別館「滄ノ蒼」

昏光

 
 ブラックジャックの賭場は薄暗かった。
 人がいない。常ならば着飾った紳士淑女がゆったりと座し、優雅に賭け金についてディーラーと話し合っているはずの場所だが、今はどのシャンデリアも灯っておらず、燭台に蝋燭はささっていなかった。いくつかのディーラー席に慎ましく置かれたランプが、常夜灯として明らんでいるばかりである。
 微妙にデザインの違う長椅子、椅子、カウチソファ。ローテーブル、スツール、脇台。上品な飴色に磨き込まれたそれらの間を縫って、歩く。
 壁際に、ビリヤード台。その脇に、やや古びた風情の一人がけ、チェスターフィールドソファ。手入れのよいアンティークらしく、腰掛けてみると、くたりと身体が沈む。
 すこし気に入った。
 
 ――さて、と、長い脚を組みながらエドガーは思った。
 あの銀髪の技師は――あえてそう呼ぼう、賭博師ではなく技師、と――機関室の最奥には、やはり立ち入らせてはくれなかった。
 昼間のことだ。エドガーが機関室の扉に近づいてきたと見るや、彼はとっとと扉を閉めてしまった。別のタイミングを捉えて話しかけてみたが、
「やあセッツァー。この艇の内燃機関はいい音をしているね、内部にぜひ――」
「そりゃどうも、デザートソーサーの油が燃料だからな。うろうろせずに座ってな」
「タービンの回転の調子はどうだい? 人手がいるなら――」
「いらねえし知らねえしリフィーバニーでいい。帰れ」
 あからさまにつれない返事をするありさまである。
 さらに追いすがろうとすれば、面倒くさそうに手を振って背を向けられてしまった。
 全力で来るなと言っているのだ。
 もちろん、むやみに他人を機関室に入れたくない理由も合理性も理解できるのだが。
 
 ――こんな大掛かりな機械の心臓部。
 
 ブラックジャックはゆるやかに空を舞う。
 ……ごおおおおーん……と、腹の芯に響いてくるような飛行音がする。
 
 ――見たい。見てみたいのだ。
 
 闇の中、この船は底を雲にかすめさせながら高度を上げているのだろう。
 長い睫毛に縁取られた繊細な目蓋をうすく閉じ、エドガーはこの船のエンジンの中で燃え上がる炎を思い浮かべていた。
 
 ――さて、どう口説いたものか。
 
 ギャンブラーのくせに――否、ギャンブラー故か、この艇の内燃機関だの舵の遊び幅だの冷却水の温度だののこととなると、あの男は異常なまでの集中力を発揮して、緻密な指先を工具の操作に活かすはずだ。エドガーはわかる。おそらく、作業中は他のことは耳に入らなくなり、鬱陶しそうに髪を耳の端から払い除けるのだ。
 そんな奴はどんな餌で釣ったものやら。
 身じろぎすると、古びたスプリングが短く軋む。束ねた金髪の先がソファの背でさらりと広がる。
 
