別館「滄ノ蒼」

燃殻ノ悔


  
 石畳の坂を登りきると、海が見えた。真昼のひかりが照り返していた。フリオニールは思わず手をかざし、目を細めた。
 日差しが強い。ほんのすこし潮っぽいにおいを含んだ風で、目が乾く。やや明るい茶色の瞳には、光が烈しいのだ。
「ここからもう少し、街の外れだ。ついてきなさい」
 振り返ったミンウのいでたちは、いつもと少し違う。ターバンを巻いて背中に流しているのは同じだが、面布を外し、裾をからげていた。だから、顔と膝下があらわになって、褐色の肌がよく見える。やや削げた顎のかたちやまっすぐな唇の線が見えるのが珍しくて、フリオニールは思わず、彼をじっと見返した。
「フリオニール?」
「あ、ああ」
「行くよ」
 ミンウがきびすを返すと、ふくらはぎの肉がぐるりと動く。彼の帯には、反った形のダガーが差し込まれており、柄に巻きつけられた組紐の色が、白の装束をいつもより色鮮やかに見せていた。
 辺りは人が行き交っている。包みを下げた商人と使用人が、ミンウをちらっと見やって道を譲った。
 フリオニールはもう一度海を見渡すと、ミンウの後を追った。
  
 アルテアの町から、街道を南へ1日あまり。
 ミシディア海峡に突き出た半島の、その突端一帯は大きな港町であった。
 アルテア領内の町、ひいてはフィンの都を養うための荷が、南の大陸から運び込まれては捌かれる場所であり、アルテア辺境伯領の表玄関と衆目一致するところである。同時に、フィン王国の領土を南北に貫く街道の終着点でもある。
 商人や貴族から盗賊匪賊、海ノ民の類まで、肌の色もまとう衣装も雰囲気もさまざまな人々が行き交う、活気ある町だった。
 時折、頭の上を鳥が過ぎる。それは鴎や海猫などの海鳥であり、飛んで行っては遠くで騒がしい声をあげる。森のなかでひそやかに飛ぶ鳥に慣れたフリオニールには物珍しいものだったが、あまりに頻繁に同じ形の影ばかり飛んでいくため、いちいち目で追うのもやがて止めた。
 五歩ほど先を、ミンウは迷いなく進んでいく。何度か来たことがあるのだろう。連れ立って歩いている警備兵や海ノ民の横を、すいすいとすり抜けて行くので、フリオニールはときどき人とぶつかり、謝ったりしながら追いかけた。
 通り過ぎる道の脇に、屋台があった。
 その前には簡易テーブルが出され、何やら柄の悪い男たちがたむろっていた。真ん中の短髪が何か言うと、周りの者が追従するように笑う。短髪はやたらと片腕を振り上げるのだが、その理由はすぐに知れた。其奴の前腕の一部が青い。刺青が入れられているのだ。それを見せつけているらしい。
 刺青を入れるのはフィン東部からカシュオーンに至る地方の、刑罰のひとつだ。犯した罪と入牢した場所などの頭文字を組み合わせ、初犯なら腰に、二度目なら前腕に彫るのだという。だが、下層民や農民などは文字を読めぬ者も少なくないから、十人殺しと彫ってあるのだ、などと虚言を吐く出牢者も当たり前にいた。この短髪も、その手合いかもしれない。
 フリオニールは眉をひそめ、マントの陰で中指をみぞおちに当てながら、絡まれないうちに通り過ぎた。
 また頭上を一羽、海鳥の影が過っていく。乾いた熱い風が、のたりと流れた。
  
  
 いつの間にか石畳がとぎれ、砂利道になっていた。
 表通りからすこしはずれたようで、ゆるい坂を下っていく一本道である。ちょっと向こうを見て視線をもどしたら、白の衣が見えなくなっていた。
「あれ、ミンウ?」
「こちらだよ」
「あ、そっちか」
 民家の壁の影からのぞいた顔に続いて、フリオニールは角を曲がった。
「このあたりは細い道ばかりだからね。はぐれないように気を付けるんだ」
「で、でも」
 辺りは明らかに薄暗い。民家の壁のすきまの、すでに砂利はまばらになって、うっすらと苔がこびりついた石のかけらをよけて歩いているのである。
「ここ、どう見ても道じゃない気がするんだけど。通っていいのか?」
「こっちの方が早い」
 ミンウは首をすくめ、ついでに「大丈夫だ、通れるよ」と言って少し笑った。
「はぐれても私は迎えに来ないからな。足もとに気をつけて」
「わかってる」
 うなずくと、ミンウは前よりも気持ちスピードをあげて歩き始めた。
「なあ、ミンウ、」
「どうした」
「ずいぶん、急ぐんだな?」
「時間がないからね。――私たちには、時間が足りない。あまりにも」
「……」
 フリオニールは口をつぐむと、なんとなく海のあるだろう方角に視線をさまよわせた。
 影になった白い壁が、あるばかりだった。
  
  
 両側の建物がとぎれると、細い水路が横たわっていた。ちょろちょろと流れる水の上に、板切れが渡してあった。すいすいとミンウはその上を歩き、「そこだ」と言った。
 そこにはぽっかりと空き地があった。
 雑草がおいしげっている脇に、なにやら小屋がある。
 近づいてみると、ランタンが軒に下がっていた。真鍮だろうか、鈍い金色の金属の枠に、蔓や実をかたどった彫物がある。ところどころに色石がはまっているが、幾何学的に整った切り方をされていない、ということしかフリオニールにはわからない。異国風な、と思ったのは、アルテアの省城の屋根飾りなどとは雰囲気が違う気がしたからだ。
 中でちろちろと火が燃えている。
 薬草をくべてあるのか、少し甘い匂いが漂っている。
 その前でミンウは足を止め、フリオニールを振り返った。
  
  
  
「さて、」
 と言って、ランタンの房飾りにちょっと触れる。
「ちょうど、店主はいるようだが……まあ、君は初めてだから、マントの前を閉めなさい。フードもかぶったほうがいいだろうね」
「マントの前?……魔法屋だろう? 俺、入ったことはあるよ。アルテアでもガテアでも、魔法の本を買ったんだ」
 ああそうか、とミンウは呟いた。
「ここは、魔法屋は魔法屋なんだが……違うんだ。あそこの魔法屋は軒先にランタンなど下がっていなかっただろう? 黒魔法の商い人がついでにケアルの本も売っている、という店だから」
「え? ああ、そうなの……か?」
 アルテアの魔法屋の様子を思い出し、フリオニールは首をかしげる。
「ここも、同じような雰囲気だと思うけど」
「違うんだよ」
 言うと、ミンウは扉に手をかけた。なんとなく気おされて、フリオニールは口をつぐんだ。ミンウの目が、すっと遠くなったような気がしたから。
 教えみちびいてくれる反乱軍の先達でもなく、親切な白魔道師でもない、知らないひとの顔に見えたのだった。
  
