別館「滄ノ蒼」

Sirius

 

<12月31日 17:00>

 空のほとんどは紫紺に染まりつつあるが、残照はいまだ、砂だらけの地平線を照らし出している。
 太陽が落ちると同時に気温は急転直下、昼はまだしも柔らかさを保っていた沙漠の空気は、夜の訪れとともにきいんと凍りつき、動きをとめた。
 ――生まれたときから、この静寂を毎夜、聞いていた。
 フィガロの沙漠では、生きるものは24時間ごとに、夜の冷たい空気の中で動きを止めるのだ。冬はそれがひときわ著しく、誰もが毎晩、仮死状態で眠るようなものだ。新年を控えた今日の夜、その凍りつく闇は、一年で一番、深い。
 大気はどこまでも闇色に澄みとおり、飛空艇の音を遠く伝えてくる。
 フィガロ国王は城門の大柱に背を預けて、近づいてくるその音に耳を傾けていた。
 ごうん、ごうん、と腹の底に響く音。幾重にも重なり合っては離れあうことを繰り返す、軽やかなプロペラ音。西方に白い点となって現れたかと思うとみるみる近づいてくる艇のフォルムは見慣れた弾丸形を保っているようだが、耳に届くファルコンのうなりは、覚えているよりも音域がわずかに高い。
(エンジンの回転数を増やしたか――あるいはタービンの圧力を変えたかな)
 艇主は、あいかわらずファルコンの改善に余念がないとみえる。
 小さくほうと息をついて、エドガーは柱から背を離した。白く凍りついた呼気は、今や着陸態勢に入ろうとしている機体が生み出す風にあおられて、あとかたもなく後ろに散っていった。冷たく固まっていた城門前の空気が、さまざまな機械部品たちの生み出す熱にかきまわされる。この白い飛空艇を初めて見たときには、どうしようもなく機体の姿を図面に落としこんでみたい衝動に駆られたものだが、それは2年たった今でも変わらない。
 太陽の気配が、地平線から消え去った。
 ほぼ同時に、ファルコンはあやまたず城門の正面に降りたった。ずん、とひときわ大きな衝撃が腹に響き、ひとしきり砂が舞い上がる。エドガーは目を閉じ、心の中で十を数えてからうっすら開けていった。おさまっていく砂塵の中に、ファルコンの出入口が現れた。
 機体に埋め込まれた裸電球がぱっと点き、軽い音を立ててハッチが開かれる。
「ひっさしぶりー!」
「やあ」
 弾んだ声とともに、フィガロ王の客人はとんとんとタラップを駆け降りてきた。
 いつものようにハイタッチをかわしたところで、エドガーはすっと相手の小さな手をとって、優雅に腰をかがめた。驚いて目をみはる少女の手の甲に、軽く唇を落として、言う。
「ようこそ、小さなレディ。風の流れも空気の色までも思いのままに筆にとることのできるこの愛らしい手を、預かることができるとは一世一代の光栄だ」
 眼をまるくしていた少女は、気づいたようにコートの腕のあたりをさすって、小さく「……さむ」とつぶやいた。エドガーは大仰に天を仰ぎ、目頭を押さえる。
「君のスタープリズムは相変わらず強力な即死効果だね、リルム……」
「……そうじゃ、なくって!! ほんと冷えるなって、思っただけだって! それにさ、」
 そこまで言って、リルムは口ごもった。
「……大人の、……」
 女の人みたいにこのひとに扱われたのが、思えば初めてで。
 続けたかった言葉を、彼女はなぜか飲み込んでしまった。すこし驚いたようにしげしげと見下ろしてくる、青い視線とまともにぶつかったせいだった。
「ああ、大人か――そうだね、少し見ないうちに君はずいぶん大人びた」
「……いまごろ、気づいたの?」
