゅり、と音がして、前にいる「敵」の体がつぶれるんだって。
あとには鋼鉄の残骸に、べたべたしたものがねばりついているだけ。


ヒトって、簡単にこわれてしまうんだね。
ヒトって、すぐに赤黒いかたまりになってしまうんだね。
ヒト。ヒト。ヒト。
まわりにたくさんヒトはいるけど。

――どれもみんな同じ顔をしている。



        *



わたしの頭の中にはぼんやり灰碧色の霧がかかっている。
わたしの頭の中では、なにか大きな音がひびいている。

わたしはなんという名前のモノなのだろう。
ヒトは、「魔導の者」だとか「『例の』戦士」だとか、あるいは「あれ」だとか呼んでいるらしい。
そう言うとき、だれもがそっとわたしのほうを見て声をひそめ、何か恐ろしく神がかった存在そのものについて語るかのようだ。

わたしに向かってまっすぐ歩いてきて、わたしに向かって呼びかける声は、二種類だけある。
ひとつはなんだかけたたましくて、わたしの前に来るたびに、傑作ですね実に傑作です素晴らしいお人形ですねだとか言う。
もうひとつは低く落ち着いた声で、さいしょに「ティナ、元気か」と言う。
ひとつめの声のひとがわたしの前に来るたびに、わたしをお人形さんと呼ぶ人はこのひとだけだな、と、ぼんやりと思う。
ふたつめの声のひとがわたしの前に来るたびに、ああわたしの名前はティナというのか、と、そうわたしは思う。

「ティナ、少しの間だが君と話をしに来た」
「しかしいつも思うのだが…一体、どんな話をしたら良いんだろうな」
「まあ、楽にしてくれ。聞いていてほしい――」
ふたつめの声のひとが前にいると、時間がゆるゆると流れるようになる。
ときどき、わたしはそのひとに手を伸ばそうとして、そのひとの頬に向かって炎を奔らせてしまうことがある。
そのたび、そのひとの声は温かいままにすこし揺れて、またわたしに向かって、話をつづける。

「こら、力をコントロールするんだ。力の使い方をまだ教えられていないんだな、君は」

(わたし、よく……おぼえていないわ)
頭に浮かぶ景色は、赤と黒だけ。金属の色と血の色だけ。
わたしが覚えているのは、いつもしまわれているこの部屋からアーマーのところに行くうすぐらい廊下と、ぶしゅぶしゅ音を立ててはじける赤黒いかたまりだけ。

――失礼いたします。お話…中に申し訳ありません、将軍。
――陛下から、三十分後に会議室に参るように、とのお言葉でございます、将軍。
――新しいアーマーの試用実験の件だそうです、将軍。
「……わかった、準備しだい参る。使い、御苦労」

ヒトの声も機械の音も、わたしにはちがいがよくわからない。
……ヒトが「将軍」と呼ぶこのひとはなんという名前のヒトなのだろう、と、わたしはそう、ぼんやりと思う。




        *



わたしの頭の中にはぼんやり灰碧色の霧がかかっている。
わたしの頭の中では、なにか大きな音がひびいている。

寒い。
まわりには青い青い、空だけがある。
はるか下のほうに、土と草の気配がうごめいている。
上をむくと、それだけで激しい風がわたしを包み、さらに高みへと体を舞い上げる。
もっと、もっと。
もっと高いところへ、遠いところへ。
手を広げる。どこまでがわたしの体なのか、どこからが風なのか、わからなくなる。
どちらが上でどちらが下なのか、わからなくなる。
よくわからないけれど、胸のあたりがぎゅうっとなって、まるで自分が何でもできる雲になっているような気がする。