  
 扉は、あっさりと開く。
 店の中は、思ったよりも広く、明るかった。
 高い場所に、明かりとりの窓が切られているのだ。置かれているテーブルや棚も、白を基調としたどこか無機質で、清潔な印象である。魔法を扱う店というより、騎士団の調薬室か何かのようだ。
 アルテアで入った魔法屋は、分厚いカーテンで薄暗くした中に、ところどころ火をともしてあったから、ずいぶん印象が違う。
 ミンウはまっすぐカウンターに向かう。その向こうは作業場でもあるのだろう、いろいろな道具や本が積まれているのが見て取れた。
 陰から、なにかが頭をあげた。店主かもしれない。
 人の形をした影かなにかか、と一瞬フリオニールは身構えたが、ぎょろりと白目が動いたので、それが顔だとわかった。
 ミンウよりも数段濃い色の肌をしていた。同じようなターバンを巻き、似たチュニックをまとって、裾をからげている。
 彼はおそらくフリオニールを一瞥しただけだったのだろうが、なんとなく一歩、壁際に下がった。
 二人は何やら、少しの間話していたが、店主はやがてカウンターから出てくる。
 手振りでなにかミンウに指示すると、彼の肩に手を伸ばしてローブを落とした。同時に、ミンウも自分でターバンを前に流す。
 裸の背中があらわになった。そこには一面に、肌の色と違うものが刻まれていた。肩甲骨を覆いつくすように、赤茶色の墨で、線刻がなされていた。
 刺青だ。
 なぜこんなものが。忌むべきものの印。非違――まつろわぬ者の烙印(スティグマータ)。
 フリオニールは、思わずみぞおちに中指をあてて見入っていた。
 知らず、息をつめる。星座を背負っているようだと、思った。
 よく見れば、全体が一つの柄ではない。いくつかの柄をつなげて彫っているために、背中全体に広がっているらしい。柄のいくつかはやや薄くなっている。そこが古い部分のようだ。
 店主はそれに指を這わせ、「このあたりに上書きするしかないですよ」と言うと書棚に向かった。薄い本を抜き出してくる。折りたたまれた形は、フリオニールにもわかった。新しく魔法を契約する時に使う、魔法書だ。
「これですよ。最近ようやく、経本に仕立てることができた。……と言っても、対応する『理』にちゃんと繋がるかどうかは怪しいとか」
「構わない。ずいぶん長く研究されていたはずだから、気になっていたんだ。……ああ店主、ついでに薬草を頼めるか。竜牙草と羊蹄を2束ずつ、連れに渡しておいてくれ」
「はいよ」
 店主はカウンターの奥に引っ込んで、言われたものを出してくる。フリオニールに差し出すと、言った。
「少年、あんたは何者ですか」
「俺は、一応、ミンウの弟子、……だと思う」
「へえ、あの人がね。弟子」
「その、話の流れで。人手が足りないから……」
「ああ、それじゃあ仕方ないですね。あんた、氏族じゃないもの」
「……え?」
「まあ、がんばんなさい。あの人について白魔法を習うなら、間違いない。あとは努力次第でしょう」
「あ、ありがと……う」
「ああ、もう終わったかな」
 店主が視線を向けると、ミンウがこちらに寄ってきて、肩をすくめた。
「契約はできた、と思うんだが。うまくいくかどうか、という感触だな。使ってみないとわからないが」
「そうですか。じゃあ、残りは?」
「これだ」
 ミンウが手を持ち上げると、先ほどの経本の半分ほどが燃え残っていた。端が黒くなっている。魔法を契約すると経本はほとんど燃え尽きるものだが、半端に残っているのだからうまくいかなかったのかもしれない、ということらしい。
「ああ、これじゃ、繋がってないかもしれないですね」
「まあそんなものだろうな。彫りつけるのは、印がちゃんと燃え残ったらにしよう」
「そうですね。また来ておくんなさい」
「では、これが代金だ。フリオニール、荷物は持っているね?帰るぞ」
「あ、ああ」
 フリオニールはあわてて頭をさげると、ミンウを追って店を出た。
  
  
 外はあいかわらず眩しく、白っぽい。
 ミンウはさっさと、きた道を歩いていく。板を渡って路地を抜け、砂利道を上っていきながら、ときどき振り返ってはフリオニールが付いてきていることを確かめ、また黙々と歩いた。
 フリオニールはほとんど駆け足の速歩きで後を追いながら、疑問符を大量に頭の上に浮かべていた。
 さっきのは魔法屋じゃないのか。なんであんな雰囲気なんだ?なんでこの町にはあんな店があるんだ?そもそも何の店なんだ?氏族、とは何だ?なんで俺を連れてきた?『理』に繋がらない魔法とはなんだ?
 ……あなたの背中の、彫物は何なんだ?
 話しかけられないまま、道はいつのまにか石畳になっている。来た時にもあった屋台を通り過ぎた。すでに客は捌けたようで、汚れた皿だけがまだテーブルに乗っていた。
 中天の太陽のいろが眩しい。
 二組ほど船乗りとすれ違った。彼らは半歩道を開け、ちらりと振り返っていった。分かれ道にさしかかり、ミンウは足を止めた。
「……ミンウ? 帰るんじゃなかったのか」
 追いつきながら言うと、ミンウは振り返る。
「少し思い直したことがあってね。町から出て、魔物と戦ってみようかと」
「戦う?」
「……いや、むしろこっちが本来の目的か。君についてきてもらったのは」
 話は唐突で、フリオニールは一瞬、首をかしげた。少し考えて、口に出す。
「……さっき買った魔法を、試すのか?」
「そうだ」
 言うと、ミンウは町の外への道に足を向けた。
「まともに使えたら、戦闘がずいぶん楽になるはずだ」
「え、白魔法……だよな? 攻撃魔法なのか?」
「いや」
 追いかけるフリオニールは、また急ぎ足になる。ミンウの言葉は、なんとか聞き取れた。
「『内視(ライブラ)』という」
  
  
  
