日が傾いて、空気にほのかな紺色が混じり始めたが、アスファルトの道路の上をゆらゆら流れていくのは熱風だ。
人ごみのせいで風は吹きぬけることができず、あちらによろけてはこちらに倒れかかり、肌の熱を奪うスピードが全くない。
人波がかたまりとなって道を流れる。熱気と人いきれが、夏の湿度を上昇させる。
「随分な熱気ですねえ」
長谷部はうちわを使いながら辺りを眺めている。
気温よりも人ごみのほうで暑いんじゃないですかこれは、などと言っているが、表情は平然としたままだ。
「さっきよりは涼しくなったかな?」
私はそう返しながら、地面につぶれた麦酒の空缶を避けて、下駄をちょっと持ち上げた。
淑女らしく、裾をからげて飛び越えるような真似はしない。浴衣は薄香の地に大きく萩が描かれたものだ。兵児帯を締めるのは全力で拒否し、大人っぽく濃紫の帯にしたのだ。
本当は、淡い地色は汚しそうでひやひやするし、浴衣に半幅帯はいささか硬すぎて、思い切り食べたり飲んだりするにはおなかが苦しい。
けど、いつもの服装とは、長谷部と私の色合いは少しだけ入れ替わっているので、私は横を見やってはにんまりしている。
「もう少し内側をお歩きになってください。離れてしまいます」
私の歩幅がやや乱れたのに気づいたのか、長谷部は私をかばうようにして振り返る。
「主、どこかで休まれませんか? まだ時間には余裕があるようですし」
「えー。このへん、どこも混んでるよ?」
私は辺りを見回した。
南北を貫くこの大通りは、普段はビジネス街なのだ。路面のカフェなどはそう多くないし、ここから枝分かれしていくどの通りにも脇道にも祭と人が満ち満ちて、露店を除けば気軽に立ち寄れる店自体が息をひそめてしまっている。
いっそこのまま大通りを歩いているより、脇道に入って歩いた方が良いかもしれない。
歩道がなくなるぶん、人の密度もほんのすこし緩和されるだろう。
考えを口に出すと、長谷部は「なるほど」と少し考えるそぶりを見せた。
「方向はこう行って……こちらですね?」
「うん。私も、そのへん行ったことあるし大丈夫だよ」
幾筋か入ったところにある町屋が開放されて、小芝居の演し物があるらしく、それが見たい、と私が言ったので、そちらに向かっているところなのだ。
「承知しました。俺から離れませんように」
「そうする。じゃ、行こ」
長谷部の腕にぎゅっとつかまると、彼はあわてたように目を見開いて私を見下ろし、少し口をぱくぱくさせた。
人ごみの中でも、長谷部は頭半分ほど抜けて背が高く見える。
辺りの人々はみんな浴衣や甚平やTシャツ姿なのに対し、着流しに黒足袋をきっちり着込んでいるからかもしれない。
着流しの色を評して「利休茶?」と言ったら、妙に嫌そうに「桑染、ですかね」と返してきたので、私はようやく失言らしき点に思い至り、あ、と口を押さえた。
それがついさっきのことだ。そこから一時間弱たって、長谷部と私はすでに、うちわとコーラ缶と回転焼(クリーム)を手に入れ、現世の空気になじんできたところだった。
うちわはさっきそこらで配っていたもので、「旧型冷蔵庫大放出」などと黄色い文字が踊っている。
「あ、見て見て長谷部、あれ」
横にあった露店を指さす。
浅いプールの中で、赤くて細くて小さな魚が、つい、つい、と行き交っていた。
「金魚」
「そうですね」
ちょうど客が途切れていたので、その店をのぞきこんだ。数枚の小銭を払い、プールの前にしゃがむ。
裸電球の光が小さな鱗をきらめかせ、水の底にはすばやく動き回る小さないくつもの影を映し出していた。
「ねーねー長谷部」
はッ、と言って、長谷部は片膝を折った。もしも立っていたなら敬礼の勢いだ。
「あの出目金が欲しい」
「主命とあらばッ」
長谷部はすちゃ、とすくい枠を構え、ひとつ大きく息を吐くと、居合斬の要領で水面を切った。
「はああああッ!」
赤い小さな魚体が宙を舞う。飛沫がスローモーションで跳ねとぶ。紙張を逃れた金魚が一斉にプールの反対側へと滑っていく。
手元のボウルに、ぽちゃん、と一匹の出目金が着水すると同時に、長谷部の手元の紙張がでろりと破けた。
鉦の音と御囃子が、途切れることなく耳に届く。
通りのずっと果てまで祭りがひしめいていて、等間隔なようでいてそうでもない間を空けて、裸電球がちろちろとまたたきはじめていた。
あちこちの露店の匂いが混じり合って、醤油の焼ける匂いや甘い粉の匂いが鼻をつく。
長谷部の手先から下がったビニール袋の中では、出目金がひらりと鰭をひらめかせていた。
「どうです? 俺は、金魚を獲ってさしあげられたでしょう?」
「うん。うれしい」
ビニール袋を受け取って、眺める。赤くて小さな魚が、つい、と向きを変えた。
