別館「滄ノ蒼」

痩紅

 

 触れてくれるのは、彼だけだった。
 髪を梳いてくれるのは、頬をなでてくれるのは、手をつないでくれるのは、彼だけだった。
 祖父とも伯父とも頼む博士は、頭を撫でてくれることはあったけれども、なぜかいつもすっと目をそらして手を離してしまうのが常だったから、いつも彼女は研究所の屋上まで駆けていって、彼が常に休憩時間になると腰かけている配管の上にうずくまった。重く赤っぽいベクタの空をしばらく眺めていると、後ろから影がさすのに気づく。そして彼が、線の細い指先で髪をすいてくれるのだ。
 彼は寡黙なほうであったし、彼女自身もおしゃべりな少女ではなかったから、二人は並んで鉄色の町並みをじっと見下ろしていることが多かった。時折、少女はぽつぽつと、剣の稽古が苦しい話やシド博士の話や温室の薔薇の苗の話をし、彼は白衣のポケットに手を突っこんだ姿勢でそれを聞いた。そして最後にいつも彼は、少女の白い頬をなでてにこりと笑い、彼女と手をつないで事務室に降りていったものだった。

 十年ほどが経った頃には、すでに彼女はその青年に触れられる機会を失って久しかった。
 髪や頬をなでられるどころか、ごてごてと紅でいろどられ血の気を失った彼の手や、素顔を白粉で塗りつぶした彼の姿は、見ることさえ厭わしかった。彼の声も、足音も、けだるい嫌悪感と警戒心を呼び起こし、早々に踵を返させるものでしかなくなっていた。
 もはや、少女に触れるひとはいなかった。
 帝国城にいる人間の誰もが彼女を上目づかいで窺い、手をつなごうなどとする者はなかった。

 ――だから。

 ずっと、やさしく触れてくれる人が欲しくってたまらなかったのだろう。



          *



 窓の外は雨だった。
 世界中から瓦礫が集まって積み上がったのだという塔が、はるか向こうに煙っている。
(あれは、いつまで……あそこにあるんだろう)
 この世には、本来はありえないものの圧倒的な存在感が、今の世界の中心として君臨している。
 ガラスに額をよせて、それを見つめる。窓に触れようと持ち上げた左手は結露で冷たく湿り、セリスは思わず指先をガラスから離して手を握った。小さく吐いた息が、視界をまるく曇らせる。
「……おっ、いけそういけそう」
 機嫌よくつぶやく声とともに、背後でぱちぱちと火が燃え上がる音が聞こえはじめ、セリスは振り返った。
ロックがストーブをのぞきこみながら手を払っている。
「おーっし、火、ついたぜ」
「ありがとう、助かった。……やだな、私。薪に火もつけられないなんて」
「あー、気にしない気にしない。こんな天気じゃ湿っちゃってて当たり前だって」
 ロックはいたずらっぽく片目をつぶって、保管庫の湿度を気にしないセッツァーが悪いよなぁ、飛空艇ってすみからすみまで気を使わなきゃいけないとか言ってた割にさ、と、この艇の持ち主をこきおろす。そのままストーブの前に腰をおろし、ぽんぽんと傍らの床を叩いた。小さくくすくす笑いをしているセリスを呼んでいるらしい。
 最近になってようやく覚えた素直さで、セリスはロックの隣に座った。
 ほんのすこしの間迷って、肩を彼にもたせかけることにする。ロックは彼女の肩を抱いてくれ、セリスの体は気持ちのいい体温に包まれた。
「……外、寒かったわね」
「……ああ。お前、まだ冷たいよな指先とか」
「……大丈夫。すぐに温かくなるわ、ロックこそ寒くない?」
「……全然、さっき着替えてきたし」
 膝の上で、ロックの手がセリスの指先を包む。髪がなでられ、こそばゆくてセリスは目をつむった。ストーブの火が顔を照らし、その熱はちりちりと、彼女の頬を暖かそうに見せているだろう。二人の体温がなじみあって、炎から遠い側の肩先も、ほろほろとほぐれていった。
 額と額をくっつける。このまま眠ってしまいたいような心地よさ。夢うつつのまま、唇をふれるだけのキスをした。指先をからめる。包みあう。ストーブの火は、こうこうと燃えている。

