静かな喧噪、というと変な言葉だが、賭場という場所のざわめきは仮面を被った騒々しさだ。客が賭け銭を積む音、カードを開く音、小さな舌打ちと押し殺した悪罵。金貨、あるいは銀貨がテーブルを転がる。ディーラーは球を投げ込み、札をさばき、赤い絨毯の上でごった返す人波の間を、ボーイや用心棒が音もなくすり抜け、泳ぎ回る。
セッツァーは持ち場を離れ、壁にもたれて、シャンデリアの明かりの下のどこか殺気だったような空気を眺めていた。
休憩中なわけではない。
ひと勝負の席を〆て、客を散らせたばかりである。
払暁までにはまだまだ間があるこの時間に、なぜすでにセッツァーが職場放棄の体をなしているかといえば、「隣にダリルがいる」、理由はそれだけだ。
ついさっき。音もなく後ろからすいすいと寄ってきたダリルに襟首を捕まえられ、「セッツァー」と呼ばれた。そのまま壁際まで引っ張っていかれ、さっさと飲物入りのグラスを押しつけられてしまったのだ。襟首は押さえられたままなので逃げることもできなかった。
ダリルは涼しい顔で、セッツァーの隣でグラスを傾ける。
時折流れてくる男たちの視線や澱んだ空気など、どこ吹く風と受け流している。
「――相変わらず不健康な商売してんのねぇ、あんた」
「……余計なお世話だ」
からかうような視線から逃げるように目を伏せた。煙草を取り出せば、あっという間にダリルはそれをセッツァーの手からかすめ取って、あんたが腐るとあたしが困る、などと勝手なことを言う。
「いーい? あんたは負けたり躰壊したりアル中とか薬中とかしちゃいけないわけよあたしの子分なんだから。あたしが飛ぶっつったらはいそうですかと付いてこなきゃいけないわけよ」
「わけ判んねぇよ、だいたい俺がいつ腐ったよ」
「いつとかどこでとかどうでもいいのよ。今のあんたは腐ってるって事実は変わんないでしょ、ほっといたら一日中ぼけっと煙草ふかしてさ――」
言いあっているうちに、新米ディーラーらしき茶色の髪の若い男が近づいてきて、何か言いたそうに口をぱくぱくさせた。振り返る、その視線の先をセッツァーが辿ると、古参のディーラーが片目を細め、手まねで「仕事しやがれこの野郎」と言っている。困ったような新米がセッツァーに体を向けなおすと、古参は自分の客の相手に戻って行った。
「あの、ですね、セッツァーさん、そちらのお客様のお相手は、そろそろ……」
言いかけた新米を、ダリルは笑って軽く片手を振るだけで黙らせた。
「バックギャモンのルールを教えてもらってたのよ。席がないから立ってんの」
ダリルはまだセッツァーの襟首をつかんでいたからどう見ても違うのだが、客にそうだと言われてしまった以上強くも言えず、茶色の髪の男はしゅんと肩を落として帰って行った。
「あーあ、かわいそうにね」
他人事のように、ダリルは再度グラスを唇にあてた。
「あの子怒られたらあんたのせいよ、セッツァー」
「俺はなんにも言ってねえって! どう考えてもお前のせいだろうが」
「でさ、話戻るんだけど」
セッツァーの抗議などきっちり無視して、ダリルは自分の言いたいことを言う。そういう奴なのだった。
そして、セッツァーをのぞきこんで目をくるくる輝かせた。
「今から飛びに行くわよ、すごいものを見せてあげる」
「……なんだよ急に。お前何を企んでやがる」
腕を組んで片眉を上げてみせたセッツァーに向かって、心配してるのよとダリルは唇を尖らせる。
「あんたって物凄い出不精じゃない。ここ半月、寝室と賭場の往復しかしてません――でしょ」
「他にも行ったぞ、煙草屋と宝石屋と風呂と便所」
そう返すと頭をはたかれた。
「痛ってえ…」
このあたしがわざわざあんたを連れ出しに来てるんだから四の五の言わずに素直に出てくればいいんだ馬鹿、と罵られ、セッツァーは降参するように両手を上げた。
「判ったよ。何を見せてくれるってんだ」
「それは着くまでのお楽しみよ」
他の誰にも見せたことなんてないんだから。今日、今からじゃないと駄目なんだからね。――だから。
「だからさ。早く来なさい」
実に楽しそうに言うだけ言って、ダリルはさっさと踵を返して歩いて行ってしまう。
――凄いもの。何だろうな?
