キマイラの頭をひとつ、斬りとばした。
山羊の形に似たそれは、砂の上で二、三度ひくつくと動かなくなるが、フリオニールはそれを一顧だにしない。
返す刃は魔物の脇腹をなぎ払った。どす黒い血が吹きあがる。一つ残った獅子の頭が吼え、蛇の尾が毒牙をむいてうねる。飛びさがり、右に走った。壁を蹴っ て高く跳び上がる。魔物の頭上をとび越えざまにナイフを投げると、それは魔物の目に深々と突き刺さった。フリオニールが両足をそろえて着地するのと時を同 じくして、キマイラはゆっくりと崩れ落ちていく。
ず、ず、ず……という、砂がなだれるような音が響いた。
それに混ざって、がちゃり、と鉄格子の開く音をとらえ、フリオニールは左後方に向き直った。30歩程おきにぐるりと並んだ入口の一つから、三匹のアン デッドがうぞうぞと這い出してくる。きゅう、きゅうと言うような声を上げながら、操人形のような動きで並んで近づいてくるのがおぞましい。
考えるよりも先に、フリオニールの体は動いた。
三匹の魔物の正面に飛び込み、横一文字にメイスを振りぬいた。アンデッドの体は、軽い。まとめてなぎ倒す。駆け抜ける。壁を背にすると、唇に魔法の詠唱をのせた。起き上がろうとうごめくアンデッドの上に、炎が降りそそいだ。
「――火炎よ(ファイア)!」
弱点を突かれて、魔物たちは砂が崩れ去るように姿を失っていく。
体が熱い。連戦の昂ぶりが腹の底を焦がしている。メイスをにぎりしめたままだった手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
魔物の動きが明瞭に見え、四方の音は猫の足音すら漏らさず聞こえている。そう感じられた。
フリオニールは、ほうと小さく息をついてバンダナごと額をごしごしこすった。
気はゆるめず、そっと周りを見回す。円く囲まれた壁にうがたれた八つの穴――鉄格子の向こうには、次の「対戦相手」が控えているのだろうと思われたが、そのいずれから魔物が放たれるのだろうか。
歓声ひとつ、勝者のためには上がらない闘技場。その真ん中。
普通ならば観客席であるはずの、円形の壁の上は、等間隔に装飾柱が並ぶ回廊になっているようだ。
人の気配のないそこを、時折、帝国の将官とみえる鎧姿が通り過ぎていく。かれらは、おそらく皇帝の座所なのだろう、紗の布がふかくたらされた高欄の向こうに姿を消す。
(奴は――皇帝は、やはり姿を見せることはないのか?)
わざわざ罠にはまりに来たようなものだが、王女救出という使命に加えて、めったに人前に姿を現すことのないパラメキア皇帝マティウスの姿をしかと目に焼 きつけ、あわよくば武器の届く範囲にまで近づくことができれば。そう思っていたのだが、そのいずれも、まだ果たせていない。
バンダナを直すふりをする手の陰から、フリオニールは紗幕をにらみつけた。
そのとき。
「歴戦の勇士よ、闘技の果てなき道を往く戦士よ!――」
奉書紙をささげもった黒鎧の騎士が、回廊の上から朗々と呼ばわった。
自分のことか。フリオニールは手をとめて、聴覚だけをそちらに向かって研ぎ澄ませる。
「――幾多の刃をかいくぐり、血に濡れた勝利を求める者よ、七たび死を迎えようとも汚れた黄泉の強者の座を欲する者よ! 次の対戦に勝利すれば、おそれ多くも皇帝陛下より賞品が下賜されるであろう! 力を尽くして戦うが良い!」
重たげに垂れ下がっていた、淡くなびく薄い紗が、
するすると、音もなく巻き上げられていった。
何の気配も感じられなかったその奥には、
――毒々しく美しい男が座っていた。
黒鎧の騎士が数人、そのまわりに控えている。
皇帝は悠然と椅子に頬杖をついたまま、冷笑を口の端にはりつけて、眉ひとつ動かさずにフリオニールを見つめていた。
その皇帝と――確かに目が合った。
面白そうに切れ長の目を細めて、闘技場を見下ろしたまま、皇帝は少し手招きのような動作をした。
