この街は、どこに行っても泥の匂いが足元から離れない。
どちらが上流かわからないほど静かにたゆたう長江の河口が、常にじっとりと熱を含んで、ゆっくり息をふくらませているからかもしれない。
冬が近いというのに、うっそりとした湿気が地面の下から立ちのぼってきている感じがする。
表通りは西洋建築がぎっしり立ち並ぶ租界だが、一歩裏通りに入れば、濁った眼の車夫や薄汚れた半裸の男が、座りこんで煙管をくゆらせていたりするのだ。彼らのまとう空気も汚れた足元もごちゃごちゃと入り組んだ古い建物の傷だらけの柱も、埃っぽくて湿っぽい。
ガラの悪そうな親父が、じとりとした目をウルに向けてきた。だが、ウルの目つきはその辺のチンピラの及ぶ所ではない。軽く睨みつけてやると、ぷいと横を向く。ウルはふんと鼻を鳴らし、ホテルへと脚を向けた。
「はいこれ、メディリーフな」
「お疲れだったな、ウル」
「いいっていいって。こう、ちょちょいっとな」
「んじゃ、次はこれだ。コート脱いで羽織っとけ」
「なにこれ。服?」
「服以外の何に見えんだよ。座布団とかか」
「や、そうじゃなくてさ。着るの? これ」
「女性陣に合わせて衣装替えだな。行き先が漢人の居住区だからな、いつもの服装だと浮くぞ。旗袍(チーパオ)と言う」
「へー」
よくわからないまま、ウルはコートを脱ぎ捨てると、渡された服を広げた。支那服と言うのか? 襟が高くて裾が長い。朱震のいつもの上着を多少長くしたような感じだ。ごそごそと袖を通していると、声がかかった。
「……私、これ、おかしくないかしら……?」
見れば、アリスが扉を開けて出てくるところだった。
その姿に、ウルは思わず目をみはる。
高い立襟と直線的で緩やかな形をした、薄緑色の旗袍だ。銀糸と碧糸で細かな文様が描き出されていて、布地の上質さとアリス自身の透明感がみごとに引き立てあっていた。髪はいつもと少し違って、左右に分けて固く結い上げてある。……が、団子? 髷? ウルの貧弱な語彙では、うまく言い表せないのだ。
英国租界の貴族の御令嬢、という雰囲気だ。
いいんじゃね? にあうにあう、可愛い。口に出そうと思っていた適当な感想は、喉元でかたまりに変わり、思い出せもしない。かろうじて、ううとかぐうとかいう感じのかすかな声が喉からもれただけだ。仕方ないので、代わりにアリスを、じっと見つめてこくこくうなずいた。
目が合った。彼女の淡い色の睫毛が、戸惑ったようにまたたく。
「え、……と?」
「あーうん。うん、すっげーちょうどいい。うん、いい」
「ありがとう。……ウルも、似合ってるわ」
アリスの細いゆびがのびてきて、ウルの髪をそっとかきわけていった。
反射的にぱっと目を瞑ったウルのこめかみのあたりに触れたその指先の、かすかなぬくもりだけがしばらく留まった。
それが消えてしまうのが惜しくて、けど気恥ずかしくて、ウルは自分の頬を、やたらとごりごりと擦る。
「……って、いうかさぁ」
ことさら能天気な声を出す。
「アリスちゃんはわかるけどさー、必要あんの? この仮装すんのって、俺」
「仮装とか言うんじゃないわよ。変装よ変装」
アリスの後ろから出てきたマルガリータが、呆れたように応じた。彼女も旗袍をまとっているが、濃青に金色の刺繡が入ったもので、やや細身のつくりだ。こちらは租界の貴族の奥方とも未亡人ともつかない雰囲気である。それを口に出したらどつかれそうな気がしたので、ウルは黙っていたが。
マルガリータはスリットを持ち上げ、いつものピストルをレッグホルダーに挟みながら言う。
「むしろ一番必要なのはあんたよ、ウル。コートを着流した軍人崩れっぽい不良男なんて、地元民の居住地区じゃ目立ってしょうがないのよ」
「軍人崩れっぽい不良、って、さあ……」
「黙って立ってりゃ軍人崩れ。座って眺めりゃガン飛ばす無頼。歩く姿は身分不明の不審な24歳児」
ウルの鼻先に指をつきつけて言い放つ。
「……憲兵なんかいたら、一発で目をつけられるわね」