 少女はなんとか調子を取り戻し、少し頬を膨らませ、胸を張ってみせる。
「リルムもう13だもん、アウザーのおっちゃんも――ちがった、小父様も、そろそろ社交界デビューの準備がどうこうとか言い出したんだからね」
「ああ、アウザー氏がね……彼が見てくれるならそちらの方面で間違いはないだろうな。彼は相変わらず、君の一番の支援者のようだね。君の五年後には、大いに期待していいのかな?」
「それ、画家として? それとも社交界の花として?」
「……おーいリルム、言うまでもねぇとは思うが真面目に相手すんじゃねーぞ」
 だるそうな声が頭上から降ってくる。
 甲板の柵越しに顔をだした賭博師を、エドガーは片眉を上げて見上げ、「なんだ、いたのか」と言った。
「俺が未来のレディを迎え出るところだというのに首を突っ込む野暮天だとはね。実に失望したぞ、セッツァー」
「寝言は寝て言え。必要不可欠な保護だろうが。だいたいこの絵師殿を送って来いと言ってよこしたのはどこのどいつだよ」
 セッツァーは柵に肘をついて、くしゃくしゃ髪をかきまわした。
「言うのが遅ぇっつのに。サマサから一気に高速で飛んできたんだぜ? エンジンに結構な負荷がかかってんだからな。昨日の今日で、早く着かなきゃファルコンに落書きしてやるだとか、このちまいのは無茶苦茶言うしよ――」
 なぜか途中から愚痴になっている。
「お前ら乗せるのは儲けにならねぇんだからな、全く……。勝手知ったる艇だと思って好きなように使いやがって」
「将来、リルムが乗った艇だって自慢できるようになるんだからさー、出世払いにしといてよ。なんだったらファルコン用に一枚、描こうか?」
「……考えとくぜ」
「なぜそこで即決せんのだ、それだから女運を捕まえられずにいるのだ、騒がしいだけで終わるんだ。騒がしいで思い出したがね、だいたいお前が来ると毎回騒音が激しくっていけない」
「さんざん使ったこの大恩人の艇に文句言いやがんのかコラ。もう乗せねーぞ」
「機械よりも操縦と整備の腕に問題があるのじゃないかという話なのだよ」
 この二人は顔を合わせるのは半年以上ぶりのはずだが、考えてみれば挨拶もなしに罵りあいを続けている。なんだかんだで馬が合うのだろう――と思いながら、少女は腕を組んで割って入った。
「じゃれてないでさ、客をちゃんとエスコートしてよね王様」
「誰がじゃれてんだよ」
「おお、全くその通りだね。小さなレディを立たせたまま不景気な野郎の顔など見ている暇はないのだった」
「なに言ってやがる、うちの賭博場は今までにない好景気だっつうの。お前には入らせねぇけどな」
「その経営者がこんな凶悪顔でよくまあ黒字が出るものだな。儲かっているのならお前はさっさと住民登録をフィガロに移したまえ。たっぷり税金をかけてあげよう、ふふふ」
「お断りだ。血税を空中ドリルやら高速潜水スコップやらの開発に使われてたまるか」
「ちょっとお、リルム寒いんだってばー」
「すまないね、さあどうぞ、お手を――」
 国王はきっちり賭博師を無視してリルムの歩幅にあわせて歩きはじめたが、ふと振り返る。
「あのね、セッツァー。俺が今開発しているのは、潜水スコップではないよ」
 甲板からこちらに向けて顔を出した賭博師に向けて、国王は声を張り上げた。
「空飛ぶスコップだ。飛空艇の尾翼を認識し、10m後ろからどこまでも追撃するのだ」
 セッツァーは、彼には珍しい満面の笑みを浮かべると――思い切り親指を下に向け、舵輪の方に姿を消した。



