別館「滄ノ蒼」

夕赫(09)

「俺は馬鹿みたいに夕空を眺めていた。
 いつまでたっても、見慣れたフォルムの白い飛空挺が空の一切を支配しながら姿を現さない。それが不思議で仕方がなかった。太陽が地平線の向こうに落ちていき、涼しげな宵闇が空を覆いはじめたが、俺はやはり馬鹿みたいに突っ立ったまま、空を眺めて待っていた。
 そんな夕暮どきが二ヶ月続き、三ヶ月続き、―いつの間にか冬が終わって、夜を迎える時刻の空気がどんどん暖かくなり、蒸し暑い熱帯夜が何度も過ぎた。ま たいつの間にか涼しくなったのに気づいた頃には、もうほとんど意地で―何を待っているんだかわからなくなっていた程に、待ちつづけていた。
 ちょうど、そんな頃、だったんだ。見つけちまったんだ。アイツのヌケガラを―ファルコンを。
 いくら待っても、もう二度とそれが舞い上がる姿を見上げることはできないんだと、地に堕ちたその鳥の姿に、突きつけられた気がした。
 …その日の夕陽もやはり、いつだかと同じように―いつだったかなんて、もう思い出せやしねェが―えらく朱く輝いていた。機体だけを眠らせた大地の上で、俺は何度もダリルの名を呼んだ。草をつかみ、土に爪をたてて、いつまでも声を嗄らして哭(な)いた。」



          *



 その夜、妾(ボク)を買った客?
 ―銀の糸みたいな髪と珍しい紫の瞳をしてたっけね。
 夜中は少し過ぎていたかな。
 声をかけられたのはどこだったっけ、どっちにしろ周りに人はいなくて、暗かった。
 その夜一人目の客ってのが、色ボケのくせに精なしの爺さんだったんだよね、確か。
 で、そのジジイ…じゃない、旦那様をとっとと寝かしつけて出てきて、その日の商売をお仕舞いにするのはちょっと早いなと思いながら夜風に吹かれて歩いていたところだったから、声をかけられたときはラッキーとしか思わなかったわけなんだけど。
 その人、顔を伏せたままだったからさ、陰気な人だなとか珍しい色の髪だなあとか、思ったかもね。
 それから…そうそう、ずいぶん声が嗄れているな、と思ったんだよ。

 妾(ボク)は腰を抱かれて、場末の殺風景な待合―待合(まちあい)って知ってる?要するにナニとかナニとかする所、そう正解。そーいう所に入ったわけ。
 そこで初めて、暗いけど一応灯りの下で、客の顔、見れるわけでしょ。
 そしたら、びっくりだったよ。若めの、わりと冷たい感じのヒトだなーとか思う前にさ、傷跡だらけだったからね、その客。
 古いのから新しいのから、まあどんなヤバいことしてるヒトなのかと思ったよ。
 おまけに紫瞳でしょ、ちょっと怖かった。紫目の奴は魔物の血が混じってるだとか言うじゃないお伽話とかで。…知らない?へー、どこのお伽話なんだろ。
 当然、びっくりしたんだよね妾。
 おまけにさ、腕やら腹やらに幾つか剣創がある客、ってのはそんなに珍しくないんだけど、その客の傷跡って、数が多い上にどう見たってヤラれた得物がバラバラだったんだもの。
 …なんでそんなこと判ったかって?いろんな客にイロイロ教えてもらえるんだって、こんな商売してるとさ―そーいうことにしといてよ。

 で、その客さ、部屋に入っても相変わらずじーっと床、睨みつけたまま、煙草なんかふかしてんの。
 こっちは商売が商売なわけでさ、困るじゃん?だからいろいろ話しかけたりとか、首に腕をまわしてみたりとかしたんだけど。自信あったんだけどね、無邪気を装った媚態ってやつ。
 そしたら急に頭を抱き寄せられて、耳元に吐き捨てられた。かすれた声で。

「余計なお喋りをするんじゃねえよ。ガキが」

 次の瞬間には服を肩から引き剥がされて、口の中を舌でまさぐられてた。
 苦い、煙の匂いが鼻をついた。
 そしてその客は、妾をあっさりと抱え上げて寝台に投げ出し、あっという間にその辺の布で目隠しすると、股間を掴んでそのまま後ろからのしかかってきた。

―ごめんねぇお姉さん、妾の話、ちょっとばかし刺激、強すぎやしない?
 素人さんに―それも女のヒトにこんなコトしゃべるの、妾も初めてなんだよね。

 ま、さらっと言わせてもらえばさ。
 その客は一晩中、妾をまるでモノみたいに扱ったよ。ヒドイよね。
 だけど、妾は射すくめられたように抵抗できなくて、意のままに甚振られつづけた。
 胸の厚さや肌の白さなんか妾とそう変わらない割に、妾を寝台に押さえつける指先の力が妙に強い男だった。
 他の客みたいに可愛いとか勿論言ってくれなくて、脇腹を撫でてもくれなかったのだけど、妾は胡乱なモノのように意識を何度も蕩けさせられた。
 押さえつけられたまま、この客はこんな酷い抱き方をしながらどんな顔をしているんだろう、だとか思ったよ。
 いつの間にか目隠しにされてた布がずりおちて、部屋全体、見えるもの全部がぐらぐら揺れていた。
 後ろから突き上げられながらぼんやりした視界をそちらにめぐらせてみると、

 …その客は、

 その客は、ぞっとするほど冷ややかに妾の背中を見下ろしていた。

 なんの感情も失ってしまったように、紫の視線が妾の上で凍りついていた。
 その青白い頬が、ふと僅かに、く、と引き攣り。

「――…」

 何かの言葉をなぞるように、唇が動いた気がした。

 閉じられないままの目からひと筋、涙がこぼれ落ちた。
 水滴は身動きするたびに、その客の頬をぬらし続けて。

「――……」

 色を失った薄い唇は、何度も何度も、おなじ言葉の形に動いていた。
 もしかしたら誰かの名前なのかもしれないと、そう思った。

 いつまでたっても、その客の目は虚ろで、凍ったようにどこも見ていなかった。

(この人は何を思っているんだろう)
(この人は誰を呼んでいるんだろう)

 妾に欲望なんか感じてないくせに続けられる、一方的な行為。
 腰に絡みついた、筋ばった大きな手の、全く熱を帯びることのない乾いた感触に、妾はずいぶんいたたまれない気持ちになり―枕に顔を埋めて、喜悦の声を上げ続けることだけを考えたんだ。



(2008.6.15初稿)