別館「滄ノ蒼」

白イ花

 

 記憶はいつも、戦慄と高揚感とともに不意に蘇る。
 弓を引きながら、詠唱しながら、マリアは懐かしい野原の幻影を見る。



 豪奢な絨毯の敷きつめられた城の中を走っているとしか思えない。
 磨石を幾層も重ねたように見える壁には、等間隔に灯火がともされていて、薄暗く周りを照らしている。床を蹴るたびに、気持ちらせんを描いて上っていく感 覚が撥ねかえされてくるので、ここは竜巻の中なのだとぼんやり納得する。堅牢な石壁やそこにかかった重厚なカーテンがまれにゆらめく、そして一瞬、あたり が闇の中と化す。重々しい雰囲気の城内の景色はまやかしであり、皇帝マティウスが作り出したこの竜巻の、表面だけをおぼろに覆っているのだ。
 ごうごうと音が聞こえる。
 風の鳴る音なのか、吹雪の音なのか、あるいは時間も空間も舞い散る音なのだろうか。
 マリアは走る速度をゆるめ、息を吐いた。壁の石模様はどこまでも平行に続いているが、床はどうにも足場として頼りない感じがする。その上、不意に逆勾配 になっていたりするようで、彼女の訓練された平衡感覚も狂いがちだった。再び顔をあげて走り出そうとしたとき、なんとなく壁にかかった絵が目についた、そ こに描かれている美しい女と目が合った。女はにいっと口の端をつり上げて笑い――包んでいた額縁ごと、ゆらめいて消えた。
 ぞくり、背筋を這いあがる冷たさを振り払い、マリアは走り出す。仲間たちを追って角を曲がったところで、結った銀髪の背中に顔をぶつけそうになった。あわてて足を踏ん張り、体勢を立て直す。
 フリオニールが、抜き身の剣を構えなおしているところだった。
「――防壁よ(プロテス)!」
 薄橙色の魔法壁がマリアたちを包む。詠唱を終わらせたガイはマリアを見やってにこりと笑い、素早く戦斧を抜いた。リチャードが槍を八双に構え、跳ぶ。斜めに降りぬかれたフリオニールの焔剣が巨大な木偶人形(ゴーレム)の腕を斬り落とした。魔物が鈍くうなりを上げる。
「――火炎よ(ファイア)!」
 瘴気を噴き上げる切り口に向けてマリアの魔法が放たれた。竜騎士の刃が魔物の胴を貫き、焔剣がさらに一閃する。戦斧をなぎ倒そうと持ち上げられた太い脚めがけて、マリアは力いっぱい弓を引き絞った。



          *



 ――水面をきらきらと、陽光が踊る。
 湖岸の荒砂を蹴って、走っている。少し前を駆ける男の子の笑い声を、追いかけているのだ。
 水際のさざ波が足元ではね、マリアの頬にかかった。冷たい。そして、水草の匂いがする。
「……まって、ねぇまって。フリオってば」
 息が苦しい。胸が痛い。淡く輝く銀色の髪の毛の、その持ち主はどんどん先に行ってしまって、走っても走っても追いつけない気がする。
「やっ……!」
 濡れた地面に足をとられて転んでしまった。
 スカートが半分以上びしょぬれになって、泣きそうになりながらマリアは立ち上がる。走ろうとすると、重くなった裾がべたりと脚にからんだ。ひざの上までたくしあげ、絞る。
「なにしてるんだよ、はやくおいでよ」
 フリオニールは不満そうにこちらを振り返り、駆け戻ってきた。
 半泣きの目で見上げるマリアに手を差し伸べる、もう片方の手に大事に握りしめているのは、さっき二人で見つけた白い石だ。このあたりの岸の石はどれも黒っぽいのだが、それだけは光にすかすとうっすら青っぽく見えて、珍しかった。
 フリオニールはマリアの手首をつかんで走り出す。
 めざすところは、丘をまわりこんだ藪の中だ。
 そこには子供が四人並んで横になれる程度の小さな草地があり、兄妹は「ひみつきち」と称して、父母や他の子がこちらを見ていない隙に、そこの話をこっそり耳打ちしあった。――といっても、マリアもフリオニールも、そこの存在はつい先日知ったばかりであった。
 ある日昼食を終えた後、レオンハルトが小さく手招きしていた。納屋のすみまでついて行くと、長兄は弟妹を整列させた上、もったいぶって腕組みをし、「お まえたちにおれのひみつきちのしようをきょかする」と告げたのだった。その後、すぐに兄弟たちがその草地まで走って行ったのは言うまでもない。

