別館「滄ノ蒼」

夕赫(03)

「―”ブラックジャック”だ」
 彼が初めてその名を呼んだのは、空がどこまでも冷たく澄みとおった冬の日だった。



 立春が過ぎたといっても実際は真冬のさなか、という季節に、セッツァーは自らの艇を初めて駆った。
 初飛行はそれなりに成功と言える程度にはうまくいったのだが、彼は地面に降り立ったとき、まるで足元がおぼつかず、どん底まで酔っ払ったような顔をしていた。
 体は芯から冷え切り、頭の中はぐちゃぐちゃで、腹の底が突き上げられるように熱い。膝がガクガクする。
 ダリルはその頭を抱え込んで、初飛行にしちゃ上出来よ、とぐるぐるなでて大笑いしたかと思うと、そのままセッツァーを酒場に引っぱって行った。
 席を占め、ふたつのグラスに酒を注ぎ、ひとつを手にとる。弟分の目の前に置いたもう片方にかちん、と合わせ、ダリルはささやく。

―おめでとう。…あんたの、空に。

 視点の定まらないままテーブルに突っ伏している銀髪頭を尻目にアルコールを喉に送り込み、満足そうに息をつく。にっと唇の端を上げ、しまらない顔してんじゃないわよと言って脛を蹴とばす。
 顔をしかめてようやく起き上がった薄紫の目をのぞきこんで、ダリルは言った。
―確かあんた言ってたよね、今まで誰にも誕生日を祝ってもらったことなんかない、って。
 それはあまりにも唐突な話題で、セッツァーはぼんやりした目のまま、何の話だ、と怪訝な顔をした。
 ダリルは続ける。
―あたしはあんたを祝うわ、これから毎年。
 店の暖炉の火を受けて輝く深い色の目は、紫色の目をまっすぐに射抜く。

―あんたの艇は、あんたの分身は、今日生まれたんだから。あたしは祝うわ。必ず。何年経っても。

 ぞくり、背筋が震えた。
 セッツァーは思わず弾かれたように座りなおして、ダリルの目を見返した。

―…名前をつけてあげなさい。もう一人の、生まれたばかりのあんたに。

 まわりの喧騒がすうと引いて音が消え、暖かさだけが残った。暖炉の炎が大きく揺らめく。
 その時初めて、ようやく手に入れた艇の名前なんぞ全く考えていなかったことにセッツァーは気づいたのだったが―ごく自然に、それは口をついて出た。
 彼にとっては馴染み深い、ゲームの名。
 それを聞いたダリルは少々呆れたように片眉を上げ、あんたって根っから博打屋だね、と笑った。

 そしてその日、二人は色々な約束をした。
 「ブラックジャック」は二度目の誕生日を迎えるまでに、ファルコンと競える程度のスピードを出せるようになること。月に一度位は、並んで空を飛ばすこと。そしてそのための待ち合わせの丘。

 それからというもの、セッツァーは時間が許すかぎり何度もブラックジャックの舵を握って飛び立った。そして飛ぶたびに、やっと視界にとらえたファルコンに散々引き離され、夕陽に溶けゆく機影を遠く眺めた。
 それはもう、幾度も。
 けれどそれは決して不快ではなく、むしろ口笛でも発したくなるような愉悦だった。
 どれほど大勝ちするよりも、どんな高価な娼婦を抱くよりも、得がたい興奮だったのだ。
 誰よりも高くから、誰よりも遠くまで、山脈を、海峡を、半島を、夕陽を、みはるかすときの視界。
 何よりも速く、鳥たちの群れを追い越して雲海を突き破る瞬間の、重力を失ったような感覚。
 そして更に高みを見上げれば、はるか先を飛んでいく、ファルコンの小さな機影。
 その、何もかもに――。

 要するに、賭博師は夢中になっていたのだ。
 何よりも、誰よりも大きな「空」という存在を相手に張る、「賭け」。
 賭け銭として積むのは、自分自身。技師としての、操縦士としての、腕。
 そんな博打を、セッツァーは他に知らなかった。
 風だけを聞いて、雲だけを眺める。生き物の気配を近くに全く感じない世界で。
 そして何も聞こえなくなる。何も思い出さずに済む。ただ、「現在」―たった今、このときの空の色だけを眺めていれば、それでいい。それだけで十分だ。
 けれど、孤独ではない。
 この大気の冷たさを知っているのは、自分ひとりではない。
 ダリルと、誰よりも信じられる相手と、分かち合える。
 舵を握れば―頬に空気の流れを感じれば、そう信じられた。