 フリオニールのこめかみを汗が伝う。魔物の攻撃を食らってはいないが、魔力をかなり消耗していた。あと何回、もつだろうか。
 ひたすら回避(ブリンク)を唱え続けているのだ。精度が1段、上がるのを感じた。
 内視(ライブラ)を試み続けているミンウの、援護役だ。
 ボムの腕が飛んでくる。避けた。次弾。避ける。フリオニールの指先から薄っすらと光が発し、二度目の回避(ブリンク)が飛ぶ。ミンウに命中したかと思った瞬間、彼の位置がすっとずれ、ボムの炎をかわした。またボムが一段、膨れ上がる。再度、詠唱。一定時間が経つと、周囲の獲物を巻き込んで爆発しようとするのがこの魔物の特徴だ。発せられる炎の色が白っぽくなった。ごう、と音が立った。熱気を撒き散らしながら跳ね回ろうとする。それを見てとったミンウの口元からもれる詠唱が、フリオニールにも聞き覚えのあるものに変わった。
「――転位(テレポ)」
 白銀色の光がすぐにはじけた。次の瞬間、野にボムの姿は跡形もなかった。
  
 石畳の道に戻るとすぐ、ミンウは歩を緩めてフリオニールを振り返った。
「大丈夫か?」
「う、うん」
 フリオニールは大きく息を吐いた。早鐘をうっていた心臓は、なんとか通常のリズムを取り戻そうとしている。座り込んで襟を広げ、喉元をあおいでいると、目の前に水の袋が差し出された。一気に飲みくだす。
「ありがとう、ミンウ」
「ちょっと、きつかったか。このあたりの魔物は、アルテアの町の周辺よりも強いからな」
「そうだな……」
「魔法の精度が上がっただろう?横からでもわかった」
「うん。自分のなかで、なにかの亀裂が広がったような感覚だったよ」
 それを聞いて、ミンウはほう、というように目を見開く。
「それは正確な表現だね。――魔力が一段と高まるときは、使った魔法とその『理』のつながる裂け目が大きくなるのだ、と言われているんだよ」
「へえ」
「やはり君に、白魔法は向いているようだ」
「そんな……」
「来てもらって、よかった」
 深い色の目が、ふっと細められる。口元は引き結ばれたままだったが、すこし柔らかく孤の形に寄った。いつも面布で覆われていてわからないけど、あの奥ではこうなっているのか。
「ありがとう……あの、」
 フリオニールはなんとなく顎のあたりを擦りながら、歩いてきた方を振り返った。石畳の道はゆるく曲がって、街の外に出る門はもう見えなくなっている。
「さっき試していた魔法、『内視(ライブラ)』……だっけ?どんな魔法なんだ?」
「ああ、対象の内部を明らかにする魔法だが……」
 そこまで言ってから、ミンウは虚をつかれたような顔になって、言っていなかったな、とつぶやいた。
「君は、ついてきてくれるから……」
 彼には珍しく、困ったように眉を下げたので、フリオニールはあわてて水袋を押し付けた。
「もういいのか?……そう、もともとは、身体の中の状態を『内視』しようという試みでね。魔物によって害を得た場合、体内の気や魔力の流れが滞るから」
「そうなのか。……でも、あなたは魔物に向けて詠唱していた」
「そう。研究が進むうちに、魔物の弱点や魔力の宿る場所を明らかにできるのではないか、ということがわかったんだ」
「ああ、それで」
  
 ――まともに使えたら、戦闘がずいぶん楽になるはずだ。
  
「それで、どうだったんだ?うまくいったのか?」
「十回試みたが、七度は『理』に繋がらなかったな。……経本に仕立てたばかりなら、こんなものだろうね」
 そんな、とフリオニールは声をあげる。魔法というのは、契約すれば使えるものではないのか。
「……つくりかけの、魔法なのか?『内視(ライブラ)』って」
「そうだよ」
「なんで、そんな半端な魔法を買ったんだ?」
 そうだなあ、とミンウは首を傾けた。
「魔法は、きちんとした術式に仕上げるために、かなりの研究が必要だから、だね」
「?」
「魔法の契約経本は、対応する『理』と契約者をつなぐだけのものなんだ」
「え、うん……、?」
「望む結果を得るためにどんな詠唱が適切なのかは、経本が出来あがった段階ではわからないんだ。精度が高くないと、魔法は『理』と結びつかず、発動しない」
「そうなのか。……さっき、あなたがやったみたいに?」
「そうだ」
 だから、詠唱を試みた結果の標本(サンプル)が必要なわけだ、とミンウは言った。
「つくりかけの魔法の経本は格安で売りに出る。安く買うかわりに、試した結果を報告する。それで魔法の研究は進み、完成に近づく」
 つまり、詠唱の精度を高めるために試行錯誤している者が、どこかにいるのだ。
「何十年と磨かれ続けてようやく、ひとつの魔法が完成する」
「そんなに……。大変なものなんだな、魔法って」
「そうだな」
 魔道師というのはつまり、術式を使うだけではなくて、同時に作るものでもあるということだ、とミンウは言った。
「……魔法の研究って、どこでやってるんだ?……ミシディアとか?」
「ミシディア……でも、しているけどね。『内視(ライブラ)』はどちらかというと、氏族の間でずっと研究されていたものだ」
「――氏族?」
 ああ、とミンウはうなずいた。
「私の、出身氏族」
 それ以上のことは言わず、少し遠くを見て、ミンウは「行こうか」と言って立ち上がった。
  
  
  