<12月31日 23:00>

「……ねえ、もうできたの? 色男」
 しゃりしゃり、と。木炭を画用紙に走らせながら、リルムは声をあげた。
 執務室の乾いた暖かい室内、ガラスの向こうは静かに、沙漠。ガラス越しにでもわかるほど鮮やかな、冬の星座。城内はなんとなくあわただしい気配に満ちている。
 新年を一時間後に控え、小さな絵師と少しの距離をおいて対面する形で、堅牢なオーク材の机にかじりついているフィガロ国王は、机上の紙片とにらめっこを続けていた。
 フィガロ国民に向けて宣られるために起草された新年の祝辞を、ぎりぎりまで推敲しているのだ。
 絵描きの少女は、どうやらその姿や手元をデッサンしているらしい。
「いや、……うん、もう少しだね……たぶん。言葉尻がね、いまひとつ」
「なにをそんなに悩んでんの。祝辞なんてそのまま読み上げればいいんじゃないの?」
「ふつうなら、そうなんだけどね」
 エドガーは顔を上げると、すっかり冷めたコーヒーをすすった。
「今月のはじめだったな。式部長官がそこから入って来たかと思うとここに立ち、『世界復興が始まってから初めての年を迎えるわけですから、祝辞は国王直々に気合いを入れて加筆訂正のうえ、気のきいたアドリブと少々の冗談を交えつつ、感動的かつ簡潔明瞭なる演説をお願いします、約20分間です』――と、こうきた」
 式部長官の重々しい声を真似てみせ、肩をすくめて両手を広げた国王に、少女は「何それ」とあきれた声を出した。
「それにしたってぎりぎりじゃん。間に合うわけ? その演説だか祝賀会だかっていつなのよ」
「遅くなった理由、ひとつ。年末は急を要する裁決がしょっちゅう飛び込んでくるために後回しになった。ふたつ。正式な祝辞――城門前に貼り出すためのものだね――は、年明けの二日に式部官が清書するから、とりあえず国民に向けた祝辞をうまくやれば大丈夫。みっつ。新年祝辞の開式は元日の夜6時、サウスフィガロだ、城を出発するのは昼前でいいからそれまでは時間がある。よっつ」
 風格さえ漂わせ、エドガーは胸を張って――威張った。
「俺は本番には、強いんだ」
「……」
 絵師の少女は無言で、再び木炭の音を走らせ始める。国王は笑顔のまま、胸を押さえてみせた。
「……ああ、女性の無反応というのはこたえるなあ……」
「その祝辞、そこのバルコニーからの演説にすればいいんじゃないの。スピーチを考える時間が2・3時間増えると思うけど」
「それはまずい」
「なんで」
「――人が、来ない」
 視線を再び書類に落とし、国王は大まじめに言った。
「ここは沙漠の真ん中だからね。おそらく俺が出るとなれば、国民は集まってくるだろうが――それでもやはり、それなりの群衆を集めるための広告宣伝費用がかなりの額に上ってしまう」
「……まあ、そうよね。……って、そうじゃなくってさ」
 リルムは顔を上げて、ちっちっちと指を振った。
「リルムたち、新年にみんなで集まる相談をしてたじゃん。あんたはたぶんこのお城から動けないだろうから、みんながここまでお邪魔して、場所だけ貸してもらおうかって話になってたわけよ。それがぎりぎりになって実はサウスフィガロでした――って聞いたから、集合場所とか時間とか、ロックが大変だったんだってさ。セリスがちょっと愚痴、というかのろけの手紙をくれたんだけど」
 ストラゴスが場所の提供を申し出たものの、集合場所が大幅に変わるのはどうかと却下になったのだ、とリルムは言った。
「男は苦労してなんぼなのだよ、特にロックみたいなふらふらした奴はね。……うん、できたな」
 国王が卓上の呼び鈴を鳴らすと、侍従が「失礼いたします」と入ってきて、礼をした。
「これで明日の分の文書を表装してくれ」
「かしこまりました、エドガー様」
「少々くたびれたよ。けど、この文面は諸君にずいぶん推敲されてしまいそうだ。特に中盤の、本邦の復興の始まり云々のくだりがね」
「世界復興の経緯に誰より詳しい方が何をおっしゃいますやら」
「そうかな? まぁ演説はうまくやるさ、準備を頼むよ」
「おまかせください。――ああアローニィ様、何か温かい飲み物でもご用意いたしましょうか?」
「いえ……結構です。ありがとうございます」
「了解いたしました。それでは」
 侍従が静かにドアを閉めると、ストーブの穏やかな音がゆるりと部屋を舞い落ちた。リルムは黙ったまま木炭を画用紙に走らせ続けていたが、ふいに、ぽつりと漏らした。
「……なんかさ。今、あんたって本当に国王なんだな、と思ったよ」
「ん? 俺の王様ぶりはそんなに意外かい?」
 伸びをしたエドガーは、机に肘をついてリルムを見る。
「ファルコンの中でも、結構仕事してたんだけどなあ」
「掃除当番とか水当番とか普通にこなしながら、でしょ。……すごいと思ってたよ」
 自分の役割も立場もまるごと抱えたまま飛空艇に乗り込んでいた機械王国の国王は、広間を螺子だらけにして艇主に怒鳴られたり沙漠で下船乗船を繰り返したりしながら、戦闘も買い物もほかの仲間と同じ量だけこなしていたのだった。
「だからみんな、あんたを中心にして集まってくるんだよね」

