別館「滄ノ蒼」

コノソラノシタ

 

やわらかな緑の髪の。
海神に慈しまれた。
儚く強く、くるくる表情を変え。
火の、氷の、大地の、王の、幻獣を呼び出す。
―不思議な、愛らしい、愛しい。


その姿はいまだ、少女のまま。




この空の下に、お前は居る。







お館様ー…、と、かすかに呼ぶ声が聞こえた気がして、エッジは下を見おろした。
涼しい風が、足もとの枝をさらっていく。感覚を研ぎ澄ませてみても、地上には誰の気配もない。

(…気のせい、か)

再びはるか正面に目を向ける。
エブラーナの大陸の、最もよく高く繁った木のてっぺん近くまでこうして登ると、かつてその中を駆けあがった巨大な塔のやや朽ちた姿がよく見える。

バブイルの塔。
その名とその姿は、今となっては、若く未熟で苦しかったころの自分を苦笑とともに思い出させる。
それは今や、王となったエッジにとっては、自分にくっついてしまった大層な肩書きだの身分だのをとりはらって息をつくために眺めるものになっている。

(…いや、はっきり言やぁ)

今ほど色々な重いものを背負っていない、気軽な身分だった頃の自分に戻って、あの頃のように単純に想いだすだけだ。
ただ一人の、そのひとのことを。



やわらかな緑の髪をして。
誰からも慈しまれて。
怒ったかと思えばよく笑い。
火の、氷の、大地の、王の、幻獣を呼び出す。
―儚く強く、愛らしい、愛しい。

思い出す姿はいまだ、少女のまま。



(なぁ、お前は今、何してる?)


幻獣界に渡ったり村の子供をかまったりと、彼女は忙しいことだろう。
きっと、あの華奢な肢体はくるくる働きまわっているだろう。
細い緑の髪は相変わらず風に乱されるともつれて、そのたびに少し唇を尖らせているだろう―

…いや、今はおそらくもう違う。

自分の中では、彼女は成長することを止めてしまっているらしい。そうエッジは思い至り、少し苦笑した。
あの戦いが終わって以来、ほとんど会ってはいない。お互い、肩にのしかかったものもやるべきことも山のようにあって、住むべき世界が均衡を取り戻すには長い時間がかかって、今はまだその途中なのだ。
まぁどうやらありがたいことにエブラーナは、王であるエッジが2・3日城にいなくても問題はない程度に安定はしているが。


(…なぁ、お前は今、どこにいる?)


うなじの白さも、なめらかな背も、こんなに鮮やかに思い出せるけれど。
(―ねぇエッジ、何してるの?見せて?)
ふわふわした髪の匂いも、肩の細さも、これほど鮮やかに覚えているけれど。
(―やだ、どこ見てるのよ、エッジのばか!)
よみがえる幻の姿は、澄んだその声も、可愛らしい顔も、むくれてばっかりだ。

風が吹きぬける。
はるかに見える塔はあいかわらず、静かにたたずんでいる。
エッジは幹にもたれた腕の位置を変え、体を支えなおした。空が青い。

枝がざわり、と音をたてたところで、静寂が破られた。

「お館様ー!」

今度は空耳ではない。この木のすぐ足もとだ。
視線を落とすと、忍が一人、片膝をついてこちらを見上げていた。

「…イザヨイか」
「お探しいたしました、どうか城へご還御のほど…。そして、われらに稽古をつけてくださいませ」
「探さんでいい、っつったろうが―」
「―お館様!」

ひた、と見上げてくる真剣な、まっすぐな目。切れ長の黒い目。
この娘の目を見返してやることが、なぜかできなくなったのはいつからだったか。

「…判った。戻る」
エッジはマントを直すふりをして目をそらした。
ゲッコウ達も来ているのか、と問えば、皆待っております、と弾んだ声が返ってきた。
「先に行ってろ。すぐ追いつく」
一礼して、イザヨイは駆け出す。

エッジはもう一度、塔を振り返った。すこし朽ちかけた、はるか高い。
口元の布を引き上げようとした指が、ざら、とした頬の感触をとらえた。

(…帰ったら、剃らなきゃな)
独り身なだけに身づくろいはいいかげんになりがちだ。そしてまた城に戻れば、王として威厳がどうの御身の安全がどうのと爺に説教されるのだろう。

面倒な現実のいろいろなことに戻るべく、エッジはゆるゆると「王」の鎧に身を包み、軽やかに大枝を降りはじめた。

さすがに昔のように、枝の先から先に飛び移ってついでに宙返りを決める、というわけにはいかない。
年を追うごとに、明らかに俊敏さも瞬発力も落ちてきている。笑えば目尻にしわが寄るようになっているだろうし、あと数年すれば髪やひげに灰色のものが混じりはじめるのも時間の問題だろう。―

小さくしのび笑いがもれた。

それでもさすがに、エッジは足音ひとつ立てずに正確に地面に舞い降りた。
ひとつふたつ関節を鳴らすと、全く無駄のない姿勢で、矢のように走りはじめる。地上からバブイルの塔は見えず、木立の間に射しこむ日の光は白く明るく、忍の王が姿を消した後の林には、鳥一羽鳴いていない。


木々の葉ずれだけが、ざざ、と風を揺らしていった。

(2008.8)