別館「滄ノ蒼」

Sacred Birdcage

 

「……鳥がね、いたんだ」



 どこにって城壁に。城壁にはよく鳥がとまるのさ。茶色や白や、灰色のが。
 ちょこんと首を傾げ、チチチ、ピイピイ、と、餌をねだる姿は愛らしいものだ。飛び立てば、高く長い鳴き声をあげて、城壁の上を旋回する。静かな沙漠に、鳥の声だけが響く、それはこの城ならではの音の景色だろう。
 もし赤いのが来たら、君にも見せよう。それまではどうか、俺の話だけで許してくれたまえ。
 ああそうだ、城壁には砲撃の跡がいくつかついて、修繕しないといけないのだった。
 修繕許可の裁決書がもうすぐ来るだろうなあ――今日の起案者は誰かな?
 まあそんな些事は、君の美しさの前では野暮にすぎない。
 この真っ白い、手先足先は紫みの光をおびて輝く、君の身体。ほっそりとしながら野性的で靭やかなこの肢体。力強いとうめいな瞳。するどい鉤爪が長く伸びて、こうして触れていても、危険な美しさがある。――けれど絶対に、俺を傷つけはしない、そう解っている。これほどにすばらしく魅力的なひとが、他にいるものか。

「君は少しだけ、鳥に似ている」

 伝説にある鳥。大きくて真っ白くて、帝王の吉事と凶事を告げるのだという。吉事には一言、『吉也』と鳴くのだそうだよ――凶事にはまた一言、『凶也』と鳴くのだとか。
 それは逆かもしれないよね。その鳥が吉事を鳴くから帝王には吉事があり、凶と鳴いたために凶事が起きるのではないかな。
 その鳥が、帝王の運命を決めているんだ。
 そんな夢想をしたことがあるよ。
 俺の命運も、大きな真っ白い、美しい鳥に握られているのだ、なんてこと。
 ずっと俺は信じているとも。「運命とは自分が選択した結果と、切りひらいた環境と、状況判断とを出目にしたサイコロを振るようなものだ」ってね。
 それでも、運命論者だったらどんなにか楽だったことだろうとたまには思うのさ。……こうして、君と二人で、ただ額を合わせているのも。幻獣の形をした君が人に戻らないでいるのも、運命だからそうなっているのだと、最初からきめられていたことなのだと、身を委ねているしかない、それで充分だと。そう思っていられたらどれほど温くてしあわせなのだろう。

「……ああ、ティナ」

 ここは薄暗くて、君の白い毛並みが輝くように見えるね。
 いつも、この色がとても美しいと思っているのだよ。
 手先や足先は紫がかり、髪はかつての翠が宿る。
 瞳は夜の蒼と朝焼けの紅を同時に宿して。
 俺を見つめ、手を伸ばしてくれる。
 同じように俺も手を伸ばすんだ。
 ただ、君に向けて。

「愛してる。愛しているよ」



          §



 その「兵器」の噂は、聞いたことがあった。
 帝国が開発したという魔導アーマーの性能を最大まで引き出すことができる「パーツ」である、という。
 魔導アーマー本体については、送り込んだスパイからかなり詳細な情報を得ることができていた。搭載されている兵装、構造。搭乗するのは一般兵でも、数種類の魔法を発することができるとか。戦場に投入されれば集団戦において恐ろしい殺傷能力を発揮するだろう。帝国軍の主力として設計された兵器。
 帝国としても特に隠している情報でもないということだろう。
 だが、その「特殊パーツ」の情報は、搭載されている能力どころか形状すらわからなかった。
 魔導アーマー本体のどこに装着するものなのか、帝国軍の師団あたりの保有数は幾つか、そんな情報がないゆえ、帝国軍の戦力を推定するにも誤差が大きくなり過ぎた。
 これについては、帝国側としても秘匿しなければならない機密情報なのだろう。
 厄介だ、とフィガロ首脳部は頭を抱えたものだ。俺も、「引き続き詳しい情報を調べるように」と指示を出しながらも、帝国軍の戦力を見誤るのではないかと戦慄を覚えていた。
 そんなときに、出会った少女だったのだ。魔導の娘と呼ばれる、華奢で儚げな肢体と見たことのない「魔法」を扱う少女。

「――怒りの炎よ(ファイア)」

 炎が、機工を包んで燃え上がる。
 ごう、と音を立てて、煙が上がった。人工物が燃える匂い。それは記憶にもあった。機械師団のちいさな事故は何度かあって、見に行ってみれば火災だったから。
 その時、「噂」と目の前の人物がつながった。
 魔導アーマーのパーツ。性能を最大限に引き出せる。3分で50人の兵士を殺せる能力。命令すれば、意のままに。

「しかし……しかし、生まれ付き魔導の力を持った人間などいない!」

 思わず荒い言葉が出て、細い肩がびくりと揺れる。振り返った夜藍色の瞳は、いまだ表情に乏しかったけども、エドガーを見る目は悲しげな色を宿しているのがわかった。
 そんな力は、普通ではない。
 そんな力を持っている者は、人ではない。
 そんな力を与えられて人間は生まれてくるはずがない。
 ――そうではない、言いたかったのはそういうことではなくて、

「……すまない」

 魔導の力について知りたかったのだ、とフォローを入れながらも、青い視線は隙なくその少女を捉えている。

 この少女――の外見をした者は、魔導アーマーの「特殊パーツ」として「保管」されていた。
 生まれながらにして魔法を使えて、魔導のちからを強める事ができる。そのためか、氷漬けの幻獣の確保にあたって「使用」された。幻獣と反応して力を溢れさせるのは、計算外だったようだが。
 そのために、ずいぶん長い間、思考停止の頭飾りを付けられていたらしい。どれほどの時間かわからないが、思考も経験も年齢より未熟なまま止まっているのだろうと予想できる。
 まだ白紙の、新雪の野のままの、大きな力を持った存在。それを育ててみるのは、魅力的に思えた。

 その「兵器」の噂は、聞いたことがあった。
 ――一見、兵器とは思えない外見の。
 ――最高機密。
 
 澄んだ、不思議な色の瞳が王を見上げた。
 その色には、未だ残る悲しみと迷いの他に、大きな感情のゆらぎは読み取れない。エドガーに対しても、おそらく疑いだとか怒りだとかは覚えていない。感情自体が、未分化なのだろう。
 これから、色々な場所に連れていったり様々な味方に会わせたりすれば、感情も身につけていけるだろう。このこころが育つ過程で、


 ――懐かせれば。


 自分に懐かせれば、利用できるかもしれない。
 そう思った。



        §



 かすかな風が、夜藍色に冷えた空から吹きおりてくる。
 すこし顔をあげれば、降るような星空が、黒くするどいかたちの影になった尾根の上にかかっていた。
 今日は新月だから、星がよくわかる。そう言ってロックは、肩を並べて歩くマッシュに西の空を指さしてみせ、一等星から星座を見つける方法を話し合っているらしい。
 5歩ほど前方の二人の後ろ姿を眺めやって、エドガーはティナを振り返った。一歩遅れてついてくる彼女は、ゆるい下り道を慎重に歩いている。大きめの石や段差が現れると、すっと差し出される大きな手のひらに自分の手をのせてすこし体重を預ける、その動作にもだいぶ慣れてきたようだ。最初のころは、差し出された手をじっと見つめて、疑問符を大量に頭の上に浮かべていたものだが。
 ふわふわと翠の髪を揺らしながら、彼女は歩いている。
 まだ、何を考えているのか読み取れるまでにはなっていない。
 軽くのせられた手の、ひそかなあたたかさが伝わってくるように、彼女のこころも伝わってきたら良いのに。
 ときどき、エドガーはロックのように空を指さして、星の名前など教える。すると、彼女はこちらの顔を見上げてじっと耳を傾けているから、無関心だとか機嫌が悪いだとかいうわけではないことはわかる。だが、表情はまだまだ硬いし、打てば響くような反応を返してくれるようになるまでにはたくさん時間がかかるだろう。
 いつか自分好みの、くるくると表情を明るく変えながらウィットに富んだ応えを打ち返してくるような、――そして何より、自分と並んで見劣りせず人の上に立つ器のある、そんなひとに成長してくれれば幸甚だが、まずは自分の感じた事に自信を持てることが先決なのだろう。
 また、大きな段差があった。
 いつものように優雅に差しだされる手にちいさな手をのせて、ティナはすとんと段差を飛び降りる。そのまま少しの間、じっと重なりあった手を見ていたが、ふいに顔を上げて、エドガーと目を合わせた。そして、言った。