 …そして。
 今は一人で、飛んでいる。
 ファルコンがどこに出かけているのか、彼は知らない。

 風をまとい、空を切り裂いていく。
 一年で一番冷え込む季節が過ぎたばかりの今、雲を抜ければ太陽は照り輝いていても躰は温まらず、身を切る風に手はかじかみ、耳が引き千切られそうだ。

(…だが、これぐらいでちょうどいいのかも知れねぇな)
 一人で飛ぶときは、何も聞こえなくなる。何も思い出さずに済む。
 轟音で、風の冷たさで、空の愉悦で、感覚を満たしていれば―きん、きん、と頭の底で昔から鳴り響き続けている、規則正しいくせに耳障りな音を忘れられる。
 今までは、ヤバい客の神経をわざと逆撫でして、自分の首筋にナイフを当てるようにしてゆらゆら賭場を渡っていくことでしかやり過ごせなかった、音を。
 ―だからセッツァーは高みを求め、最大限までブラックジャックを駆る。
 もっと、もっと。速度を。高さを。空気を感じ取り。風のうなりで頭を埋めて。もっと。―

 …不満そうに悲鳴を上げる機体をなだめつつ、ゆっくりと旋回して地上に降り立つ。
 少しはスピードが出せるようになったものの、この艇はまだ高度が出せない。駆動力が足りない。
 ファルコンに引き離されずについていくだけでも、今のブラックジャックにはとても無理な相談だろう。
(まだまだ俺は、アイツには追いつけないらしい)
 今朝早く、友達に会いに行くんだ、と笑って彼女はさっさと出かけていったのだが、ダリルの友達などセッツァーは誰一人知らなかった。
(…くそ)
 舵から手を離して斜め後方へ、五歩、六歩、欄干にもたれた。煙草を取り出し、咥える。
 低いエンジン音を上げて周りの空気をかき乱す武骨な艇の甲板は、意外に狭いような広いような、なんとも不思議な眺めの空間だ。
 甲板の真ん中、舵の辺りに向けて、両の親指と人差し指で視界を四角くきりとってみる。
 ファルコンに乗せてもらったときにちょうどいつもそうするように、もしもダリルがこのあたりに立ったなら、自分はどんなふうに見えるのだろうか。

―あたしはね。
 声が蘇る。いつも風の音とともに耳に届く、声が。
―あたしは、ここに立っているときの自分が一番好き。
(…そうだろうな、ダリルよ―)
 ファルコンの舵を握り、轟々とうなる風に気持ち良さそうに目を細め、髪をなびかせる姿。
 無茶苦茶に高度と速度をあげて急旋回し、満足げににんまり唇の端を上げる、横顔。
 何よ、怖いの?と、くすくす、喉の奥でころがすような笑い声。
 見ているだけでぞくぞくする。どれもがたまらなく佳いと思う。とても敵わない、と思う。
 そしてそのどれもを、この腕の中に抱きしめるなど、全く思いもよらない。そろそろと近づいて、肌の温度を少し分け与えてもらう―たとえば遠慮がちに唇を寄せる―のがせいぜいだ。
 ―と、いうよりも、ほんの少しでもただの女として見たならば、その瞬間に親友の姿はまるごとこの世から消えてしまいそうな気がしている。
 きんと澄みとおった空気が、鼻の奥を刺した。

 今は、まだ。
 地上に降りれば未だ、ふとした瞬間に耳の奥の金属音は小さく鳴り始める。
 振り払うように吐き出した煙草の煙は立ちのぼることなく、瞬時に風に散った。

 そのとき、はるか上方、雲の向こうにきらりと光る小さな丸い飛行体が、セッツァーの目を捉えた。それはかすかな白い線を、白金を帯びた夕空に引きながら、みるみるうちに遠ざかっていく。
 耳の奥に、独特のひそかな轟音を残して。

「いつまで地面にはいつくばってるつもり?飛ばないでどうするのよ」

 喉の奥でくすくす笑ってそう投げつけてくる、声が聞こえたような気がした。
 まばゆい光に染まった甲板に靴音をはね返しながら、セッツァーは自らの孵化したばかりの分身、ブラックジャックの舵に向かった。

―待ってやがれ。
―待ってやがれよ、ダリル。必ずいつか、追いついてやるからな。
 口の端が上がるのをこらえきれずに俯き、再びエンジンを起動させた。

 機械のうなりが再び空気の渦を生み出し、銀髪の青年の全感覚は風の泣く音に埋めつくされていく。

 

(2008.4.6初稿)