 しばらくの間、黙って歩いた。角を曲がったところで、人が集まっているのにぶつかった。
 ある家の前を、近所の者らしき人々が取り囲んでいるのである。
 なんだなんだと足を止めたらしき野次馬も少なからずいて、伸びあがって見ている。
 フリオニールは、すぐ後ろのミンウが足を止めたのに気づいて、立ち止まった。くだんの家の向かいの、曲がり角になるあたり。隣にはちょうど、大きな魚籠を背負った海ノ民がいたが、ミンウに気づいて目礼し、場所を譲ってくれた。階段だかの段差があって、ミンウはその上にフリオニールを押し上げた。
「何なのかわかるか?フリオニール」
「ええと、……何かの祝い?みたいだ。じいさんが、赤ん坊を抱いてる」
 窺うと、家の前には孫らしき赤子を抱いた男が立っている。扉には、花をつけた布が下がっていた。
「道化が出てきたぞ」
 人垣の間から、大鼻を突き立てた赤顔の仮面に縦縞の服といういでたちの人物が現れて、椀のようなものを赤ん坊の前に捧げ置いた。こんどは手を広げ、赤子をおどかすようなそぶりをする。周囲がわっ、とはやし立てた。と、今度は道化は大げさに目を隠し、頭を振る。赤子の威光にうたれたかのようだ。
「赤ん坊を恐れるみたいな身振りだ。じいさんは、笑ってあやしてるな。……あ、そうか」
 祝いであり、祈りなのだ。
 『赤子が無事に育ちますように』
 『食べものに苦労しませんように』
 『魔や病に、魅入られませんように』
 言祝ぐ言葉たちが漏れ聞こえる間に、「この間生まれたところだというのに、早いもんだ」などと言いながら野次馬から離れていく親父がいる。
「何十日めとかの祝いかな?このあたりだと、こんな風なんだな」
 道化が立ち直って赤ん坊に礼をしたところで、フリオニールは笑顔を浮かべ、とん、とみぞおちに中指をあてた。「な、ミンウ」と振り返ると、彼は軽くうなずき、深い色の眼をフリオニールの胸元にあてる。
「祝い事のときにも、するのか?――それは」
「え?」
 フリオニールは自分の胸元に視線をおとす。みぞおちに中指。無意識のしぐさ。
「これか?……ええと、『マヨケ』のこと?」
「そうか。――それは、『マヨケ』と言うのか」
 静かにそういうと、ミンウは人垣にまた、視線を向けた。道化はこんどは野次馬に愛想をまいているらしく、拍手と口笛が数度、聞こえた。
「えっと、……あの、小さいころ、葬列を見送るときに言われたんだ。こうするんだよって。だからそう呼んでるだけで、えらい坊さんが村を通った時も、気をつけして同じ風に見送ったんだ。だから、呼び名は」
「まぁ、ないだろうね。そういうものだ」
 ミンウの声はあいかわらず淡々としている。けど。……けど、わずかに乾いたけはいを帯びていないか?
 横顔を見つめていると、ふいに視線がこちらを見た。どきりとしたが、ミンウは静かに、
「そろそろ行こうか」
 と言っただけだった。
  
 ミンウを追って歩きながら、フリオニールはようやく思い至った。
 あの刺青を見たときに、同じしぐさをしていたかもしれない。無意識のうちに。見慣れないものを見たから。恐かったから。そして、彼はそれに気づいていたのかもしれない。そのしぐさの呼び名は知らなくとも、どんなものに向けるものかは知っていた。
 いい気分はしなかったはずだ。
「あの、ミンウ」
 フリオニールは数歩、足を早めた。ミンウに並ぶ。
「……ごめん、……俺、魔法屋で、」
 ミンウは怪訝そうな色をわずかに眉のあたりに浮かべたが、軽く頷いてすぐにまた歩き始めた。
「身にしみついた仕草や考えを変えるのは、大変なことだ。……本当に」
  
  
  
 街の中に戻ってくると、やはり人が多い。
 周りを見れば、ミシディア半島の民の特徴である褐色の肌や黒い髪色の者がめだつ。ときたま、海ノ民であろう、緑みをおびた頭とすれ違うが、いちばん多いのはフィンの民の特徴だ。すなわち、茶色や濃紺の髪に、象牙色の肌。
 その中にあって、フリオニールの容姿はやはり珍しい部類のようだ。銀色に近い薄い色の髪は目を引くらしく、数十歩歩くごとに一人か二人の割合で、好奇の視線を投げていく者とすれ違う。
 村にいた頃は、サラマンド系の容貌なのだろうと言われたものだが、反乱軍の北方出身の兵士を見ても、フリオニールのような髪と肌の組み合わせの者など、他にいなかった。彼らはフィンの民よりも淡いものの、茶色からせいぜい金色といった色合いの髪をしていたし、肌は白かった。
  
 先を行くミンウは、やはりすいすいと歩いていくので、そのあとを追って行く。
 そのうちに、気づいた。
 すれちがう人々のうち、肌の色の濃い者や海ノ民は、ミンウの服装にちらりと目を向けては、ほんの半歩、道を譲っていく。
 だが、避難民であろう紺色の髪の女などは、あからさまに足の向きを変えていった。道端に座り込んでいた老人は、白い装束を見て、子供を引きよせた。
 そして、そっと中指をみぞおちにあてるしぐさ。『マヨケ』のしるし。
 (珍しい――からか。白魔道師が)
 確かに、子供のころは魔法など物語でしか知らなかったし、黒魔道師はともかく、白魔道師なんて会ったのはミンウが初めてだ。村に魔道師が訪れることも珍しかったから、もしもあの頃、訪うてくる白魔道師がいたなら、物陰から遠巻きに見物しただろう。中指をみぞおちにあてながら。
 先を行くミンウの後ろ姿を、フリオニールは睨みつけ、唇をかんだ。
 (白魔道師の装束なんて、……着ていなきゃいけないものなのか?)
 数歩の距離をおいて。そのひとを追っていくと、いやでも色々な視線に気づいてしまう。
 あいかわらずフリオニールには、数十歩ごとに珍しげな視線が向けられていく。けど、髪の色は隠しようもない、だからそのままにしている。それだけだ。
 (……ふつうのローブでもフードでも着れば、目立たないのに)
 そういうわけにも、いかないのかもしれないけれど。
 特徴的な形と色の装束。魔道師だけではない、ある種の職人や酌婦なども、かれら独特の服装をしている。それでも、年がら年中同じ格好をしているわけでもないはずだ。
 (なんで、そうしないんだろう……)
 ちらりと向けられる、珍しいものを見る視線。人の出入りの少ない田舎町ではありふれたものでもあるし、自分がされるぶんには慣れている。
 でも、そのひとは何も気づいていないみたいに、歩調を落とさない。
 フリオニールはうつむいて、自分の爪先を見ながら足を進めた。
  
 敬されて忌まれることに、慣れてしまわなければならなかったのだろうか。
 気が付かないふりをしつづけるしか、なかったのだろうか。
  
 ……そのことがただ、嫌だと思った。
 涙など出ない。唇をかんで、歩き続けた。
 そのひとがそんな目を向けられるのを見るのは嫌だと、そのひとのほんのすこし後ろから、そう思った。
  
  
  
           §
  
  
  