「……ありがとう」

 澄んだ、不思議な色の視線がエドガーの青の視線と交わる。
 にこりと笑みを返してみせ、冗談めかして言う。

「どうせなら君の愛らしい笑顔かウインクを賜れたら嬉しいな」
「そうなのね」

 生真面目にティナは頷き、ぎこちなく唇の端をもちあげてみせた。その初々しさに、エドガーの目が自然と細まる。

「そうそう、そうやって私にだけ、笑顔を見せてほしいな。とても魅力的だよ」
「魅力的? ……よく、わからない」

 こと、と首をかしげて、ティナはつぶやくように言ったが、手を取られたまま離すことなく歩き始めた。エスコートされながら、空を見上げる。

「さっきエドガーは、北の星に向かって歩いている、と教えてくれたわ。このままずっと、北に向けて歩くの?」
「そうだな、背の高い杉が3本並んでいるところに出たら、方向を変える。北の星を10時の方向に見て、なんと言ったかな、そこに差し掛かったら左に――」
「『勇者の四辺形が木の間から見える場所』だぜ」
「『勇者の四辺形』だな、兄貴」

 前を歩いていた二人が同時に振り返り、言った。二カッと笑いあったロックとマッシュに、ティナは目を瞬かせた。エドガーを見上げ、『勇者の四辺形』? と言う。

「星座の名前だね。東の地平線近くにあるから、南大陸では見えないかな?」
「聞いたことがないわ」
「そっか。……ま、知らないからどうだ、ってことはないさ。役に立つんなら覚えればいいことだしさ」
「そうそう。機会があるかないかってこと」

 軽く応えるロックとマッシュは、また空を指さして、「あれが『大鳥の三角』で、」「赤い星から下に向けててのひらひとつ分が、『海牛の座』だ」などと言った。
 ティナはそれを聞いて、ほそい指を空に向けて星座を探したり辿ったりした。

「みんな、すごいわ。よく空を見ているのね。星の名前がどれもわかるなんて」
「職業柄? っていうの? 俺の場合は方角を星で見定めるから」
「俺もかなあ。どんな山の中でも規則正しく過ごすには、星の位置で時刻を推測するからな」
「むしろ、エドガーが知ってるのがすごいよな」
「沙漠からはよく星が見えるからね。空気が冷えていて、頭がすっきりする」
「そうなのね」

 ティナは頷き、もう一度空を見上げた。濃い藍色の空に、一面の星。周囲の木々の形に、黒く切り取られている。この星の位置は何時頃を、表しているだろう。

「あ、もう8時くらいなんだよな? キャンプを張らなきゃじゃん」

 ちょうどロックが口に出したので、ティナは少し驚いた目で彼を見た。「この辺、わりといいかも」などと言いながらあたりを見回しているロックは、ロープを取り出しながらマッシュを振り返った。

「火を起こそうぜ。枝とか集めてきてくれるか?」
「了解」
「じゃあ私達は石を積んで竈を作ろうか。手伝ってくれるかい、ティナ」
「わかったわ」

 4人はてきぱきと散り、火と水の準備を始めた。



「ずいぶんと野営や作業に慣れたようじゃな。リターナーの皆と一緒に過ごした成果か」

 ジュンはティーカップをティナの前に置き、おだやかに彼女を見やった。

「少しの間だが、せめてゆっくり過ごすといい。ナルシェは寒いが、静かなところじゃ」
「ありがとう」
「フィガロ王、エドガー様。ここはリターナーの場、皆と同じテーブルにおつき願う」
「構わないよ。ぜひそうしよう」
「直々にこの娘をお連れになるとは、フィガロを空けても余裕がある状況ですかな?」
「そういうわけでもないんだけどね」

 エドガーはティーカップを受けとり、ちょっと肩をすくめてティナの方を見た。ティーカップを両手で包んで、小さな唇を少し尖らせて、ふうふうと熱い飲物をさまそうとしているようだ。

「こっちの方が重要だし、直接こちらには来てみたかった」
「フィガロから鳩(しらせ)がありましたよ。謁見を求めてくる勢力がある、今のところは断っているけどだいぶ強硬な姿勢だ、と」
「ああ……思い当たるところはあるよ。言論が盛んで結構なことだ」
「ご返事などはよろしいのですかな?」
「あとでしておこう。――フィガロ国内のことなのにすまないね、君は気にしなくていい」

 ジュンの興味を打ち切って、エドガーは飲物を口に含んだ。寒い地域のものらしく、甘みを感じる中にスパイスがぴりっと効いている。リターナーのメンバーの顔から、少しの間だけ王の顔に戻って、エドガーはフィガロの状況を考えた。何があっても守らねばならないものから離れているためか、思考を引き戻すのに多少の時間を要した。

 フィガロ国内では、帝国の侵攻に対して意見が割れていた。多数は同盟を維持しつつ警戒を強めるべきという意見だったが、それに反対する派閥もあった。彼らはサウスフィガロ占領に対して異なる見解を声高に叫んでいた。
 その一つ、非戦派曰く、サウスフィガロが落ちたときは市長とその一家だけの犠牲で済んだのだから、そのまま帝国に譲り渡しておけばよかったのだと言う。奪還作戦は秘密裏に、しかも鮮やかに決まったといっても、何人かの市民の血は流れたのだった。その位ならサウスフィガロを放棄すべきだったと責めたのである。
 だが、サウスフィガロを取り戻さねば、市民にどれほどの被害が出るか分かったものではなかった上、帝国に北大陸での足がかりを与えることになった。そのままフィガロの各地を取られてもおかしくなかったし、悪くすればフィガロが滅びた。
 もう一つ、主戦派曰く、サウスフィガロが落ちたのはフィガロ政府の失態である、と言う。情報収集と対帝国の交渉が弱腰だったのではないかと非難するのだった。奪還しただけでは生ぬるい、マイナスをゼロに戻しただけであって、反転攻勢になぜ出なかったのかと。
 しかし、サウスフィガロの安定を図ると同時に攻勢を強める余力など、フィガロにはなかったし、そんなことをする意味もなかった。全方位に軍を展開する帝国の、どこを攻めても挟み撃ちにあっただろう。悪くすればそのまま攻め込まれ、フィガロ全体が制圧される結果になったかもしれない。
 亡国王、あるいは失地王などという諡号を贈られるのは、避けなければならない、まっぴらごめんな事態だった。
 どうしたら皆の納得が得られるだろうか、国同士の駆け引きはどう転ぶだろうか、何があってもフィガロの民と国土は守らねばならないのだ――
 
 ぱち、と暖炉の薪が爆ぜて、思考が現実に引き戻される。
 気づけば、手の甲に軽く触れられていた。
 その主は、夜藍色に似た色の瞳をエドガーに向けて、心配そうな色を浮かべている。笑みを作り、「君から触れてくれるとはね。どうしたんだい?」と聞いてみれば、「あのね、」とティナは言った。

「エドガー、何かあった? 考え込んで」
「なにもないよ。この飲物はなかなか美味しいね」
「そうなの? 手が少し冷えているわ。カップをきつく握っているし」
「……そうかな?」

 急いで体の力を緩め、微笑んでみせる。表情をけどられるとは、心がすこしばかり、緩んでいるかもしれない。

「君の隣の席だからね、緊張しているのかもしれないな」
「そうなの?」
「おかしなことをしたり言ったりしないようにね。……君こそ、体は温まったかい? 屋根の下に入るまで雪が肩に積もっていただろう、この飲物は少しアルコールを入れても良さそうだ」