 前を走るフリオニールの頬をくすぐる風はまた、彼のやわらかな銀髪も、ふわりとかき回して流れていく。
 早く、あの小さな基地に着こう。そしてその隅にさっきの白い石を、蝉の抜けがらや鳥の羽やまだ青い胡桃のてっぺんに順序良く積んであげるのだ。
 柔らかな草地は日だまりになっていて、そこに寝ころべばきっと、白い花をつけた藪が青空をいびつな円に切り取っているだろう。目を閉じるとまぶたのうらに日の光の色が広がって、とろとろと暖かく眠気を誘うだろう。
 急な斜面が現れて、フリオニールはマリアの手を離した。
「ここをのぼらなきゃ」
「うん」
「ひとりでのぼれる?」
「へいきよ! これくらい」
「ほんと?」
「ほんと!」
 マリアをちらっと見ると、フリオニールは斜面に手をつきながらあっという間によじ登っていく。てっぺんまで登り切ってくるりと振り向き、しゃがんで心配そうに見下ろしてきた。
 彼を見失わないように、負けないように、マリアは斜面を登りはじめた。



          *



 一羽や二羽の石鳥(コカトリス)であれば、一行は立ち止まることなく、武器の柄でたたき落としながら走り抜ける。時にはマリアが魔法で牽制し、視界を奪ったすきに駆け抜ける。
 鳥の翼のはためく音は、ごうごうと鳴り響く竜巻の音にまぎれていて、廊下をまがったその先で不意に、よろよろと飛んでいるそれに遭遇したりするのだ。鳥 を撃ち落とし、飛んできた方向に進むと、今度は帝国兵とはち合わせる。帝国兵は石鳥を偵察がわりにでも使っているのかもしれない。
 横合いから突然、マリアの足元めがけて槍が突きだされてきた。跳びあがって避ける。さらに横に跳んで二撃めをかわす。マリアは敵の顔めがけて弓を投げつ けながら床に転がった。もんどりうって倒れた敵の後ろには、帝国兵がもう一人。仲間たちが駆けよってくる。薄青いやわらかな光がマリアを包んだ。
「――回避せよ(ブリンク)!」
 そう叫んだ声は誰だろう? ああ、フリオニールだ。うっすらそう思いながら、マリアは短剣をはね上げた。きん、と音が立って、投げつけられてきた刃が床 に落ちる。剣を両手に構えたリチャードが脇を走りぬけた。ガイは雄叫びをあげながら斧を振り回す。その刃が敵の兜のてっぺんにめりこんでいくのが、やけに ゆっくりと見えた。
 フリオニールがマリアの前に出る。彼女を後ろ手にかばう、ごつごつした手がわずかに肩に触れた。
 ひと呼吸後。
 空気が走りだす。
 飛び出したフリオニールが鞘走らせた武器に向けて、マリアは撃力(バーサク)の魔法を放つ。彼の手元の防具が、赤っぽい光を反射した。それを確認すると 同時に、横に跳んで弓を拾い上げる。ガイの斧とリチャードの剣が背中合わせに、ほぼ同時にガキン! と金属音を立てた。帝国兵の鎧を断ち割った音だろう。 マリアは壁を背にすると、石化(ブレイク)の詠唱に入る。
 倒したばかりの兵の向こうから、さらに数人の、帝国の鎧姿が現れつつあった。