そして、
「早く、来ぬか」
酷薄な口元は、たしかにそう、動いた。
ぞくり、寒気が、あるいは熱が。背中を這いあがった。
思わず手の中の剣柄を握り締める。爪が食い込んだ。のどが干上がっていく。全身の筋肉が張りつめる。ぐっと唾を飲み込む音が、自分の喉元で大きく響いた。
皇帝の座所に向かって、一筋の道がまっすぐ、確かに見えていた。
あそこまで、走りぬけたら。
抜刀したまま、誰にも追いつかれない速さで皇帝のもとまでたどり着けたなら。そしてその勢いのまま、武器を躍らせることができたなら。
もしかしたら、皇帝を討つことすらできるかもしれない。
どこか遠くから、何か大きなものが足音を響かせながら近づいてくるような、そんな気配がしていた。
――早く来ぬか。
皇帝の座所に至る、確かに一筋の、まっすぐな道が見えた。
息をととのえ、鉾槍を抜いて構える。油断なく、八つの鉄格子を見回す。次が最後だとは言うものの、あるいはその後、居並ぶ帝国兵たちにとり囲まれるかもしれない。……いずれにしても、全力を尽くすのみ。
鉄格子が上がる音を、地響きが追った。
先ほどのキマイラの三倍ほどはありそうな巨大な体躯に、ドラゴンの頭をのせた魔物。しゅうしゅうと、息をするたびに風が巻き起こる。
思わず息をのんだ。
(ベヒーモス……!)
空気が動いた。問答無用と鉤爪が襲いかかってくる。とびのく。三秒前までフリオニールが立っていた場所にベヒーモス の前足が食い込み、大きな穴をあけた。次の一撃。余裕をもってかわす。動きは鈍重だ。一発の威力は大きいが、圧倒的にこちらが速い。刺突を与えてから敵が 反応してくるまで、やや間があく。何度も武器をふるい、魔法を放って、相手の力をそいでいった。横から、後ろから、上から。
何度目かに、ベヒーモスはぐらりと身をよじった。吠える。背にまわりこんで斬ろうとした刀身は重く、鈍く滑った。刃に脂がまわったらしい。フリオニール は横に跳んで追撃の爪をかわしつつ、受け身を取って転がり、跳ね起きた。今度は巨躯の腹の下に飛び込む。鉾槍を突き上げた。
断末魔の咆哮があがった。
フリオニールは立ち止まらない。そのまま走りぬけ、戦斧を抜きはなって丸太のような脚の腱に一撃をたたきこんだ。向き直った時、魔物はのたうちながら崩れ落ちはじめていた。
(……勝った、な)
ベヒーモスは脚を折って倒れ込み、ぼろぼろと姿を失っていく――砂煙をあげて。
それをちらりと一瞥し、フリオニールは踏み出した。
今度は。
皇帝に向かって。
一歩、二歩、足を向ける。
三歩、四歩、すこし歩みが早くなった。
五歩、六歩、七歩、さらに速くなり、ついに駆け出した。
砂地を走りぬけ、階段を駆け登った。閉ざされていた鉄格子は足をかけて飛び越えた。円い回廊を走る。豪奢な絨毯が、ぶわぶわと靴底にからんだ。皇帝の座 所が近づく。主は先ほどと変わらず、気だるそうにフリオニールを見下ろしている。周りに控えている騎士たちも、皇帝自身も、身じろぎひとつしない。
(――いける)
抜刀する。一気に高欄を駆け上がった。
渾身の力をこめて振り下ろす剣の先は、確実に皇帝の喉元をとらえていたはずだった。
少し目を細めて、皇帝はわずかに手を持ち上げた。
突然、ごく小さな竜巻がフリオニールの前に現れ、剣先を流れさせた。柄を握りなおす。皇帝が小さく笑った気がして、かっと体内で熱がわき上がる。斜後ろに強烈な殺気を感じた。反射的にそちらへ武器をふるう。撥ね上げられた。踏みとどまる。
黒い鎧に黒い兜の騎士が、ぴたりと半月斧を構えていた。その刃までも黒い。
甲冑には細かな意匠が施された部分がある。おそらく位の高い将官なのだろう。兜と半首に覆われて、表情はうかがえないが、きびしくひきしまった口元と鋭い顎の線が見える。まだ若いようだ。
騎士が動いた。激しく刃がぶつかる。腕がしびれた。隙がない。
(……強い!)