 ティナの世話を焼くことでそっと彼女の手から手元を離し、エドガーは夜藍の視線から逃れた。



 氷漬けの幻獣の方角をもう一度、ちらりと見やってから、炭鉱に足を踏み入れる。しばらく歩き、ちょうど良さそうな壁の形を見つけて、陣取った。
 炭鉱の中では、迫ってくる敵兵の足音がよく響いて聞こえてくる。角を回り込んできた彼らの眼の前に、こちらからざっと姿を現す。
 不意に現れた行く手を遮る者の姿に、兵たちは慌てて隊形を整え、犬をけしかける。それを睨みすえながら、相棒と位置を確認し合う。今はティナとエドガーの二人きりだから、互いの身を守るのは互いしかいない。
 来たか、とエドガーの唇が形作ると同時に、ティナは既にちいさな炎をぽっと出現させている。すいと敵の伍に向けてそれを放ち、同時に剣を抜き放つ。先頭の曹長が連れたボスの鼻先に炎が弾けた時、空中に飛び上がった別の動物の影がさした。バウンドハンターか、と脳よりも先に手が認識し、ボウガンを上に向けて撃つ。ギャウッ、と濁った声。落ちてくる黒い影を、どさり、と音がする直前で、ティナの剣が薙いだ。二頭目が来る。次弾。脚を射抜いた。尻尾を巻いて引こうとする其奴に向けて、ティナが詠唱を始める。地上に向けて青い視線を落とせば、残りのバウンドハンターがティナに向けて牙を剥き、飛びかかろうとする体勢をとっていた。
 一瞬、エドガーの背中がぞわりと冷えた。だがそれよりも疾く、ボウガンの向きが変わる。
 詠唱を続けるティナが、ごく自然な信頼をこめて視線を向けるのと、エドガーの放った矢が犬たちに降り注いだのは同時だった。間髪おかず、炎が敵兵たちの頭を撃った。

 エドガーがボウガンを下ろすと、ティナは振り返った。
 自然な笑みを唇にのせて、たたっと駆け寄ってくる。戸惑うことなく手のひらを持ち上げ、エドガーと打ち合わせる。見つめ合って、笑いあった。ごく自然に、触れ合った手のゆびを絡ませる。
 互いの体温のあたたかさが、まるで染み込んでくるようだった。



        §



 ゾゾの街は、いつも細く細く、雨が降っている。
 もやもやと煙ったようないろの、ライトグレイの湿った空気、その中を、うすあかるいひかりが時々、過ぎる。通っていく者がかざす懐中電灯の灯りだったり、爆竹の一瞬の炎だったりするのだ。
 過ぎていく光に気づいても、いちいち振り返ったりしないようになったら、ゾゾの街に慣れ始めたしるしだ。喧嘩は無視して通り過ぎる、カツアゲなどには会わないように、薄暗い路地には入らない。よくわからないドアや階段の下は、臨戦態勢を整えてからのぞきこむ。街に入るときには、必ず仲間たちと役割分担をきめて進む。先頭の者は必ず曲がり角の向こうや行き過ぎる者たちの様子を注視し、最後尾の者は後ろからの悪意に注意を払うのである。
 ビルに登っていくと、錆びた金属の非常階段は、ひどくガンガンと足音をたてる。
 電柱の影や開きっぱなしの扉の影に、暗い目をして痩せた男が、ぼんやりと寝転がっていたりする。
 見渡せば、密接して建てられた隣のビルとの隙間から、雨。灰色に沈んだ低い建物。どこか饐えた匂いが立ちのぼってくる。
 かと思えば、階下のどこぞから伝わってくる、げらげらという野太い笑い声。半ば堂々とやりとりされる薬物の類。割れて転がった酒瓶。

 ……階を上るたびに、下品な音が聞こえたり、聞こえなくなったりする。
 ……絡まれるわけでもないが、胡乱な視線が方々から突き刺さる。
 ……こんな街の雰囲気と彼女の気配は、ひどくちぐはぐで、
 ……助けなければ、の一念で、階段を上がっていく。

 そんな錆びついたビルの、最上階の一番奥に、彼女はいた。
 人の姿に戻れないままで。
 そしてそのまま、彼女は一人になって、ベッドの上で目を閉じた。
 魔石となったラムウたちの発する、ほのかな光に照らされて。

 気づいたときには、彼女を――ほの白くかがやく靭やかな身体を、抱き上げていた。
 ずいぶん軽く、細くて、これがあちこちの建物を壊したりしたのかなどと、信じられないほどだった。静かにぴたりと閉じられた瞳、するどく尖った爪をもつ指先、腕の中のそれを見てみれば、いずれもがひどく繊細なつくりをしていた。

――すごく優しい目をしてた……
――私はあれ、好き!

 無邪気にこのすんなりしたいきものを「好き」だと言った子供の、幼い声が頭に蘇る。うすぐらい部屋の中でもほのかに白く、まばゆく、そしてやはり、ずいぶんと軽かった。
 踵を返し、そのまま歩きだす。足元の床板が、ぎしりとひとつ、鳴った。
 と、仲間から声がかかった。

「――どこに、匿う?」
「フィガロ城のすみに、使われていない礼拝室がある。そこに」
「この街は危険だ、ティナを一人で置いておけないよな」
「ああ。ここでは様子を見にくることも難しい。安全なところに移すべきだとも」

 降りていく非常階段は、一歩ごとに、ひどくガンガンと足音を響かせた。

 ……間違えてなどいなかった。
 ……その判断は、間違ってなどいなかった。
 ……非常階段は酷く錆びついた安っぽい赤いアルミで、
 ……階を降りるたびに、下品な声や音が、大きく聞こえたり小さくなったりする。

 こんな街に、一人で、孤独な少女を置いておいて、危険にさらすなど、矜持に悖る行いだった。
 降り続ける雨はさあさあと音をたてて、少女の姿であるべき白い毛並みを湿らせていた。



        §



 フィガロ城のすみの礼拝堂は、皆の戻る場所になった。
 誰もが、折があれば立ち寄って、眠るティナに話しかけ、鋭い鉤爪の手を握り、新しい仲間を紹介し、白から紫に至るグラデーションの毛並みをなでて励ましの言葉をかけた。
 やがて、ぼんやりと目を開くようになったので、皆は喜んで、彼女の身体を起こして背をもたせかける。立ち寄った街で手に入れた土産や、目にした景色の話、そこらで摘んだ野の花を差し出せば、ティナはぼんやりしたまま、それを受け取った。
 やがて、だんだんと目つきがしっかりしてきた。差し出された土産を受け取るときに、にこりとするようになった。同時に、姿もすこしだけ、変化が見えた。背中に流れおちる白い毛並みは翠みをおびて、元々の少女の姿に近づいた。顔立ちは、俗世のなにもかもを拒絶するような険が抜けて、神秘的ながら優しげな面影が見て取れるようになった。
 だが、変化はそこまでで止まった。
 すんなりした手足の先の、鋭い鉤爪はそのままだった。
 髪は翠みをおびて輝くようになったが、手先足先は未だ紫をまとったするどい色味で、人というよりは獣のような、決して少女だとは見えない姿で、それ以上、以前の姿に戻ることはなかった。礼拝堂の一番奥の正面にすっと座った姿は、神聖であるような禍々しいような、背筋を伸ばして近づかなければならないような。そんな近寄りがたさ。
 けれど、彼女のこころもちは元の彼女のままであるようで、野の花や摘んできた果実などを受け取れば見せる笑顔は、無垢で無防備なものだった。ふと寂しげな表情を見せるのも、ことりと首をかしげて考え深い反応を見せるのも。
 そのたびに、エドガーは彼女の手を握り、肩を撫で、寂しくないよと声をかけ、ここに居るよと励ました。

「……あり……が、とう」

 何週間めかのことか、唇を震わせて、ようやく彼女は声を出すことができた。柔らかく細められた目元、指先は伸ばされて、エドガーの腕をつかんだ。

「ありが、とう……エドガー、ここに、いてくれて」

 ――独りでいると、とても、怖かった。寂しかった。
 彼女はそっと、そう云った。思わず抱き寄せる。……良かった、ここに連れてきて、一人にしなくて、本当に良かった。ここなら、自分も仲間のみんなも、気軽に会いに来れる。こうして会って、言葉を交わすことができる。触れ合うことができる。
 ティナの毛並みは滑らかで、体温はとても温かい。ちゃんと生きていて、息をしている。
 君がここに無事でいてくれて、仲間のことを覚えていてくれて、良かった。
 そう言うと、彼女はエドガーの手を取り、持ち上げて頬を寄せて、言った。