「……暗い中一人で何してやがんだ、王様」
 薄く逆光になっているせいで表情は読み取れない。着流したコートの裾が少し揺れている。
 特にその男が来ることを期待していたわけでもなければ待っていたわけでもなかったけど、エドガーは軽く手を広げて、髪の金色が闇の中で輝くような華やかな笑みを浮かべた。
「なに、キミを口説き落とす方法を考えていたのさ」
 背はソファにゆったりと預けたまま、脚を組みなおす。
「男性を相手にするのは趣味じゃないんだけどね」
「けっ」
 舌打ちすると、セッツァーはそこらのランプをひとつ持ち上げて歩いてきた。脇台に置くと、撞球台の縁に腰を掛けて、内ポケットから煙草を取り出す。
「ぞっとしねえな。てめぇの何を積まれたって機関室の奥は見せねぇぞ。佳い女ならともかくな」
「もし女性だったとしても、身体など投げ出す気はないよ」
「存外下品な言葉をお使いになるもんだな、アンタ」
「それは心外だ。キミの理解できる言葉を使ったまでさ」
 は、とセッツァーは鼻で笑うと、煙草を咥えた。
「それで、やんごとない御意思は機関室の見学をご所望てぇ事で宜しいですかね」
「そうとも。見るだけでいい。どうだ、何がほしい?何でも望みのままに…」
「褒美だろうが礼だろうがいらねんだよ」
「おっと、また振られたな」
「自分でも判ってたろうが。悪手だって」
「まあね」
「ふん」
 カチ、という一瞬の音の後、癖のある苦い香りが立つ。
 セッツァーが上を向いて煙を吐く。ランプの鈍いオレンジ色の光が横顔を照らし、淡く揺れたように思えた。
「……そうだな、こういうのはどうだ?」
 薄紫に光る視線をにやりと細めて、言う。
「勝負しろ。手加減はなしだ」
 セッツァーは台の上に載ったままだったキューを取り上げ、一本をエドガーの方に転がしてよこす。
「俺が負けたら機関室でもどこでも好きに見せてやるよ。先手、いくぜ」
 カン、と音をたてて、10個の球は各々鋭い直線をひいていく。
「ナインボールのルールは知ってるよな?」
「大体はね」
 セッツァーは内ポケットから煙草の箱を出して、脇台にぱさりと投げた。
 エドガーは、それに腕を伸ばして、一本抜く。
 火はつけずに咥えたまま、球が散った台の上を眺める。球の影が暗く伸びている。
 その銀髪と同様、冷たく光を反射するような声が響いた。
「どうした、怖気づいたのか」
 いいや、と応えて相手を見やると、口の端を歪めてみせる。
「玉を撞くより表裏を賭けるほうがいいか?」
 淡い紫を宿した眼が、にやりと皮肉げな色を帯びた。キューを構えなおし、エドガーの喉もとに向けて軽く持ち上げてみせる。
「もちろん、ここのコインでな」
「嫌だなあ」
 エドガーは上品に口もとをほころばせ、キューを取り上げて立ち上がる。すっと背をかがめ、狙いを定めた。
「素直に見せる、と言うのが良いぞ」
 手球を撞く。カツン、硬質の音が響いて、
「自信のない勝負はしないことにしていてね」
 的球がひとつ、優雅にごとりとポケットに沈む。
 もう一打。カン、と密やかに乾いた音が立つ。的球は弾かれて、手球の手前にきっちり寄せられる。
「そしてね、今はどういうわけか全く負ける気がしないんだ、私は」
「……嫌な野郎だ」
 ブラックジャックのエンジンの音が、ごくごく低く響いている。
 エドガーはにこりと笑い、キューを下ろして煙草に火をつけ、
「次手、どうぞ」
 と言うと石灰を取りあげ、壁にもたれた。
 ギャンブラーの、青白く筋の目立つ神経質そうな手が、精緻にキューを撫でた。
「文句なしに勝つ気かよ」
 球の角度を測りながら、煙草を咥えなおす。目をすがめて盤面を見やると、キューを持ち直した。カツン、と音がして、台の上の空気が動く。
「勝つと思って勝負してると足元をすくわれるもんだ」
「ああ、賭博師にそういわれると少し自信がなくなってくるなあ」
「アンタは常に自信満々だろうが」
 セッツァーがゆっくりと移動し、背を屈めると、銀糸が黒い背中を流れ落ちた。
 コツン、と弾音が響く。球が緑のフエルト上で壁に反射する。ごとり、とポケットに沈んでいくのを目で追いながら、煙草の灰を払う。
「こんな尊大な王様に治められているフィガロ国民に心から同情するね、俺は」
「最高の褒め言葉だよ、ふふふ」
 もう一手、今度は的球がわずかに軌道を逸し、賭博師は小さく舌打ちする。
 エドガーが壁から背を離し、優雅に周りを歩く。すっと背を屈めると、ランプの光を片側に受けて、金髪の輪郭が鈍く光った。
 二人が上着を捌いて場所を移動するときだけ、室内の空気が大きくかき乱される。
 
 どこかで時計の針の音が響いている。
 
 遠く、近く。けだるく温かな光に沈んだ室内の、そこかしこに映りこんだ二人の影が蜘蛛のように踊る。ゆるゆると流れる時間。時折響く、球がぶつかり合う硬質の音。
 どれほど時間が経っているのだろう。なんとも不思議な感覚だ。ゆるりと穏やかなくせに、頭の隅は冴えきって熱い。言葉をかわす相手とは、手の内の硝子の破片を見せつけあっているような。
 エドガーは頬にほつれかかった金糸を指先で払った。
 
 残った的球は、あと2つ。
 
 
(2023.2リライト)