細く目を開けると、世界全体が薄明るく発光しているような、降り注ぐ光に包まれていた。
(どうしたん、だ……俺は、)
意識が泥の底に沈みこもうとするのを、彼は意志の力で無理やり覚醒させようと努める。呼吸を整え、ゆっくりと目を開けていく。視覚、続いて聴覚、触覚、――そして記憶。あらゆる感覚をゆるゆると身にまといなおしていくにつれ、ぬぐいがたい違和感が彼の体全体を這いのぼってくる。
(俺は、なぜしゃがみこんでいる……のだ、ここは……、月、では、ない……?)
空気は白っぽく曇りの色をしており、ぼんやりした色合いの野が目に映る。地面をかいた右の指先からは、乾いた砂の感触が伝わってきた。はっとして左手を探ると、手になじむ槍の柄を握り締めたままであることに気づき、少しほっとした。
彼は月の地下で、耳から脳の奥に侵入してくるような静寂の中を走っていたはずだ。だが、押しつぶされそうな無音の感覚も、ともに走っていたはずの――彼が倒れていればしゃがみこんで介抱してくれているであろう――仲間の声も、暗く輝く渓谷も、およそ覚えている限りのものは何もない。かわりにあるのは、何かが動きまわっているような地面のわずかな振動と、人が身を捌く気配、剣戟のような金属音――
剣戟だと?
彼は一気に全身の筋肉を緊張させ、跳ね起きた。長年、戦士として鍛え抜かれてきた彼の直感は、考えるよりも先に体を戦闘態勢に整えた。槍を構えると同時に目に飛び込んできた光景に、彼は思わずわが目を疑った。
何の変哲もない岩肌から、何十もの剣先や矛先や鉄錘が次々と繰り出されており、一人の戦士が両手に武器をふるって、それを延々とはね返しているのだった。
(何なんだ、あれは……セシル?)
彼は一瞬、親友の名を思い浮かべたが、すぐにそれを打ち消し、そちらに駆け出した。
戦っている青年の後ろ姿は、長めの銀色の髪以外、友人とは全く似ていなかった。彼の友人は斧とナイフを同時にふるったりせず、弓と槍を背に装備しているところなど見たこともなく、第一、結わえた髪の上に布を巻いたりなどしなかった。
岩壁の中の何者かが新たな敵を認識したのか、数本の刃が彼に向かって繰り出されてくる。まとめて柄から斬りとばす。飛び上がりつつ、彼はその見知らぬ青年に向かって、叫んだ。
「――加勢するぞ!」
青年は驚いたように彼を見上げたが、「頼む!」と一声あげて、再び斧をふるった。
「……とんだギミックだったな」
岩壁が刃をおさめ、音を立ててうごめきながら崩れていくのを見やりながら、銀髪の青年は額の汗をぬぐう。器用に武器をおさめるその所作を、彼は感心して眺めていた。使っていたナイフと斧、それに槍と弓の他に、剣までちらりと見えた。いくつ武器を持っているのか、邪魔にならないのだろうか。視線に気づいたのか、茶色の目が彼をとらえ、笑いかけてきた。
「ありがとう、助かった。――気がついてよかった、大丈夫か?」
「――ああ」
彼は竜をかたどった兜に手をやった。頭の底はまだうっすらと靄がかかったようだが、どうやら動作と思考に支障はない。
「竜兜の騎士、改めてお前の名前をききたい。俺はフリオニール」
聞いたことのない名の響きだった。長い名前だ、と思いながら、彼はフリオニールがさしだす、ごつごつした手を握った。
「カイン。……カイン・ハイウィンドだ」
「ハイウィンド?」
フリオニールが一瞬、眉間のあたりに不思議そうな色を浮かべた。おや、と思いながらカインは先ほどのフリオニールの台詞を反芻し、引っかかりを覚えた。
――気がついてよかった。
――改めて、お前の名を、
「フリオニールと言ったな。改めて、とは何のことだ? さっき気がつくまで、俺はこことは全く違う場所にいたんだが」
「覚えて……ないのか?」
フリオニールは、ややきつく見える目じりを困惑したように下げた。カインと同じくらいの年齢に見えるが、意外にまだ年若いのかもしれない。
「……気づいたらお前がそこに立っていて、俺が名前を聞いたら急に倒れた。そうしたら突然岩壁が動き出して……、あとは知っての通りだ」
その答えを聞いて、思わずカインは口の端をゆがめた。つまりフリオニールと自分は全く初めて対面したばかりで、自分がなぜこんなよく分からないところにいるのかなどと聞いても、答えは得られないだろう。ただ、そう言われてみればカインもまた、記憶が途切れる直前のことがすこしはっきりしたようだった。
月の地下で仲間を追って角をまがったとたん、薄明るい空の見えるこの岩場にいて、立ち尽くした自分に向かって男がこちらを振り返り、何か問うた、そこで視界が暗転した――ような気がする。
とりあえずの所、カインはこの世界について、フリオニールから何らかの情報を得る以外に選択肢はないようだった。
「……お前は、何をしているところだったんだ、フリオニール」
……まだ、この銀髪の男が自分に害をなさないと決まったわけではない。隙なく姿勢よく槍を持ったまま、カインは尋ねた。悪しき目的のために動く人物には見えないが、答えによっては――この男は、敵だ。
フリオニールは剣柄に手をかけたまま数歩、歩き、進むべき方向なのだろう彼方をまっすぐに見やって、言った。
「――調和の神、コスモスのもとへ――クリスタルを得て、それを守るために」