「あなたが、来てくれると……寂しくないの。これはきっと、嬉しくて……楽しいのね。これが、嬉しい、なのね」
「そうだね。君がそう感じてくれて、俺は嬉しいよ」
「みんなが来ると、どきどきして一緒に笑いたくなるの。でもこれは、少し違う……」
「色々な感情を言葉にするのは、楽しくて難しいことだ。……ゆっくり、自分のものにしていくといい」
「でも、みんなは……そんな感情はきっと、ずっと前からわかっていて」
「焦らなくていい。君は、君だ」
「わたしは、わたし……?」
「そう。君は、今の君のままでとても魅力的だ。他の誰かと比べたりなんかしなくて良いのだよ」
「そうなのね……」

 こと、と首を傾げてティナは考え深い顔になる。
 
「魔法も?」
「ロックが言っただろう。君はそれが生まれつき使える、他の者は使えない、それだけのことだ。それに」

 エドガーは懐からなにか取り出すと、そっとティナの前に置いた。金色を含んだ緑の結晶で、うるんだような静かな輝きが視線をひきつける。装飾品などとは違う輝きだ。

「ゾゾで魔石を手に入れた。どうやら、これを装備していると魔導の力が付加され、魔法が使えるようになるらしい。俺のような普通の人間でも、ね」
「きれいね。きれい……」
「幻獣が死ぬと、この形になって力を残すのだそうだよ」
「幻獣の、力」
「ラムウという幻獣が、君を助け、教えてくれたんだ。……覚えていないかい」
「わからない。私……」
「――大丈夫だ、大丈夫だよ、そんなに不安な顔をしなくていい。君は一人じゃないのだから――皆、君が何者でも受け入れている」

 ティナの肩を抱き寄せ、ゆっくりぽんぽんとたたく。エドガーの胸元に身体を寄せて目を細め、彼女は「温かい」とつぶやいた。

「こうしていると、不安じゃなくなるのね」
「俺も、温かいし安心するよ。君の体温は心地良いね」
「なんだか、少しうとうとするわ……」
「眠ってしまえばいい。喋って声を発して、少し疲れただろう? しばらくこうしているから」
「ありがとう」

 ティナは素直に目を瞑った。まもなく、規則的で静かな息遣いがエドガーの胸元で聞こえ始める。彼はしばらくの間、それに聞き入っていたが、そっと白い身体を横たわらせると、足音を忍ばせて出ていった。仲間たちに、ティナの言葉と声を知らせるためだった。



 その次に全員が礼拝室に集まる機会があって、ティナは嬉しそうに笑って立ち上がった。エドガーに手を取られながら、皆の輪に歩み寄る。鋭い鉤爪のついた足先はふわふわとして、すこし宙に浮かぶような歩き方をした。
 立ち止まってゆっくりと皆を見回した視線が、最後にエドガーのところで止まった。

「ありがとう、エドガー。ありがとう、みんな。わたしね、今とても、寂しくないの」

 みんな、ここに来てくれる。
 はげましてくれて、いろんな話を聞かせてくれる。
 あるがままのわたしを守っていてくれる。
 たとえわたしが、魔法を使えなくても、ここにいられるって、そう信じられる。

 ――待ってくれ、ティナ、とロックは聞きとがめた。

「魔法が使えないとしても、だって?」
「……たぶん、そうなの。『怒りの炎(ファイア)』を唱えても、身体の中で力が揺らぐような感覚がしない……」
「見せてくれ」

 わかったわ、と言ってティナは小さな声でファイアを唱える。上向けたてのひらの上に、蝋燭の炎くらいの輝きが生まれたが、それはすぐにゆらめいて、消えてしまった。

「どうして? この力は生まれつきで、簡単に使えるものだったのに。……これがないと、わたし、」
「言うな、ティナ。そんなことない」
「そうだとも、悲しい顔などしなくていい」
「だって」
「おぬしの価値は、魔法が使えることではござらんよ」
「まほう、おれだって使えるぞ! 魔石、そうびした」
「私もだ。……ティナが、ティナだからというだけで、私達はここに来る」
「……そうなの?」
「ほら、ティナは兄貴が王様だから仲良くするんじゃないだろ? ティナのことだって、皆そうさ」
「友情や愛情は、打算を目的に結ぶものじゃない。俺は……知らぬ間に育つものだと、思う」
「あ……」

 ティナはすこし泣きそうに目尻を下げ、そして、笑った。
 
「わたし、何者でもいいのね。今のわたしがわたし、それでいいのね」
「そうだよ。わかってくれるかい」
「ありがとう、みんな」

 それならわたしは皆の心を守れるようになりたいわ、強くなりたい、そうティナは言った。



        §


 
 議会に臨席した後なので、今日のエドガーは真青なマントを身に着けて歩いてきた。ずっしりとした質感の、縁取り装飾と房飾りが沢山ついたものだ。
 真青はフィガロの名を冠した禁色、王だけが身に着けることができるのである。ことさらそれをティナに見せつけようという意図ではなく、近習ひとりも連れずに、わずかな時間を彼女と過ごしに来たのだ。
 近頃はその足取りが、以前よりも大股になっていることに、彼自身は気づいているだろうか。そっと小さな礼拝室の扉を押す、その手つきがわずかに優雅さを失い、性急さの気配を加えていることには。
 いつものように正面奥の台にすっと座ったティナの視線は、開いていく扉から外れない。そしてゆっくり、正面から王の姿をとらえた。互いの顔を見つめあいながら、まっすぐに、距離が縮まっていく。

「あ」

 夢から覚めたように笑い、ティナはふわりと彼の前に舞い降りた。手を伸ばし、ハグすると、「今日は青いマントを着ているのね」と言った。

「きれいな青。あなたによく似合うわ」
「議会があったんだ。これも王の務めさ」

 軽く肩をすくめてみせるが、気楽な仕事ではなかったのだ。
 議会は紛糾した。非戦派が声高に論陣を張り、主戦派と正面からぶつかった。その両方から、王が上程した、帝国に対して防衛を強化するための予算が槍玉に上がったのだ。防衛線を張るのも兵士の徴発を増やすのもけしからぬ、その予算があれば国内の物価と雇用を安定させるために費やすことができる、増税など論外だ。あるいは逆に、防衛だけでは生ぬるい、攻撃は最大の防御である、制空権と制海権を拡張し、断固として帝国の伸長を断ち切るのが何より重要だ、そのためには増税しかない、というのである。
 ニケアやジドールとサウスフィガロを結ぶ輸送航路は帝国の侵攻により危険が増しており、物価の安定のためにも領海の安定が必要な状況だった。しかし帝国の侵攻は全方向に向けて行われており、地域を絞って防衛を厚くするわけにはゆかないし、特定の補給線に向けて攻め込むこともできない状況だった。反論すれば、今度は外交努力の怠慢だと王政に矛先が向けられた。王は好んで戦争のための予算を増やそうとしている、否、攻めるべきところですら日和見に過ぎる、条約だっていずれは破棄するのだろう、条約の更新はフィガロに不利なものを結ぶつもりだろう――一方からは暴君と罵られ、一方からは愚鈍と謗られた。
 それ以上は水掛け論になるだけだった。独裁、専横、と野次が飛ばされる中、議会は閉会し、王は退席した。

 敬愛や忠誠を集める代わりに、憎悪と侮蔑と揶揄の標的にもなる。この真青は。
 立ち塞がる者を懐柔し、排斥し、時には血で裾を染めて、それでも進み、導いていかねばならない。この真青をまとう限り。そして、その役目を誰かに譲り渡す気は全くないのだ。
 ティナはマントの裾をそっと持ち上げてみて、エドガーを見上げた。

「重い――ね」

 真青は鎧だ。守るために重く分厚く、華やかに飾られている。いつでも何かを、誰かを後ろにかばい、あるいは導く者のために。
 王は、ティナの言葉を聞いても優雅に口の端を持ち上げただけだった。このマントは、踵を返した時に優雅に翻るよう、重さが計算されているのだとも聞いた。

「でも、よく似合うだろう?」
「そうね。でも、――ときどき、たった『独り』で青を着ているように見える」
「王とは孤独なものさ。一段高いところから皆を守るものだからね」
「あなたはいつも、わたしの心を守ってくれる。みんなを守るために、真っ先に前にでる。……でも、だとしたら、あなたのことは誰が守るの」
「皆、俺の背中を守ってくれるよ。近衛騎士たちは命がけで俺を守っているし、ここに来るみんなには命を預けて戦える。マッシュだって」
「そうだけど、そうじゃないの」
「うん?」
「わたしはわたしのままでいいんだって、教えてくれたのはあなたよ。だからわたしも、あなたはあなたのままで素晴らしいんだって、そう言ってあげたい」
「そうかい。嬉しいよ」

