妻の遺体を安置してある部屋の窓からは、うっそりと灰色に輝く空がよく見えた。
その寝台の足元に座ってままごとをしている娘の、幼い独りごとのかけらが、うす暗い部屋にはかなく漂っている。
クライドは妻の額に唇を寄せ、床に膝をついてぬかづいた。ぱたた、と近づいてきた小さな足音を振り返ると、娘は普段着の上にはおった黒いケープがずりおちそうなのをいっしょうけんめい押さえながら、抱っこをせがむ。
喪装の父親は、母とよく似た顔立ちの小さな娘を抱きあげてわずかに目を細めた。部屋の奥を一瞥し、どこか振り切るようにドアを閉めた。
村のはずれの林まで、クライドはぶらぶらと歩いて行った。うっすら青みがかった薄曇りの空からは、霧のようなひそかな雨が舞っていて、髪や服をゆっくりと湿らせていく。遠くで鳥が鳴いているので、雨はひどくならないだろう。木の幹と葉の匂いが水分を含んで、清々しく鼻の奥をなでた。
道が切れた。ここから先は、林がおわって森になる。
来た道をそのまま戻る気にもならず、クライドは数歩、木々の間に入った。地面はたいして濡れていないので、かまわずに腰をおろす。
娘は彼の腕から土の上にすべりおりた。父親の上着のはじをつかんだままあたりを見回していたが、「だれもいないね」と小さな声で言うと、額にはりついた髪の毛をこすった。
降っているかいないかの暖かな雨は、しばらく浴びていても風邪などひきはしなさそうだ。だがクライドは念のため、自分の上着をぬいで頭から娘にかぶせた。ついでに布越しに、ちいさな頭をぽんぽんとなでてやる。
「…パパのにおいがする」
娘はにぱっと笑うと、胡坐をかいたひざの間によじのぼって、すとんとおさまってしまった。
家に戻ったら、娘を念入りに拭いてやらなければ――いや、着替えさせてやったほうがいいだろうか。
妻なら、どうするだろう。
雨に濡れたのに拭くだけだなんて、娘を犬と同じ扱いにしないで、と怒るだろうか。
思わず、知らず、小さく息を吐いた。腰が重くて立ち上がる気にならない。妻のいない家は、戻っても薄暗くて、居間も台所も椅子も、がらんとしているだろう。義舅と犬が留守居しているはずだが、一人と一匹は今何をしているのか。葬儀の準備は終わってしまっているので、明日まですることがない。
気がめいる。
クライドは娘を抱きしめ、ちいさな肩に柄にもなく顔をうずめた。脈絡なく、料理を残してしまったときの妻の悲しそうな顔だとか骨と皮だけになってしまった妻の細い手だとかを思い出し、後悔にも似た痛みに襲われた。
もっとああしてやれば良かった、もっと笑ってやればよかった、ちゃんと話を聞いてやればよかった、妻は自分と結婚などして不幸だったのではないか――
「そりゃー違ぇよ、クライド」
…突然頭の上から降ってきた能天気な声に、びくり、とした。
声の主を見上げることができず、ようやっとのことで、のろり、とクライドは顔をあげた。頭の片隅でずっと覚えていた、妻や娘がきゃっきゃと笑うたびに足元からわきあがる気配を感じた、うすら寒い、なつかしささえ感じてしまう声だ。
まわりの音が、消えた。
「……ビリー」
「泣きながら魔列車に連れてかれるタマかよあの女。笑ってたんだよシアワセそーに。このビリー様が言うんだからよぉ、間違いねえって」
嘲笑う形につり上げられた口の中は昏く、虫歯が覗いている。片方だけのぎょろりとした目が、クライドを見下ろしていた。あちこちすり切れてだらしなく着崩された服、くしゃくしゃの髪、くたびれた靴。それだけならただの柄の悪い隻眼の男だが、彼をその辺の無頼から――生者からさえも――峻別しているのは、色だった。
彼は全身、真赤に染まっていたのだ。脳天が割れた血で、腹から噴き出した血で、のどを切りさかれた血で、指先からしたたり落ちる血で。
まわりの空気は霧雨にけぶって木々の緑を淡く映しているのに。
微雨に冷やされた空は灰白色になめらかに澄んでいるのに、
その男のなりだけは周りとずいぶんかみ合っていなくて、
――明らかにこの世のものではなかった。
「……何の用だ、ビリー」
クライドは眉をひそめて、生真面目に問いかけた。――幻だとわかっているのに。
「ご挨拶だなあオイ。お前を追っかけてきただけだぜ、俺ぁ」
ぽりぽり頭を掻いて、じっとりとした隻眼を、いやにゆっくりまたたかせる。
「お前がオチコンでると思ってさー。いー乳だったもんな、あのヒト。ここはほら、長年のシンユーである俺様の出番だと、そー思ったわけよ」
「誰が……親友だ、むしろ、」
お前にとっては、俺は――
仇だろうに。
…隻眼の男は相変わらず、頭からも腹からも血を流している。呑気に尻を掻いたりあくびをしたりしているが、そのたびに、ごぼり、と音をたてて傷口が開き、ぼろぼろの服を赤く染めなおす。