ファルコンに新しい設備でもつけたのか。いや、どこかに絶妙な気流でも見つけたのかも知れねえな。あいつが言うんなら本当に凄いんだろう。
セッツァーは上着の裾を捌き、ダリルの後を追って賭場を出た。ダリルは振り返ってにんまり笑う。セッツァーもにやりと笑いかえす。
人波を迷いなく抜けていくダリルの背を、セッツァーは見失わない程度に後から追いかけはじめた。
町をはずれ、野に出る。そこで初めて二人は肩を並べた。
「……あのさ、ダリル」
「何?」
「ファルコンはいつものとこなのか?」
「そう」
だけどちょっとだけ崖寄りに泊めたのよ月がよく見えたからね、とダリルは返しながら、すいすいと林を抜けていく。高いヒールを履いている割に、彼女の歩き方は土の上でも変わらない。
今夜の空には、端の方に三日月が引っかかっていて、星明かりがまぶしいほどだった。ダリルの後ろ姿は、明るく照らし出されたり暗がりに沈んだりする。そのうちに、草地に出た。
ダリルの言葉通り、いつもよりも少し向こうにファルコンの姿が浮かび上がる。
「あのさ、ダリル」
「何?」
「俺が先にファルコンに着いたら、操縦させろ。――勝負だ!」
「ちょっと、セッツァー! ずるいわよ!」
勢いよく駆け出したセッツァーに続いて、ダリルも走りだす。
「冗談じゃないわよ、うちの子の操縦桿をあんたなんかに触らせてたまるもんか!」
丈の短い草が足元でざわざわ揺れ、しんとした草の原に映る影だけがまっすぐに動いていく。さすがに危ないと思ったのか、ダリルは途中で靴を脱ぎ、手に持って駆けた。
二人、同時にファルコンに飛び込んだ。
「――俺の勝ちだろ!」
「なに言ってんの! 勝負は操縦桿までよ!」
そう言うとダリルはセッツァーの横をすり抜けて前に出、細い階段を駆け上がった。廊下を抜ける。角を曲がる。走りながら手すり越しに階下のソファへ靴とハンドバッグを投げ、狭苦しい通路をさらに駆けた。甲板に続くハッチをはね上げる。二人ほぼ同時に甲板にのぼり、ラストスパートをかけ、
「――あたしの勝ちだ!」
ダリルは操縦桿に飛びついた。
「――っきしょー……」
息を荒げながら空を仰いだセッツァーは口惜しそうに肩を落とし、甲板に座りこむ。ダリルはけらけらと笑い、うっすら汗のにじんだこめかみに張りついた髪を払うと、そのままファルコンを発進させた。
ゆっくりと速度をあげつつ、船首を上向ける。
風が、ひゅるひゅる頼りない音をかすかにセッツァーの耳元で響かせる。
見回せば、欄干越しの視界の下半分はしっとりと闇に沈んでいる。それでも大陸の形は、墨を流したような色の海からくっきりと浮かび上がっていた。機体が上昇していく。空に飛びあがるたびに感じる、巨大な猛禽の爪にぶら下がって高く高く登っていくような、なんとも言いようのない感覚。
「……あのさ、ダリル」
「何?」
「それにしてもこんな夜の夜中に、どこに行こうってんだ?」
「黙ってついてきなさいよ」
機嫌よく片手で操縦しつつ、ダリルは携帯用の小瓶に軽く口をつけ、セッツァーに投げてよこした。倣って傾けると喉が焼ける。小瓶を空に透かせば中身は闇に溶け込んでしまう、その無色透明な液体越しの景色は、もやもやとダリルの赤い服の色が揺れて見えていて、セッツァーは思わず目を背けた。
なぜか、響きはじめる気配を感じたのだ。ずっと頭の奥底で鳴りやんだことのない金属音が。
……言ってた凄いものって大事なお宝か何かか、モノはなんだ。そう問うと、風に目を細めながらまっすぐに彼方を見据える視線はそのまま、ダリルはゆっくりとファルコンを旋回させていった。
はるか正面に遠く見える稜線の端が、ほんのり薄明るくなっている。
「大事な――もの?」
ダリルは、紅い唇の両端をきゅっとつりあげた。
――あたしにはね。
後生大事にしまいこんでいるモノなんてないのよ。
ここにあるなら――必要ないでしょう?
