1
革命軍は旗揚げから1年足らずで、ある地方の村をいくつか、手中におさめた。
悪政に貧窮した地方で、ゆえに人間も魔法使いもなく肩を寄せ合って一つの芋を分け合い、なんとか今日を生き延びる、そんな毎日を繰り返していた寒村だった。革命軍の若者は皆、村の人々と交じわり、肩を組んで、これから作り上げるべき世界の理想を語り合った。
軍主アレクが新しい佩刀を得たのも、この頃だった。それまで彼は、家から持ち出してきた古い鉄剣などを使っていたのであるが、村人が言い伝えをもたらしたのだ。いわく、打ち捨てられた古い神殿の奥に突き立ったままの剣と、持ち主であった男のおとぎ話。
アレクは皆を伴い、噂の場所を訪れた。剣は確かに存在しており、アレクが柄に手をかければ、優美な刀身はすんなりと彼の手に収まった。
皆が、村の広場に集まってきた。
ちょうど朱金色のひかりが地平線に沈みきり、宵の青が空を覆っていく時刻だった。
何人かが焚火をつくり、円くなって座るよう皆にすすめる。村の者が薪を持ち出してきて、火に投じた。火の粉が勢いよく舞い上がり、辺りの森がシルエットになる。
そこへ、十人ほどに囲まれて、アレクが歩いてきた。手に長剣を下げている。
周囲はわっと声を上げ、手を叩く。人垣が割れて、焚火の前の座へと導いた。アレクは笑って剣を掲げてみせた。古びた装飾の、それでも丁寧につくられたことがわかる、鈍くひかる柄頭がついている。
興奮に声をあげながら、兵士たちは手をのばした。そのうちの一人の手に、アレクが剣を渡す。兵士は目をかがやかせて剣を捧げ持ち、口づける。そして隣の者に手渡した。
「革命軍に勝利を!」
「革命軍に正義を!」
「指導者アレクと副官ファウストに幸運を!」
あちこちから声が上がった。
炎の周りの人々は、次々とカレトヴルッフを手渡していく。姿勢をただし、宝剣を受け取って持ち上げ、鞘に口づけては、次の者に渡すのだ。
アレクは外套の裾を払うと地べたに座り、にこにこと兵士たちの様子をながめながら、焚火に頬を照らされていた。血色がつやつやと透ける日焼けした肌に、銀の髪がうちかかっている。
「アレク様、杯をどうぞ」
「……これは? 酒なんて私達の物資にはなかったと思うが」
「村の者が蒸留酒をわけてくれたんですよ。……水で割ってあるというか、水に酒を垂らしたというかですけど」
「はは、そうか。ありがたいことだ、いただこう」
アレクは笑って杯に口をつけると、ファウストに向かって「皆にも行き渡るように、分けてくれ」と言った。
「かなり強い酒だな。こんなに薄めても樽の香りがする」
「飲みすぎるなよ、アレク。お前は囃されると、調子に乗るんだから」
「酔うほどの量じゃないさ」
友人の肩をたたいて、アレクは杯を持たせる。いたずらっぽく目を細めてうりうりと頬をつつき、「ファウストのー、ちょっと良いとこ見てみたいー」などと囃した。
「そういう所だぞ、アレク」
少し嫌そうに顔をしかめて、ファウストは杯をぐいと傾けた。
「ほんとに薄いな、この酒」
「だから言っただろう。平気だって」
「お前は、そうやってなめてかかるのがだな」
「はいはい、今日ばかりはいいだろう。君も、ほら、楽しむといい。皆、カレトヴルッフを手に入れたのを喜んでくれている」
アレクが広場を見やる。円座する者みんな、薄い酒を回し飲みしては宝剣を指差し、喜びの声をあげていた。あっちこっちで時々、笑い声がおこる。
「雑に扱うんじゃないぞ、あの剣」
「わかっているさ」
アレクは杯をファウストから取り返し、ちびちびと中身をなめた。そこへ、カレトヴルッフが回されて返ってくる。にこりと笑って受け取るとアレクは立ち上がり、もう一度大きく、剣を掲げてみせた。
一同がわっと沸いたところで、隣のファウストに声がかかる。
「ファウスト、あなたの舞が見たい」
「舞など……。僕は不調法だよ」
「そんなことはない」
「一度見たことがあるぞ。とてもお上手だったじゃないか」
「そうだそうだ」
辺りの声に押されて、ファウストはしぶしぶ立ち上がった。
「仕方ないか……」
「じゃあ私は、笛でも吹こう。皆、歌ってくれ」
「アレク、お前まで」
じとりと友人に視線を向けるが、彼はさっさとどこからか笛を取り出したので、魔法使いの青年は溜息をついて数歩、前に出る。
手のひらに収まるような小さな笛の高い音が、ヒュイッ、と短く鳴らされた。
ファウストが魔法で扇子などを取り出す間もなく、いくつもの物が差し出される。