 エドガーはにこりと笑いかけ、ティナの手をもちあげようとした。いつものように、彼女の指先に口づけてウインクして、賛辞なんかを口にしようとしたのだ。だがティナは、するりとおおきな手を自分の手で包んで、自分の頰に触れさせた。

「わたしが、守るの。あなたの大切なものはあなたそのものだから、それごとあなたを守る」
「俺の――大切なもの」
「自分で選んだことは、自分そのものだわ。あなたは選び続けている、フィガロを守ることも、みんなを守ることも」
「……そうだね。けれどそれは、当然の務めを果たしているまでさ」
「当然だと考えられることが、平凡なことではないのだと思うわ」

 静かに答えて、ティナはエドガーの手に、する、と頬を寄せた。そして、誓うように言った。

「あなたのこころは、わたしが守る」

 ティナの顔が横に傾いて近づいたかと思うと、エドガーの頰が、ふと温かくなった。
 次の瞬間、ちいさな唇が、離れていく。
 逆側の頰にも、ふれるだけのキスをして、白く輝く彼女はエドガーを見上げた。
 そのやわらかな視線に、エドガーの中のなにかがひとつ、はがれ落ちた。こころのやわらかな部分を鎧う、なにか。

「……ありがとう、ティナ」

 赤とも夜藍ともつかない色の瞳と、海の青の色の瞳と、視線が絡み合う。
 細い、滑らかな毛並みの喉が伸び上がって、二人の唇が重なった。
 一瞬、離れて、また触れ合う。再度。次第に唇の重なりが深くなる。強く互いを抱きしめると同時に、ぴしゃ、と小さく音を立てて舌先を啜りあった。
 そっと離して、見つめ合って、笑う。
 額を合わせた。たいらかであたたかな互いの体温。馴染みあって、同じ温度と湿度になる。そのまま目を閉じれば、自然と鼻先は重なり、唇が触れる。もう一度、今度は食みあって、また離して、笑って。
 唇を合わせ、ちゅ、と音を立てては離すことを繰り返す。肩から二の腕をたどり合い、首に手を回し、背中を抱き寄せ、胸から腹を撫であった。何度も、何度も。

「温かくて、気持ちいい」
「俺もだよ。君が大切で、嬉しいとか楽しいとか、感じて欲しいから。だから気持ちが良い」
「これが、愛なのね」
「そうだ。とも言えるし、そうでない、とも言えるね」
「そうでない……?」
「……もっと先が、ある」
「知りたいわ」

 ティナは素直な目をまっすぐエドガーに向けて、言った。

「わたしは、知りたいわ。この先が、知りたい。あなただから、いま知りたい」

 ごく自然な信頼のこもった不思議ないろの目、瞳を宝石に例えるなんて使い古された表現だ。それでもアレキサンドライトのように光る瞳にエドガーは微笑んで、覚悟を決めた。
 
「……ティナ。俺に身体も心も預けてくれる気持ちは、あるかい」
「あなたに、預ける……? 身体も、心も?」

 ことりと首をかしげたティナは、「嫌じゃないわ」と言った。

「だってあなたは、わたしの嫌なことは決してしないもの。そう信じてる」

 微笑んだ彼女の指先をすくい上げて唇を落とすと、そのまま抱き上げて、エドガーは簡素なベンチに足を向けた。
 
 何度も口づけながら、彼女をベンチにそっと下ろす。その辺りからクッションをかき集め、ティナの背中や頭のあたりに積み重ね、横たわらせた。
 白にうっすら翠をおびた髪が、ふわりと広がる。
 そっと、そうっと、唇どうしを溶け合わせた。
 互いの境界が曖昧になるほどに味わっていると、息が甘く鼻に抜け始める。
 彼女をさらに抱き寄せて、身体の線に指先を這わせた。肩から腕へ、背中から脇腹まで。ささやかに膨らんだ胸をなぞり、てのひらで包みこんで柔らかく練ると、あ、というあえかな声が上がった。ふくらみのラインに沿って更に下へ、胸元から腰まわりまで、なめらかな毛並みが心地よい。
 ぴたりと閉じられた両腿の間にそっと手を割り込ませていく。遠慮がちに、わずかに広げられた隙間にてのひらを挟まれながら、脚の付け根までなで上げる。
 長い中指が、その一番奥まった場所まで到達した。
 深い谷間をさぐりあてれば、そこの粘膜はひっそりと湿気を帯びて、指先が覚えている、人間の女と同じかたちをしていた。
 温かな裂け目をそっとなぞると、反射的に脚が閉じられる。挟み込まれる形になった手首を良いことに、触れるだけの軽い撫で方を繰り返すと、いつしか、そこはぬるんで滑りはじめた。くちゅ、くちゅり、わざと音を立てるように、ゆっくりと何度もなぞり上げる。

「……あ、んん……っ」

 は、と甘い息を吐いた小さな唇を吸えば、細い舌がおずおずと這入ってきて、エドガーの行為に応えようとする。拙い舌の動きが愛おしく、性急に動かしたくなる指先を制しながら、溢れてくる液体をそっと掬いつづけた。そのたび、ふ、ぁん、と慎ましい声があがる。
 そのうち靭やかな身体はくたりと力が抜け、横たわる。エドガーは指先を一度、離し、彼女の脚の間に膝を割り入れ、顔の横に手をつく。逆側のおおきなてのひらが、白いなめらかな頬を包んで撫でた。
 視線が交わる。
 澄んだ色の瞳が、ごく自然な信頼をこめてエドガーを見上げた。
 愛おしさがあふれ、彼女を抱きよせて唇を、首すじをすする。肩からゆびさきまで、長い爪の一本一本にまでキスをしたら、次は胸元からみぞおちへ、腹へ、内腿へ、唇をおとしていく。きっと自分は今、必死な顔をしているのだろう。

「ひぅ!……あ、あぁ、」
「……は、」

 脚を押し広げた最奥の、蜜を溢れさせる部分に口付けて、蕾に舌先を当てれば、強烈な刺激だったのだろう、滑らかな背がしなり、甘い悲鳴が上がった。耳を打つそれも快楽だ、男は荒く息を吐き、音をたててまたそこを吸う。そのたび、あぅ、んん、と上がる声は高くなっていく。

 こんなにも、彼女の身体は柔らかくて靭やかだ。
 これほどに、彼女の身体は人のやさしさに満ちている。
 一見、人ならぬ彼女の姿は、決して化け物なんかではない。
 彼女は彼女だ。
 人とちがうすがたをしているとしても、彼女が彼女であることに変わりはない。
 白い腕の先の、燐光を発するしなやかな毛並みと、するどい爪は、決してエドガーを傷つけない。そう信じられる。それで十分だった。
 それ以外に、彼女に何が必要だというのか。

「ティナ、……愛している。愛しているよ。あるがままの君を、愛している」
 
 エドガーは夢中だった。自分の分身を、彼女の最奥にあてがい、そっと押し沈めていく。きつい細径にゆっくりと割り込み、温かく包みこまれる感触を味わい、再度彼女に深く口づけた。身体の全面を彼女と溶け合わせ、目尻に滲んだ涙を舐め取り、幾度も突き上げて、暫くの後に達した。



        §



「おかえりなさい、みんな。会いたかったわ」

 ティナは魔導研究所から帰ってきた皆を出迎える。礼拝室の扉を、自ら内側から開いたのだ。そのタイミングは計ったようで、先頭のマッシュが取手に手をかけた瞬間だったから、皆は一斉にすこし目を見はった。
 彼女の姿は相変わらず白く輝く毛並みに覆われ、手先足先も鋭い爪を生やした紫色の獣の形のままでいたが、大きな目の、やや下がった目尻も長いまつげも、細い鼻筋も、小さな唇も、元の少女の面影が濃くあらわれ、どことなく満ち足りた様子の、よく笑みをこぼす顔になっていた。その様子に驚いたような表情をする者はいない。皆、誰かしらがここに立ち寄っては彼女に声をかけ、励ましていたことをお互いに知っているからだ。その筆頭が城主であることも、だから、ティナが最初にハグした相手が彼だったことに、特に誰も驚きはしなかった。次にマッシュを、ロックを、次にカイエンを。ガウをハグした時には、恥ずかしそうな彼の頭を撫でてにこりと笑い、セッツァーにはすこし遠慮がちに微笑みかけて、そして、手を取って笑って。彼は前もって、ティナの姿が人とは違うことを聞いていたからか、軽く片方の眉を上げるだけでハグを受け入れた。
 マッシュが呼びかけた。