「うわあああっ!なんだあれは…!光っているぞ、化け物、化け物だ!」

なにか灰色のかたまりが、頭上に迫っていた。
かろうじて避ける。下の方に飛ぶ。
すこし払った手が、鼠色のかたまりに触れて、大きな音を立ててくずれた。

「――危ない!石造りの塔が崩されたぞ!」
「逃げろ、逃げるんだ!」
「警報を鳴らせ!化け物から離れろ!」

……ぎりぎりと頭に響く音が、なにか言っている。
ヒトの声も機械の音も、わたしにはちがいがよくわからない。

「オマエは、ナニだ?あっちへいけ!!」
たぶん犬が、なにか叫んだ。
「楽しそうだね、つれていってよ」
これはきっと猫が、わたしに呼びかけたんだろう。
おいで、一緒においでよ、この世界の一番高い所に、一緒に行こう。その猫に近づいて、彼を抱いていたちいさなヒトの前に立つと、驚いたような目をして一瞬ためらい、猫をわたしに渡してくれた。
「きみ、悪いやつじゃないね。ちょっとならいっしょにいくよ」
猫がまた、わたしに呼びかけた。
わたしはまた空をめざす。たぶん煉瓦の壁をつきぬけて、ヒトの気配の少ないほうへ、まるくて赤いおおきなものが地面に近づいていくほうへと、そちらにひきつけられていく。

もっと高いところへ、遠いところへ。
もっと。
わたしは今、どこにでも行ける。



        *



わたしの頭の中にはぼんやり灰碧色の霧がかかっている。
わたしの頭の中では、なにか大きな音がひびいている。

冷たい。
ぽつぽつと、体のあちこちに粒々したつめたいものがはじけている。
体中が重たくて、もう上に行けない。灰色のかたまりが。地面が近づいてくる。

ヒトの声を、思い出した。
「俺が守る!絶対、守ってやる」
あの声は明るかった。まっすぐに迷いなく、わたしを見てくれた。
「君のせいじゃない。私たちは敵に追われる、けれどそれは君がここにきたせいじゃないんだ」
あの声は深く温かく、ほほえみすらうかべて、わたしを見てくれた。
「おまえ、ぴかぴか好きか?おれのタカラモノ、見るか?」
あの声は何の含みもなく、おそれることなく、わたしにじゃれついた。
「兄貴のあれはビョーキみたいなもんだし気にすんな!よくわかんなかったらにっこりしてたらいいんだぜ」
あの声は、……

ヒトの声も機械の音も、わたしにはちがいがよくわからなかった。
でも彼らの声は、目は、他の何とも違って、他のどのヒトとも違っていた。
――あいたい。
みんなにあいたい。
わたしはきっと、ずいぶん遠くまで来てしまったんだろう。みんなから離れて。たったひとりで。
冷たい。
体中にふりそそぐ雨が、わたしの体をどんどん重くする。

――『ティナ』
だれ?今わたしを呼んでくれたのは、だれ?
――ティナ。
今わたしを呼んだのは、だれ?ロック?エドガー?セリス?
「……ティナ」

呼び声が、きこえる。
わたしのことを、仲間だ、と言ってくれたみんなとは別の、けれどとても懐かしい、はるか幼いころに毎日聞こえていた、ヒトとも動物とも違う生きものの声。わたしの中に流れている、この世のものにはありえない力に共鳴する、呼びかけが。
聞こえる。
――この力は……なに?
――わたしの中の、なにかおおきな力を呼び覚まそうとする。
ヒトにはあるはずのない何かが、わたしの中で暴風を巻き起こしている。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い!体が重い、どんどん冷えていく、わたしはもうどこにも行けない!

……わたしの頭の中でひびいていたおおきな音は、どんどん冷たく凍りついて、……何も聞こえなくなった。
さむい。
こわい。
頭の中には、まだぼんやり灰碧色の霧がかかっている。



 幻獣ラムウは、弱弱しく白い光を放ちながら牙をむいてうなるその娘を見て、自分の同類だと直観した。一気に力を暴発させて倒れこんでしまう若い幻獣を、彼は数十年前まで、何度か見ていた。おそらくそれがこの娘にも起こったのだろう、安静にさせて癒しの力を注いでやればおそらく回復するはずだ。
 ちいさくしゃがみこんで震えながらうなり声を上げるその若い幻獣を、ラムウはやさしくなだめ、抱え上げた。

(年月日不明)