「ファウスト! この枝を」
「扇子の代わりに」
「ファウスト! この旗を」
「舞装束の代わりに」
「ああ、……ありがとう」
焚火が燃え上がる。空の色は濃藍色に変わり、炎から放たれる熱と光が、皆の顔を明るく照らし出していた。
「勇者の宝剣を手に入れた、この夜に祝福を」
「勇者の加護は我らにあり。革命軍に勝利を」
「ファウスト、あなたの舞を見せてくれ」
「……それでは、ひと差し、僭越ながら」
ほつれた旗をひるがえして、ファウストは舞い始めた。
笛の一声を合図に。人々の歌う、調子外れの声を音楽の代わりにして。姿を照らしだす照明はなく、皆が囲む焚き火を代わりにして。
手にした枝が、ゆるりと宙に曲線を描き、円を描く。彼の身体がくるりと回転するたび、人々の歓声があがる。
アレクはしばらく笛を奏していたが、ふいに笛を口元からはずし、近くの者におしつけた。
帳面を取り出し、素描をはじめる。
笛を渡されて、四苦八苦しながら音を出している者を振り返ることはない。ちびた鉛筆が、彼の幼馴染の姿を描きとっていく。近くの兵士が肩越しに覗き込む。
「アレク様、それは」
「なに、下手の横好きというものだ。あまり覗き込まないでほしいな」
「そのようなことは……。大変お上手だと思います、あなたは画家にだってなれたでしょうに」
「いや、駄目だな。私には」
「……なぜです?」
「……私には、絵でひとのこころを動かす才能はなかったからね。腹を満たすこともできないでいるのに、あえて筆を取るほどの気概も熱意もなかった。だから戦うしかないと思った」
軍の物資や土地の記録を書き付けた次のページに、枝一本をかざして舞い踊るひとのかたちが、線を重ねていった。
「際立った才のない者は、剣をとってあがくしかない。筆や絵具や玩具よりも、とにかく今日の粥が必要だった。皆、そうだっただろう?」
アレクは視線を上げた。ファウストの舞姿が、焚火の赤い光を浴びている。
枝が空をはらい、翻った布が闇の中にたなびく。
アレクを中心としたこの喜びが、いつまでも続くように。そう祈りの込められた舞だった。
ふわりとやわらかく目を細めて、アレクはまた鉛筆を動かしはじめた。
2
革命軍は勝ち進み、掌握地を拡大していった。
そしてついに、ある都市を落とした。城門は内側から開き、民は革命軍を迎え入れ、悪政をもって跋扈していた猾吏は討たれた。
指導者アレクおよび副官ファウストのもと、すみやかに平穏がもたらされた。街の周囲からは人々が集まり、革命軍に加わろうとする者、革命軍のために商売を始める者、その他有象無象が列をなし、歓呼と喝采とが城壁に満ちた。
街の中心にはファウストの部隊が先に入り、場を整えたのち、アレクの本隊を迎えることになっていた。
城壁の周囲に難民などが集まっており、かれらを収めるための対応が必要だったからだ。
街に、着の身着のままの貧しい人々を受け入れる余裕はなかった。だが、露天に放り出しておくわけにもいかない。革命軍は街の中枢機能や物資をおさえ、なんらかの方策をとることを人々に約束した。
アレク自らが率先して人々の間を回り、各部隊に指示を出し、街の周囲を平定したのである。
数日経ってようやく、アレクの本陣が街の中心に入っていった。
本隊は足を止める。ひとびとの中心にいたのは、ファウストだった。
魔法使いたちの歓声、興奮。かれらの輪の中心にいて、少し困ったような顔をしている。外側で人間たちが、歓声に同調して拳をつきあげている。
ファウストが何やら語りかけたところ、人々はそれに賛同しているらしい。
アレクの脇を歩く隊長のひとりが、苦々しげにつぶやいた。
「……まるで、ファウストと魔法使いたちが軍の中心にいるみたいではないか」
「全くだ。皆、こちらに気がつこうとしない。本陣の旗印が入ってきたのに」
隣の者が応じている。低くささやき合う彼らを、アレクはたしなめた。
「彼らにそんなつもりはないだろう。人が多すぎるんだ。もっと旗印を高く掲げろ。なにか音でも鳴らせ」
「かしこまりました」
喇叭手が呼ばれ、音が鳴る。旗持ちが旗印を高く掲げる。それで辺りの人々が気づき、人垣が割れた。
それでも、ファウストを取り囲んでいる者たちは興奮したまま振り返らない。歓声が、止まない。
「……あいつらは、魔法使いと手を携えて新しい世を作るのだという思想に、心酔しすぎているんじゃないか? あれほど興奮がやまないなんて」
