初めて、傘をさしたのはいつだったか。
ティナが帝国城にいた頃、傘をさすことはなかった。おおきな巨きな鉄の城の、どこにも雨など吹き込んでこなかったし、彼女は常に「仕舞われていた」から、雨に肩を濡らすことなどなかった。
ティナが帝国城から出るときは、魔導アーマーに騎乗するときだった。おおきな魁偉な鉄ののりものに、屋根などついてはいなかったけど、南大陸のけぶるような霧雨に、それを防ぐ部品などは必要なかった。付け加えるならば彼女は常に兵士であったから、直接身を守る防具以外のものを装備する必要もなかった。
北大陸に上陸して、魔導アーマーは雪を踏んだ。さく、きゅ、という微かな音と感覚は、ティナの足まで伝わってきはしなかったけど、常とは違う地面の感覚に、踏みしめる圧力と摩擦力を調整しながら、そっと歩を踏み出していった。
暗灰色の空からは、絶え間なく雪が降り落ちてきて、荒く気まぐれな風に踊っては視界を塞ぎ続ける。すぐ前の、ウェッジの魔導アーマーすら形が胡乱になるほどだ。肩防具に容赦なく降り積もる雪は、溶け落ちるよりも層を重ねる方が速い。ティナは無表情にそれを見下ろすと両肩の雪を払い落とし、ただ雪上の魔導アーマーの足跡を、吹きすさぶ雪が埋めるよりも前に踏み重ねていく。
§
初めてティナは、傘をさした。
「ひと雨来そうだな」
サウスフィガロの街の中、上をちらっと見上げてエドガーは言った。
「……雨?」
ティナはことりと首を傾け、エドガーを見上げた。
「雨が降るの?」
「ああ、おそらくもうすぐ。
ごらん、西の空から暗い色の雲が走ってきている。風も水の匂いを含んで、気まぐれに、一瞬ごとに向きを変えている。……雨の匂いがするだろう?」
「これがそうなのね? 空の高いところから降りてくる、涼しい匂いね」
「大したことはないだろうけどね。驟雨が来そうだ。こう、ざあっと」
「驟雨というのね。ざあっと突然来る雨」
「この季節の雨は、そういうのが多いんだ」
エドガーは説明すると、もう一度空を見上げる。見る間に雲が広がり、垂れ込めて、空気がしっとりと水の気配をまとっていく。
「そうだ、ちょっと待っていてくれるかな」
「どうしたの?」
「なに、レディを濡らすわけにはいかないからね」
「?」
ウインクして、エドガーは向かいの店に入っていった。ほどなくして、何か棒のようなものを手に下げて戻ってくる。
「さあ、君に傘をさしだす光栄に浴させてくれたまえ」
エドガーはさっと傘をひろげ、うやうやしくティナの手を引き寄せてカフェの軒先に導いたうえ、傘の柄を握らせた。ありがとう、と言って見上げれば、軒先から傘は三分の一ほど飛び出している。その向こうの空は暗い色で、重たげに沈みこんできていた。
雨が降ってくる、そう皆わかっているらしい。紳士と腕を組んで歩いていた婦人は急いでそこらの店に入っていき、新聞売りの親父は体を軒先にすべり込ませてきた。石畳の上の人影が、見る間に減っていった。
ぽつり、と石畳に水滴が落ちてきた。ぽつ、ぽつり、ぽつぽつ、雨のにおいと湿度がすうっと濃くなって、あっという間に、ざああ、視界が煙る。
ティナは傘の柄をにぎって、空を見上げていた。太い糸のような線を無数に引いて、雨がつぎつぎと落ちてくる。傘の端の方に雨があたって、トトトト、と音が反響する。
横をちらりと見てみれば、エドガーは目を細めて雨を見上げている。マントの裾を持ち上げ、手庇をしていた。水のような青の瞳が、雨水の向こうを追って一心に動く。灰色だった雲はすでに、光をすかしたシーツの色に変わってきていた。
「ねえエドガー、いつまで降るのかしら?」
「もうすぐ止むよ。通り雨だ」
さあ、という音を残して、雨が上がった。
軒にのこったしずくが、ばたばたと落ちてくる。きんいろの光がさして、雲と空の境目が現れた。荷馬車がうごきはじめ、使い走りらしき少年が隣の軒先から駆け出した。水たまりが彼らの足元でぱしゃりと音をたてる。辺りが元の喧騒をとりもどしていく中、エドガーはティナを見下ろして、ちょっと肩をすくめてにこりと笑った。マントの裾のあたりに多少、水がはねた跡があった。
傘を巻きながら、ティナは思った。
(雨はあっというまに止んだわね。傘、……持っていればいいのかしら?)
