日が傾いて、朱を帯びた黄金の光に、宵闇色の気配が混じり始めた。
だが、きっちり敷き詰められた石畳の上は未だ照り返しが眩しく、ゆらゆらと熱風がのたくっていく。
人ごみのせいで風は吹き抜けていくことができず、肌の熱を奪うほどのスピードが全くないらしい。あちらによろけてはこちらに倒れかかり、額ににじんだ汗を皮膚に貼りつけるばかりだ。
石畳が昼間の間にためこんだ熱は、まだ冷めないフライパンみたいに空気を熱し、じりじりと人肌をあぶりつづけている。
「暑いのはもちろんだが、人に酔ったりはしていないかい? 少し急ぎすぎたかな」
「へーき。色男こそ、大丈夫?」
「もちろんだとも。未来の美女が気遣ってくれるとは、嬉しいね」
「うん、それにしても暑いよね。ちょっと座っていい?」
肩をすくめて両手をあげて見せるエドガーを無視して、あたしは手首で額をこすり、にじんだ汗をぬぐった。
周囲の喧騒をぐるっと眺めやると、落ちている紙ごみを避けて、少し陰になっている石段に足を向ける。
「ちょっと待っていてくれたまえ」
声を背中に聞いて、振り返ると、長身の後ろ姿はそこらの露店に近づいて、何やら買い込んでいるらしい。あたしが帽子で首元をあおいでいるうちに、長い足は大股で交互に動きながらこちらに近づいて来、冷たそうな瓶を差し出した。
「ごちそーさま」と、薄緑色の硝子瓶を受け取る。表面の結露で、ちょっと手がすべりそうだ。やや閉口しながら硝子玉を押し込んでいるうちに、エドガーは石段の陰のところにさらりと麻のハンカチなど敷いて、腰をおろすよう勧めてくる。
その所作に、内心呆れ半分感嘆半分で、「ありがと」と言った。当然のように軽いウインクが返ってきたので、あたしは再度、心の内で肩をすくめる。
腰を下ろすと、石段の熱がじっとり伝わってきて、背中に汗がにじむのがわかる。やっぱり、暑いのだ。
眺めやれば、ずらりと連なった露店からは、威勢のいい呼び込みの声がとびかっていた。
あちこちから流れ出す、泡をたてる油の匂いや甘い粉の匂いが混じり合って、鼻をかすめてのたのたと流れていく。
硝子瓶の中身を喉に流し込むと、しょわり、音を立てて甘くはじけた。
横に立つ長身を見上げると、思ったよりも縦に長い。
あたしを人の流れからかばうように姿勢よく立っているそのひとは、腕まくりしたシャツに帽子というラフな格好なので誰にも気づかれていないようだけど、なんとこのフィガロの国王様なのだ。
青いリボンは髪から外して、ゆるく編んで後ろに流し、薄い色の色眼鏡の影で少し目を細め、喧騒を眺めやっている。そこらのちょっとした伊達男といったところだ。
そう――案外、気づかれないものだ。
たまに、女のひとの二人連れなんかがにっこりと振り返っていくけど、投げキッスを返したりなんかしては、くすくす顔を見合わせて笑われている。
あたしは横目でそれを眺めながら、再度、硝子瓶を傾けた。さっきよりも少しだけ、温くなっている。親指の内側を、結露が流れ落ちた。
飛空艇に乗って、初めてこのひとの身分を知ったときはびっくりした。動いてしゃべる実物の王様なんて、生まれて初めて見たからだ。他の王様もこんなふうに、女性に対してそつがないものなのかどうかは知らないけど。
「……のむ?」
「おや、これは幸甚」
ふいに目が合ったので、瓶を突き出す。
表面が結露でびしゃびしゃなので少しためらったけど、エドガーは気にする風もなくそれを受け取り、傾ける。おいしそうに動く喉を、なんとなく眺めていた。
その視線に気づいたらしく、こちらに向き直った目がにこりとした。それであたしは、ほんの少しどきりとしたけど、表情は変わっていなかったはずだ。
おおきな手が硝子瓶を軽くゆすって、他愛もない言葉を口に出す。
「子供の頃、この凹んだ瓶は、ちょっと憧れでね。夕暮れ時の灯りの中なんかで見ると、ひどく美味そうに見えたものだ。小さな男の子なんかは飲んだ後にこう、吹いて鳴らしたりするだろう?」
瓶笛を吹くようなしぐさをして見せる。瓶が、ホー、と小さく鳴った。
「それが格好良くてね。後日、マッシュと忍んできたときに随分探したが、案外どの店にも置いていなかった。桶の中で井戸水に浸かって、道端で売っているものなんだろうと思っていたんだがね」
「あー……そういえばこれ、お祭りのとき以外にはそんなに売ってないかも」
「そういうものかい?」
「駄菓子屋さんの奥なんかには、少し置いてあることもある、かな?」
「駄菓子屋か。……それは、探さなかったなあ」
「飲物の屋台なんかだと、果物ジュースとかばっかりだよね。……ていうかさ、もしかして。知らなかったりした? 駄菓子屋」
「かも、知れないね」
平然とそう言いながら、エドガーはまた、黒髪のお姉さんに軽く手を振ったりなんかしている。
あたしは一瞬、「駄菓子屋を知らなかった」という言葉に唖然としたけど、考え直して納得した。
小さな王子様は、知らなくてもおかしくないのだ。いやむしろ、知っていたらいたでいろいろ残念というか夢が壊れるというか冷静に考えたら問題というか。
メンコにした牛乳瓶の蓋だとか。
緑だの青だのどぎつい色の練飴だとか。
本物と似ても似つかない苺味だとかそれらを詰め込んだ安っぽい大瓶だとか、
いくつか思い浮かべて、あたしは頭を振った。……ああほんとに、お育ちが違うこと!