「確かにな……若いやつらは夢見がちだから。急進的な思想に酔うものだ」
「だが、民のほとんどは人間なんだ。夢だの理想だのを唱えたところで、人間の支持がなければ、革命軍は成り立たなくなる。やつらはそれをわかっているのか?」
年かさの側近たちが小声で危惧を口にするのに対し、アレクは取りなす。
「人間も魔法使いも関係なく新しい世界を作る、その夢や理想がなければ革命軍は成り立たないよ。人々にそれが受け入れられるよう、誠実に言葉を尽くそう」
「アレク様。仰るとおりだが、当面の現実の話をしてるんだ。どの街も村も疲弊し、ひとびとは傷ついている。皆に必要なのは、とにかく今日の粥なんだ。崇高な理念じゃない」
「崇高な理念が必要だよ、皆を導くために」
喇叭が鳴る。また人垣が割れ、人々が振り返る。
アレクたち本隊は、人垣の中心に入っていった。
ファウストは軍主を迎えて上座へと押し上げ、それで人々はみな、はっとしたように、アレクを称える言葉を口にしはじめる。
「革命軍に勝利を!」
「革命軍に正義を!」
「指導者アレクと副官ファウストに幸運を!」
拍手と歓声が、今度はアレクに向けられる。アレクは街の平定を宣言する。
「革命に賛同する皆よ、手を携えあって新しい世界を作っていこう。この街は私達の拠点となった。そしてそれ以前に、大切な仲間の住む街だ。皆で力を合わせ、復興させよう」
わあっと民衆は沸く。喝采があがった。
ひとりの老婆が、よろよろと進み出てくる。そしてアレクに向かって、小さな野花を捧げた。
「指導者さまに、これを。この街は貧しくて、差し上げるものなんて何もないですけど、道端にはこの花がありました」
「ありがとう、いただこう」
「どうぞ私達をお導きください。安心して孫を眠らせ、明日の粥を心配せずにいられるように」
「……顔を上げてください、ご婦人。あなたもこれからは、革命軍の大切な仲間だ。この街を立ち直らせ、新しい世を作りましょう」
「ああ……ありがとうございます」
老婆は涙を流して手を合わせ、革命軍の者たちを見回した。
「皆さんが、助けてくださるのですね。……ああ、あなた、あなた様はずいぶんお若いのに、指導者さまを助けて、ご立派なことで」
掌を向けられたのはファウストだった。紫の目が、軽く見開かれる。
「そう、なるほどねえ、あなた様は魔法使いなんですね。だったら安心だわね、私が死んでも、孫たちが大人になっても、ずうっと革命軍として、この街を守ってくださるのですねえ」
周囲の者が、はっとした視線をファウストに向けた。アレクも思わず、友人を振り返った。
アレクとファウストは同い年だった。だが、革命軍として戦い続けて何年かが経っていて、明らかにアレクの方が年上に見えるようになっていた。
ファウストと魔法使いたちだけが、長い時を過ごしはじめていた。
百年後に生きていて、今この時のことを語ることができるだろうのは、この場で彼らだけだった。
「……きっと、すぐに。僕たちは新しい世を作る。そうしたら、革命軍じたいが必要なくなって、皆が安らかに暮らせるようになるから。……だから、それまでアレクに力を貸してください」
ファウストは老婆に語りかけ、手をとって立ち上がらせた。彼を見上げる老婆の目には、喜びと敬意の他に、恐れが浮かんでいた。
それを見つめながら、アレクは無意識のうちに、カレトヴルッフの柄を握りしめていた。
3
革命軍にとって忍耐を試される戦いが続いた。旧弊的な勢力は根強く敵対し、士気はともかく練度の高い相手だった。アレクが右腕を失ったのも、この頃のことである。
彼は無茶をした。腕を半分断ち切られたのに、油を塗って縛り上げただけの処置で戦い続けたのだ。そのために腕は壊死し、切り落とさねばならなくなった。だが、起き上がれるようになるとすぐ、鍛錬を始めた。左手にカレトヴルッフを掲げ、右腕に盾をくくりつけて、また前線に立ったのだった。
「フィガロ様、教えを請いたい。かたくなになった心は、癒しの魔法でもどうしようもないだろうか」
そっと部屋に入ってきて問うたファウストの声に、フィガロは本を置き、向き直った。
「アレクのこと?」
「ええ。……体の傷はふさがったけど、腕は元に戻るわけじゃない。癒しの魔法でも、どうにもならなかったほどだ。ショックなんだろう」
ファウストの目には、真摯に友人を思う光があった。
「剣もペンも握れない。そう言ってはねつけるんです。以前なら、少なくとも僕はあいつの部屋に入って、冗談口を叩くことができたのに」
