――声が。
声が、ずっと聞こえている。
砂だらけの土地には、地平線までも生き物の気配を覆いつくし、なかったことにしてしまう旋風が、常に吹き続けているはずなのに。
どこからか泣き声が、ずっと聞こえるような気がする。
激情に満ちて。
声を殺してすすり泣くようで、熱くて。
力強くやわやわしい、
誰かの泣き声が。
*
夜の砂漠をわたる風は、乾いて冷えきったくせにどこか熱く、頬を切りつけるように流れては一瞬の後に全く止む。
石の城壁は夜に至ってすっかり放熱を終え、触れれば体温を奪い、どこまでも無機質だ。
セリスは体にしっかりとストールを巻き付けて、城壁を背に立っていた。見上げれば、天河ひとつひとつの星がまたたきもせず、一斉に落ちてきそうなほどに明るい。
これだけの星明かりがあれば、モンクにはランプの照明も瓦斯灯も必要がないらしい。石造りの屋上広場の真ん中に座り込んで敷布を広げ、機械部品を一面に 広げてなにやらひねくり回している。服装はいつもと変わらない胴着一枚だ。隆起した筋肉の塊は気温も湿度も遮断するものなのだろうか、底冷えする風が流れ ても首一つすくめる様子がない。
太い指先に小さなネジをつまみ、片目を細めて部品の穴にそれを回し込んでいるマッシュを見やりながら、セリスは階下の広間の気配に耳を澄ませた。
飾り付けと料理の準備があらかたできたことを見計らって、双子を呼びに広間を出てきたのだ。
ひとりは、今見つけた。なにかの作業の真っ最中、という風情だったのでそっと後ろに近づくと、「あんまり走り回らないでくれ、細かい部品があるから」と手で言われた。思わず顔を見ると、ドライバーをくわえて真剣な顔をし、なにかの機工を一心に見ていたので、内心驚いた。
兄王と同じ顔、同じ動作をしているのに、まとっている空気は全く違う。
否、それ以前に、機械部品をいじくるモンクなど、そうそう見ることなどない。瓦の山や何かを前に直立し、手を組み合わせている姿なら毎朝見られるものだが。
「料理が冷めないうちに、広間に下りてきてもらえないかしら?」
そう言ってみると、マッシュは振り向き、大きくうなずいた。ドライバーを口からはずし、「でもちょっと待ってくれ、このへんのネジだけ」と言って、また機工にとりかかる。
「さっきから何回か組んでるんだけどさ、ここ。どうもうまくいかないんだよな、起動させるとばらけちまって……」
「熱心なのはいいけど、早く降りてきてね? みんな待ってるんだから。飾り付けでびっくりさせるんだって、ティナとリルムが準備していて……」
「でもさ。この前の、ストラゴスの誕生祝いみたいなのはごめんだぜ、俺」
「あれは……ちょっと悪ノリしたかもねー、って、リルムも言っていたわね……」
2ヶ月前の青魔導師の誕生日には、いつのまに作ったものか、小さな絵師の力作と見える横断幕が飾られていた。
野の獣や小獣型のモンスターがいきいきと描かれており、翁は孫娘の筆をしきりと感心したようにかえり見ていた。
だが、ろうそくの火が吹き消されると同時に、リルムは大きく手をたたき――同時に、横断幕に描かれた小獣や小魔たちが形を得て動き出し、一斉に床になだ れ落ち、一気に走り抜けていった。皆は驚倒の声を上げ、あわてふためき、めいめい料理の取り皿を抱えて椅子の上に立ち上がって、床を流れていく小獣たちの 群れを見送ったものだった。
「まぁ、さすがにそこまではないと思うけど。お城の小広間をお借りしてるわけだし」
「小広間っていうか、会議室だけどな。……兄貴はもしかしたら、あんまり楽しそうじゃなかったり中座したりするかも。ごめんな」
「ああ、明日の行事の準備があるのね……」