あの傷をつけたのは――自分だ。いまだに手が覚えている、腹にナイフを突き立てた時のぐにゅりとした感覚。
「……何をしにきたんだ」
「だからぁ、お前をナグサメに。よく行ったじゃねぇか、『まきがい亭』。景気づけにノミアカシたりとかショージンオトシとかさぁ、旨かったよなあそこの干し肉」
「……精進落としは、違う」
聞いているのかいないのか、そうだっけー?などと言いながら、亡霊はあさっての方向を見て、再びぼりぼり尻を掻いた。ごぼ、と血液があふれる。クライドはビリーの傷口から視線をはずした。
「だからさぁ、オチコンデるお前をショージンオトシにしようと思ってんだけどよぉ」
……やはり聞いていない。
そういえばこいつは昔からそうだった。鶏泥棒に入ったときだって、静かに忍び込むんだと口を酸っぱくして言い聞かせたのに、変な奇声をあげて鶏小屋に突っ込んでいった。馬鹿なのだ。
「見ろよクライドぉ、俺こんなんできるようになってさあ。どーだお前にはできねぇだろザマミロ馬鹿」
ぼんやりと目をやると、ビリーはなぜか逆立ち歩きなどしていた。しかもちょっと浮いている。器用なことだ。よいしょと立ち上がるとどこからか血に汚れた酒瓶を取り出してクライドの前に置いて、うとうとしている娘の顔をのぞきこんだ。
「おじょーちゃんは、おーねーむ、ですかー」
べろべろばー、と脳天から血を流しながら幼子の顔をなめるように見ると、そのままクライドの顔をのぞきこんできた。冷え冷えとした昏い目。
「なぁクライドよぉ、よこせよ」
「……なんだと?」
「抱っこさせろよ――これ」
そして、娘をゆっくり――指さした。
汚れた指の先から、血が一滴、したたった。
「……っ、断る」
「いーじゃんケチ」
口の奥に、ぱっくりと暗い穴をのぞかせて、亡霊は笑った。
「おんなの子って、いー匂いすんのなー。連れてっちまうぞー」
「連れて、行くだと……」
クライドは思わず腕に力を込めた。どことなく背中がうすら寒い、雨が肌まで浸みこんでいるのだろう。娘が急に軽くなったように思ったのは、おそらく気のせいだ。
「連れていくなら、――俺を」
連れて行け。
それがお前の望みじゃないのか。
ずっと、ずっと……そうだったんじゃないのか。
あの時から。
「やだよ、そんなことするもんかよ」
ビリーの姿は、急激に薄くなった。
「お前なんか、こっちに来たってよぉ――」
亡霊は凄惨な目をして、歯ぐきを見せてにやにやしながら、ぜってぇ皆に嫌がられるんだからなザマミロ、などと言う。
「じゃあ、じゃあお前は……何をしに俺の前に現れたんだ……!」
「言っただろ、俺の出番だと思ったんだって。お前しばらくここの村にいてぼちぼちやってたっぽいけど、ここ何日か、なんつーの、魔力?守りの力?が、なんか弱くなってるみてーだから。おーお、よーやくここまで入ってくんのに苦労したこと」
霧のような雨が風に流れて、さあ、と頬をうった。
両手の指を折って、えーと何日前だっけそうそう二日前だ、と大仰に数えているそいつの額は割れていて、耳の穴から血が垂れていて、裂けた腹からは腐った臓腑がのぞいていて。
「二日前――」
クライドはうめいた。
それは、妻が死んだ日だ。
にいっと笑いかけてくる男。ごぶごぶと音を立てる傷口。えぐった感触は覚えているか。それとも自分は、血が吹きだすのを止めようとその傷口を押さえていたのだったか。
「だーかーらーさー、クライドよぉ、せっかくこのビリー様が来てやったんだから」
ゆらゆら近づいてくる幻。
「もっと嬉しそうに迎えてくれたっていいじゃねーかよ」
こいつを殺したのは、誰だ。俺だ。どうやって。のどを掻き切って。腹にナイフを突き立てて。
「なあ、おじょーちゃん抱っこさせろよ――」
こいつを置いて逃げたのは、誰か。俺だ。脚の潰れたこいつを置いて。腹の傷を治せないままで。
ゆらゆら、足音もなく向かってきた亡霊はクライドの前に立ちはだかると赤く濁った目で思い切り彼を見下ろし、全身からどくどくと血を噴き上げて――哄笑した。
「パパぁ……?」
幼いものが見上げてくる声に、クライドは聴覚を取り戻した。はっと視線を上げると、忌わしい男の姿は影も形もなくなっていた。頬をひとすじ、雨水が流れおちた。
急いで立ち上がり、歩き出す。自分も娘も、すっかり体中が湿っている。家に戻ったら湯を使って着替えよう。魔除けの聖水はあっただろうか。ストラゴスに聞いてみよう。
――奴が、現れた。
俺を追って、この村にまで入ってこられるようになった。姿まで見せるようになった。そして、娘を…俺のかわりに連れて行こうとしていた。
絶対にさせない。それだけは。
……俺の身は、誰かに代りをさせるだけの価値もない。
ならば。
――自分はもう、この村にはいられないのだろう。