――あたしはあんたを祝うわ、これから毎年。
――あんたの艇は、あんたの分身は、今日生まれたんだから。あたしは祝うわ。必ず。何年経っても。
その言葉は結局、一度も実行されないままだった。
けだるげな夜中の空気が、賭博台(グリーンテーブル)の上に漂っている。
シャンデリアの光が揺れると、豪奢な室内に満ちた煙草の煙もそれにつれてたゆたっていく。
女客が数人、明け方間近のこの時間に至っても、未だに席についてカードをもてあそんでいた。
どうやら今夜の奥様方は、お喋りと賭事に倦むことがないらしい。いい加減切り上げてお帰りいただきたい時刻になってきたために、手持ち無沙汰なディーラーは苦々しい表情で煙草をふかしており、ボーイはあくびをかみ殺しつつ控えている。
(……ちっと言ってやってくれよお前、お休みになったほうがよろしいのでは? とか、顔色が悪うございますよとか)
(……お前が言いやがれ、ここの営業時間はご存知ですよねとか空気読めとか)
(……勘弁しろこの野郎)
賭場のスタッフ同士は訴え合うような会話を視線だけで交わす。一番いたたまれないのはテーブルについている新米ディーラーで、いい加減な相槌などうちな がらカードを切ったり駒を積みなおしたりして客に調子を合わせているが、話の切れ間に入ることができず、ちょっと涙目気味に同僚に助けを求めてくる。だが ご婦人方の例にもれず、話に入り込めたところでこの客たちはボーイの言うことなんざ聞くわけがない。耳を貸す相手がいるとすれば、この賭場のオーナーだけ だろう。
女たちの甲高い笑い声が上がった。
その音が耳ざわりに響いて、ボーイは本当に嫌になったらしい。口の端を盛大にひん曲げると、オーナーを呼びに行くため踵を返した。
「はァ? まだ帰らねぇのかよあのご婦人方は」
そうなんですよ、と腹下りでもこらえるようなボーイの声を背中で受けながら、セッツァーは上着を羽織り、廊下に出た。
「ブラックジャックをここに停めてから何時間経つと思ってんだっつの。家で旦那と喧嘩でもしてここに居座ってんのか」
「さあ、そこまでは……」
「お前に聞いてねぇよ、愚痴だ愚痴。いいかげん寝かせろって話だ、なあ?」
毒づきながら廊下の角を曲がる。皮肉っぽい笑みを頬に貼りつけてホールの扉を開けると、婦人たちはいっせいにセッツァーに視線を集め、きゃあ、と声を上げた。
「ね、ね、セッツァーさん。そういえばあなた、お誕生日はいつなの?」
いちばん年かさの婦人が発したのはずいぶん唐突な問いだったが、他の二人も「そうよそうよ」と同調しはじめる。天秤座と射手座の相性がどうしたこうしたと言いあうところをみると、誕生日占いの話で盛り上がっていたらしい。
婦人は上目遣いで少し膨れてみせる。
「わたくし随分ここに通っているけど、今まであなたが教えてくれたことなんてなくってよ」
「ああ、……」
セッツァーはちらりと時計を眺めやった。正規の営業終了時間から2時間経つまで、あと5分ほどだ。
「……2月8日ですね」
言ったとたん、感嘆の声があちこちと上がる。
ボーイと新米ディーラーが驚いたように顔を見合わせた。
「明日――違うわ、今日じゃない!」
「まぁ、なんてことかしら!」
「すてきな偶然だこと!」
――偶然どころか、
口から出任せだった。自分の本当の誕生日などセッツァーは知らない、聞いたこともない。否、聞いた覚えがあるようなないような気もするが、育て親の申告などはなはだ怪しいものだ。
薄紫の目に、投げやりな冷たい光が宿ったことに気づいた者は誰もいない。
「そうそう奥様、あなたにだけ申し上げますと、……このブラックジャックもなんですよ。初めて飛んだのがね、2月8日なんです」
「あらまぁまぁまぁ、なんてこと!」
「なんてすばらしい偶然かしら!」
「素敵だわ、お祝いしなくてはね!」
興奮した黄色い声を上げる婦人方を横目に、賭博師はもう一度、頬の端に皮肉な笑みを浮かべて煙草を咥えた。
ブラックジャックの初飛行日ははっきり覚えている。
ひどく冷たいのに身を焦がす空気が満ちた日だった。地面に降りてしばらくは膝が笑っていた。それを見たダリルは喉の奥でくすくす笑って、この艇の誕生日をあんたの誕生日にしたが良い、と言った。
だが、今となってはどうでもよかった。