 おそらくあの旅の仲間たちも、新年に向けてすでにサウスフィガロに集まってきつつあるのだろう。
 あの旅の途中でもそうだった。お互いの連絡はそう頻繁でもない割に、とくに打ち合わせずともなんとなく集合場所は決まっていたり、だいたい戻ってくる時刻が同じ頃だったりした。
 世界のあちこちをとびまわっている途中は、ずいぶん苦しい思いも我慢もしたはずなのに、思い出すのはなぜか、仲間みんなが集まったファルコンの広間の、あたたかなざわめきばかりだ。もう二度と見ることがなくなってしまった埃っぽい赤い空の色すら、リルムのパレットの隅には、血をふくんだ宵闇色の絵具として留め置かれたままでいる。
 (あの狂神の瓦礫の領土に乗り込む前日、彼女は空を見上げながら、何種類かの絵具を混ぜ合わせてその色を写し取り、パレットに固めておいたのだった。「もう見られなくなる色だから」、彼女はそう宣言したものだった。)

 青年王は再びカップを持ち上げたが、すぐに机の隅に置きなおした。中身が残っていなかったらしい。
「ここが皆の集まる場所になれれば、俺はうれしいけどね。たぶん皆がここを思い出すのは、マッシュが俺の分もあちこち見て回ってくれているからなんだろうな」
「……そうだね。キンニク男って今、どこにいるの?」
「どうだろうなあ……」
 エドガーは椅子に背中をあずけ、天井を見上げた。
「この間送ってきた手紙によれば、ニケアに向かうって言ってたかな? そうそう、カイエンは相変わらず旧ドマ国民の帰郷支援に取り組んでいるようだね。ガウはずいぶん背が伸びたそうだよ――もう、マッシュの鼻の高さ近くになったらしい」
「へえ! ガウちゃんがねー。もうすぐカイエンを抜くんじゃないの? ……みんな、久しぶりだね、早く会いたいな。ロックとセリスは、きっと一緒に来るよね」
「未だに世界中旅して回っているらしいけどねえ。女性を洞窟だの崖だのに連れ回すとは実にとんでもない話だがね」
「セリスはさ、ずっとそうしたかったんだよ。ロックもきっと、一緒に歩ける人がほしかったんだよ。……今はあの二人、どこにいるのかなぁ?」
「あれで二人とも案外寂しがりやときているから、もうサウスフィガロに入って、あちこち見て回っているころだろうな」
「……早く結婚して、どこか街に住めばいいのに」
「そうだなあ……。ただ、フィガロ人民になられるのは御免こうむるな。ロックの奴から税を徴収しそこねそうだからね」
 あの冒険家から税を徴収するのはむずかしそうだ。
「まあロックが言うには、ご夫婦ですかと聞かれたらそうだと答えているらしいけどね」
 きっとそのたびに、セリスは後ろで顔を赤らめているのだろう。
「そういえばさ、……色男ってさ、なにもないの?……そういうの」
「パートナーとなってくれる女性がいるかどうかという意味かな?」
「そんなはっきり、……まあ、そうなんだけど」
 ふむ、と言って国王は腕を組んだ。
「そうだなあ……一国の君主が独身というのは、かなりの外交的武器になるのだよね」
「……えー。いきなり生臭ーい……そういう、問題なんだ」
「王妃の座は、手の届きそうに見える相当おいしい餌だと思わないかい? 王族貴族に名のある大領主……、皆こぞって和平なり資源なりを対価に申し出てくる」
「……ふぅん……。それで王妃様の椅子の値段をつり上げてるって、わけ」
「今だから言えるけど。あのガストラ皇帝の娘を妃にどうかという話もあったといえばあったな」