 ふいに、ひどく冷たく湿った風が吹きぬけて、セリスの体から暖かさをふきとばした。

 思わず窓の方を見た。開いていただろうか、と一瞬思ったが、小さな円形のはめ殺し窓が開いているはずもない。外はあいかわらず、雨。いつもと変わらない、どんよりとした赤灰の空の色だけがある。
 ――そのはるか下には。
 そう思い、ふわふわと温かかったセリスの気持の底に、こつんと憂鬱な澱のようなものが沈んだ。
 今も、それはあるはずだ。小さな窓からは見えていないけれど。
 薄汚れた雨が降るたびに高さを増すような、「彼」の君臨する、その塔があるはずだ。それが自分を見ている。
 ……先ほどまであまりに凝視していたから、寒けがまだ残っていたのだ。そう思うことにして、首元を数度さすった。
「どした?」
「――何でもない。……まだ、ちょっと寒いかも」
 セリスは立ち上がり、カーテンがわりに吊るされた小さな布を引いた。
(……ロックは、)
 全く、何も思わなかったらしい。だから自分の気のせいだ、部屋はこんなに暖かいのに。
「お前、風邪ひいてるんじゃないよな? 大丈夫?」
 心配そうにまたたく茶色の目を振り返って、セリスは笑顔をつくってみせた。
「寒いっていうか……カーテンが開いてるのが、ちょっと恥ずかしいというか。誰もいないってわかってるけど」
「もー。なに可愛いこと言ってんの」
 ロックはセリスに手をのばして引きよせ、両腕の中に閉じ込めた。 
  温かい。
 再び、ほわほわの毛布の中にいるような心地よさに首までつかる。自分に触れている二本の腕に、全ての感覚をゆだねる。指先で、ロックの髪に触れた。さらりとやわらかい感触。
 目を細く開けると、火の色を映した空気がにじんで、揺れた。 

 ――視界の端、うす暗い部屋の隅を、ずるり、と赤い塊が這った。

 はっと目を向ける。
 体に赤い布を巻きつけた痩せた子供が、四つん這いでうごめいていた。
 その顔はわからない。手首にも足の裏にも血の気はない。ただ、白金色の髪が床まで垂れさがっていた。尖った爪がちらりと見えて、鮮やかに赤く塗られているのがわかる。
 肩がびくりと震えた。
「どうしたの?」
「……なんでもない。なんでもないわ、私の気のせい――」
「気のせい? 何が?」
 唇がふさがれた。
 しばらく夢中で食みあった。ちゅ、と軽い音を立てて体を離したときには、視界のどこにも赤く動くモノはなくなっている。少しほっとして、セリスはロックに体を預けた。背中に腕を回して抱きしめあう。
「……温かい」
「うん。俺も」
「あのね」
 ストーブの熱が、頬を熱くする。とりとめのない思い出話が、セリスの口をついた。
「私の小さい頃から、ベクタはね……いつもすこし、ひんやりしてた。なのにいつも湿ってた。雨が降りそうで降らない、くもりの日ばっかりだった。それが普通だと思ってた。温かい部屋って帝国を出て初めて知ったの」
「そうなんだ」
「だからサウスフィガロに遠征した時、驚いたのよ。暖かくて、雨が降ってもすぐに晴れて、風で目が乾いて」
「うん」
「ナルシェに行って、もっと驚いた。痛いくらい寒いし雪なんて初めて見たし、足をとられて歩けないし」
「あー、あそこはなあ。トレジャーハントでちょっと寄るにも装備の準備が大変なんだよな」
「……初めて、遠征以外であちこち旅をして。沙漠に島に、雨の止まない町も行ったわね」
「そうだな」
 そして、今は。
「また、……ベクタのそばに戻ってきたのよね。なんか、変な感じ」
「……セリスってさ、やっぱりベクタが故郷なんだよな」
「え?」
「いや、あんまりいい思い出なんかないのかなと思うけど。物心ついた時からいたんなら、いちばん馴染む場所なのかなと思って」
「そうね……、どうなのかしら。……みんな、なくなっちゃったから」
「そっか。もう今は、……あれしかないんだよな」
 ロックは、布のむこうに見えるであろう背の高い造形物を見やるような目をした。
 セリスが育った、魁偉な鉄と石の城、いびつな最先端の研究を生んだ研究所、そして、世界最大の人口を擁した帝国首都。そこを訪れたのは数えるほどで、しかもほぼ先を急ぐ戦いの途中だったから、ロックはベクタといえば赤い鉄骨がごみごみと入り乱れた、鋭角の、表層的な印象しか覚えていない。世界が崩壊し、それらはつるりとなくなって、残骸を見ようと思えばあの塔の中から掘り出すしかなくなった。
 いろいろな人や場所のかけらを積み上げたその頂上に、人間が受け止めきれるはずのない力をたったひとりで握りしめ、弄んでいる人物がいる。当面のところ自分たちは彼を倒し、人の世に収まるわけのない「魔導」を消す、それを目指して進んでいるわけだが、最終目的であるところのケフカ自身について、艇内で最も詳しく知っているはずのセリスはほとんど口に出さなかった。
 ロックの左手は彼女の右手を包んでいる。
 大きくてしっかりした、けれど器用そうなてのひらで、爪はごく短くまるく、熱いほどに温かい指先。
 セリスはその手にもう片方の手を重ねて、
 ――「彼」の手とは全く違う、
 と、思った。