独り言のように言うと振り向いて、とん、と軽くセッツァーの胸を突き、
「つかまってな。飛ばすわよ」
一気にスピードが上がった。地平線に向けて直進していく。
機内の機関が一斉に、轟、と音高くうなりを上げる。ダリルは操縦桿をさらにぐっと押す。闇が次第に淡くなる。ファルコンは吹き乱れる風を追い越し、機体の腹で雲をかすめ、暁のかすかな光に向かって突き進む。あっという間に山を越え、地平線から放射状にたちのぼる夜明けの光が、視界にぱっと広がった。
ダリルは思い切り舵を切った。
最高値のスピードで飛びながら、舳先は急激に旋回、操縦者の無茶な意志に能力の限りこたえようとする艇のかわりに、風が激しい悲鳴のような音を上げた。ファルコンは風にあおられて強烈に揺れる。甲板の柵にしがみついたセッツァーは尻餅をついた情けない格好になっていた。何しやがんだよ無茶苦茶じゃねぇかよ危ねぇぞと怒鳴るが、ダリルには聞こえていない。
――不意に彼女は無言のまますうっと背筋を伸ばし、
ゆっくりと、右腕を水平まで持ち上げると、
彼方の空を、指差した。
そこは、夜と朝との境界だった。
果てのない闇と力強い曙光がせめぎあい、溶け合い、光砂をまいたように星が散っていた。
セッツァーは確かにそれを見た。その瞬間、世界のすべてはその光景で、音すらも消えた。全感覚が、その空に、その色に、その風に、その唸りに、埋めつくされた。空の色に茫然とする経験は、この時が初めてだったかもしれない。
祈りにも似た数瞬ののちに、ファルコンはゆっくりと高度を下げつつ、暁の領域にその身をひたしていった。慣性で飛びながら、速度もゆるゆると落ちていく。
「――覚えておいて。あれがあたしにとって最高の…星空」
ダリルは言いながら、淡々と舵を操る。当分はもう見られないわよ、連れてくる気もないしね。そう呟く。
「暫定一位ってとこだけど。あの空の向こうまで、もっと速く、もっと高く飛べたら、それがきっと――」
ほとんど独り言のように言いながら、ダリルは今しがた見た空をいとおしむように薄く目を閉じた。夜を駆逐していく金糸雀色の光が、力強く彼女の横顔を照らし出す。
ようやく空気の濃さが元に戻ってきたような気がして、セッツァーは大きく息をついた。
「お前、こんな飛び方してたら死ぬぞ」
「上等よ。それこそ本望だわ」
耳元で風が唸っている。
この艇の名前のとおり、猛禽の群れが船体に翼をかすめていくようだ。
旋回したファルコンの船首はちょうど太陽の昇る方角を向いており、あまりにも眩しく、あまりにも遠く――そしてあまりにも逆光と一体となったダリルの後ろ姿から、風が奔ってくる。
頬を切りさいて流れていくそれは、あまりにも冷たい。
セッツァーは思わず独りごちた。
(……畜生)
こいつは空だ。
風を抱えた空そのものだ。
地の果てまで飛んで、飛んで、身体と風との境界がなくなった頃に遥かに見渡す、暁の光射す空の色だ。
風はセッツァーの髪を弄って舞い上げ、体温を奪う。射るように鋭く大気を照らし始めている日の光は、まだ生き物に暖かさを与えてはくれない。
どうにも、寒かった。
――また、セッツァーの頭の中では、金属音の響きはじめる気配がした。やんだことのない音。耳障りな音。規則的なくせに低くヒステリックに唸り続ける、その音が。
まだ。もう少し、高く激しいファルコンの音で、すべてを埋めつくしておけないだろうか。
柄にもなくおずおずと立ち上がり、セッツァーはダリルの背に、ぽす、と顔を埋めた。
そして名を呼び、上着にしがみつく。
「ダリル……」
うう、と小さくうなったその銀髪の頭を、低く笑ったダリルはよしよしと二、三度なでて、おまけにぽかりとひとつ小突き、ポケットにその手をつっ込んだ。
ひやりと冷えた手だった。
セッツァーはダリルの肩に顔を埋めたまま、頭をさすった。
(……畜生)
ふわりと甘い香りに包まれる。ダリルの香水だろう。奥底にすっきりとした苦みが潜んだ華やかな香りで、彼女によく似あう。