「ティナ、魔導研究所でいくつも魔石を手に入れた。みんな、幻獣が姿を変えてついてきてくれたんだ。見てみてくれ」

「イフリート」
 紅炎の色が透明な翠の内でゆらめき、エドガーの手の中からふっと浮き上がった。
「シヴァ」
 氷青の色をまとった翠がゆらめいて、マッシュの手からふわりと浮き上がった。
「ユニコーン」
 乳白色のゆらめきを内包する翠がふと揺れ、カイエンの掌からすうと浮き上がった。
「マディン」
 鮮やかな三原色が混じり合い、翠のなかでゆらめいて、ガウのてのひらからふわっと浮き上がった。
「カトプレバス」
 とろりとした青緑が翠と交じりあい、光をうけて輝いて、ロックの掌からゆるりと浮き上がった。
「ファントム」
 ぼんやりした藍白をまとった翠が透明にひかって、セッツァーの手からゆらりと浮き上がった。
「カーバンクル」
「ビスマルク」
 誰も装備していなかった最後の2つは、それぞれ持っていた者のポケットやザックの中からゆっくりと浮き上がり、薄翠や濃黄の光をはらみながら、他の魔石の高さで止まった。以前から皆と行動を共にしてくれていた、ラムウ、キリン、ケットシー、セイレーンの4つも、荷の中などからふうと浮き上がり、他の魔石に合流した。
 皆は顔を上げ、空中に目を留める。
 12個の魔石は輪になってふわりと浮かんでいた。互いの発する様々ないろの光が反射しあい、淡い虹のような模様を壁に描いた。

「きれいね……」

 ティナは魔石を見上げて、うっとりと目を細めた。
 彼女の全身を覆う白い毛並みは空中の魔石を透った光を映して、透きとおった色々ないろに染まっている。
 浮かんでいるのは、いずれもが濃淡さまざまな翠の、中核に炎の色をやどした、独特のとろりとした質感の、幻獣たちがその力を凝らせて残した結晶――魔石、という。それと近しい力を持っていた、もしかしたら近しい姿でもあるかもしれない、少女がそれを見上げている。
 エドガーとロックは、そっと目を見交わしあった。
 ラムウから告げられたように、魔導研究所に捕えられていた幻獣たちを救い出してきたものの、ティナとはなんの反応もしなかったからだ。

(今ここにある魔石では、彼女のこころに影響しないのだろうか?)
(それとも、魔石ではなく幻獣の姿でなければティナは反応しないのか?)

 ラムウは、「この娘が自分の正体を悟った時、不安は消えるだろう」と言った。今わかっているティナのことは、彼女が幻獣に似てすこし違う力と姿を持っている、おそらく彼女の存在は幻獣と何か関係がある、ということ。だが、今ここにある魔石はティナになんの反応も起こさせていない、つまり、彼女自身が何者かということを告げるような力がこれらの魔石にはない、ということだ。
 帝国に連れてこられた幻獣は、この12体で全部と思われた。このほかに、ナルシェの氷漬けの幻獣があるが、再びあのような激しい感応をティナに強いるのは危険だろう。
 つまり今、ティナが自らの正体を悟る方法はないに等しい。幻獣たちの世界に行くことでもできれば別だろうが。

(――だが、)

 エドガーは一人ごちる。――彼女は今、自分の正体など悟る必要性はあるのか?
 彼女は、今の彼女のままでこれほどまでに魅力的だというのに。
 思い出す。彼女の身体のやわらかさと靭やかさを、受け入れられたときに感じた、彼女の身体の奥の熱さを、淡い紫を帯びた毛並みの先の、するどい鉤爪が肩を撫でる感触を。
 また、彼女と抱き合いたい。
 欲が首をもたげかけ、急いで振り払う。澄んだ光に照らされた彼女の姿はひどく聖なるものに見えて、肉の欲求を向けるにはふさわしくないように思えた。

(――そう、今考えるべきなのは)

 ティナの心の中の、不安や恐怖を消すことができれば。そう皆思っていたが、もしかしたら彼女にはもう、以前のような激しい感応を引き起こすような不安感はないのかもしれない。魔石と感応しなかったのも、そう考えれば納得がいく。
 魔法が使えないままなのも、そのせいか。
 魔法の使えない彼女は、果たしてただの人なのか、それとも『ただの』異形――なのか?

(だからといって)

 彼女を切り捨てるだとか、政治の駒として使い捨てるという発想は、とうに消えていた。
 彼女の目を見て、その色の具合をのぞきこみながら細い手を取り、彼女を導こうとする――あるいは彼女に導かれようとする意思は、どうしようもなく彼女に惹かれていた。
 冷静に自分の感情を分析しながら、もういちどティナを視界におさめる。それだけで、こころのおくはずきりと跳ね、屈託ない笑顔の、今向けられているマッシュにすら嫉妬を感じた。
 ――何からも守り、良くないものからはすべて遠ざけておきたい。真綿にくるんで、今日の天気すら知る必要もないほどに、彼女がそのままであるために、自分のできる限りのものを与えたい。彼女からはすでに、心を与えられているのだから。
 エドガーはもう、ティナさえいれば何とだって戦っていけた。
 


        §



 エドガーがベンチに腰掛けると、ティナはふわりとその腿の上に跨った。そのまま抱きしめ合い、唇を重ねる。舌を絡ませあい、唾液を味わい、背中を抱きよせ合った。反応し始めた下衣の間を、白と紫の重なった毛並みの先の、鋭く尖った指先がなでる。二人は性急にベルトを外していき、唇を味わいあいながら各々の一番敏感になっている中心を重ね合わせた。擦り合わせる。ゆっくりと、だんだん速く。は、はぁ、と息がこぼれ始める。
 ……満たしたい。
 彼女の中心を、自らの部分で埋め尽くしたい。彼女もそう望んだのか、ゆっくり細い腰を落としてこようとする。なめらかなそこを掴んで引き寄せようとすると、ずる、と滑る入口、ひ、と小さな声をあげて、彼女は反射的に逃れようとする。困ったように眉を下げたその表情に小さく笑い、エドガーはそっと彼女の背を支えながら押し倒した。閉じられたまぶたに口づけ、慎重に彼女の内部にものを押し込んでいく。細くてすべらかな毛並みの背が、びくりと跳ねる。ひ、と息をもらした彼女の、一番奥まで届いたら、今度は背中を抱き起こし、自分の上に座らせて、自らの胸にもたれさせる。華奢な手首が、背中にまわされた。しがみつかれる感覚は、ゆるく突き上げると、さらに強くなった。耐えきれず甘い声をあげて、彼女はのけぞる。小ぶりながら形の良い乳房が上を向いてふるえるのを、顔を寄せて舌先で何度もつつく。包みこまれている熱が、うねり、絞り上げるようにひくついた。突き上げれば素直に返ってくる反応を、さらに引き出していく。何度も揺さぶり、突き、混ぜ合わせるうちに、二人の内側から熱がせり上がってきた――



        §



「報酬分は働いた。もう俺は一人で行く」

 シャドウはひっそりと別れていった。一人だけチョコボを借りずに佇み、皆がわいわいと鳥にまたがって走り出すのをじっと見送っていた。

「帝国の侵攻は、皇帝の首が落ちないかぎり終わらない。あの独裁者の首を落とせるのは、それが最速でできるのは、俺だ。お前たちは正面から正々堂々と戦って打ち破り、交渉しろ」
「俺はお前たちにできないことをする。お前たちは俺にできないことをしろ」
「お前たちは、光だ。帝国が、皇帝が、この世界を覆い尽くそうとしている大きな袖を切り裂くことができる、光だ」
「俺にはいささか眩すぎるのさ」

 短刀一本を伴にして、薄暗がりの中を一人で進んでいくひと。いっとき、行動を共にしてくれた。武器の手入れ方法に詳しかったり。朝食には、ゆで卵が出たときだけ一つ多く取っていたり。繕い物なんかを案外器用にすばやくこなしていたり。ついに素顔は誰も見たことがなかったけど、大人の男性なのだなあと端々に見える、そんなひとだった。