§
ティナは、傘をさした。
雨が降りそうな空の色になってきたので、ティナは立ち上がって、軍手の土をはたいた。
赤くて灰色の、うすぐらい空が常になってしまったとはいっても、ときどき雨は降り、わずかながらにも芋や豆を伸ばしてくれる。働き手は主に子どもたちで、最年長がティナなのだから、頑張って畝を作ったとはいってもささやかなものだが、今のモブリズでは貴重な栄養源の供給元になっている。
除けた小石や雑草をまとめていると、後ろからはたはたと小さな足音が近づいてきた。振り返れば、六歳ほどの子供だ。ちいさな傘を開いていて、もう片方の手には長めの傘を握っている。
「ママ」
「まあロレット、どうしたの? 傘まで持って」
「お客さんだよ。裏庭のあっちのほうに、大きい乗り物が、来た」
「飛空艇? セッツァーかしら?」
「金髪の男の人が手を振ってた。青い服、着てた」
「そう。……待ってね、道具を片付けてしまわないと」
「うん」
ロレットはティナを目で追っている。手早くスコップなどを小屋に片付けてくる間も、じっと待っていて、だいすきなママに差し出すために、傘をぎゅっとにぎっている。戻ってきたティナが笑いかけて腰をかがめ、柄を受け取ると、嬉しそうに抜けた前歯を見せて笑った。
ティナの頬にひとつ、雨粒が弾けた。傘を広げ、肩にもたせかける。
歩き出すと、ちいさな熱い手が袖をつかんだ。繋ぎ返し、揺すって、声を合わせて歌をうたう。
雨、雨、ふれ、ふれ、ロレットが、傘さしおつかい、嬉しいな……
空とふたつの頭をそれぞれ、はかない膜ひとつが隔てている。膜の表面に、ぽつ、ぽつ、と雨粒がはね、傘の内側では音が反響して、とん、ととん、とリズミカルに音を立てた。子供はくるくる傘を回し、水滴の音がところどころ、ぱつ、ぱつっ、と跳ね踊る。
家々や壊れかけた小屋をまわりこみ、村の裏手に出る。雨はそぼそぼと降り続いていた。おおきな、丸くて白い影が見え、子供はそれを指さしてティナを見上げた。
「ママ、あれ」
「本当ね。ありがとう」
「アリーとメリサにも教えてくる。大きな機械、見たがってたから」
「そう、気をつけて」
子供がぴゃっと回れ右して駆け出すのを見送ると、ティナは飛空艇の出入り口に目を向けた。タラップがすでに降ろされているけど、人影がない。
皆、中にいるのだろうか。
そっと近づき、とんとんと上がっていくと、声がかかった。出入口の枠に手をかけて、外をのぞいている格好の人物。肩からやわらかい色の金髪がさらりと流れ落ちる。
「やあ」
「エドガー。ひさしぶりね」
「ああ、全く淋しいものだったよ。君の愛らしい姿をずいぶん長く見ていなかった。景色にようやく今、色がついたようだよ」
口説き文句を口にしながら、エドガーは数歩、タラップを降りてきてティナの手を取った。細く降り続ける雨を気にすることもなく、彼女の指先に唇をおとす。ティナが急いで彼に傘をさしかけると、大きな手がするりと柄をさらいとっていく。青瞳が片方、ぱちりと瞬いた。
「荷物持ちはレディの仕事ではないのさ。君に傘をさしかける栄誉に浴させてくれたまえ」
「そんなこと言って。あなたが濡れてしまうわ」
「構うことはないのだよ」
「でも」
見る間に、エドガーの右肩から背中にかけて、水の染みが広がっていく。ティナは一歩、タラップを上がり、傘の柄を押し戻した。エドガーの右肩は、それでも傘の大きさにはわずかに余り、ティナの左肩にはぽつぽつと雨粒がはじけた。
「……ふふっ」
どちらからともなく、小さく笑い声が漏れる。あたたかな水滴が傘から流れ落ちて、ぱたぱたと互いの肩をうった。
エドガーはティナの背を抱き寄せ、彼女の側に傘を傾けた。
傘はやはりエドガーの肩幅にはわずかに足りず、彼の青衣の背が雨に濡れていくのを、静かに響く水の音で、ティナは感じていた。
傘は、ティナが生きるうえで必要なもののひとつだった。