「そう」
フィガロはうーん、と考えこんだ。
「魔法の出番では、ないかなあ」
「……やはり」
悲しそうに、紫の目が伏せられる。
「魔法ではね、悲しみを感じないようにすることはできても、こころの傷を塞ぐことはできないんだよ」
「負の感情を感じないようにするのは、治癒とは違うもの……だと思います。怒りも悲しみも失ったら、あいつはあいつじゃなくなる」
そんなあいつは見たくない、と言って、ファウストは手のひらを握りしめた。
「けど、度量広く言葉を受け入れることができない今のあいつは、本当のあいつじゃない。元に戻ってほしいと思っている」
「……なるほどね、君は」
フィガロはすこし考えるように、顎に手をあてた。
「君は、アレクに素直に心を預けてほしいのかい?」
「そうであってくれれば……嬉しい。戦友として、友人として、信頼をおいてほしいと思う」
「そうか。そうだなあ……」
あっそうだ、と言って、フィガロは手を打った。
「人間には、心を預けさせてしまうのに、簡単な方法があるそうだね」
「それは、何です?」
「性行為だって」
「はあ」
怪訝な顔で、ファウストは曖昧にうなずいた。
「肌を合わせれば情が湧く。肉体の一番深いところまで知った相手を、少なくとも憎いとは思えなくなる。ことによると愛が芽生える、だとか」
「そういう……ものですか」
「まぁ、経験したって分からないものは分からないけどねえ。悪くない感覚なんじゃない」
つと遠くをみやる目には一瞬、冷えた色がさした。ファウストがそれに気づいて、あれ、と思うまもなく、淡々と続ける。
「だから勘違いして、情愛を得るために行為を強いる馬鹿もいるそうだけど」
フィガロは向き直ってにこりと笑い、すい、とファウストの頬をなでた。
「……実地演習、してみる? お互いが望めば、俺と君とは心を預けあえるだろうね」
「……冗談ですか? あなたはまた、いい加減な軽口を」
「嫌だなあ、本気にしてよ。俺は君のこと、本当に大切に思ってるんだから」
笑って両手を上げて見せ、今度はファウストにてのひらを差し出した。
「俺の知ってること、何だって教えてあげたいのさ。……それとも怖い? 身体と一緒に心を晒すのが」
「いえ、……」
ファウストは師のてのひらをみつめる。すこし乾いた肌に筋が見える、短く切りつめられた爪の、器用そうな手。望んだところへ導いてくれるだろうけど、すくい上げることも突き落とすことも知っているだろう手だ。
「……僕は、あれがそういうものだとは、初めて聞いたので」
「え?」
「……寂しくて不安で、世界に味方がほかにだれもいないみたいなのを、励ましあうことができた。今生の別れになるかもしれないという覚悟を、分かち合うこともできた。僕はそれを知っていたけど……違うものなんですか。……相手のこころを自分のものにするための行為だと仰るんですか」
「君、……そうか」
差し出されていた手が、そっと下ろされる。行き場を失ったように一度、ふらりと泳いで、自らの膝をつかんだ。
ファウストも、師の手元から視線をはずす。流れのままにその手をとるのは簡単だっただろうが、率直であろうとする意思がなにかを引き止めた。
知らない道に足を進めるのが、怖かっただけかもしれないけど。
「……僕はあなたを、すでに唯一の師だと尊敬して、大切に思っているんです」
「……だから?」
「だから、心を預けるためにそんなことをする必要なんて、ないでしょう」
「俺に預ける心なんてない、そういうことだろう」
そうじゃない、とファウストは絞り出した。誰かに誠実であろうとすれば、誰かを傷つけるしかないのかもしれない。
「そうじゃないんだ。……あなたは僕の、初めての先生だから、」
「君は俺の初めての弟子さ。ただ一人と言っていい、大事な可愛い子だよ。……ねえファウスト、俺だって君とともに戦いたいよ。この前の戦いではなぜ、俺を後方に下げた?」
急な転換に、ファウストは顔を上げた。え? と戸惑いながらも、応えを返す。
「他の誰よりも治癒魔法が使えて、しかも客分で、部隊の指揮権を持たないあなたを、前線に出して失うわけにはいかない。それだけの事ではないですか」
「……そう。客分、ね」
「実力のある魔法使いが、僕たちには必要だった。だからあなたを迎えた。僕たちを教え導いてくれる方として、癒しの術を使う軍の砦として、僕たちが帰る所として。そう言ったでしょう。アレクだって、あなたを丁重に扱っているはずだ」