それを聞いて、カインは槍をおろした。
自分もクリスタルを求めていた、かつて。
闇色の鎧をまとった魔道士に精神を支配されながらも、その輝きを――世界の調和を支えているのだという、その光を手の内にした時は、畏れが身を震わせた。何かのために、あるいは誰かを守るために、それを護ることは、ついに自分にはできなかった。だが、そうしようとする目の前の青年を助けることはできるだろう。そう思った。あるいは単に、無意識のうちに親友の影をフリオニールに重ねて、罪滅ぼしのつもりでもあったのかもしれないが。
カインは口元を華やかにほころばせ、フリオニールを追って歩き出した。
「俺も――同行しよう」
振り返ったフリオニールの肩を軽く叩いて追い抜く。カインに向かって軽くみはられた目は、どこまでも清冽に視線の先を貫くようで、親友のやわらかな目つきとはやはり違っていた。だが、悪くない。……そう思っていると、フリオニールがまた追いついて来て、今度は並んで歩く。ごく自然に右側に来たところを見ると、カインが左手で槍を遣うことをすでに見てとっていたらしい。
「そういえばな、フリオニール。お前はどこから来たんだ」
聞いてから、カインは「フリオニールはこの近所に住んでいる人間である」かもしれないことに気づいて、肩をすくめた。
「クリスタルと言ったな? 俺もその力を知っている。お前は、何のためにそれを守る?」
フリオニールは少しの間、カインをじっと見つめると、不意に銀色の睫毛を伏せて、言った。
「――覚えていない。全く」
「なんだって?」
「気がついたら歩いていた。連れがいて、コスモスとクリスタルの話をしていたからどこに行くところなのかわかった。ただ、高台からこの景色を見わたしたとたん、終わらせなければと思ったんだ。強烈に」
「終わらせる?」
「ここは、戦いしかない世界だ――」
フリオニールは振り返り、来し方を見やった。花の香りやせせらぎの音はなく、ただ茫漠とした地面が広がっている。木も草も、風にそよいではいない。
「戦いのための戦いしかない世界だ。そう思った。この世界に人間は俺たちしかいない。誰かを守ったり救ったり、あるいは探したりするための戦いならば早く決着をつけなきゃならないが、それすらありえない。だからその無意味な戦いを、終わらせなければいけない。どうしようもなくその意志だけを覚えていた」
それは、フリオニール自身が元の世界から持ち込んできた感情なのか、あるいは何者かが――計り知れない神の意志が、そう吹きこんだものなのか。とにかくその意志に従い、フリオニールは調和の力を持つクリスタルを得ようとしているのだ。寒々とした空気が襟元に忍び込んだ気がして、カインは槍を握りなおした。話を聞くごとに、聞かなければならないことも増えるばかりだ。
「……連れがいたんだな? そいつはどこにいる?」
「何回か共に戦闘したんだが、気づいたらいなくなっていた」
「そいつの名前は?」
「セシル、と言っていた」
「セシルだと?」
「知っているのか?」
「ああ、……いや、」
同じ名前だからと言って、同じ人物とは限らない。そもそも、なぜ自分と親友が別々に同じところに来なければならないのか。そんな確率は、限りなくゼロに近いはずだ。
「そいつは……、この世界について詳しいのか?」
「少なくとも、俺よりは。コスモスの聖域も、地面や岩壁にギミックがあることも知っていた。それから――」
フリオニールは無言のまま、剣を抜きはなった。
カインもまた、槍を構える。戦士の研ぎ澄まされた感覚が、良からぬものの存在を察知していた。魔物のような、しかしどこか作り物めいたものが、湧きあがってくる気配。
現れたものの姿をみて、カインは思わずつぶやいていた。
「……セシル」
半分すきとおってはいたが、微妙に粘液じみた外観を蠢かせるそれは、まごうことなき友人の姿だった。
「イミテーションだ」
「何?」
「人ではない何者かが、この世界にいる人間の姿を映して現れる、化けものだそうだ」
槍の穂先をゆっくりと持ち上げながら足を運ぶ。カインはこの世界で初めての戦闘に足を踏み入れようとしながら、再びフリオニールの言葉を反芻していた。
(この世界にいる……人間?)
――ならば。
親友もまた、やはりこの世界にいるのだろうか。
自分はこの世界では、親友の進むべき道を切り開く、手助けができるのだろうか。
カインは槍をぐっと握りしめた。まずもって、今はこの偽物を倒さねば前には進めない。噴き上げるような闘気を放ってイミテーションを見据える彼を、フリオニールが見やった。物思うように視線をはずし、まっすぐに前を見つめる。
「……カイン。俺は、お前のような背中を昔、見ていたような気がする――」
暗い色の鎧、武器を左手で遣う戦い方。
「――何か、思い出しそうなんだ」
そう言うとフリオニールはイミテーションに向かって駆け出し、剣を振り上げた。
間をおかずにカインもまた走り、跳躍する。
――戦士たちは、まだ知らない。
なぜ自分たちがこの世界に入り込むことになったのか。この世界の一体誰が、何のために戦いのための戦いを繰り返しているのか。そして、それが終わる日は来るのか。
おそらく道の果て――戦いの輪廻の果てが、彼らをその答えへと導くだろう。