          *



 ――木の上からは、野原全体が傾いた日の光と風に包まれて、やさしく揺れているのがよく見えた。
 マリアはフリオニールと並んで大ぶりの枝に腰かけ、足をぶらぶらさせながら白い花びらをくわえている。
 近くの、背の高い藪には芳香の強い白い花がたくさん咲いており、その花びらを萼から引き抜くと、根元から蜜が吸えるのだ。
 味がなくなったのだろう、フリオニールは自分の花びらを下に落とし、マリアのエプロンに手をのばして次の花をとった。花びらを引き抜こうとするが、不器用に引きちぎってしまっている。
 マリアは自分の花びらを落とし、半分ちぎれた花をフリオニールから取った。
「かして、こうするの」
 きれいに引き抜かれた花萼をくわえて、フリオニールは感心したように花びらを陽にすかし見ている。
「きれいね」
 繻子のようななめらかさの、やや厚みのある花びらが光の色をそのまま透かす様子を、マリアは横から覗きこんだ。
「知ってる? 夏がおわるころに花をみずうみにおとして、鳥にかえる木があるんだって。白くて小さい鳥は、その花から生まれてるんだって」
「すごいなあ、見たことないや。見てみたいな」
「もしもわたし、鳥になる花をみつけたらフリオにあげるね」
「ほんと?」
「ほんと!」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。マリアはフリオニールの頬に唇をおしあてる。
 木の間を渡る風が、さやさやとかすかな音をたてた。
「マリア。ぼく、ひみつきちを見てくるよ」
 フリオニールは笑って、木から身軽にすべり降りた。枝の上のマリアを見上げて、呼びかける。
「すぐもどって来るから、まってて」
「あのね、まって、これをもって行って」
 マリアはポケットから木の実を取り出して、フリオニールに渡そうと身をかがめた。
 そのとき、不意に風が吹いて枝が大きく揺れた。
 体の中心が宙に置き去りにされたような感覚がした。「あぶない!」という下からの声をもろに直撃する場所に落ち、マリアはフリオニールを下敷きにしてしまった。
「……ごめんなさい! ……フリオ、ごめんなさい……」
 べそをかきながら起き上がり、男の子の顔をのぞきこんで、マリアはごめんなさいと繰り返す。フリオニールはぴょんと起きると、「だいじょうぶ」と言って少し痛そうに笑った。
「――帰ろう、かあさんにしかられる」
 差し伸べられる、マリアと同じくらいの大きさの手。まだまだ遊びたい気持ちもあったけどすでに辺りは夕暮れで、藪のあちこちで揺れる白い花も、光を受けて淡い黄金色に輝いている。
 マリアはじわりと熱くなる目をこすりながら、フリオニールの手を取った。
 草地をぬけ、茂みをくぐる。蔓性の植物がずいぶんはびこっていて、スカートをあちこち引っかけてしまう。からんだ裾を離しながら歩いた。
 土手に出た。赤みをおびた金色の空に、夏の匂いのする風が流れる。
 フリオニールは振り返って、義妹がまだ泣きそうな目をしているのに気づいたらしい。
「マリア?」
 呼びながら、マリアの頭を二、三度なでる。そして後ろを向いてしゃがみ、言った。
「行こう」
 マリアは差し出された背中にしがみつく。
 彼女をおぶったまま、フリオニールは家まで歩いてくれた。
 夕焼けの光の色にそまった銀の髪は日だまりの匂いがして、マリアの鼻の奥のつんとした感覚と混じった。



 ――いつからか、手をつながなくなった。並んで走らなくなった。一緒に魚を追わなくなった。



「マリア?」
 問いかけられてマリアは我にかえった。野原も木陰も魚の鱗も、花の香りもありはしない。陽光も射してはおらず、ただひやりとして、暗い。ごうごうと鳴る竜巻の音が、にわかに体全体をおしつつんだ。
「……大丈夫よ」
 マリアは弓を握りなおしてみせた。彼女が見上げるとフリオニールは小さくうなずき、固く閉ざされた壮麗な扉を見やった。
「――この先だ。おそらく、玉座の間はこの先だ。この先に奴が――パラメキア皇帝がいる、俺たちの仇が……いる」
 ささやく声は、当たり前ながら記憶のなかよりも随分低くなっていて、マリアよりひとまわり大きくなったそ の手は彼女に差し伸べられることなく、剣の柄を固く握りしめて白っぽく見える。
 その手がゆっくり動いて。
 フリオニールは、細かい装飾のほどこされた扉を押しあける直前の体勢を取った。
「いいか?」
 強い視線が、仲間たちを振り返った。ガイは歯を見せて小さく笑い、背中のメイスに手をかける。竜騎士は口元を少しにやっとさせて槍を構えた。マリアも臨戦態勢をとり、頷く。ほんの一瞬だけ、すべての音が止んで静寂がよぎったような気がした。
「――行くぞ!」
 声と同時に、扉は開かれた。
 武器を抜きはなち、四人は疾走する。
 広大な広間の最奥に、巨大な玉座に寛ぎながらマリアたちを見下ろす、皇帝が座していた。



 駆けながら詠唱を始めた瞬間、マリアは再び、むせかえるような白い花の香りに包まれた。

(2011.6)