  
 詠唱の指導を受ける時は、座ったフリオニールの横にミンウが立って、一緒に本を見たり発音を繰り返したりする。
 ふいに彼が姿勢をかがめてのぞき込んできたので、フリオニールは思わず身を固くした。どうしても、頭のすみをあの文様がよぎる。裸の背に刻まれた、墨の模様。
 と、深い色の視線が、何か気づいたらしい。
「私が怖いかい?」
「!……そんなこと、ない」
 フリオニールが首をふると、ミンウは身を起こして、ぽんと肩をたたいた。
「何か思うところができたか?」
「え、……あの、」
「違うのか?あの港町の、魔法屋に行ってから時々、そうなっているだろう」
「――ごめん」
 責めているんじゃない、とミンウは小さく息を吐いた。
「思い当たるところはあるよ。そういえば君は知らないんだな、と気づいただけだ。氏族じゃないのだから」
「その、……ミンウの出身氏族って?」
 氏族、という言葉を、先日からときどき聞く気がする。なにか秘密めいた、とくべつな人々を語るような響き。どこから話そうかな、とミンウはあごに手をあてる。
「自分に関わることを語るのは苦手なのだけど」
「構わない。教えてくれ」
「……氏族の者は、白魔法を生業にしていてね、……というよりも、白魔法は氏族の中で細々と伝えられてきた技だな」
 昔、必要があって編み出された技が、「回復(ケアル)」と「招魂(レイズ)」だった、と語る。
「そうだったのか……」
「白魔法の中で一番古い魔法、と教えただろう?『大ナル災』の後、それらを抱えて南の山の中に移り住んだ人々が、氏族の祖先だと言われている」
「うん。……あれ?」
 フリオニールは首をかしげた。
 『魔道師が生まれるのはミシディアの町』『ミシディアではすべての魔法が生まれる』
 そんな出だしで始まる物語や歌はいくつもあったはずだ。
「氏族って、魔道師なんだよな?ミシディアに住んでるんじゃないのか?」
「ミシディアの町を作ったのが、たしかに枝人(ミュラ・ナ)――魔道師の本流だね。私もしばらくいたことがあるが、黒魔法の研究所や学堂がある、美しい町だよ。立派なものだ」
「そうか、魔法といえば、思い浮かべるのは黒魔法のほうだ」
「白魔法は邪流と感じるだとか、そもそも聞いたこともない者は多いようだね。何か、異質なものらしい」
 フィン落城の折にお教えしたが、お使いになるのに躊躇いがあるご様子であられた、とミンウはつぶやいた。
「それ、……偉い人のことか」
 ミンウは少しの間、黙して、「氏族の風習が故かもしれないな、」と言う。
「風習?」
「フィンとはずいぶんちがうからね。これもそうだ」
 ミンウは自分の背中を指し示した。
「……刺青」
「そう。見るか?」
 ミンウはさっさと寝台に腰をおろした。フリオニールに背を向け、ターバンを肩の前にながし、上衣を落とす。
 見事な刺青があらわれる。肩甲骨を覆うように、幾つもの細かな模様が並んでいた。
 そっと、フリオニールはミンウのうしろにひざをつく。手を伸ばし、指先を這わせた。
 近くで見れば、青い刺青とは違う物だとわかる。明らかに墨色は違うし、意匠は文字ではない。星座を背負っているようだと、やはり思った。
「……ここ、色が薄くなってる」
「ああ、あまり使っていない魔法の部分だろう。それがどうかしたか」
「……魔法屋で、たしか、上書きするって」
「そうだね。新しく『内視(ライブラ)』を契約するなら、使っていない魔法を一つ、解除しなければならないという意味だな。私はもう、十六の枠を全部、埋めてしまっているから」
「枠?」
「魔法を契約したしるしだ。魔力の流れと刺青の大きさからして、最大でも十六しか彫れない」
「そうか……」
 フリオニールは薄くなった刺青を撫でた。――それではミンウは、新たな魔法を使うようになったら、この上から針を刻みつけるのだ。赤茶の墨で。
 刺青というのは、血は出るのだろうか。
 でも、白魔法の氏族の人々ならみんなそうするのだろう。
 ミンウが小さく、くくく、と笑った。
「……フリオニール。くすぐったい」
「ごめん」
 フリオニールはゆびを肌から離した。かわりに、てのひらを当てる。
「……あの、ミンウ」
「どうした」
「……俺は?」
「……何?」
「俺、白魔法を五つほど契約したよ。戦闘でも休憩中でも、どんどん使ってる。でも、刺青は彫ってない」
「ああ、……そうだね」
「これって、彫らなきゃいけないものじゃ……ないのか?」
「……君は」
 ミンウは躊躇うように、口をつぐんだ。
「あなたに言われたとおり、契約した魔法の経本の燃え残りは取ってあるよ。紋章みたいな模様が浮かび上がって、そこだけ燃え残ってるのが不思議だったけど、あなたの背中を見てわかった。――刺青の文様だったんだな」
「その通りだ。……すまない、ずっと迷っていたんだが、わかった」
「わかった、って?」
「君には、必要ない」
「え」
「必要ないことだから。刺青を彫ろうと思うなら、やめておきなさい」
「何で、」
「君はフィンの民だ。犯罪者のしるしだ、と言われるだろう」
「知って、……」
「そりゃあね」
 軽く肩をすくめたらしい。ミンウの背がすこし、固くなる。
「装束で覆って、衣を脱がない。そうしていても、知れるものだね」
「――まさかあなたは、……他には何て、蔑まれた?」
「あまり言いたいことではないな。……今となっては、もはや詮無いことだし」
「そうか。……ごめん」
「私は、そんなものを君が背負う必要はないと、思う」
「え、でも、……でも、白魔法を使うためには必要じゃないのか?何かよくわからないけど、魔法を『理』に繋ぐためとかで」
 ああそういう意味か、とミンウは言った。
「刺青のあるなしは技の精度と関係ないよ。要は、どんな魔法を使えるかを身体の表面に刻んであるだけのことだ。白魔法の使い手――氏族の者ならお互い、ひと目でわかる。伝統衣装なら、背中はむき出しだし」
 だから君には必要ない、と、ミンウは向き直り、フリオニールを見つめた。
「……俺が、氏族じゃないから?」
「そうだ」
「俺は氏族じゃないから、魔法を肌に記録する必要がない?」
「そう言っている」
「……それだけか?」
「それだけだ。必要ない物のために、金と時間と体力を費やすのは、君にとって差し障りにしかならないから」
 フリオニールはてのひらを握りしめて唇をかんだ。爪が食い込む。
「じゃあ……じゃあ、なんで迷ったんだよ!」
「え?」
「あなたはさっき言っただろ、『しばらく迷っていた』って!何で最初っから、経本の燃え残りなんか捨てろって言わなかった!?」
「それは」
「俺は半端者か!?白魔法だけ使えるようになって、なのにその技を生んだ氏族に倣うのは、やっぱりいけないって?」
 ……俺はしるしがほしいよ、とフリオニールはつぶやいた。
 フリオニールの外見は珍しい。
 マリアやレオンハルトとは本当の兄弟として育てられたが、そう扱われることはフリオニールの容姿が阻んだ。いつだって、「もらいっ子」だった。フィンの民とは『違う』じゃないか――というまなざしを、折に触れて感じたものだった。
 そして今度は、別の民――氏族からも拒まれる。白魔法を――氏族の技を身につけても、氏族には入れないのか。
「フリオニール。聞いてくれ」
 今度はミンウは大きく息を吐き、フリオニールを真正面から見た。
「おそらく、君が思っているよりも生易しいものじゃないと思う。むしろ逆だろう。……だから言うぞ」
 フリオニールの両肩が掴まれる。真摯な瞳の光が、ごく近くから見つめてくる。
「『氏族に倣う』んじゃない。……白魔法を刻むのは、氏族だけだ。氏族の者はそう考える」
「同じことじゃ……」
「同じではない。彼らは――私たちは皆、氏族とは白魔法を生業とし、氏族の内で伝わる言葉を使って、この装束をまとって生きていく者だと考えるんだ」
「……それって」
「魔法の印を刻むなら――氏族に入るなら、フィンを捨てて、考え方やしぐさを一から身につけ直して、しかも他民(タオア・ムイ)に敬遠されながら生きていく覚悟と責任を強いられることになる。……君は、そんな人生をわざわざ選ぶか」
 フリオニールはうつむき、また唇をかんだ。今度は反論が、出てこない。
「白魔法を九つ刺青した者は、氏族の成人として扱われる。他民(タオア・ムイ)であっても、そう扱うことができる。ーーそういう習慣はあるのだけど」
「でも、『他民』……って、呼ぶんだな」
「そうだね。あえて『氏族』としての生を選んだ者がいても、どうせ余所者だから、と――そんなまなざしばかり向けられるだろう。……狭いんだ」
  