「いや、魔物退治屋でハーモニクサーなのよ!? 俺!?」
「それがバレちゃいけないんでしょうが」
「……朱震のじっちゃんなんかいつもと同じ格好じゃん!?」
「オレは街に溶け込んどるからな! はっはっは」
朱震は黒檀のテーブルにゆったりと着き、のどかに鉄観音茶の湯呑みなど傾けている。
「地元出身者の勝利だよな」
「地元? だっけ? ……なんでもいいけどさぁ、じっちゃん。この、ちーぱおってやつ、なんかすげー邪魔なんだけど。この袖とか。あと……この裾とかもさあ、こう、ひらひらで」
「慣れだろ」
うじょうじょ言うウルを一言で切り捨てて、朱震はずずずと茶をすすった。
「鬱陶しかったら捲っとけ。黙っておればそれなりにお前も、上海っ子に見えるぞ。黙ってりゃあな」
「なにその注釈」
「ウル」
「…っ、なに?」
「あのね、」
アリスはウルの耳元に顔をよせ、内緒話をするようにこしょこしょとささやいた。
「……似合ってるわよ?」
「……はい」
一発でおとなしくなったウルを見やり、マルガリータは軽く首をすくめる。
「……と、いうわけで。昨日の計画通り、あたしとアリスは英国租界に情報集めね。あんたと朱震さんは漢人居住エリアで聞き込み。徳壊たちにかぎつけられないように」
「……ねえねえ、なんでおねーさんが仕切ってんのよ?」
「集合時間は5時、ここね。――あんたが呆けてるからじゃないのよ、少年」
「俺もう24よ!?」
「知ってるわよ。……で、判ったわよね? 集合時間」
「…………8時?」
わざと言ってるんじゃないでしょうねそれ、と言ってマルガリータはウルをはたいた。
「……痛ってえ……」
「やり直し。集合は?」
「……5時デスね」
「良い子」
はたかれた所を撫でながら、ウルは今更聞き返した。
「ていうか、なんでその組み合わせなんだよ」
「へ?……ああ、そういえば居なかったわね、あんた」
単にあみだくじの結果ねと言って、マルガリータは扇子を広げて口元に当てた。アリスに顔を寄せる。
「人力車でも乗って行こうかしら?租界らしい観光なんかしてなかったし。どう?姉妹設定よ、姉妹設定」
「……無理じゃね?」
「なんですって坊や?」
「……何でもねぇよ、美人姉妹」
「良い子よねー、あんたって本当に」
というわけで各自持ち物を確かめて解散ね、と、またマルガリータが締めた。
ロビーに戻ると、ソファにアリスだけがぽつんと座っていた。ウルを見つけると、ぱっと目を見開いたので、どうやら待っていたらしい。小さな手は、手持ち無沙汰なのか、扇子を開いたり閉じたりしていた。
「……なんでマルガリータたち、いなくなってるの」
言うと、アリスは軽く首をすくめてみせた。
「朱震おじさまがね、危ないからって」
「危ない?誰が?」
「マルガリータさんも、私も」
「アリスちゃんはわかるけどさあ、……おねーさんも?襲われたって全然平気じゃん」
「今の時期、西洋婦人が男のひとを連れずに出歩くのは危ないかもしれない、ですって。いくら危険を返り討ちできる腕があっても、絡まれないに越したことはないって」
「えー……そうなの?」
「色々あるんじゃないかしら」
「そっか」
アリスが言うならそうなのだろう、とあっさり納得し、ウルは頷いた。
「番犬連れて歩きなさい、って、マルガリータさんには言われたわ」
「番犬?」
「大きくて強そうな、忠犬」
言うと、アリスはふわりと目を細めた。
「?」
ウルはかりかりと頭をかいた。まぁいいか、とアリスが立ち上がるのを待って歩き出し、そこらで初めて、どうやら皆からアリスの犬扱いされているらしいことに気づいた。
大きな番犬、あるいは忠犬。
どうも締まらない。まぁ、間違ってはいないが。アリスに近づく奴がいれば、ぶっ飛ばす。とりあえず。
「んじゃ、ま、行こっか」
ウルが手を差し出すと、アリスは小さな花のようににこりと笑い、手をのせた。
商店が並ぶあたりの人通りは激しい。
あいかわらず、どこもかしこも泥の匂いがする。