 細くて血管が浮いている手だった。
 いつもひんやり乾いている手だった。
 薄くてもろそうな爪がすこし伸びていて、セリスの髪や頬をなでるとかすかにひっかかる手だった。

 もしも今の彼が、紅も白粉もすべて落とした姿でセリスに近づき、手を差し出したとしても、彼女は決して触れ返そうとはしないだろう。ただ厭わしく忌わしく、――そして、見たくない、その姿を。
「……いてて、」
 セリスははっとして、知らず握りしめていたロックの手を離した。爪を食いこませてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい」
「や、平気平気」
 ふるふると手首をふっていたロックは、悪戯をする目になると、「乱暴な子に仕返しな」と言ってセリスの左手を強くつかまえて引きよせ、柔らかな下唇に噛みついた。
「んっ……」
 唇の端を舌が這い、するり、一瞬だけ前歯の間に入り込んだ。もっと、と言いたげに薄く開けられた唇から顔を離し、ロックはセリスの白い耳朶に軽く口づけて、白金色の髪に顔を埋めた。息の熱さを首すじに感じ、セリスの背中はびくりと伸びる。
「あ」
 力が抜けそうになるのをこらえ、彼の胸にしがみついた。この暖かさを失うことなど考えることもできなくなった、平らかなその温度。
 ぱち、とストーブの中で薪の爆ぜる音がした。
 薄く眼を開ける。暖かな空気が瞳まで侵入してきて、眼球を温めはじめる。暖色の光の色がにじむ。なのに部屋の隅は薄暗い、ストーブの光も熱も届かない。どこか寒々しさが残っている。
 そして天井には、

 四つん這いの痩せた子供がしがみつき、さかさ向きの顔をのけぞらせてセリスを見おろしていた。

 その顔には眼も鼻も口もなく、ただ真っ赤な――道化のような隈取りだけが笑う形に描かれていた。
 でこぼこに背骨のういた背中と腰には紅い布が巻きつけられ、端が垂れ下がって揺れている。
 セリスの背はなでられ、鎖骨のあたりに温度の高い唇がおとされた。音を立てて吸われる。子供の白金色の髪は、ふわりと揺れる。肉のそげ落ちた腕とひざを天井板にずらせながら、にじにじと移動していく。
「……いや……!」
「駄目。やめない」
 少し眉をあげてセリスの目をのぞきこんだロックは、無邪気なほどまっすぐに歯を見せて笑い、再度、甘く唇をふさいだ。

 派手な紅い布を細い体にぐるぐる巻きつけた子供が部屋のすみに丸くなって、描かれただけの口を開けてひきつったように笑っている。そんな気がした。
 セリスはその声が聞こえないように、部屋の向こう側を見ないように、ロックの背に腕をまわし、力を込めて目を閉じた。

(2011.5)