(…あーちきしょう、間に合わねぇ)
青年は森の中を走っていた。ただひたすら走っていた。まれに旅人が抜けていくだけの、路とは言えないけもの道を、必死で走っていた。やわらかな土やにゅうと地面に伸びた蔓に、足をとられる。
さっきまで厚い緑の葉の間から強く強く射しこんでいた夕焼けの光は、その勢いを弱め、かわりにむっとした宵闇の中で木々が呼吸を始めるような、夏の夜の匂いが空気に混じりはじめている。この森は深く、目指す小さな村の小さな窓の中で待っているであろう小柄な少女は、まだまだ遠い。
体が熱く、息は荒くて胸がしめ上げられる。少し速度をゆるめると、脇腹に痛みが走る。思わずそこをおさえようとしたが、背負った荷物に腕の動きを阻まれた。
青年の耳に、レイチェルのおだやかな声がよみがえる。
―ねえロック、ぜったい1ヶ月後の、この日に帰ってくるのよね?いつも約束の日より遅れるんだから、今度は必ずよ?
ロックは、もちろんさ、と目で笑って、大きくうなずいたものだ。
―ああ、絶対だ。でっかいお宝と俺の冒険談、待ってろよな。
その細い指に小指をからめ、約束したのに―そのやわらかな髪をなで、笑いあったのだけれど、情けないことにどうやら、その約束の夕方には間に合わなさそうだった。
理由は、ふたつある。
ひとつ。今回冒険していた岩山から出てくるとき、珍しくトラップにはまって手間取った。
ひとつ。レイチェルを驚かせようと、洞窟に首飾りを隠すなんぞという凝ったことをしていて時間がかかった。
―ねえロック、今回の冒険はどんな町に行ったの?どんな景色を見てきたの?私も一緒に見てみたいわ、いつか必ず…
大陸のごく端にあって、ジドールの様子など旅の商人くらいからしか伝わってこない―コーリンゲンはそんな田舎の小さな村だ。夜は早く、朝も早い。早く着かないことには、レイチェルだってさっさと眠ってしまう。彼女のことなら、いつものように窓をたたけばすぐに開け、笑いかけてくれるだろうが。きっと今頃は、先日土産にあげた花の苗を手入れでもしているのだろう。
レイチェルのことだから、それはもうあやういほどの熱心さで、じっと茎を見つめているはずだ。
走ったり歩いたりしながら、ロックは先を急いだ。
荷物を背負いなおし、その大事な中身ごと抱えなおし―た瞬間。
頭上に影がさした。何か降ってきたかと思う間もなく、強く押された感触にたたらを踏む。
急に背が軽くなった。
「あっ…このやろ!」
小さな動物が盗賊顔負けのすばやさで荷をかすめ取り、森の奥へとはね跳んでいった。
小猿のようにも見えた。だがもっと優美な動物だ。やたらと逃げ足は速い。なにせ枝を軽々と飛び越えている。っていうか呑気にそんなこと考えてないで走れ俺!
脇腹の痛みも忘れて、ロックはそいつを追った。下草を飛び越え、頭を低めて枝を避けながら幹をまわりこむ。やや湿った、ひやりとした空気が鼻をついた。耳元で葉ずれが、ざわざわ鳴った。
気づけば、小さな湖のほとりに着いていた。
鬱蒼とした森がそこだけ切れて、薄い藍が濃い金色をどんどん西方に追いやりつつある空が、まっすぐ上に円く浮かんでいた。
水際には一匹、ほっそりとした小さな動物がいる。そいつの名前は咄嗟にでてこない。ロックの荷を地面にぶちまけて、鼻先をつっこんでいる。顔をあげた。
―じっとこちらを見ている。青年はそんな気がした。
それはおそらく、時間にすればほんの数秒のことだったのだろう。何もかもの体内で時計が針を止めたような、緊張とも逡巡ともいえない、ぽっかりとなにもない時と空間。
ロックは我にかえり、そいつに近づこうと足に力を込めた。
動物が、逃げる態勢に身構えようとしたのは、はっきりと見えた。
突然、さああ、と涼しい音が立って、一面の深緑に染まった雨が、ほんのひと時だけ彼の視界を奪った。
…目を開けた時にはもう、小さな動物はそこにはいなかった。
彼の背にあった荷物はすっかりあたりにぶちまけられて、レイチェルへの土産にするつもりだったそれも、あちこち喰いあらされてしまっていた。
落胆の息をつき、青年は荷をできる限りもとに戻し、背負いなおす。じっとりと水気をふくんだそれらを並べて乾かすのが、今夜腰をおちつけて最初の仕事になるだろう。ぬるい雨は、粒々とした刺激をまだかすかに頬に落とし続けている。
…今回は土産なし、か。悔しいなあ。
ロックはやや重くなった荷物と足をひいて、再び森に入った。
獣道ともいえない茂みをよけて歩いていく。むっとした、葉と土と、やみはじめた雨の匂い。差しかわした枝が額の横あたりにぶつかり、布の引っ張られる感触がした。ひっかかったバンダナを枝からはずし、また歩きはじめる。日はすっかり沈んで、視界は暗い。
今日はしかたない、土産話と自分の無事な顔だけで、レイチェルには堪忍してもらおう。
―そうだ、と、ロックは不意に顔をあげた。口の端がいたずらっぽく上がっていく。
もうすぐレイチェルの誕生日だと思いいたって、先ほどの洞窟に寄ったのだ。
あそこに連れて行ってやる話をしよう。古い吊橋があって、その奥にはすごいお宝が隠されているんだ―と教えてあげよう。
そうしたらきっと、彼女はぱっと顔を輝かせて、窓から身を乗り出すだろう。手をのばして、この髪をちょっと梳いてくれるだろう。そして自分のほうをじっとみつめて笑ってくれるにちがいない。彼女によく似あう、夏に咲く小さな白い花のように。
青年はまた元気を取り戻した。だんだん歩みを速めていき、とうとう再び全力で走りだす。今度はあくまでも軽やかに、藪も蔓もとびこえていく。頭を低めて枝を避けながら幹をまわりこむと、木々の間からはるか向こうに、ちいさな村の明かりが見えた。
この森から出て百歩ほど野原を横切った先に、彼の目指す少女が待つ、いつもの大きな窓があるのだ。
レイチェルがいつものように窓を開けてくれたら、まず最初になんと言おうか。
きっと彼女は、まず「お帰りなさい」と言って手をのばし、髪をなでてくれるだろう。それから以前、ロックが土産にあげた花の苗を、どれだけ育ったか見せてくれるだろう。
あの小さな手に触れたい。声が聞きたい。髪をなでたい。
触れられたい。抱きしめたい。
(なあ、レイチェル…あの窓から抜け出して、俺の隣に飛び降りてきてくれたらいいのに)
お前はいつも窓辺にすわって、森なんかの方をじっと見ているから。
他の村や町や草原を見てみたいと言って、時々遠い目をするから。
こっちに来ればいい。俺はちゃんとお前の手、支えるからさ。
―早く会いたい。
ロックは枝に手をかけ、勢いをつけると身軽に野原に飛び出す。
風が吹いて、ざざあ、と枝にたまった雨滴を降らせていった。
すっかり晴れた空には月がかかり、抜けてきたばかりの森から運ばれてくる緑くさい湿り気が、コーリンゲンへの道をみたしている。