 

「ドマの残党と連絡がついたのでござる。あの毒攻めから逃れた者どもで、ドマ王室の生き残りを奉じてまとまろうという者たちが集まりつつある。そちらに加わろうと思っているでござる」
「ガウ、ござるについてく。マッシュいないの寂しいけど、またあいにくる」

 カイエンとガウは、朝日の昇るころに出ていった。残る者たちと笑顔で激励を贈り合い、故郷をなくさないために、それぞれの仲間の絆を深めて戦い続けるために、具足と裸足の足並みを揃えて歩き出した。

「見知った顔もいくらかいるでござる。いずれも、剣の腕も為人も優れた者たち。力を集めて帝国と交渉しようという指導者もいる。それがしはドマのために戦う」
「ドマは滅んでおらぬ。この刀にかけて、それがしの生まれた国の栄光を取り戻し、守っていきたいと思っておる」
「ござる、いろんなことを教えてくれた。ガウが人だってこと、どんなふうに歩いたらいいか、この世界がどんなふうになってるか。だから、ついてく」
「お主らも己の故郷のために戦うが良いでござる。誰かのためだとか世界のためだとか様々言うが、突き詰めればそれは故郷のことなのであろう」
「ガウ、ござるのいるところを故郷にする。誰かのためとかよくわからないけど、オレのいるところを守るため、なら、わかる」

 カイエンの得物は刀、片刃でずしりと重く、切れ味鋭い、サムライの魂とも称される剣で、その黒い鞘は具足の藍色とよく調和し、動くたびにかすかに重々しい金属音をたてた。隣を跳ねるように歩いていく少年の、ほとんど身一つな軽装とそれは対照的で、逆にひどく似つかわしいように思えた。
 彼らは朝日に向かって歩いていき、小指の先ほどの大きさになったところで一度振り返って、こちらに向かって手を振った。逆光だったけども、力強く希望に満ちた笑顔であったのが、よくわかった。



「俺、帝国に潜り込んでくる。それは一人のほうがやりやすいや」

 ロックは茶でも飲みに来たような調子でそう言った。
 いつもの格好、いつもと同じ身軽なしぐさで、そのままふらりと他の街に立ち寄りに行くような口調で、一気に何かを成し遂げに行くのだと、決断を告げに来たのだった。

「シャドウじゃないけどさ、帝国を弱らせようと思ったら内側から壊すのが早いと思うんだよな。あいつは皇帝をやるって言ってたから、俺は軍のほうを弱らせてみようかと思うんだ」
「内側に潜り込んで工作するのは俺の十八番なの、知ってるだろ?」

 ウインクして見せるロックに、小さく笑ってエドガーは応じた。

「ついでに、――いや、こちらが本題かな、セリスも助け出してくるといい」
「……」

 ロックはかりかりと頭をかいて、言外にそれを肯定した。耳の端が少し赤くなっている。
 思うところがいろいろあったけどさ、考え直したんだ、とごにょごにょ言うのを、肩をたたき、背中を押して、送り出すことにした。
 トレードマークのバンダナをきゅっと巻き直して、ロックは出ていった。よく晴れた日で、吹き渡る風は清々しく、門出にふさわしい日のことだった。軽い足取りでずっと、彼は歩いていく。見送る者たちも笑って手を振り、無事を祈った。
 


「勝負を降りるんじゃねえさ。ダイスを転がしに行くんだ」

 煙草の煙をふっと吐いてにやりと笑い、セッツァーは言った。
 いつものように機械室から出てきた後で、ジャケットを引っ掛けながら煙草を咥えた、その足でつとテーブルの上のダイスを手に取り、弾きあげてキャッチし、何かを心に決めたらしかった。

「むしろあんたらに賭けてるチップを増やそうって肚さ。イカサマじゃねえぞ」
「ブラックジャックはただでさえ帝国には目をつけられてるからな。帝国空軍はこの艇が相手して、一身に引きつけてやろうじゃねえか、ってな」
「だから陸の上はあんたらに任せるぜ。空は俺が広げてきてやる、陸の上の自由はあんたらが取り戻すんだ」
「あんたらがどこかに行くなら、たまには乗せてやっても良いさ。一時的にでも同じ釜の飯を食ったよしみだ、割引してやる」

 夕焼けが沈みきったあとの空の紫と同じ色をした瞳をすがめて、片頬だけで笑うのが、セッツァーの癖だった。ブラックジャックの舵を握っているときは、空のずっと遠くを見ているような目をしていて、何を考えているのか、探り当てた者はいなかったけれど、案外面倒見が良かったり、機体の整備をする時の丁寧な手つきだとか、さすがギャンブラーと言うべきか、ダイスやコインを扱う時に優美な手つきをしていたり。端々にもとの生まれを感じさせ、それよりも空を取ったのだろうと想像させるような、どこか掴みどころのない男だった。けれどその時は、「仲間」のために空を取り戻してやる、とはっきり言い置いて、タラップを軽快に駆け上がっていった。ごう、と離陸したブラックジャックは、力強くいつもの駆動音をさせていた。
 


「きっともう、大丈夫だから。俺はもっと修行するよ。国を背負ってる兄貴を、いつでも支えられるように。世界中で戦っている俺達の仲間を、助けて回るために」

 マッシュは背嚢ひとつを背負いながら、おだやかに言った。最小限の装備を詰め込んだ荷物は、マッシュの体躯にぶら下がると、随分小さく見える。ひとりで旅をしながら修業を続け、行く先々で反帝国組織に加勢したりカイエンやロックに助太刀したりするのだ、とモンクは語った。

「兄貴の分も俺、自由にあちこち行くんだ。いろんなものを見て、色々身につけてくる」

 自分の拳ひとつで道を切り開くひと。明るい光を身に宿して、どんな相手とでも対等に話ができて、誰よりも自由の道を歩くのが似合うひと。そのひとの行く先は、フィガロの太陽も金色の砂も、なにもかもが祝福した。大きな歩幅で力強くまっすぐ歩いていくのを、残る者はずっと見送っていた。

     
  
      §



 フィガロ城のすみの礼拝室を訪れるのは、王ひとりになった。
 しかし、迎える白い少女の表情に孤独や不安はない。彼女はさみしくなかったし、与えられる愛も与える愛もこころに満ちていた。
 彼女に迎えられ、そのなめらかなやさしいうでに抱きしめられ、笑って抱きしめ返すとき、青年王は思った。自分は孤独ではないのだと、あるがままの自分はこのひとに愛されているのだと、彼女がどんな姿形をしていようとも愛し続けるだろうと。愛おしい、いとおしい。
 抱き合ったまま目を覚まし、互いの体温を感じながらうとうとしている朝も、僅かな時間の合間に些細なやり取りをして笑い合う昼も、冷え込んだ空気を払おうと同じ毛布にくるまる夜も。
 政治的な影響がないよう、彼女には寵姫の身分などは与えられていなかったが、王の大切なひとの存在は、筆頭大臣も神官長も、いずれもが喜んで承知した。王が自ら着せ付けた白いベールと裾の長い衣装は、彼女を神秘的に輝かせた。内からほのかに光を発しているようでいながら靭やかさを失わないその肢体を、隣に立つ彼ははほれぼれと見つめていた。



 帝国内の動向を窺っている者から知らせがきた。
 軍の幹部がひとり、粛清されたようだ、という。
 彼女はこのところ、軍を率いる姿を見せていなかったが、それは密かに諜報活動に従事していたためだった。だがその間に、反帝国思想に影響され、他国との融和を唱えるようになったために懲罰を受けることとなった。それでも更正がみられなかった故、位階の剥奪だけではなくその命をもって贖われたらしい――というのが、帝国軍内で囁かれる経緯だそうだ。
 彼女の傍らに、その手を取って逃げようとした男がいたかどうかは、定かではなかった。あるいは、それを成すことができずに脱出した男がいたかどうかも。
 帝国軍の混乱はとくにないまま、侵攻は続いた。



