びょう、と白く吹きすさぶ風が、降り積もった雪の表面を削り飛ばしていく。
室内が、どうにも今ひとつ暖まらない。
窓硝子の外は、一面の灰白だ。この室は崖ぞいの、街の中でもやや高いところに位置するために、視界の半分以上は空で埋め尽くされる。
どよりと垂れ込めた、白、灰、煙の色。視線を下げても、寄り集まるように蝟集した石造りの家家の屋根の上の、一年のうち数ヶ月ほども溶けなくなりはしない、ごく淡い黄灰色しか見渡せないのだ。薄明るく重たげな色で、気が滅入る。
その合間からわずかに見えるのは、灰色、スレート、鼠色。
人通りでべしゃべしゃと踏みつぶされて半分水になった雪が石畳の表面にへばりつき、その合間から、濡れた敷石や湿った渡し板や、風に身をすくめる壁の色がのぞいていた。
背後のストーブの上では、薬缶が小さくかんかんと鳴る。
ふくふくした白い湯気が口から漏れだしており、ストーブが発する乾いた熱気に申し訳程度の湿り気を与えている。寸胴の黒い鋳鉄の中では、石炭がこうこうと赤く輝いていた。鮮やかな朱金色の光が空気口から漏れ落ち、熱のふるえに伴ってわずかに揺れる。発せられる光はするどくまばゆく、そちらを向けば頬の表面の皮膚が炙られるようにちりちりする。
だが絨毯は毛足が短く床全体を覆いつめることができず、壁は打ちっぱなしどころか崖の壁面をそのまま利用したもので、故にそこかしこに隙間があるらしく、こおりついた空気の気配が忍び込んできては、石炭の発する果敢な熱にとかされ、じとりと冷たい湿り気となって部屋のすみにわだかまるのだ。
床に座り込めば、そこは自らの体温で温まりきらず、数分ごとに体勢を変えなければ尻から底冷えが伝わってきて、身体の芯を冷やしてしまう。まるで、万年雪の層の上に絨毯をしいて、クッションもなしにすわっているみたいだ。やったことはないけれど。
「おーい、セリス? ……あ、ここにいたんだな」
「……っ、ああ、なんだ、ロックか」
ロックはセリスの斜め前に腰を下ろす。ラグがひやりと腿から体温を奪い、ロックは肩をすくめてセリスを見やった。
彼女はちらりとロックに視線を向けると、また刃に視線をおとして、ごしごし剣に布をすべらせる。
黙々と、剣の手入れをしているところなのだ。
小型の砥石で簡単に刃をととのえ、油を塗る。ひととおり拭きあげて、柄から切っ先までをあらためる。また黙々と磨く。拭く。こする。……
専門の研ぎに出すのではなく日常的に行うものだ。
だから、手順に迷いはない。片あぐらで立てたひざに布切れをひっかけ、視線を投げることすらなく必要な道具をとりあげる。……また、黙々と刃をみがく。
「あのさ」
「なんだ?」
「ずっと、これをやってたのか? ……今、もう3時だぜ」
「ああ、そうだな。刃を研ぎなおすほかに、鞘や剣帯も拭き直していたから」
「そうだけどさ、そうじゃなくて」
「柄の調整か? じっくりやっていると、2時間ほどはかかるぞ」
「うん、そうだな。けどお前、ひとりでさ、」
「? ……ええと、お前のも、してやろうか」
「うん。そうだな、けど、そうじゃなくて」
セリスとの会話は、ときどきシュールだ。
投げかける言葉には、いちいちきちんと反応を返してくるのだけど、いずれも真顔で事実を答えるものだから、気軽にたわむれかかると後で焦ることになる。
要は――冗談がきかない。
必要な報告・連絡事項、そして投げかけられた言葉に応える言葉、それ以外のときには隙なく周囲に注意を向けているか、黙々と何かの作業に没頭しているかだ。
一心不乱というか、誰にも話しかけられないように盾をたてて握りしめているように見えるな、と、ロックは思った。
不安なのだろう。わかる、気がする。彼女にとって、周りの人間はみんな敵、あるいは敵になるかもしれない相手なのだ。ーーロックを除いては。たぶん。
だから、行間を読み取る必要のない応えばかり返す癖が、ついているのだろう。
ロックは姿勢を変えて座り直すと、もう一度肩をすくめた。床に触れていた腿が、冷える。
と、セリスはすこし首をすくめ、肩をちいさくふるわせた。
「……もしかしてさ」
「何、だ」
「寒いんじゃないのか? おまえ」
「別に」
「震えてるじゃん」
「震えてない」
「震えてる」
「気に……するな」
「無理するなって」