「はぁ!?」
 少女は目をむいて思わず身を乗り出した。
「ガストラ帝国の皇女様!?」
「本当かどうかは知らないけどね。ともかく、皇帝の――どこかで手をつけた女性が生んだ娘さんだか養女だか、あるいは適当に仕立てあげた身分か、皇帝の娘だという触れ込みの女性に会わないか、と打診があったのは事実だよ」
「……へえ」
「あの旅が始まるしばらく前かな? 当時は困った。実に困ったな。ガストラの縁戚にはなりたくなかったし、フィガロとしてもまずい立場になるのは目に見えていた。だが、女性の面子をつぶす結果を生むのは望むところではない」
「そういう問題じゃない気もするけど……」
 リルムは画用紙に目を伏せて、巻き毛の生え際のあたりをかりかりと掻いた。さりげなく話をずらされてしまっていたのに気づくと同時に、ふと、「このひとがあの旅に飛び込んだのは、にわかにやいやい言われ始めた妃選びの話だのいろいろなことから脱走したかったからかもしれない」と、ぼんやりそう思った。
「――失礼いたします、エドガー様」
 軽いノックの音とともに先ほどの侍従が現れ、国王に巻紙を差し出した。
「表装ができあがりました」
「ありがとう」
 エドガーはその由緒ありげな紙の筒を受け取ると、リルムの方を見て、「さあ君の仕事だ、絵師殿」と言った。
「明日の祝辞の巻紙だ。縁飾りの意匠を描いてくれたまえ」
「まかしといて。ちょっと、貸してね」
「よろしくお願いいたします、アローニィ様」
 侍従は深々と礼をすると、口の端をすこしつり上げて、言い足した。
「――こちらの国王陛下の結婚運が上昇するような意匠ですと、大変ありがたいです」
「はは。参ったなぁやめてくれよ、結婚なんかしたら世界中の女性の99パーセントを泣かせることになってしまうじゃないか」
「そろそろ真面目に国家的懸案でございますよ、エドガー様」
 主従のやりとりを聞きながら、リルムは表装をひろげた。
 ややセピア色がかった、羊皮紙を模した質感に仕立てられた紙に、先ほどエドガーが推敲していた原稿が貼り込まれている。夕暮れの中、国王がこれを広げて読み上げるのを遠目に見れば、なかなか見栄えがするだろう。
 鉛筆で簡単にあたりをつけ、縁飾り用の筆を取りだして、リルムはさらさらと意匠を描きはじめた。
「なんの意匠の装飾なのかな?」
「槲っていう木だよ。動物が通らない、崖なんかにひっそり伸びる柏の一種なんだって」
「ふむ、柏か。水の少ない土地にも案外しぶとく伸びる、フィガロの人々が好む植物だ」
「これね、ほっとくと本当にすぐに伸びるんだって――」
 下草や低木がいれば、その姿を覆い隠してしまうほどに、繁茂するのだと。その相手を、大切に内部に抱え込んで、暖めて、隠してしまうほどに、青青と伸びるのだと。
 その事実は、いえない。なぜだか。
 エドガーは椅子から立ち上がって、リルムのそばに近づいて来、ソファに腰を下ろした。侍従はいつの間にか出ていったらしい。
 ストーブの音が、静かにこうこうと鳴り続けているのが耳に届いた。
「休憩用にココアでもいれるかい? 絵師殿」
「んー……別にいいかな、すぐできるし」
 言いながら、リルムは見る間に、仕上げの筆を走らせていく。
「でもちょっとだけ、おなかへったかもね」
 顔をあげると、すい、とリルムは筆を宙でなぞった。