「丁重すぎるほどにね。それは『仲間』の扱いじゃない」
「フィガロ様」
「……ああ、ごめんね。……アレクの傷のこと、また明日、ちゃんと考えようか。もうおやすみ」
「あなたも早く、休むといい。……おやすみなさい」
カタリ、とひそかな音をたててドアが閉まる。
フィガロは立ち上がった。夜は深く、塗りつぶされたような闇色のてっぺんに、かすかな朔がひっかかっている。
「フィガロ『様』って」
フィガロは窓の外を見上げ、小さく笑った。
「ここも、だめなんだろうなあ……」
4
革命軍は今や、中央の全域を掌握しようとしていた。指導者アレクはいつしか、新しい世の王と望まれていた。埋もれていた人材を発掘し、名のある戦士や世に出られずにいた俊才を麾下に加えていった。
先頭に立つ彼の傍らには常に、副官ファウストの姿があった。アレクが推進力ならばファウストは抑止力であり、情熱の赴くままに剣を掲げ、人々を率いていくのがアレクならば、冷静に道を指し示し、殿(しんがり)を務めて落伍者を救うのがファウストだった。
<以下、グランヴェル朝建国五十周年記念事業に係る追記>
のちにアレクが旧知に語った逸話によれば、ファウストは、聖者と呼ばれても静かに笑って首を振るような人物だったという。控えめな態度と明晰な頭脳をもち、誠実に言葉を尽くして人々を導き、真摯にアレクを支え続けていた。
彼の存在があってこそグランヴェル朝は開かれた。その事績を顕彰すべく、遺物の蒐集が行われた。
「アレク。入るぞ」
ファウストが声をかけると、寝台に腰かけていたアレクはうっそりと顔を上げた。
「……ああ。君か」
「何か食べたほうがいい。水だってほとんど飲んでいないじゃないか」
「……そうだな」
しばしの間、沈黙が降りた。アレクはじっと、右腕を押さえていた。
ないはずの腕が痛む。たびたびそう訴え、激しい訓練をしては血の気の引いた顔でしゃがみ込む。彼の肩を支えて寝台に座らせ直すのは、ファウストの役目だった。
「……ファウスト。考えていることがあるんだ」
ぼそぼそと、アレクは話し始めた。うすく隈の浮いた目元、そげた頬。無精髭の剃り残しがある。利き手を失って以来、身の回りのことをじりじりとすり減らしているのだ。
「何だい」
「……革命軍の指揮権を君に譲ると言ったら、受けてくれるか」
「何を言ってるんだ、アレク」
ファウストはまじまじと幼馴染を見つめた。
「カレトヴルッフを抜いたのはお前だ。皆、お前が軍主だからまとまっているし、革命軍の思想に賛同しているんだ」
「そうなのだろうか。私はもう、信じられないのかもしれない。理想を求める人々は、君こそ導くことができるのではないか」
「僕は軍主の器じゃない。僕にできるのは、革命軍の旗頭であるお前を支えることだけだよ。従えることなんてできない」
「では、」
君は何のために戦うんだ、とアレクは問うた。
お前の理想に賛同し、現実にするために戦っている、と、迷いのない応えが返ってくる。
アレクは碧眼に必死な色をたたえて、ファウストを見上げた。
「……では、その証をくれないか」
「アレク、……どうしたんだ?」
「君は私の幼馴染で、戦友だ。そう思っている。最初に軍に誘って、ついてきてくれた。ずっと私を支えてくれた。これまでも、……そして、これからも、なのだろう? そうだと言ってくれ、君の身も心も、私に預けてくれ」
「何を……言ってる?」
アレクはファウストの手首をつかむ。驚きに見張られた紫の目には構うことなく、寝台に押し倒した。
「君は私の友で、……ただ一人、私の信頼を預けるに足る相手だ。君にとっての私も、そうありたい。頼む、ずっと尽くすと言ってくれ」
アレクの手が、ぎこちなく友人の襟を押し広げた。ボタンを外していこうとするが、左手ではうまくいかず、小さく舌打ちしてシャツの裾をまくりあげた。脇腹をさぐり、胸元に指を伸ばそうとして、失った右腕ぶんのバランスを崩し、ファウストの上に倒れ込む。
ファウストはアレクを押しのけるでもなく、じっと銀の頭を見つめていた。
「君のこころが……すべてが、欲しいんだ」
覆いかぶさったまま、アレクは更に乞うた。消え入りそうな声で。
「私のために尽くすと、約束して……くれ」
アレクの左手がもう一度、手首にすがりついた。上半身を持ち上げ、ファウストをのぞき込む。そのまま唇をふさごうとして、鼻先が触れたところで止まった。
紫の、透徹した目も。細い鼻筋も薄い唇も、アレクが置き去ってきた穏やかな頃と変わっていなかった。