あたしは背中のあたりに感じたいらだちをふるい落とす。半ば八つ当たりなのは自覚の上だ、ぐっと口をへの字にして、未だうれしそうに炭酸水をのみこんでいる咽喉を見上げる。
「ちょっと色男ー。狙ってたでしょ? 間接キッス」
ことさら唇をとがらせて指をつきつけると、一瞬、エドガーは目を見開いて、硝子瓶とあたしを交互に見た。
――不意打ち、成功。
けど王様は、すぐに態勢を立て直して、隙のない笑顔を浮かべてくれる。
「これは失礼した。君の言う通りだな小さなレディ、指先にですら接吻は許しを得てからがマナーだ。……事後報告で申し訳ないが、君の唇の跡を俺に許してもらえると嬉しいな。このエドガー、決して不届きな下心などないと誓おう」
わざわざ硝子瓶に軽く唇を当てて見せるので、「ちょっとー」などという抗議の声は封殺された。それでもエドガーは、さりげなく瓶の口をぬぐって返してくるあたり、やっぱりそつがないと思う。――不意打ち、打ち返される。
「……べつに? いいけど? あたしは」
ことさらに喉を鳴らして、あたしはしゅわしゅわ音を立てる刺激物を飲み下した。腕を組んであたしの頭を見やり、ふふっと笑ったエドガーは、また桃色に輝く人波に視線を戻し、指先でこめかみあたりの汗の玉を払った。
「それにしてもさぁ」
ぼそりとつぶやくと、なんだい? と如才ない笑顔が、こちらに向けられる。
「それにしても、すごい人だねー。サウスフィガロって話に聞いたことはあったけど、ほんとに大きな街なんだ」
ほら、あたし村の子だから。あんまり大きなお祭りって行ったことなかったんだよね。そんなことを付け足すと、長身がすこし背をかがめてにこりとする。
サマサのお祭りを思い浮かべる。大鍋のごちそうがふるまわれて、皆が輪になって踊って。でも、こんなふうに露店がずらりと並ぶことはなかった。あそこは、閉ざされた村だったから。
「今のこの国の状況で、これだけ人が集まり騒げるのは、ありがたいことではあるけどね」
「そうなの?」
「ごらん。あんなモノが空にあるというのに――」
エドガーが指さした方向の、はるか向こうの空に目を細めると、低く、何かカタマリが浮かんでいるのがわかる。
「魔大陸」。ガストラ皇帝が浮上させた大陸。
「町の様子は賑やかで、売られているものは質量ともに十分だ。なんにも気づいてないみたいにね」
王様はあたしに視線を戻し、指先で頬にほつれた髪を払った。
「毎年開かれる祭りではあるけどね、いつものとおり滞りなく準備を整えて、皆が楽しむことができているということさ。フィガロは今年もまた、夏を迎えることができたというわけだ」
「……そっか」
夕闇の赤光に染まり始めた街を見やり、あたしは頷いた。
見上げれば空に地面が浮かんでいるなど、ありえない景色だ。
けれど街の祭りのにぎわいも雑踏の喧しさも例年通り、もしかしたら去年より賑やかなのだろう。
でも。内心あたしは。
この街は、この国は、「気づいてない」んじゃない。「気づかないふりをして、お祭りを楽しんでる」んじゃないの? 空に浮かんだ陸が明日どうなるか、不安でたまらないのに――たまらないから。
そんな生意気を言いたくなったのを飲みこんで、足をぶらぶらさせながら、辺りをもういちど眺めやった。
どこから集まってきたのか不思議なほどの、人波。客寄せの声、油や砂糖の焼ける匂い、それと混ざり合ってゆっくり流れていく人々の体温。まだ石畳から放出され続けている、昼間の熱風の残滓。
地平近くにうっすらと浮かんでいる、陸の塊。
露店の親父さんが、値段を負けるの負けないのと熱弁をふるっている。