 各地で帝国の侵攻を止めようとする勢力が勃興しては消えた。
 めぼしい国々はすでに統治機構を滅ぼされているか、中立を保つという名目で傍観者の立場に追いやられていたから、それらの勢力が長続きすることは稀だった。
 東方の新興勢力に対しても、フィガロは国として大っぴらに援助することはできなかったけれど、双方の軍は呼応して動いた。大陸の東方と西方で、帝国軍は撤退と転進を重ね、じりじりと前線を下げていった。もうすこし、きっともう一息で帝国軍はこの大陸から去るだろう、そう思われた矢先のことだった。
 帝国軍は大陸の西方から退く動きを見せたかと思うと、素早く東方に集結し、一気にドマを包囲した。対するドマ側も籠城の構えを見せ、旧王国攻城戦の再現かと思われたが、今回の帝国軍は容赦がなかった。一気に囲みを破り、戦闘員か否かを問わず切り捨て、制圧したのである。包囲の内に火が放たれ、残った全てを焼き尽くした。ドマの形をしたものはどれも、灰になった。
 生き残りが逃げた様子はなかったという。

 

 帝国内の動向を窺っているものからの知らせによれば、皇帝の背格好が短期間で何度か変わっている、というもっぱらの噂が、宮中で囁かれているという。それなのに、皇帝の身辺の警護はほんのすこしづつ減っているらしい。
 それは、反帝国勢力にとっての希望であるかもしれなかった。
 帝国城内で、かの暗殺者が活動しているのかもしれない。
 皇帝の影武者と警護の人員が何人か斃れたために、皇帝の背格好は短期間で変わっているのだろう。皇帝の身に危険があっただとか警護の騎士が消えただとかいう風聞は漏れ聞こえたが、公式な発表があるわけもなかった。皇帝の影武者など、何人いるかもわかっていない。
 しばらくしていつの間にか、噂は消えた。
 玉座の主は変わらず在って、皇帝の背格好についての風聞もやがて聞こえなくなった。



 いつしか、上空に飛空艇の機影を見かけることがなくなった。
 同じ頃、帝国がある声明を出した。領空への侵犯に対しては厳しく対応する、と。
 帝国空軍の所有を除けば、空を飛ぶ艇は、この世界にひとつだった。当然、その乗り手もだ。その黒い機影が、横腹から黒煙をあげつつゆっくりと飛んでいった、という大陸南側からの報告、それに、飛空艇の機動力や乗り手の性格、それらを考え合わせると、導かれる結論はそう多くなかった。
 だが、飛空艇の所有者はフィガロの市民ではなかったから、フィガロ王国は何の声明も出すことはできなかったし、抗議などできようはずがなかった。
 黒い飛空艇は空から消えたまま、時間が過ぎていった。
 


 世界のあちらこちらが砲撃の跡だらけになった。夥しい数の屍が生み出されたが、それらは貴賤問わず、えぐれた地面にまとめて埋められたという。



 礼拝室のすみで、ひとりの王とひとりの少女が、互いを慈しみ合い、慰めあった。
 表だってはにはなにも悼むことができぬ王の頭を、白い少女は抱きしめ、まぶたに口づけた。時には二人して、一つの毛布にくるまって、ただもたれあっていることもあった。共に過ごした夜は数え切れないほど数を重ね、互いの身体で触れていないところはなかった。それでも愛しさはつのるばかりだった。
 手を取っていたい。
 同じ時を過ごしていたい。
 相手に必要とされていたい。
 愛おしい、いとおしい。
 ふたりは共に悲しみ、共に笑顔を浮かべ、共に憤り、たくさんの話をした。
 共に同じ希望を持ち続け、仲間のために祈り、強くありたいと望み、正しくあろうとした。



        §



 砲撃の音がひどく響く。
 フィガロ城の城壁は、多少の投石武器や火薬ではびくともしないが、さすがに補修が必要な程度にはダメージを受けている。これ以上の被害を避けるのであれば、応戦は適当に切り上げて、なんなら潜航してしまえば良いし、実際のところ、技師たちは潜航モードの準備を速やかに済ませ、あとは王の号令を待つばかりの状態なのだ。
 エドガーは双眼鏡をおろした。砲撃してくる集団は、軍や部隊と呼ぶには体裁が貧弱すぎるし動きに統率が取れていないが、馬賊匪賊と称するには装備が立派すぎ、人数が多すぎた。
 反乱軍を称するならず者の集団だ。かれら宛に、どことは言わない者から武器が流れ込んできているのだろう。間違いなく、フィガロを滅ぼしたい巨大な相手から。
 だが、正面から問いただしたところで、「貴国の内情など知らぬ、反乱くらい国の内部でおさめてはいかがか」と返ってくるのが関の山だろう。表向きは、フィガロとガストラ帝国は同盟中で、条約が更新されたばかりなのだから。

 視線を上げた。
 火薬の破裂音、城壁の崩れる音。それらが止まって、しばらくわんわんと反響して、消えていく。いつもと同じ、砂漠の静けさがあたりに満ちる。まるで、太陽の光と熱だけが鼓膜を灼いているような。
 そんな中でも空は平時と同じように澄んでいて、フィガロを祝福する太陽は苛烈なほどに砂漠を照らしている。

――ピー……チチチチチ……

 小さな鳥が、空を旋回していた。茶色か白か、灰色のか、城壁からではその色はよくわからない。このまま静かな時間が続けば、城壁に舞い降りてきて、歌を聞かせてくれるだろう。
 潜航モードの合図をした。
 低い唸りを上げて、城が沈み始める。
 兵士たちがガシャガシャと鎧の音をたて、出入口から城内に入っていく。ちょうど昼を過ぎた時刻だから、城が潜航している間、かれらはつかの間の休息と昼食をとるのだろう。指揮官の目で兵士たちを見送ると、エドガーはもう一度沙漠の彼方を眺めやった。
 反乱軍は、大慌てで砲撃の準備をしているらしい。怒号が、遠く聞こえる。
 ばさりとマントをひるがえして城内へ足を向けた。城はすでに、三分の一ほどを砂の中にその身を沈めている。まもなく渡り廊下や塔が収納されて、出入り口が塞がれる。動力の唸る音が、音高く足元から響いてきた。

 エドガーは大股で歩いていく。
 廊下の角を曲がり、階段を下る。絨毯敷きの廊下からリノリウムの廊下を抜け、脇道に入った。この木敷の廊下を抜けると少し早いのだ、ごつごつと自分の足音が響くのも、廊下幅が少々狭くて、横に手をのばせば漆喰に指先が触れるのも、ちょっと面白い。視界が明るくなり、床を踏みしめる音が、きゅ、と変わる。
 数十歩あるけば、その扉はある。
 城のすみの、今はもう使う者もいない、小さな礼拝室だ。
 ゆっくりと推し広げれば、真正面に、すっと座ってこちらを見つめる、不思議ないろをした瞳がエドガーを出迎える。

 会いたかった。あいたかった、あいたかった!
 駆け寄って彼女の前にひざまづけば、白い肢体がすんなりした腕を広げて、エドガーの頭を抱きしめてくれた。そのあたたかさが沁み込み、は、と息を吐く。ほそい手首に自らの手を添わせ、そっと握ると、しなやかな胸元からとくとくという音が額に伝わってきた。

「……早く、会いたかった。急いで来たんだ」
「わたしも、早くあなたに会いたかった。待っていたわ」
「話したいことがたくさんあるよ、ティナ」
「わたしも、あなたに聞いてほしいことがたくさんあるわ、エドガー」

 言い合って、うでに力をこめる。細い前腕を包むように、金色の頭を包むように。うすぐらい光に照らされて、二人の髪が重なりあって、さらりと混じり合う。金の混ざった銀翠に、細いひかりが、ちらちらとはね返される。
 ここでは雨に降られることもなく、風に吹かれることもない。やさしいうすぐらい、簡素な礼拝台の上で、ふたりの目に映るのはお互いだけだった。
 感じ取るのは、お互いの体温だけだった。
 聞こえるのはお互いの息遣いだけで、お互いのなつかしい匂いだけを抱きしめあっていた。
 話したいこともたくさんあったし、相手の声を聞きたいとも思っていた。それでも声に出そうとすると言葉は空気に溶けて散り、かわりに腕に力を込めるばかりだ。肩を撫で合い、背中を抱き寄せあい、唇を寄せあい、微笑みあった。
 エドガーはようやく、とりとめない言葉の海から一つをすくい上げて、声にした。



「……鳥がね、いたんだ」
 
 
(2024.11)