 ――仕方ないですね。あんた、氏族じゃないもの。
  
 ミンウは遠くを見るような目をした。その感情は読み取れない。所属することをやめられない集団を語る、顔。その世界のことをフリオニールは、知らないのだ。
「そんな狭い世界のことを君に告げていいのか、迷っていたんだ」
 ……うん、と、フリオニールはうなずいた。
 うなずくしかなかった。ミンウは真剣に、フリオニールのためを考えてくれている。
「君にはよくないことだと思う」
 ……うん、と、フリオニールはまた、頷いた。
「――だから。必要もないのだから、やめておきなさい」
「……っ……!」
 フリオニールは目の前のひとに、すがりついた。
 涙など出ない。じっと唇を噛んでいた。ミンウの体温は案外高いのだと、ぼんやりとそんなことを、思った。指の長いてのひらが、肩をなでてくれた。
 腕を伸ばす。服をにぎりしめる。
 ゆびさきは彼の刺青に届いているのだろう。触覚ではその痕跡をたどることはできない。ただ肌が、熱かった。視界には白い衣だけが、映っていた。
  
  
  
           §
  
  
  
  
 誰もミンウを見送らないのだ、と知って、フリオニールは思わず、てのひらに爪を食い込ませた。
「なんでだよ!?誰も、って、なんで……」
「アルテマの魔法の封印を解きにいくのは、目立っちゃいけないから……秘密裏の作戦の、御命令だから」
 マリアがとりなしたが、「おかしいじゃないか、」と、義憤が口をついて出た。
「おかしいだろ!?あのひと一人に任せて、危険なのに……遠いところに行くのに、……重要な作戦なのに」
「だからよ」
 王女はずっと祈っておられたそうよ、とマリアは低く言った。
「戦うって、私達みたいに剣をとることだけじゃないわ。常に前線に出ているとか、直接部隊を指揮するとか、そういうことばかりじゃないでしょ?どこでどれほどの部隊が戦っていても、それ全部を盾にしてでも、究極魔法の存在自体、知られちゃいけないんだわ」
「それに、したって……」
 作戦を遂行するための軍全体としての理屈は、わからなくはない。他ならぬミンウが教えてくれたのだ。
 でも、個人的な情として、街を出るまで一緒に歩くくらいしてもいいだろうに。
「……だめよ。だめなんですって」
 マリアはそう答えて、顔をふせた。
「目立つのよ。ただでさえ白魔道師は珍しいのに、ここしばらくは変わった着方をしているし…」
「だから、一緒に歩くだけでも『草』の注意を引いてしまうって?」
「……そう」
 私たちみんな、『草』には顔が割れないように注意しなさいと言われたじゃない、とマリアは言った。
 彼女は地味なスカートにエプロンといったいでたちだ。アルテアの街に戻ってきてからずっとそうだ。髪を編んで、そこらの水事の女衆と変わらない格好をしている。
 マリアだけではない。フリオニールもガイも、他の兵士と同じような服装をしておけと言われた、が、――フリオニールは隠しようがない。銀色に近い色の、髪。
「そうだけど、けどさ……、じゃあ、顔も見られないなんて」
 空を見上げると、雲の色は妙に白っぽい。フリオニールはなんとなく耐えられなくなって、踵を返した。
「フリオ!」
 呼び止める声にも構わずに駆け出す。建物に飛び込み、足の向くままに走った。
 着いたのはミンウの部屋だった。
 扉を開けると、しらじらと明るかった。旅の準備はもうほとんど終わっているらしい。殺風景なほどに物が減っていた。
 隅のほうに頭陀袋などを寄せておいて、ミンウはやはり、本を広げていた。
「どうした?」
 声をかけるのもそこそこに入ってきたフリオニールを、深い色の目が振り返る。
 今日は面布をつけているから、目元だけがあらわれている。けれど、チュニックの着方は氏族のものだ。裾をひざまでたくし上げ、短刀を吊るための紐を巻いている。
 その紐の色や組み方も、立場や年令によってなにか決まりがあるのだろう。――と、なんとなく思った。だが、このひとがいなければ、そんな事に思い至るようになることもなかっただろうと、すぐに気づく。
 ……いろんなことを教えてもらった。ほんとうに。
「あの、……挨拶、今のうちにしておかないと、と……思って」
「……聞いたのか」
「うん……」
 やわらかく手招きし、そこらに座るよう促す。うつむいたまま、フリオニールはすとんと腰を下ろした。
「私がいなくても、詠唱の訓練は続けるんだよ」
「わかってるよ……」
 ミンウは手をのばし、くしゃり、銀の髪をなでた。フリオニールの肩が、思わずびくりとする。
 頬の横に彼の手首が近づいて、連ねられた腕輪の音がかすかに聞こえた。彼の装飾品はどれも赤銅に近い色の金でできていて、赤い石が嵌っているのと嵌っていないのがあるのを、フリオニールは知っている。
 と、「ほんとうはね」、と、ちいさくつぶやいたようだった。
「本当は、――行きたくないんだ」
「……え?」
「心残りが多すぎてね。……行きたくない、本当は」
「ミンウ、」
「フィンに来てから始めた魔法の研究はもう完成しないだろうし、軍務も中途半端に投げ出すことになってしまった。――それに、手のかかる弟子がいる」
「……」
 銀の髪がくしゃくしゃとかきまわされた。ときどき金属が触れて、冷やりとする。
「……君には、知っていることの一分だって、まだ教えきれていないのに」
「そんな、……こと」