ロックは立ち上がり、部屋の隅の椅子にかかっていた膝掛けだかなんだかを取り上げた。
「ほら、掛けとけよ」
ぱさり、と音を立てて、キルトがセリスの肩にかかる。立ち上がった空気の流れに彼女が身を震わせたのか、肩からすべりおちそうになったので、ロックは布の端をつかみなおした。その拍子に、キルトを引き寄せたセリスの指先を、ロックの手先がかすめた。
「……つめたっ」
思わす真顔になってしげしげと見直すと、セリスは困ったように顔をそむけていた。なめらかな肩が、少しだけこわばる。なんだかちょっと、引き取ってきたばかりの猫みたいな風情だ。
「お前すっごく冷たくねぇ? 指、すっごい冷えちゃってるじゃんか」
「気に……しないで」
「するって」
ほらほら、とロックはセリスをストーブの方へと押しやると、キルトをぐるっと彼女にまきつけ、ついでに頭まですっぽりとかぶせた。正面から、顔をのぞきこむ。
「……平気、だから」
小さくつぶやいた彼女の、頬の横のキルトを、もいちどきゅっと引き下げてやった。額から流していた前髪が、ぱらりと落ちる。
と、セリスはふと目をふせた。
次の瞬間、ロックの手の甲のはしっこが、ほんの刹那、温もった。
セリスがわずかに体をかたむけて、垂れた金糸の流れの端だけで、するりとロックの手にすり寄ったのだった。
気持ち近づいただけの、かすめるほどのその距離。遠慮がちでおずおずとしていて、息づかいすら届かないほどに、遠い。
ほかに注意を向けていたら気づかなかっただろう。セリス自身も無意識だったのかもしれない。
不意にロックは気づいた。
セリスは、このひとは、見た目よりもずっとさびしがりなのではないか。
少し考えてみれば、思い当たる節はあった。
一人で待たせておくと、戻ってきたロックを見つけた時、目を見開いて安心したように肩から力を抜く。人の集まる場所は苦手と言うくせに、人の気配のする方へ行きたがる。店先の物を眺めているとき、店主に話しかけられれば嬉しそうにする。
他愛もない言葉を誰かと交わすこと自体が、珍しく物慣れないことなのかもしれない。
だって、あの大規模な帝国軍の、一軍を預かる将だったのだ。
たった18歳だというのに。
表情を隠して背伸びして鎧をまとってがちがちに固めて、自分に近づいてくる者のほとんどをはねつけ続けなければならなかったはずだ。
「気にするな」「大丈夫だ」、セリスは口を開けばそればかりだ。だけどそれらの言葉を10回発する間に、ほかの気持ちや望みを何度、飲み込んでいるのだろう。
セリスの唇が小さく、はく、と動いた。
吐息だけが口から洩れる。形にもならずに。今までは飲み込んでばかりだった言葉のかけらは、音になってまろび出るだろうか。
――今すぐでなくても、いつか、彼女の奥底のどこかが融けたころには。
かんかんと鳴る薬缶の、あたたかく乾いた音が響く。リズミカルに、ひそやかに。
「……、」
「うん、」
「……暖かい」
「だろ」
氷と同じ色の、うすい蒼の瞳を、伏せたまま。
白金の、ゆるく流れる髪は、ほんのすこしの体温を発しながら、ロックの指先をかすめる。何秒かに一度、ストーブの中でぱちりと石炭がはねる音の間隔よりもゆっくりと。
つかまえようとすれば逃げてしまうだろうから。優しくなでる手ですら、警戒してしまうだろうから。
だから、ロックは自分から触れにいくことはない。
けれど、さみしがりやの彼女からそれ以上離れないように。キルトをつかんだ手を、離さないようにぎゅっと握って、ほんの少しだけ近づいてみようとする意思を否定しない位置で、かすかなふれあいを受け容れる。
指先をかすめるやわらかな金糸の感覚がくすぐったくて、
「……ふふ、」
小さく、息がもれた。
また窓の外で、びゅう、と風が鳴って、窓硝子ががたがた揺れた。
無数の雪のかけらが、真横に吹き飛ばされていく。景色の半分以上を埋めているのは、白、灰、煙の色。街のどこの地面に落ちても、凍り付いた雪の層に阻まれて地熱は伝わらず、霙の欠片も削れた氷のかけらも、溶けることなく降りつもっていくだろう。この街のすべての音を、静かに吸い込んで。
室内は、やはりどうも今ひとつ暖まりきらない。
熱を発するものは、ストーブの中で煌々とひかる石炭の欠片のほかには、セリスとロックの身体だけなのである。