別館「滄ノ蒼」

10月18日

 
 密やかな歌声が、聞こえる。
 ティナの髪をすきながら、セリスとリルムが歌っている。
 彼女の髪は細い。大気中の光をふくんでプリズムのように色をあらわし、さまざまな光色をたたえた不思議な髪の色をしている。
 ふわふわと指先にまとわる波は、櫛を通してもすぐに櫛目を飲み込み、翠に透けるうねりに戻ってしまう。
 ちいさな頭から、細いうなじに流れ落ちていく翠糸は、華奢な肩の線をふちどって、胸元に及んでいる。耳の後ろあたりからとかしあげてやると、ティナは心地良さそうに小首をかしげて、セリスの手に頭の重みを預けた。
 セリスが髪を梳き、リルムが編み込んでいく。小さな絵師の手は細やかに動き、手際よく分け目を作っていった。
 
「ねえ、セリス、これって今、どんなふうになっているのかしら?」
「まだ! ……まだ、内緒よ。もうしばらく待って」
「でも、ね、リルム、ちょっとだけ教えて頂戴。もしかして、これってまとめ髪?」
「内緒ーまだ内緒だってばー」
「ティナ、鏡を見るまでお楽しみに、ね?」
「そうだよー、まだ全然結えてないんだから! ゆっくり待ってて」
「……ふふ、わかったわ」
「でもすごいわ、そんな結い方があるのね。私、よく知らなくて」
「もーセリス、言わないで! ティナはどんなでも、可愛いんだから大丈夫だよ」
 
 歌のつづきが始まる。
 リルムが照れ隠しのように歌い、セリスが続けて唱和する。
 ティナはやはり髪がどんなふうか気になるようで、こぼれおちてくる翠をすくいあげたりなどしている。
 ふわふわと細い髪は、もちぬしのゆびさきにもまとわる。「せっかくだからメイクしよーよ、いつもと違うワンピース着るんだし」などと楽しそうなリルムに、セリスも微笑んで、「あのワンピースの色、ティナによく似合うわ」と応えた。
 
「……ねえ、セリス、リルム」
 
 髪を結われながら、ティナは呼んだ。たいせつな友人を、得難い仲間を。ひとりで炭鉱を歩いていたときには思いもよらなかった相手だ。
 
「あのね、わたし、不思議なの」
「うん、なに?」
「髪を結ったり、メイクしたり、ドレスを変えたり。……そんなことが、なんで魔法じゃできないのかしら」
 
 誰よりも強力な魔法の炎を操る少女は、静かに言う。髪に櫛目をたてられながら、つい、と顎を上げて宙をみやった。殺風景なほど飾り気のない壁に、窓を覆うカーテン。飛空艇の中では数少ない装飾、あでやかな織物に房を垂らしたタッセル。
 ティナの疑問はもっともだった。魔法で、火や氷を放つことはできる。時の流れを遅く感じさせたり、逆に早く感じさせたり、怪我を速く治癒させることだってできる。
 だが、それだけだ。
 髪を結ぶためやメイクするために、何か他の呪文があってもいいのに、そんなものは見たことも聞いたこともなかった。操る炎や氷がいくら強力になっても、それを役に立てることができるのは、戦いの場だけだ。
 
「……そう、よね?」
「そんなの、簡単じゃん」
 
 不思議そうに首をかしげたセリスに対し、リルムは声を上げた。子供特有の薄い肩が、ひょい、とすくめられる。手元はあいかわらずきびきびと、ティナの髪に分け目を作り、編み込みをしながらである。不敬なほどすっぱり、応えを返す。
 
「魔法の源は三闘神なんでしょ? それ、戦うだけの神様だからだよ」
 
 
        §
 
 
 密やかな歌声が、聞こえる。
 すぐそこなのに、マディンの長い腕でも届かないところまで娘はちょこちょこと歩いていき、おぼつかない発声で、妻の歌う声を追っているのだ。
 幻獣界は寒くも暑くもない。妻もいつの頃からか季節を忘れ、あちらではなんとかの花が咲く頃ね、だとか何某の木の実がなる頃ね、などと言わなくなった。
 あちらとこちらでは、時間の流れが少し違うらしい。妻が言うには、こちらの方が一日はややゆっくりなように思う、とのことだった。こちらの空はいつも柔らかにあかるくて、暗い時間帯というのはほとんどない。空気は常に澄み渡り、ずっとずっと静かでゆるがず、時間というものの感覚が胡乱だ。
 妻は、今は。娘にひたすら話しかけ、抱き上げては、歌を歌ってやっている。
 うたというものも、妻のいた世界とこちらとでは、ずいぶん違うようだ。
 マディンが知っているのは、戦いの神々である三闘神を称えるためのごく短い唱和だった。妻のしているように、何フレーズもメロディをつなぐような歌い方は、娘が生まれて初めて知った。
 娘はどんなふうに大きくなるのだろう。
 神を称えるためでなく、娘を祝福するために歩み寄り、マディンは妻に倣ってメロディを声にのせ、腕をのばした。
 