「引き止めてくれるなよ。……揺らいでしまいそうだから」
 ミンウが軽く笑う。
 ゆびの長いてのひらが頬にふれて、引っ込められようとする。こそばゆくって気になった。けど、ひとの手元をじっと見つめるのは縁起が悪いものだ。
 だから彼の手を引き寄せ、頬で金属の感触を感じた。指にはいくつか指輪がはまっており、どれも赤銅に近い色の金でできているのだ。
 ふたつ、みっつ。
「――どうした?」
「いや、……なんでもないよ」
「と、言われてもね」
 ミンウの目が、すこしだけ細まる。彼の手はフリオニールに捕らえられたままだ。
「動けないんだが」
「……ごめん」
 フリオニールが手の力をゆるめると、指輪の嵌ったゆびさきが、頬を一度、すいと撫でてから離れていった。目を上げると、ミンウの手は懐からなにか取り出そうとするところだ。
 なんだろうか。
「すまないね……これを預けておこうか、と思ってね」
「え」
「『内視(ライブラ)』だよ」
「これって、……あの、燃えさし?」
「そう」
 手巾に包み直しながら、彼は続ける。
「ミシディアの街に行くことがあれば、白魔法屋に持って行くといい。改良された経本と引き換えにできるだろうから。君の才なら扱えるだろうし、きっと戦いの役にも立つ」
「そんな……」
「というか、そうだな、これは君への課題だ。この魔法を継いでくれ――どうか」
「……!」
 うつむいたフリオニールは、ややあって、どうにかひとつ、言葉にだした。
「……あなたからの宿題が多くて……大変だ、詠唱の訓練は続けないといけないし、いろんなことを、覚えないと……」
「ああ」
 ミンウは窓の方を見やる。茜のさした空に、きんいろの雲が浮かんでいた。アルテアの空は、フィンの都よりも遠くまでつきぬけるような心持ちのいろをしている。
「……知識は、誰にもとられたりなどしないから……」
「え?」
「いや、いいんだ。……私の自己満足ということだよ、良い師ではなかったからね」
「そんなこと、ない!」
 思ったより大きな声が出て、フリオニールは自分でも驚いた。ひとつ息を吐いて、受け取った手巾を握りしめる。
「そんなことない。いい先生だよ、……あなたは。最高の師だ」
「それは……嬉しいな」
「これ、……預かるよ。でも今は俺、まだ回復(ケアル)も招魂(レイズ)もうまくないから」
 深い色の目を、見上げる。視線を受け止めて、じっと見返してくれる。
「だから」
 彼の視線の強さに、負けないよう。流されないよう、見つめる。
「ケアルの精度があなたに追いついたら、契約するから」
 その言葉はするりと口から出てきた。このひとに教えてもらったのだから実現すると、少なからぬ自負があったのだろう。それはミンウにもわかったはずだ。彼の目がすこしだけ、細まったから。
「ああ、……頼むよ」
 面布に隠れて見えないその口元を、フリオニールは思い描いた。
 すこしだけ孤のかたちに寄って、柔らかくゆるんでいるのだろう。
「……ミンウ、」
「何だ?」
「あの、……前、言ってただろ?『他民』でも氏族に入れるって」
「どうしたんだ?藪から棒に」
「いや、あの。聞いてみたいだけ、なんだけど……」
「うん。何だろうか」
「氏族に入れてもらう、条件のことなんだけど」
「条件?」
「氏族に入るには、刺青を九つ彫る以外に、何か条件はあるのか?」
 よく覚えていたな、そうだね、と言って、ミンウは手をあごにあてた。
「灌頂の儀式……は、今は大して必要でもないはずだったかな。絶対に必要なのは、氏族の者に身を保証されること」
「保証?」
「白魔法を扱う者だということをね。手ほどきしたのが氏族の男なら、その者と親子の契りを結ぶことが必要だな。教えたほうが『親』になる。年下だとしても」
「親……子」
「そう」
 そう呼ぶだけだけどね、とミンウは言った。戸籍がどうこうといった話ではないし、そもそも氏族には戸籍のない者もいるのだ、と付け加える。
「国や王権に所属しない、そのことを自負する民なんだ。だから、お互いの関係が身の保証になる。君やマリアやガイの場合ならば、私が親になって身柄を保証するということだね」
「……そうか」
 フリオニールののどからは、かすれた声が出た。ミンウを睨みそうになり、あわててうつむく。
 かれの言葉を聞いて顔が引きつったのが、自分でもわかった。きっと、刺されたような表情をしたのだろう。
「どうした?フリオニール」
「なんでもない」
 じっと、てのひらに爪を食い込ませた。
 親子といえば、何よりも強い関係性を表す言葉だ。一生消えることのない、絶対的なつながり。けれど、何よりも強い関係性をあらわす言葉は、同時になにかを拒絶する。
「……教えてくれて、ありがとう」
「フリオニール?」
「旅の餞を申し上げる。どうか、ご無事で。何事もなくミシディアに着かれますよう。水がわりにご注意ください、――魔道師ミンウ殿」
「……ああ、ありがとう、……戦士フリオニール殿」
 片膝をついて拱手したフリオニールに答礼しながら、ミンウは眉のあたりに愁え気な色を浮かべた。
 だがそれは、フリオニールの気づかぬうちに消え去る。あとにはいつもと同じ、たいらかな表情があった。
 反乱軍参謀室の一員の、『白魔道師』ミンウの、顔だった。
「君も、どうか無事で」
  
 ……フリオニールはただ、もう一度拱手をとって立ち上がり、踵を返した。
  
  
  
           §
  
  
  