隣を見上げれば、私の近侍は実に得意そうな顔をしているので、その頭に手を伸ばす。でも届かない。私の身長では彼の頬をなでるのが精一杯だ。
指先がそこに触れると、くすぐったそうに笑う。あ、珍しい顔、と思ってのぞき込むと、長谷部はこちらの視線に気づいたのか、急に表情をひきしめた。
「ほかにも何かあれば、お望みのままに。射的でも水風船でも」
「あー、ありがと」
いつも思う。犬をじゃらしている気分だ。行儀よくお座りしてしっぽだけぱたぱたさせている大きな洋犬みたい。
しばらくなでくって満足したので、長谷部の腕をつかんで、また歩き始める。再度、彼があたふたと私の頭を見下ろしたようだったが、その表情はうかがえなかった。
私が小さく舌を出したのも、彼からは見えていないだろう。
目測約35cmの身長差は、ずいぶん遠い。
そっと横顔を見上げると、昔、お姉ちゃんの教科書で見た芥川竜之介だか太宰治だかをなぜか思い出した。
どこから溢れてきたのかと思うくらいの、人人人。永遠に続いていそうにも思える露店。
わたあめを抱えた赤い浴衣の小さな女の子や、虹色に発光する玩具を抱えた男の子。
浴衣姿のカップル。観光客らしき一団。法被にたすきがけのおじさん。
見上げると、マンションのベランダにもたれた老婦人が通りを眺めている。
「……痛」
「どうされました?」
「んー、だいじょうぶ。鼻緒がちょっとね」
「いけませんね。お掛けになってください」
長谷部は私を通りの脇につれていき、座らせた。
見れば、下駄の鼻緒でこすれたらしく、足の小指の付け根あたりが水ぶくれのようになってしまっていた。
「おいたわしい」
迷わず私の前に片膝をついた長谷部は、眉をひそめて下駄を取り去り、足をくいと持ち上げた。そこにふっと鈍色の頭が近づいて、遠ざかる。
「……っ、待って待って待って」
「何です?」
「こんな……人通りの多いところで、それは、ちょっと」
「はい?」
あいかわらず私の足を持ち上げたまま、平然とした顔で袖から手ぬぐいを取り出し、端をくわえてビッと裂く。
ぽかんと見ていると、手際よく水ぶくれの上から布裂を巻いてくれた。眉間にしわをよせたまま立ち上がり、腕を組んで私を見下ろす。
「本来なら俺が抱き上げてお運びしたいところですが、まあこれで宜しいでしょう」
「……ありがと。……っていうか、いいよ。抱き上げるとか」
「おんぶのほうがお望みですか?」
「そうじゃなくて」
鉦の音と御囃子が、途切れることなく流れていく。
何の形か分からない鉾の先が、屋根の向こうに見え隠れした。
「……まるたけえびす、に、」
なんとなく、口をついて出たらしい。長谷部には聞こえたらしく、振り返る。
「何です?」
「わかんない! なんか、なかったっけ。こういう歌」
「歌ですか」
まるたけえびすに、おしおいけー、と繰り返していると、「通りの名前ですね」と納得したようだ。
「この続きがわからないんだよね。ここまでしか知らないの」
「御池通の次は……確か、姉小路だったかと」
「それから?」
「三条、で、何でしたか……」
「ええー、わかんない?」
少々お待ちを、などと言ってぬうと考え込んだ長谷部から、変な柄のうちわを奪いとってばしばしぶつけながら、良く判らない節をつけてうたった。
「まるたけえびすに、おしおいけー、あね、さん、……」
やっぱり分からなくて口をへの字にした私を、おじいさんがにこにこ振り返りながら通り過ぎていく。私の近侍はあいかわらず、顎に手を当てて真剣に考え込んでいるらしい。
「……あー、時間!」
私はあわてて立ち上がった。
目当ての町屋まで、歩いてちょうどか遅れるか、という時刻になっていた。
「足は痛まれませんか?」
「平気みたい。行こ」
「先ほどの、数え歌の続きですが」
「ん?」
「本丸に戻ったら調べることにいたしましょう」
「うん」
私はするりと手をとり、今度は指先までからませてやる。――恋人つなぎって言うんだっけ? やはり彼はあたふたと顔を赤くし、口を小さくぱくぱくさせる。
私が小さく舌を出したのも、その視線の高さからは見えていないだろう。
あと、5年……違う、3年。
3年、待っていて。
見てなさい、私の顔があなたの視界に入るようになったら、あたふたどころじゃすまないんだから。
濃紫の文庫の帯も、紅い鼻緒も萩の柄行も、今よりずっと着こなして、水ぶくれだってこさえずに優美に歩いてみせるんだから。
「こっちこっち」
走るというより跳ねるようなリズムで、私は長谷部を引っ張って人波をすりぬけていく。
出目金の入ったビニール袋が、そのあとからわたわたとついてくる。
アスファルトはひたすらに昼間の熱を放出して、湿っぽい空気がのたりとその上を流れていた。
(2016.2改稿)