空を教えてくれたひとに祝われることがないのならば、その日付などいつだって一緒なことだった。
「あとでご祝儀を届けさせるわね、セッツァーさん」
「わたくしもそうするわ」
「わたくしも」
「ありがとうございます、奥様方。このブラックジャックが末永く、麗しき皆様の楽しみの場でありますよう――」
願ったり叶ったりの展開だ。
深々と賭博師が頭を下げたとき、ちょうど柱時計の音が響きはじめる。
まぁもうこんな時間なのね、などと言いながら、婦人たちは醒めたように身繕いを始めた。
3件の使いの男が、それぞれ豪勢な花籠や小切手や銀細工なんぞを運んできたのは二日ほど後のことだった――
*
(さて、知ってる奴なんざァいたっけね)
赤っぽく薄汚れた地面には草もまばらだった。
足もとのうさぎが、ようやく見つけた細い草をずっとむぐむぐやっているのを眺めながら、セッツァーはひとりごちた。
誕生日のことだ。
先月のカイエンの誕生日は、どうやらマッシュが聞きだしていたらしく、野生児をはじめとした皆を前に熱く一席ぶった彼の尽力により、祝いの席をもうける ことになった。その空気になんとなく気づいたのか、カイエンはひっそり外に出ていたらしいが、なんだかんだでガウに連れ戻されていた。
その流れからすると、もしも仲間の中に自分の「誕生日」なんぞ覚えている奴がいれば、飛空艇にかえりついたときに紙吹雪なり万雷の拍手なりを浴びせかけられる、ということになる。
だが、確かそんな話なんて誰にもしていないはずだ、と賭博師は思う。
似たような年の双子や冒険屋には言いたかないし、ストラゴスやカイエンなどの年長者とはわざわざそんな話題になることもない。ティナやセリスだったら、はぐらかしてむしろ彼女たちをからかうネタにするだろう。
酔ったはずみか何かで「下手を打って」いたとすれば、自分の誕生日は今日だと言っているはずだ。いつだったか何かでこじつけた日付で、それ以降は面倒に なって、訊かれればいい加減に答えることにした日付だ。――そう気づいたのはついさっきで、騒ぎがやいやい始まるのも鬱陶しく、うさぎの散歩を口実に艇を 抜け出してきたのだ。別にこっちはやんごとない身分だの――誕生日を祝われなきゃならん立場なんざァないのだ。放っておいてもらえるならそれにこしたこと はない。
ま、忘れられていたところで、皆の誕生日が一周したあたりで目ざとい奴が「あれ、セッツァーは?」と言いだすことになるんだろう。それはそれで面倒かもしれないが、適当にごまかせば良い。
そう思い、紫煙を吐き出したところで、セッツァーは後ろから何かに跳びかかられた。
「いったー! 傷男、いた!」
「ぐえっ」
「いつまでうさぎを見つめてたそがれてんのさ。早く戻ってきなよ、せっかくの料理が冷めちゃう。みんな待ってるんだよ?」
「……あ?」
料理だぁ? 嫌な予感が背中をよぎる。
「た、ん、じょう、び、だってば!」
ビンゴ……そういえば、こいつを忘れていた。
賭博師は内心、小さく舌打ちした。相手は子供だと思うと気が緩むのか、そういえばぽろりと零したことがあった気がする。かもしれない。
リルムは軽くしゃがんでうさぎを抱きしめると、大きな目に訴えるような色を湛えてセッツァーを見上げた。元々芝居っけのある奴なのに加え、上目遣いと涙声のおまけつきだ。
「ね、来てくれるよね? リルムたち一生懸命、あんたを祝おうと思って準備したんだもん。あんたを祝えることなんて、なかなかないんだもん。……ね、いいよね?」
「う……、」
子供の、しかも女児の、泣きそうな眼の色というものは、わかってはいても大変な罪悪感をあおるものだ。判ってる。これは絶対、わかってやっているぞこいつ。
「……わーったよ」
「やったねー」
少女はくるりと表情を変え、にぱっと笑うと、「早く早く」と言いながら賭博師の背を押し始めた。
こうなったら腹をくくるしかない。飛空艇についたら、銀紙でできたとんがり帽子を被せられるくらいは覚悟しておかなければならないだろう。
ダリルが見たら爆笑必至だろうが、自分の「誕生日」とやらを仲間が祝ってくれて、楽しんでくれるのなら悪くない、と、ふと思った。
――参ったな、どうでも良かった日付が特別な日になっちまった。
歩き出しながら、セッツァーは喉の奥でくくっと笑った。
「冬草のかれにし人は訪れもせず」