地元民の居住区、といわれる通り、漢人や広東人が多い。それに次いで、やや浅黒い肌をした南方人も賑やかに行き交っている。
呼び込みの声、葉笠、天秤棒。足音、怒声。
アリスの容貌は、その中ではずいぶん目立った。
旗袍を着ていても、銀の髪は目を惹くのだ。彼女に声をかけようとして、半歩後ろにウルが貼りついているのに気づき、舌打ちしたそうな顔をして遠ざかっていく男と行きあうこと、約3回。マルガリータの見立て通り、番犬は効果覿面のようだ。
どこぞのお嬢様と書生だかボディガードだか下男だかのように見えるのだろう。恋人同士や夫婦者とは思われていないらしい点は多少悲しいが、まぁ、上出来だ。
アリスはといえば、特に周りを気にするふうもなく、にこにこと露店をのぞき込みつつ、すいすい歩いていく。
色鮮やかな果物がつみあげられた露台には澄んだ青の目を見開き、蛇だの蠍だのの漬かった酒瓶を物珍しげに見上げ、何に使うのかわからぬ雑貨のたぐいを流し見た。
ウルがついてきていることを疑いもしていないのだろうか、いつもの彼女の行動からするとかなり思うままな様子である。
ウルはアリスとの距離をきっちり保ちながらついていく。銀と淡緑のほっそりしたかたちの、ほんのすこし後ろ。
……と、白くて細くて小さな手が、すっと後ろにのび、ウルの袖をひっそりとつまんだ。
「……どうしたの」
「ううん?」
華奢な首筋、線のほそい背中。振り返らないまま、歩いている。
「――ここから先かな、と思って」
「あー……そうねー」
応えながら、ウルは身体をゆるりと戦闘態勢に備えていく。つままれた袖は、気にしながらもそのまま。
そもそも二人はそのために来たのだ。地元民の居住エリアは、この通りから一筋入ったところから始まる。
角を入ると、空気が変わった。
喧騒がすっと遠ざかり、じっとりとした陰性の湿っぽさが、建物の間にこごっている。
この街のどこかに、舞鬼が姿を隠しているはずだ。
手下の者とでも行き合えば、問答無用で襲われるのだろう。
奴らはどんな姿をしているだろうか。
べろりと剥けた青黒い皮膚を垂れ下げたままかもしれない。
冴えない男が振り返ったら、腐った目玉が眼窩から流れ出ているかもしれない。
どこからか、水の匂いがする。
それはずっと身にまとわりついているが、この路地に入ってからにわかに強くなったのである。おそらくその源は、何かよくないものに違いない。要するに、ウルたちの敵のいる方から漂ってくるに決まっている。たぶん。
考えながら歩こうとすると、ウルは早足になる。いつのまにかアリスの前に出ていた。片袖についてくる重みが、やや急ぎはじめていたのに気づいたのは、アリスが声をあげたからだった。
「きゃっ」
「アリスちゃん?!」
振り返ると、まさに黒っぽい塊が横合いから飛び出してきたところだ。
ウルの視力は、そいつの形を正確にとらえる。すり切れた旗袍、その丈は短い。ずんぐりした短躯。突き出した腕の先、ぶ厚い爪は、尖って黒く汚れている。
ーー血脂の跡だろう、と、そいつの脇腹を蹴りとばしながらウルは思った。
身体を反転させ、もう一発。よろめくが、そいつは倒れない。それどころか腕を振り回し、尖った爪でウルの裾を引っ掛けようとする。かいくぐり、肘関節を狙って手刀。同時に、顎に膝を叩き込む。裾をさばく。背後に回り込み、座布団のような尻を蹴ると、よろめいたそいつは、あろうことかアリスの方に向かって腕を突き出そうとした。
「おい、っ!……」
足がもつれた。旗袍の裾が絡んだのである。それを払おうとして、少し、気がそれた。と、視界の隅で淡緑の裾がひるがえり、掛け声があがる。
「えい、やあっ!」
ぴしり、と軽快な音がして、短躯がごろりと地面に転がった。
アリスが、身を捌きざまに扇子を抜き、そいつの目を打ったのだ。
「アリスちゃん、ナイス」
ウルは丁寧に敵のみぞおちに最後の一撃を加えると、アリスの手を引いて走り始めた。
(2020.1)