アレクのために舞った宵と、同じ顔立ちをしていた。
今はもう、二人は何歳差に見えるのだろう。
きつく目を閉じて、アレクはそっと額をあわせた。あたたかな温度が伝わってくる。友人の体温は彼よりもほんの少しだけ低いのを知っていたけれど、たいらかになじんで、同じ温かさになる。
「……僕は魔法使いだ。約束はしない。知っているだろう、アレク」
ファウストの手が、銀の髪をなでる。剣よりも魔法を使い、敵の胴をなぎ払うよりも、味方を救い、鼓舞することに長けた手だ。
目を瞑ったまま、アレクは唇をかみしみる。彼の友人はあまりに率直で、そう在ることに誠実だった。
「約束はできない。けれど僕には、お前を支えていく意思がある。お前は僕の希望だ。だから僕は戦っている。信じてもらえないだろうか」
彼の声は、低くて穏やかだ。調子はどこまでも真摯で、澄んでいた。アレクは、自分よりも細い身体にしがみつく。かき抱き、抱きしめる。
「では……それでは、私は君から、何の保証も得られない。君は魔法使いだから、私よりずっと長く生きて、いつか私を忘れるだろう」
「……僕は、友のことを忘れなどしない」
「百年経って、この国の土は緑に覆われて、高い建物が建って……君はそのとき、何をしている? どこに立っている? この世に残るのは、君の意思と記憶だけで、私の声など君すら忘れて、……それでは、私は、何を、」
アレクのてのひらが再度、おびえたようにファウストの体温をなぞった。
「……置いていかないでくれ」
は、と息を吐き、腰をつかむ。ベルトと肌の隙間にゆびさきを滑り込ませる。その肩を、ファウストはそっと押さえた。
「そんなことはしなくていいから。……やめるんだ、それは僕を支配する方法じゃないよ」
「違う……私は……!」
アレクは声をからし、今度は強引に手を進めた。下衣を引き下げ、腿の間に膝を割り入れる。
「……信じるしかないんだ。僕たちはお互いを信じるしかない。そして僕は、お前がそれに足る相手だと思っている。本当にそう、思っているよ」
胸元を空気にさらされながら、紫瞳は冷静さを失うことなく、静かに説き続けた。何とかしようと思えば魔法を放つこともできたであろうに、はねつけることはせず、だが行為に迎合することもしなかった。
誠実であることは、冷酷であることと同義なのかもしれなかった。
アレクは、友人の穏やかな声を耳元で聞きながら、鼻先でその首すじをさぐり、噛みついた。
夜半の月はひどく明るかった。厄災、と呼ばれるのももっともな、圧倒的な美しさだった。大きくきんいろに輝き、すべての星のきらめきを塗りつぶしていた。
ふらりと壁にもたれかかる人影があった。右腕が半ばで失われたその人物は、眩い天体をじっと見上げ、左手で顔を覆った。
5
革命軍の内部に粛清があり、すぐに終わった。革命が完了する直前のことだった。その経緯を以下に述べる。
急進派と言われる派閥が、人間と魔法使いがともに暮らす理想を唱えるあまり、旧某伯領の街を焼いたのである。
その街は以前から、<トル>差別主義の本拠地と言われていた。魔法使いに対する私刑が横行し、<ココマデ> 革命軍反対論者がプロパガンダを印刷する場所だったのだ。
穏健派を称する<トル>人間優先論<ココマデ> 者たちは、過激行為の実行犯および急進派の中心と目される人物数名を捕縛し、処刑すべきであると論を打った。抵抗をつづける街の市民とはいえ、無辜の民を手に掛けた者たちに酌量の余地はない。軍規違反を犯し、人倫にもとった。革命軍のみならず、中央の地に対する反逆である。自浄すべし粛清すべし、と。
<二行挿入:当該都市の被害状況に就いて>
反対する声は大きくなく、ほどなくして処刑の裁決書は軍主のもとへ運ばれてきた。
アレクは淡々とペンを取り、<トル>死神の<ココマデ> 署名を刻みつけた。
<以下削除>
悪しき行為を忌み、繰り返さぬことを誓うために、処刑は公開とし、火刑の方法で行うこととされた。このとき処刑対象となった者の名列は、以下のとおりである。
(略)
アレクは小部屋に駆け込んだ。錠を下ろし、座り込む。灯りがないので、窓の外の火のひかりが見える。震えながら、炎の明るさから目を離せないでいた。
<<ポッシデオ>>
聞き覚えのある声に振り向くと、フィガロが入ってきたところだった。幼馴染の魔法使いが師事し、革命軍の皆が技を教えてもらったひと。癒しの技にすぐれた、強い魔法使い。アレクの怪我にも、力を尽くしてくれた。