「うん。王国主催の国王生誕祭は、祝うためのものじゃないし」
「――え?」
「兄貴は言うんだけどさ。そんなことを考えるのは、国にひとりいれば十分だ――って」
少し不満そうにマッシュは口の端を下げて、「俺にも少し分ければいいのにさ」、などとつぶやいた。
「どういうこと?」
「自分の誕生日ですら、潜り込んでいるだろう刺客をあぶりだすネタなんだよな。忙しく気を張り詰めて、命令して、宣言して。でもほとんどみんなに対して、それを隠して」
セリスは小さく、息をのむ。が、すぐに小さくため息をついて、石壁にもたれた。
「そう、ね。そのとおり……だ」
思い起こすだけで、理解できた。
ガストラの誕生祭だ即位何周年だ、あるいは何かの祝い事だ、そのようなことがあると、将軍であるセリスはいくつかの部隊に、近衛軍の応援や警備への従事を命令しなければならなかった。
そのたびに、ガストラは宣ったものだ。
「余の帝国から、帝国の威の届くところから、不届き者を纖滅せよ」と。
当時は特に気にもとめず、志政を新たにする宣言だと思っていたものだが、それもおそらく、間者のたぐいをあぶり出せという命令だったのだろう。裏ではい くつもの部隊が動いて、何人も――何十人もの鼠を始末していたはずだ。たぶん、宰相が薄笑いの白面を顔に張り付けたまま、それを取り仕切っていたのだろ う。
帝国から離れて。別の王族の、別の考え方の男たちと出会って、そういうことに初めて気づかされた。あのまま帝国で、表に出る役割を演じ続けているだけだったら、おそらく思い至らなかった。
幼かった。物を知らなかった。周りを見ていなかった。
生まれたときから「そういう世界」を自分のすぐ隣に見続けてきた目の前の青年との違いを、セリスは思い知った。
……誰かの泣き声が、遠く聞こえている。
沙漠を渡る風の音だ、砂の中に棲む生き物の鳴き声だ魔物の唸り声だ、そう断じることはたやすい。だが、耳を澄ませばその声は、沙漠の向こうの水たまりの中から、湿った熱さを含んで届いてくるように思えるのはなぜか。その理由は何か。
似ているのは――声を殺した、くやしそうなすすり泣きか。
怒りの慟哭の奥底の、あやうい弱弱しさか。
遠く、誰かの泣き声が聞こえる。
「……俺はね。『自由』を贈りたいと、思っていた。ずっと」
「エドガーに?」
「そう。兄貴に」
モンクは手を止めることなくネジを回し込みながら、セリスに答えた。
「それは――昔、あなたに譲ってくれたのだろうものを贈りたい、ということ?」
「そう。だってどう見たって王様なんて、歩き方一つ自分の好きにできない職業の代表だろ? そんなことしなくてもいい時が、いい場所が、あればいいのにって。俺がそれを兄貴に作ってあげるんだって。そう思ってたこともあった」
「違うの?」
「――違った。たぶんね。兄貴はもうとっくに、そんなものは欲しいと思ってなくてさ。それと引き換えにして手に入れた『自由』を、守るつもりなんだ。兄貴の手の上にしか、存在しえないものだ」
「エドガーの手の上にしか、ありえない自由って?」
マッシュは組み上がった機工を抱えあげ、空に向ける。夏の夜特有の、青みを帯びた闇と熱の匂いのする夜気が、ぴくりとも動かずにそこにあった。
「自由を与える自由」
何かが発射されそうな気配を漂わせた瞬間、その機工は操り人形の糸が切れたかのように、一斉に部品となってばらけ散った。
やっぱり兄貴のようにはいかないよなあ、と言って、マッシュはかりかりと頭をかいた。
口惜しそうな、熱く喉を震わせるような、
ずっと遠くから聞こえていた、
誰かの泣き声が。
――止んだような気がした。
「渡り果てねば明けぞしにける」