 ひとつめは何かの形をなぞって動いただけだったが、ふたつめに動いた筆先はパンケーキらしき像を浮かび上がらせた。縁のあたりがすこし、きらきら金色に光っている。みっつめの、おそらくお菓子は、形を得ることなくかすかな輪郭だけを光らせて、消えた。
 おや、という顔をして、国王は少し目を見開く。
「スケッチできるのはモンスターだけではないようだね」
「うん、……今は、これだけだよ。この世にあるものだけ」
 リルムはもういちど、筆をふってみせる。
「魔力をこめるんじゃなくて、『忌名』を呼ぶだけで、まだできるんだけど。モンスターを幻に描き出すのは、あの塔がなくなるのといっしょに、できなくなっちゃった。魔導の源がなくなって、モンスターがいなくなったから。……それに、これだって、きっともうすぐできなくなるよ」
 なにを描こうとしたのだろうか、はかなく光る線が数本、リルムの手元に描き出された。
「おじいちゃんは、リルムの血がそうさせるんだろうって言った。魔導とも少し違う、青魔法の力のある血が流れてるから、未だにこれができるんだって。でもこの血が共鳴する『力』はどんどん消えていってる。植物や動物が生命力を取り戻すにつれて、リルムの血が共鳴させられる部分がどんどん小さくなっているんだろうって。おじいちゃんが」
 少女は膝の上で、小さな手をぎゅっと握りしめた。
「リルム、描けるのかな。この血に流れる力がなくなっても、リルムの絵が描けるのかな」
 ストーブの音が、沈黙の中、静かに響いた。
「うん――」
 うつむいていたリルムは頭に温かい重みを感じ、視線だけを向ける。エドガーは大きな手で、黙って彼女の頭をぽんぽんとなでていた。
 エドガーは膝に頬杖をつきながら、そっと、言葉を紡ぎだす。
「……俺の――俺たちの母はね。孤児だった」
「?」
 リルムが見上げると、彼は青い目の色をやや沈ませていた。
「その身以外なにひとつ持たないまま、国王の隣にやって来た女性だった。俺たちを生むとすぐに亡くなってしまったから、残したものは身体的特徴、つまり俺たちの髪と目の色だけだった。それにしたって父も同じだったから、厳密にいえば俺たちに流れている血の半分だけが、母の残したものだ」
 掌の広いおおきな手が、リルムの髪を、くしゃり、と握る。
「……それでもね。俺が、俺たちが、母の血を受け継いで生まれたことには変わらない。俺たちがいるということは、母が生きた証明でもある。そして同時に、今の俺たちが自分の積み重ねてきた上にある事実は変わらない。俺がこの仕事をまだこなしていることもマッシュが師匠の奥義を受け継いだことも、母からこの身体をもらったこととは別のことだ。そうだろう?」
「……うん」
 少女はようやく、顔をあげてにこりとした。
「リルムはリルムだ、ってことだね。リルムの描くものが、リルムの絵になるんだよね」
 よっしがんばる、と少女は拳を握った。えへへ、と笑って座りなおす。
「それにしてもさ、前王妃様が孤児だったって初めて知った。あんただって、政治とか関係ない人と結婚できるんじゃない、きっと。……教えてくれて、ありがとね」
「ああ、……そうだね」
 エドガーの手が、ぽん、とリルムの頭をもう一度なでて、離れた。
(……それでもいつか押しつけられる隣の座なら――せいぜい高く売るさ)
「……え?」
 ごく小さな独り言が耳に届いたような気がして、リルムはエドガーを見上げた。彼は窓の外を見ていたが、その横顔がひどく冷徹な視線を放っているように思えて、そっと呼んだ。