棒にさした真っ赤な飴を、寄ってきた子供に見せてやっているおばさんがいる。
両手に食物と飲物を抱えているのに、じいっと屋台の綿菓子を見つめている子供がいる。
かれらの姿をぼんやり眺めているうちに、ふいにあたしは思った。
――そうか。誰も、あえて口に出さない。そういうことなんだ。
確かに魔大陸が空中に出現した。だけどそれ以外は、何も変わらない。変わってない。何も、起きていない。
今は、まだ。
だから誰も、わざわざ口に出してないし、不吉な予感がするとか言わない。もしかしたらずっと、空に陸が浮かんでるだけかもしれないから。だから、地上から空を見上げるしかない人々は、特に何もするわけでもなく日常に追われている。
――そういえば、ガストラ帝国には夏至のお祭りがあるそうだけど、今年はどうだったのかな。
不意になんとなく、そんなことを思った。
口上が辺りに響いた。
「――さあさあ、ここでご覧になられるは、うたたねの一場の幻。他愛ない物語は、根も葉もないつかの間の夢」
人ごみが一斉にそちらを見て、ざわりとする。
「――お芝居だ!」
通りの突き当りに設置された仮設舞台で小芝居の演し物があるらしい。そう耳に挟んでいたのが、ちょうどそこだったようだ。
「行こう」
あたしは立ち上がり、エドガーを急かした。
「早く行かないと、場所がなくなっちゃう」
「ああ、そうだね。――ちょっと待ってくれたまえ」
エドガーはさらりと石段からハンカチをしまうと、あたしを追いかけてくる。
「はぐれるよー。早くー」
「おお、はぐれてしまっては大変だ。さあ小さなレディ、お手をどうぞ」
人波が通りを埋めていて、向うがどうも見通しづらい。
あたしは道の脇の花壇の縁に飛び乗って、歩いた。ありがたく、脇を歩く大きな手に体重のほんの一部をあずける。
人々の頭が視線の下に来て、少し面白い。黒髪、赤毛、栗毛、どれも赤っぽい金色の光に照らされて、鈍く沈みこんだ色に見える。
脇の金髪だけが、かすかに光った。
視線を向けてみると、居並ぶ露店に目をやっているらしい。けど、食べ物や出し物に目をひかれているようにも思えない。
少ししてから、「もしかしたら商品の値札や商い人の様子に目を向けているのかも」と、思い至った。
なんとなく口をつぐんで、歩いた。
空は先ほどよりも傾いた陽の色を映して、刺すような橙色の中に、白金色を帯びた雲が浮かんでいて、端のあたりは淡い闇色をしていた。
人波と喧噪が道を埋めている。
黒々とした人々のかたまりの向こうに、仮設舞台らしき造りが現れた。
あれか、と思い、石畳に飛び降りる。大きな手をつかんだまま、足を速める。
石畳はひたすらに昼間の熱を放出して、熱い空気がのたりとその上を流れていく。
道の脇にふと目をやれば、商家の石壁がゆらゆら揺れた。
芝居の始まりを告げる口上は続き、聞こえる先が遠くなったり近くなったりした。
ふいに、賑やかしの楽器のような音が、止まる。
人垣の間からから役者がぽんぽんと飛び出して、仮設舞台にかけ上がっていき、次々にポーズをとる。頭にひときわ大きな飾りをつけた男が最後に舞台に飛び乗ると、黒子が舞台際に灯火を並べていった。
「彼が主役かな?」
「たぶんね」
仮設舞台の上をにらみながら、あたしは硝子瓶にひっそり息を吹き込んだ。低く、ホー、と音が鳴る。
あの役者の影の色は、暗い紫色に何色を混ぜたらいいだろう。
あたしの頭を見下ろして、エドガーは小さくくすりと笑ったそうだけど、そのときすでに舞台上を照らす灯火の色合いに夢中になっていて、あたしは全く気付かなかったのだ。
(2016.2)