
淡雪が消えて空から光が射して、ほたほた、枝の先から雫がしたたりおちて。
湖の水がぬるみはじめて、むずむず、黒く湿った土がやわらかくなって。
昔は毎年この時期に、村で一番最初にはだしになって森へ走って行くのは兄さんだったね。
フィンの都城の中では、窓を開けても空の色が柔らかくなったことはわからないけど
町を歩いても、土のあたたかさを足のうらに感じることはできないけれど
建物の陰にずっと、固く残っていた雪のかたまりが、なんとなしに光を含んで溶け始めている。
そんな、季節。
長い長い旅をして、やっと見つけたと思ったのに
誰よりも安心できる味方に、やっと会えたと思ったのに
兄さんは王女の前を退出してからずっと、私のほうを見てくれない。
私が追いかけても、兄さんの歩幅は凄く広くて追いつけない。
本当に久しぶりなのに。声が聞きたいのに。頭をなでてほしいのに。
遅くなったな、ただいま、と言って笑ってほしいのに。
私はずっと、おかえり兄さん、と言って笑おうと思っているのに。
(今、こうして窓の外をみおろすと、兄さんがしゃべっているのがわかるのに)
腕を組んで立っている兄さんの表情はぎこちないけど、少し、愉しそうに見える。
隣のガイに、ときどきばんばん肩を叩かれて、そのたびに口許がほころぶのがわかる。
フリオニールが何かからかって飛び下がり、兄さんが笑って振り上げた拳から逃げて走り出す。
兄さんは追いかける。ほとんど溶けて水になった雪の名残が、三人の足元でぱしゃぱしゃ音をたてていく。
いつしか私は窓にもたれ、まだまだ冷たく透明な陽の光を頬に受ける。
金色をおびた光がこぼれる空に向けて目を閉じるとまぶたが温かくなって、小さい頃見た、なんとなく覚えている光景が目に浮かぶ。
兄さんたちはいつも、とびかかりあったり転げまわったりしながら
ふりかえりもせずに、どんどん野原を先に走っていって
私だけ、いつもいつもついていけなくなってしまって
そのたびに私は、むくれながら遠く小さな後ろすがたや水しぶきがたつのをながめるばかり、
……なんで私だけおいていかれるの。男の子たちって走ってばかりいて、ほんと、いやんなっちゃう。
(いつも何回も、そう思いながら兄さんたちを見送っていたんだよ)
記憶の中で、いつも私は兄さんの後を追いかけている。
兄さんが土を掘るのを手伝ったり、同じ虫を捕まえたり、兄さんの隣で石を投げたりしている。
女の子たちと遊ぶときと違って、木の枝のもっと先まで行ってみたり、思い切って高いところから飛び降りたりしても、兄さんの後からなら平気だった。
私は兄さんのようにうまく跳べなくて、兄さんはいつも不満そうに、立ち止まって手を伸べてくれる。
フリオニールやガイには、違う。兄さんは決して振り返ったり手を差し伸べたりしない。好きなだけ跳ねて、走って、飛びこえて、それでも隣に必ずついてきていると信じている、そんな距離感。
明るい窓の外に、兄さんの後ろ姿は、もう見えない。
――ねえ、兄さん
もしも私が男の子だったら
もしも私が兄さんの弟だったら
兄さんと剣の腕を競い合ったことがあるのなら
今頃私は兄さんと肩を組み合って笑っていられたのかな
俺がいなくて大丈夫だったか、と兄さんは笑ってくれたのかな
いくら自分を抱きしめても私は、鼻の奥がつんとするのをこらえるしかなくて
明るく暖かくなり始めたばかりの光に肩を照らされていて、痛い、まだ痛い。私は何もできない。
何も、
……
でも。
でもね。
ちいさな「妹」はね、知っているのよ。お兄ちゃんはどれだけ遠くまで走っていっても、きっと戻ってくるってこと。必ず私を振り返って、手をのばしてくれる、ということ。
だからね。
だから。
そろそろ荷物をつくらなきゃ。薬酒を買って、食料を手に入れて、地獄の底からだって帰ってこられるように。またみんなで家族として暮らせる日々を取り戻すために。
もちろん、兄さんのぶんも。
もし、兄さんがずっと私と口をきいてくれなくっても、私のほうなんか振り返ってくれなくても、横に並んで走る弟ばかりが一緒に戦っているんじゃない、と思い出してくれるように。
……待っているから。
兄さん、待っているからね。