「……あのさ、ダリル」
「何?」
「お前さ、……なんて香水使ってんの」
「なによ、変なこと聞くのね。買ってくれるの?」
「買わねーよ。訊いてみた、だけだ」
「じゃあ教えない」
「なんだよケチ」
ごう……、と、風が吹き抜けた。ダリルは何も言わないまま舵を操っていたが、不意にくくくっと喉の奥で笑うと、目線だけでセッツァーの頭を振り返った。
「そうねえ、じゃあ銘柄の言葉の、ヒントだけね。有名な銘柄じゃないし、もしもあんたがこれ、見つけられたら、この操縦桿をにぎらせてあげても良いね」
その言葉に、銀色の野良猫はばっと顔をあげた。
「それ、教えろ」
くつくつと笑いながら、ダリルは言う。
「……この空に、あるものよ」
広すぎるぞ、と小さくぼやいたセッツァーに向かって、小さくにっと口の端をつり上げてみせると、ダリルは再び、操縦桿をぐっと押した。艇の速度が上がっていく。
「どこまでも飛ぶ勇気がないと、それはつかめない。飛び続けないとそれには近づけない。そうすることで、大切なものを守るもの。そして、……ここにあるもの」
胸元に手を当てて、ダリルはまっすぐに先を見すえた。
空はすっかり青白い黎明を通り過ぎて、白金を帯びた朝の光の色だった。
「それだけ言えば十分だと思うけど?」
「ダリル、……」
言いかけた言葉は、力強く鳴り渡る風に吹き飛ばされて、
(俺……は、)
彼女には届かず。
セッツァーは細い背中からそっと体を離した。
「ねえ、セッツァー」
「あ?」
「賭けを、しようか」
「賭けぇ?」
「そう」
ダリルは相変わらず片手運転のまま、向かい風に目を細めていた。普通に話せば、声は届く。
「あんたがこのファルコンより早く飛べるようになるか。――ただし、地面に降りたらね。コインもダイスもあたしは今、持ってない」
「……賭博屋相手に賭けを持ちかけるなんざ大きく出るじゃねェか。容赦しねぇぞ?」
「何言ってんのよ、ハッタリ言ってないで早く清算しなさいよね、累積でだいたい2372ギル」
「細けぇ奴だな」
「だいたい、っつってんでしょうが。――どう? 乗る? 乗らない?」
「乗った」
セッツァーはにっと笑って欄干にもたれた。
「乗らずにいられるかよ。で、お前は何を賭けてくれる?」
このファルコンでもどうだ、と軽口のつもりで言うと、ダリルは案外真剣な目をした。
「そうねえ……」
それも悪くないかもね、と返されてあせったのはセッツァーの方で。
「冗談だ! このファルコンに主人ヅラなんかしたら振り落とされちまわぁ」
「あら、この操縦桿をにぎる自信がないヒヨコだって認めるのね?」
セッツァーはうっ、と口をつぐんで顔をしかめ、今だけだ、だの仕方ねぇだろ、だのともごもご言った。
吹きわたる風だけはあいかわらず、鋭い鳴き声をあげて飛び続けている。
「でもな、ダリル、俺は……いつか、絶対にお前に追いついてみせるぜ」
「追いつけると思ってる?」
ダリルはフンと鼻を鳴らして、真っ直ぐに水平線を見据えたまま、笑った。舵を操る手は全くぶれることなく、もう片方の手は無造作に上着のポケットに突っ込んでいる。その手はやはり、温まることなく冷たいままなのだろう。
「あたしは絶対に、あんたより先を飛び続けてみせる」
そして引き離してやるのさ。それを聞いて、セッツァーはくくっと笑った。
それ以上の言葉は、もはや不要だった。
ダリルは相変わらず、まっすぐに前を見つめて操縦桿を握り、曙光に目を細めているけど、きっとセッツァーが満面の笑みという奴をこらえているのがわかっているだろう。セッツァーも同様に、彼女が幾分上機嫌になっているのがわかっていた。
どこかずっと下方の遠くで、小さく鳥が鳴いた。
夜明けの鋭利な冷たい風は、目覚め始めた世界の色を鮮やかに映して、心地よく頬をうつ。
初めて夜の生暖かい闇以外の景色を見たような気がして、セッツァーは友に倣って遠くの山々の紫色した連なりに目を細め、煙草を咥えた。