「色男?」
「ああ、新年の星が昇ったなあ――」
 青年はいつもの笑顔で少女を振り返ると、すいと立ち上がり、言った。
「新年の星? 何それ?」
「一番明るい、あの星だよ」
「ああ、……『天のおおかみ』ね」
「サマサではそう呼ぶのかい? フィガロでは、「新年の星」とも言う。新しい年が明けた時にちょうど、南の夜空の真ん中にあるからだ」
 リルムは巻紙を丸めると、ぴょんとソファから降りてエドガーに近づいた。
「ここだと本当に空の真ん中に見えるんだね、灯台みたい。サマサでは地平線ぎりぎりに見えるから、そういう特別な呼び方はなかったかな」
「バルコニーから見てみるかい?」
「そうだね」
 少女はガラス扉に手をかけて、薄目に開けた隙間をのぞき込んだかと思うとすぐに閉めてしまった。そして肩を震わせ、小さく叫ぶ。
「さむーい! 何これ、やっぱりほんとさむい!」
「ああ、ちょっと待ってくれたまえ」
 エドガーは戸棚を開けると、リルムにコートを渡す。次にグレーの重たげなフード付のマントをとりだし、頭からすっぽりとかぶった。「よし」と気合いを入れ、ガラス扉を押し開ける。
 きんと乾いた、いっさい音のない沙漠の夜空は、満天の星だった。
 バルコニーに両手をついて天を見上げた青年王の後ろ姿のシルエットは、舳先から大海原を見やる船長のようにも見える。それがどんどん大きくなっていくような錯覚をおぼえ、リルムは自分のコートをはおりながら、少し唇をかんだ。
 ふとエドガーは彼女を振り向くと、マントの片側だけを開けて、おいでおいでと小さく手招きしてみせた。
 リルムは後ろ手にガラス扉を閉め、えいやっとその中に飛び込んだ。もこもこ体の向きを変えると顔だけ出して、前を閉じる。マントの中で身じろぎした少女の後頭部が、やわらかく青年の鳩尾のあたりに当たった。
 空のすべてを見渡せる沙漠の真ん中の城壁から見ても、月はまだ昇っていない。そのため、「新年の星」はひときわ眩しく輝いて、国中の瓦斯灯を一カ所に集めたようだった。おそらく数十年、あるいは十数年後、どの家にも電灯がともるようになるまでは、その星はこの国の夜の中で、最も明るく輝き続けるのだろう。
 じっと動かずにいるマントの中は、ほんの少しづつ暖かみを増していった。
 青年と少女は、しばらく無言で夜を見上げながら、白い息を吐いていた。
「……ねえ、」
「ん?」
「寒く、ないの?」
「――俺はずっと、ここで育ったから」
「……そう」
「こうして見ているとね。……星空の真ん中に浮かんでいるような気持ちになる。独りで。頭がよく冷えて、寒さを忘れる」
 頭の上から聞こえる静かな声に、空の向こうにある何かをいとおしむような気配を感じて、リルムはエドガーを見上げた。けれど30センチの身長差は絶対的な壁となって、彼の表情は読み取れない。  思わず、灰色のマントをぎゅうと握りしめた。その持ち主の精神を、地上にとどめ置こうとでもするように。
「……あのさ」
 少女はふいとマントから抜け出すと、正面から青年を見上げ、コートの内側から取り出した先ほどの巻紙を、両手で差し出した。
「これは、あんたのお守りになるよ」
 国王は、笑顔を少女に向け、それを受け取る。
「ああ、ありがとう。俺のためにいい意匠を描いてくれた小さなレディ、必ず君の才能と愛らしさを守ることを誓おう――」
「そうじゃない。そうじゃないよ」
 少女はまっすぐに青年に向けて、言った。