その騎士の戦い方は烈しく、一撃ごとに火を噴くようだった。刃を受ければ腹まで衝撃が響き、横に流せば間髪置かず次の斬撃が襲ってくる。二度まで受け流し、横に転がって避けた。はね起き、飛びのく。剣を構えなおし、初めてその騎士と対峙した。
どうしようもない興奮と緊張が、体を焼いていた。
仇敵を討ち取るのを邪魔されたという事実より、圧倒的に強い戦士と今戦っている、その熱に身をゆだねたいと思ってしまうほどの吸引力を、相手は発している。一瞬、張りつめる。
――ギン!
再び、刃を交えた。
剣が押し返される。手首に巻いた革が切り裂かれた。撃ち返す。斬りこむ。
何合目か、ふと、既視感をおぼえた。
……この黒い騎士の、太刀筋は。この構えは。構えなおすときの、体のさばき方の癖は。
それをよく知っている気がした。
もちろん、技の切れや振り下ろされる刃の重さは、全く格が違う。それほどに、今戦っている相手は強い。
けど。けれど。
その戦い方は、フリオニールが今まで手合わせした戦士たちのうちの、ただ一人だけに似ている。
いやな予想が、頭の隅で首をもたげた。
――左手で武器を使っているせいで、そう見えるのだ。
何度もそう打ち消した。
だが。それでも。
猛々しい黒い獣のようなこの闘気を、かつて毎日のように見ていたように思えてならなかった。
相手の攻勢は、勢いが衰えない。むしろ力を抑えつけて、飛びかかる隙をうかがっているような印象すら受ける。いきおい防戦の時間が長くなる。黒い半月斧 の先が肩口をかすめた。腕に灼熱感。鮮血が散る。息が熱い。どくどく言う音がこめかみの辺りに響いている。刃同士をぶつけ、力を込めて押しあった。黒い半 首におおわれた相手の顔が、意外に近い。
ごく低い声が、フリオニールの耳元でささやいた。
「戦いの最中に考えごとか?隙だらけだぞ」
その声に、背筋が凍った。
まさか。まさか。
どくどくと、予感が膨張する。体は熱いまま。夢中で剣を振り下ろした。
「おおおおおお!」
――ガキィン!
黒い騎士は剣をはねかえし、横に逸れた。フリオニールは追撃し、刃を突き出す。頬を薙いで、黒い兜が飛んだ。相手の口元だけがにやりと笑うのが見えた。
凄まじい勢いで、騎士は攻勢に転じた。
抑えつけていた奔流を爆発させるような、めまぐるしい烈剣が襲いかかる。刃がうなりを上げて飛んでくる。実力からすれば、黒い騎士のほうが上なのは間違 いない。防戦一方になる。みしり、と剣が音をたてた。間もなく折れるだろう。剣を捨てて新しい武器に持ち変えるべきかどうか、一瞬、逡巡した。
その隙を見逃すわけもなく、黒い騎士はあっという間にフリオニールの懐に飛びこんだ。圧倒的な力で剣をはねとばし、組み伏せて半月斧を振り上げる。
思わず目を瞑った。
胸元をつかんで地面に押さえつけられたまま、耳のすぐ脇に刃が突き立てられた。
脱力感が体を覆った。そして初めて、自分が激しく肩で呼吸していることに気づいた。
騎士はフリオニールの上にかがみこんで、言った。
――娯しかったぞ。腕を上げたな、フリオニール。
……目をあけて視線を動かすと、黒い騎士は立ち上がり、歩き去るところだった。
「牢屋にぶち込んでおけ」
近くの兵士にそう言い捨てて、黒一色の鎧姿が遠ざかっていく。皇帝が優雅に立ち上がりながら、言うのが聞こえた。
「なかなかの見ものであったぞ、ダークナイト」
……、
……届かなかった。討てなかった。勝てなかった。迷ってしまった!
(はあ、はあ、……はあ……、)
口の中はひりひりと乾き、今になってあちこちの傷が脈を打って痛みはじめた。
手足は重く、しびれたように動かせず、フリオニールはただ、宙を見つめていた。