「やあ、アレク」
「……フィガロ様、どうしたらいい。私は、」
こんばんは、とは言えず、お久しぶりです、とも言えず、呼びかける声は震えた。
「何? 俺に聞くの? 君の話を聞きに来ただけなのに」
「じゃあ、じゃあ……懺悔、させてくれ」
「そう? ……いいよ」
アレクはうつむき、フィガロに膝を向けなおした。
かみさまの化身にすがって、許しを請うような姿勢だった。
「信じていたんだ。幼い頃からずっと、彼だけは信じていたんだ。どんな道だって、隣を歩んでくれると。私を支えてくれるんだと。ずっと私に尽くしてくれるだろうと。なのに」
「……なのに、あの子は君を、裏切った?」
……ちがう、とアレクは首を振った。
「裏切ったのは……私だ」
彼はいつも正しかった、誠実に理を説いていたんだ、と拳を握り締める。あの時も、あの時も。静かで冷静な声が、思い起こされるばかりらしい。
「処刑の書類を見たのに、何も思わなかったふりをした。サインしてしまった。気づいた時にはもう、取り消せなかった」
「そう。……王の力って、小さいものだね」
「私の一存では取り消せないんだと言われた。しかるべき証拠を揃えて、手続きに則って議会の承認を得なければならないんだと。我々の理想を形にするためには、独裁を忌み、誰もが公平に法を守らなければならないのだと」
そうかそうだね、それは君とあの子が目指した国の姿だ、と言って、フィガロは窓の外に視線を向けた。
宵色の空に映る炎赤と黄金が、眩く揺れている。
「彼は……あいつは私の、幼馴染だった。軍に誘った時、最初についてきてくれた戦友で、副官で、私の理想とする人物だったのに。私には、あいつがいればよかったのに。鞍を並べるのは、私の左に座すのは、私の兵士たちの士気を高め、こころを燃やすのは、……私のすべてを隣で支えてくれるのは、あいつだけだ、なのに」
「だめだよ、そんなことを言っちゃあ」
フィガロの手が、銀の頭をそっとなでた。そして、優しくささやく。彼は教え導いた青年たちのひとりだったから、正しい行動と未来を、指し示してやるために。
「君は王朝を建てたのだから。中央の地を安定させ、人々を安心させ、隣に女性を迎えて子供を作らなければならないんだよ、建国王アレク1世陛下」
「……っ!……」
アレクは床に崩れ落ち、嘔吐した。
窓からほそく差し込んでくる灯りは頼りなく、けれどそれは炎なのだ、ゆらめいては紅く熱く燃え上がる。燃焼剤はその中心の、ひとのかたちをしたものだ。それがくずれ、炭になるまで、火は消えない。
「フィガロ様、……助けてくれ」
「うん。いいよ? 君を癒やせばいいのかな?」
暗い部屋に、ひとこと。聞き慣れた調子の軽妙な応えは、妙に明るく場違いに響いた。
それでも、アレクは縋る。すがることのできる相手は、目の前の魔法使いしかいなかった。
「……この心の傷を癒してくれ。幼馴染を、戦友を、火刑台に追いやった過ちを、あいつを失う苦しみを」
「……なるほどね。うん、簡単さ」
応じながら、手をさしだす。立ち上がらせるために手を貸すやり方だ。すこし乾いた肌の、望むところへ連れて行くことができて、すくい上げることもつき落とすことも知っている手だ。
「俺は、思考の方向を整える魔法が得意だ。苦しみを他の感情に変えるとか、そういう事がね」
「苦しみを……忘れることができると?」
「そうだね、忘れればいい。苦しみも後悔も、その原因ごと」
「忘れる、……?」
「忘れることは癒しだからね。癒しの魔法の原理を聞くかい?」
顔を上げたアレクの肩をなで、座らせなおす。魔法について講義する姿勢だ。やや怪訝そうな表情になった生徒にはかまわず、続ける。
「癒しの魔法の原理はね、『怪我や病気の状態とその原因を否定し、なかったことにする』。……シンプルだろ?」
アレクに向けられた、にこりとした笑顔の横顔を、炎のひかりの色が照らし出す。頬から顎にかけての、やや鋭い線が、金色と闇色で交互に塗り替えられた。
「君の苦しみには、どれもあの子が深く関わっている。だからあの子の存在を全部否定して、封じてしまおう。意識にのぼらせることもなくして、思い出さないようにすればいい。そうしたら苦しまずにすむし、こころは癒やされるよ。
毒針が刺さったら、周りの肉ごと切除するだろう? 血が止まって肉がもりあがれば毒された部分は消えてなくなり、はい元通り、というわけ」
「そん、……な」
ねえアレク、幸せになりたい?