 
     §
 
 
 密やかな歌声が、聞こえ始めた。
 セリスとリルムの歌う声に、ティナが唱和し始めたのだ。
 
「……ね、ティナ」
 
 セリスはもう一度ティナの髪に櫛目をいれると、ちょっと首をすくめて翠のちいさな頭を見つめた。
 
「私、こうしてティナの髪を梳くことができて嬉しいの。そう思ったのは……初めてか、もう十度目になるのか、わからないのだけど」
「え?」
 
 ティナは小首をかしげるかわりに、視線だけでセリスを振り返った。
 手を動かすのは止めず、翠の髪をくるくると忙しげに編んでいきながら、リルムも問うた。
 
「どゆこと?」
 
 セリスは翠の小房に指を通しながら、言った。
 
「小さい頃、どこか大きな窓のある部屋だったかもしれない。あなたはうつむいていて、私は後ろに座って、髪をすいていた気がする」
「……そうね、あった気がするわ。そんなことが」
「ぼんやり明るくて。窓の外は、曇っていたかもしれないし、雪が降っていたのかもしれない。さむくて冷え込んで、指はかじかんでいたのかもしれない」
 
 もう一度、セリスはティナの髪にブラシを通した。ぽつぽつと、思い出をすすめていく。旅の始まりを、二人は思い出していた。
 
「ナルシェも、雪だった。あなたも私も、不安だったわね。リターナーに入って、今まで所属していた帝国と戦うことになって……」
「そうね。あなたもわたしも、不安だったのだと思うわ。ひとりになって、こわかったのね」
「くらい空の下で、私たち、ひとりだった。あのときだって、あなたの髪をすいてあげれば、良かった。そうしてあげられれば、良かった」
 
 悔いるようなセリスの声色に、リルムの声が重なる。
 
「ねえセリス。今は違うよ? さみしくないし、触れてもだきしめてもいいんだよ」
「そうね」
 
 セリスの声が、ちいさく笑う。それだけで、記憶のなかの暗い雲は、吹き払われる。ここは寒い部屋でも雪が降ってもなくて、やさしい光が差し込んでいて、たいせつな友人がいるから。
 
「そうね。今はこうやって、髪をすいてあげられる。先月はリルムだったし、今月はティナ。お祝いの日には、編み込みしたり結いあげたり、リボンを飾ったりして。知らなかった編み方を、教えてもらって。
 そうできて、嬉しいの」
 
 セリスはもう一度、ティナの髪にブラシをあてた。光が当たればプリズムのように色をあらわし、様々な光色をたたえた、翠のうねりだ。
 
「それはね、きっと」
 
 ほそい髪はセリスの指にまとわって、櫛目をすぐにのみこんで、ふわりふわりと細いうなじに流れ落ちていく。
 
「髪をすくのが、魔法じゃできないから」
 
 そうよ、きっとそう。声は風が吹けばかき消されるほどやわらかいのに、迷いなく穏やかだ。そうね、きっとそう。応じる声も、セリスとリルムにだけ聞こえる大きさだけど、穏やかで、迷いない。
 ゆるく風が吹いた気がした。開け放たれた窓から、金色のひかりのいろをして、やってきたのだ。それはティナの首元をよぎり、細い前髪をふわりと舞い上げていく。
 
「――ティナ、誕生日おめでとう」
 
 セリスのゆびさきが、ティナの肩をなでた。線の細い、しろい、やわらかい肌がむきだしのそこは、とても温かかった。
 同時に、やや小さくて短い爪の、器用そうな手も、ふわりと流れ落ちる毛先を撫でて離れていった。そして、持ち主の声が上がる。
 
「おめでとう、ティナ! 髪も、できたよ!」
 
 
 
「こころひとつを誰によすらん」