「エドガー」

 呼び声は、かすかに震えた。
 凍りついた大気が頬に突き刺さる。音がない。呼気が白い。

「――あたしが守るの。あたしが、あんたを守るんだよ」

 空一面の星々だけが、静かに皓々と照り輝く。
 少しの間、二人は見つめあっていたように思えた。世界から音が消えて数瞬の後、ふいに少女は身を翻し、室内に向かって駆けていった。ガラス扉に手をかけて振り向き、小さくにっと笑う。
「……リル――」
 ようやく彼女を呼ぼうとした青年に向けて、こんどはイーッとしてみせると、音を立てて扉を閉めてしまった。

 再度、エドガーはほんの一瞬自失し、ようやく我に返った。
 片手で握りしめていた巻紙を持ち上げ、広げてみようとして――止めた。
「はは……」
 国王は額に手を当てて小さく笑った。
「はは。ははは、……」
 エドガーは小さく肩を震わせ続けた。鏡をのぞけばもしかしたら、泣き笑いのような顔をしていたのかもしれなかった。
 だが、それを見ている者は誰もいない。
 ただ、青くまばゆく輝く星が、空のてっぺんから彼を照らしていた。



<1月1日 18:00>

 わあ、と人々がどよめく。
 サウスフィガロの街壁の上に、国王が姿を現したのだ。
 同時に、篝火がいくつも掲げられた。闇に包まれ始めていた街は、沙漠が生み出す熱に似た、炎の明るさで黄色く照らされる。そこかしこで、万歳、万歳と声があがった。
 国王はちょっと手を挙げて歓声に応えると、祝辞の巻物をとりだした。
 さらさらと、音を立ててそれは広げられていった。
 そのとき、群衆は見た。エドガーは見た。
 人波に混じっていた、国王のかつての旅仲間たちは見た。カイエンは目を細めた。ガウは手を伸ばし、とびはねた。ティナはふわりと微笑むとモグの柔らかい毛並みを撫で、その後ろでセッツァーが片頬だけをにやっとつり上げた。ロックとセリスは空を仰ぎ見ると顔を見合わせて笑い、強く互いの手を握った。マッシュはしばし、じっと兄の姿を見上げると、静かに眼を閉じた。
 リルムも笑顔でストラゴスを振り返り、空を見上げた。
 再度、歓声があがった。

 巻紙の縁に描かれていた一粒の種が芽吹き、伸びていく。
 樹は育ち、枝を広げ、空一面を覆うほどの緑のカーテンとなり、
 そしてその大樹の梢を揺らした風が、黄金の雨を降らせる。
 ざあ、と響いた水の音は、夢だったのか現だったのか。

 興奮にざわめく人々に向かって、朗々と声が発せられた。
「フィガロ全国民に、国王たる私、エドガー・フィガロは新年の祝辞を宣ずる。諸君らの一年の幸運と健康を祈るとともに、我が国のさらなる発展をここに約す――」

 群衆の声が、静かに引いていく。
 国王は顔を上げると、人波の一点をみつめた。
 ほんの少しの間をおいて、彼は小さくにこりと笑みをこぼした。

「先の新年は曇り空で迎えた。覚えているだろう、地は乾ききり、少ない水も濁っていた。だが今、諸君も見たとおり緑はよみがえった、我々を脅かすものはもはや何もないからだ。木々が大きく枝を広げ、黄金の雨を降らせるからだ。見よ、新年の星が昇る。かれは我が国の、今年の平穏を見守るだろう。いや……」
 エドガーは言葉を切り、ゆっくりと手を持ち上げていった。
 群衆の視線も、一斉に国王の指先を追って動いていく。
 王はまっすぐ地平線を見る。そこを、さし示す。
 そして静かに、決然と述べた。

「――ただ、君を、守るだろう」

 砂原と夜の境目から大きな星が現れる。
 青く眩しく輝きはじめたそれは、今まで見た中で一番、鮮やかに思えた。
 そして、5年後には画家として名を馳せることになる少女が描き出した幻は、この日サウスフィガロに現れた大樹が最後となった。

(2012.2)