 ざ、ざざ、と波の音がする。
 あたたかな潮の匂い。風には湿り気がある。沖の方に遠く霞んで、塔の姿がうかがえる。
 フリオニールは風に手をかざす。紙片が一枚、そこには挟まっていた。片方の端が焦げて、燃え残った風情の経本。
 ざ、と風は紙片をさらいかけ、舞い上がろうとしたそれを、フリオニールの手は握りしめた。 
 何度やっても、こうなる。
 捨ててしまえば良いはずだ。風に飛ばしてしまえば良い物のはずだ。なのに今に至るまで、手放せずにいる。そこに表された意匠を身に彫ることもないだろうに。
 ……内視(ライブラ)は、フリオニールも使えないままだった。
 燃えさしの経本の呪文を覚えるのは、ごく簡単だった。魔物との戦闘中に試してみることもできた。だがやはり、いつか見たのと同じだった。詠唱をはじめるとすぐに、淡く光が広がりかけて――消える。
 使えるようになるにはやはり、ミシディアの街で改良版の教本を手に入れなければならないのだろう。
 大きな魔法屋だった。黒魔法の理論書や経本の棚だけでなく、白魔法の経本だけを並べた書棚すらあって、この街は本当に魔法研究の中心地なのだという事実を体現していた。
 それでも、白魔法の書棚は一瞥するだけで通り過ぎた。必要な魔法を仲間から問われたが、一番めだつ所に置いてあった『浄化(ホーリー)』の経本を購うだけにとどめた。店員には白の装束をまとった人物もいたが、『内視(ライブラ)』のことを聞くこともしなかった。
 ……聞けなかったのは、自分が不甲斐ないからだと、分かっている。
 足元には海岸線がある。どこまで行っても、船着場などなさそうなけしきだ。一歩を踏み出すたびに、砂は足先にまとわり、たよりなく体重をひき込もうとする。ときどき、塩辛い水が足指からぬるく砂をなめ取っていき、しゃわしゃわと、あわあわしい音だけを残していく。
 また、ざ、と風が流れた。
 紙片はやはり、ひらりとなびいて、フリオニールの手に握りしめられる。
 水平線ちかくに浮かんだ塔の姿は、それでも日を受けて明るく、すっくと立っている。あたたかく湿った風、潮の匂い。足元の海岸線には陽光が照り返して目が痛む。白く輝く砂が、ひどく儚くうつくしい。
  
 うしろに、さくさくと砂を踏む気配が近づいてきた。
「ここにいたのかい」
「……レイラ」
「こんなに日差しが強いところで、いつから立ってるんだい?日除けをかぶんな、火傷するよ」
「うん」
 フリオニールはマントを引き寄せた。頭からすっぽり被っているレイラの日除け布は鮮やかな赤紫で、むきだしの肌に影を作っていた。
 その肩先に刺青があるのを、フリオニールは知っている。
 赤茶色の墨で、波をかたどって紋章にしたかのような図柄の、大きなものだ。初めてレイラと会った時、思わずじっと見てしまい、睨まれたのもずいぶん前の話だ。
「あんた、魔法が使えるのか?」
 そうフリオニールが聞いたら、彼女は毒気を抜かれた顔をした。あとで聞いたことには、お尋ね者だとでも言うのかいじろじろ見んじゃないよ、などと啖呵を切るつもりだったそうだ。
「ずいぶん物のわかるタオア・ムイだと思ったもんさ」、とレイラは笑っていた。
  
「こんな所でどうしたのサ。塔を見てたのかい?もう明日、向かうんだろうに」
「うん。けど」
 フリオニールは紙片を急いで懐にしまった。塩からい風が、隙を見てはそれをさらい飛ばそうとするから。
「会いたくないんだ」
「なんだって?」
「顔、合わせたくないんだ……」
「塔に行ったっていう……ミンウって人のこと?」
「……うん」
 レイラは少し呆れたように首をすくめた。はっきりした性格の彼女には、まどろっこしいようだ。
「喧嘩でもしたのかい」
「そんなことは……ないけど」
「じゃア何なのさ。魔道師だったっけ?」
「うん……白魔道師なんだけど」
「……幹人(フレム・ナ)なのかい?」
 へえ、と紫の目が見開かれる。今までミンウのことは聞いてはいたものの、実は職業を知らなかったらしい。
「そりゃ、珍しいねェ」
「……幹人?」
 ああ知らないよね、とレイラは言った。
「畑作らぬ者(ナデ・ナム)の中でも、『幹(フレム)』に近いから」
「幹?……って、何のことだ?」
 なんて言うんだろうねェとレイラは遠くを見た。塔の白い影が、まぶしく霞んでいる。
「……あたしら、遺跡に入っただろ。クリスタルロッドが遺棄されてた、地下の古い町の跡」
「?そうだな」
「言わなかったけどさ。あそこ、魔法を書き付けた木片が散らばってたよね。ほとんど朽ち果てて読めなかったけど」
「……うん」
「あたしら海ノ民(ギ・ラン)が世界中に運ぶ魔法は、ああいうヤツなんだ。経本の、さらに基になるもの」
「海ノ民……が、魔法の運び手?」
「タオア・ムイに売るのは魚くらいのもんだよ」
 言って、レイラは肩をすくめる。
「畑作らぬ者(ナデ・ナム)はどこにでもいるんだ、あんたらが珍しがるだけサ」
 ちょうど魔法と同じでね、とレイラは言った。
「陸なんて、今はミシディアにしか上がらないけどさ。あの遺跡がきっと、『大ナル災』の前に氏族が住んでいたところなんだねェ」
「氏……族」
「うん、そう。魔法の氏族。幹人(フレム・ナ)や枝人(ミュラ・ナ)の祖先」
「幹人、枝人……」
「そういうことなんだろうねぇ」
 波が静かに、ざざ、と打った。
  
 あのひとにはいろいろなことを教わった。それ以上に、教わらなかったこともたくさんある。教わりそこねたことも、数え切れないほどあるだろう。どれもが、めぐりめぐってフリオニールの知識になっていく。
 それらのことを数え上げて笑う機会などなく、静かにあのひとは旅立っていったのだった。
 あれから、たくさんの戦場を経験した。魔物を斬り、帝国兵を殺した。そのたびに回復(ケアル)を使い、仲間の傷を癒やし、自分の怪我をなかったことにした。今ではもう、一度の詠唱で薄い傷跡しか残らない。
 だから、回復(ケアル)の精度はもう、あのひとに並んでいるのだろう。
 けれど。
 ――あのひとが残していった魔法の燃えさしは、まだ。
  
「……やっぱり、顔、あわせられないよ……」
  
 うつむいたフリオニールの頭。レイラは腕をのばし、抱き込んだ。
 両手でわしゃわしゃ撫でる。そして銀に近い色の髪に頬をあてながら、低く言った。
「……特別なんだね。そのひとのこと」
  
 フリオニールの視界には、白い海岸線と、寄せては引いていく塩辛い水の膜とが映っていた。
 それがふいに滲んだのは、照りかえす陽光が眩しすぎたのである。
  
 きっと、それだけのことだった。
  
  

(2020.2)

反乱軍でのミンウの扱いって妙にぞんざいじゃない?てところからこんな設定が生えました