そう言って、フィガロは銀の髪をなでた。そのまま、穏やかな口調で、耳元に吹き込んだ。うつむいたままの碧眼が見開かれる。
「……君だけ、幸せになろうって言うのか。自分の傷だけ都合よく忘れて、あの子の苦しみを想像すらしないままで」
アレクは再度、嘔吐した。王冠がころがり、吐瀉物にまみれる。胃液と唾液を顎から垂らしながら、目の前の魔法使いにすがりついた。左腕だけで。
「私のただ一人の、幼馴染を、戦友を、副官を、……私の聖者を、忘れるなど」
「……そう。大事なんだね、あの子のこと」
銀の頭が、必死にうなずいた。おおらかなつくりの長いゆびに力がこもり、フィガロの裾をつかむ。
「じゃあ俺は、君を癒やさないよ。腕の傷を塞いだ、それだけだ」
フィガロは言うと口をつぐみ、窓の外を見やった。宵闇が濃くなっていく中に、赤と金の炎のいろがまっすぐに立っている。
「やあ、よく燃えているね」
炎がさっきより激しくなった、とつぶやくと、碧眼も弾かれたように窓の外をみつめた。口を手で覆い、目を見開く。
「ごめんね。君を呪うよ、アレク。これが最後だ」
銀の髪をなでながら、フィガロは顔に炎の色を受けていた。そっとアレクの隣にしゃがみ、肩を抱いて、優しくはげます。
「君はこうするしかなかったんだ。そう思っていればいい。あの子は君に、不実を働いたから。だって、あの子は君にも革命軍の皆にも、率直で誠実で大人びた顔しか見せなかったんだから。
……あの子の甘えた顔を知ってるかい? どんな風に泣き声をあげるのかなんて、知らないだろ? 俺の前ではね、設問の答を間違えたり魔法の手順を失敗したりした。それを取り繕おうとし、年相応のむくれ顔を見せたよ。君の前でそんなこと、しなかったんだろう?」
アレクははっとしたように顔を上げた。まっすぐ見つめる青が揺れ、やがて顔が歪む。
「フィガロ様……あなたはもしかして、あいつを」
「なんで急に睨むんだい? 言っただろ。呪いだって」
フィガロはもう一度にこりと笑い、「俺は強い魔法使いだからね、呪いをかけるのも得意なのさ」と言った。
炎のいろが踊っている。
赤と、黄金。
血と栄光と、生命と権力の色。勝利を掴み、愛情と威厳を兼ね備えた、王座の色。
アレクは初めて、窓の外の炎を見据えた。戦いの年月を経て線が鋭くなった端正な横顔が、ゆらめく光に照らされる。
「……いいだろう。呪われてやろう」
ふるえながら、アレクは奥歯をかみしめた。窓から視線を外さず、正面からにらみすえる。
「幸せになれないことが、あいつを忘れないでいるのが、呪いなら。……ならば、ずっと忘れないでいよう。誰もがあいつを、思い起こすようにしよう」
ごう、と火の燃え上がる音が聞こえた気がした。
藍色の空に、黄金の火の粉が舞っているだろう。それは夜を徹して処刑者を燃やし尽くし、あとには黒く炭だけが残るのだろう。
「おまえなど」
闇に屹立する炎、ゆらめく赤と黄金に向かって、アレクは叫ぶ。
「おまえなど、永遠に語り継がれるがいい。禁欲的で高潔な、聖者として」
「無私無欲で誰からも慕われたおまえを、清冽な泉のようだったおまえを、私は失った。……いいか、建国の英雄をずっと支えていくはずだった聖者は、革命が成功して姿を消してしまったんだ。新しくなった中央の王朝を、あとに残して」
「正しい歴史を記させ、誤った記録は破棄させよう。私の聖者を、歴史書にとどめ置こう」
火刑台の炎が、窓の向こうで遠く踊っている。長く伸びたその影が、膝元までくっきりと写っている。
アレク・グランヴェルは床に手をつき、平伏して、揺らめく炎の影に口づけた。
そして、その姿勢のまま親友の名を呼び――慟哭した。
(2021.2)