別館「滄ノ蒼」

旧事に向けて撃て


 「アサインメンツ」が事実上崩壊したはずだというのに、スワディスターナには未だに残兵がいて、散発的に抵抗を続けるのだという。
 おまけに、通常ならばサハスララの方角からふらふらと『湧いて』出てくるはずのニュービーが、いつの間にか数人程度の集団で、スワディスターナの内部で発見されることが相次いでいるのだそうだ。もしもかれらを敗残兵が発見すれば、麾下に引き入れて、一緒になってエンブリオンの哨戒兵を襲ったりする。
 正常な事態ではない、イレギュラーだ、今まで蓄積されたデータのどこにも類似の記述がない、とサーフの参謀は言った。
 エンブリオンの構成員は、アサインメンツのうちのいくらかを吸収したとはいえ、大して増えたわけではない。言うまでもなく、アサインメンツの構成員たちがアートマの覚醒の影響を受け、互いに食らい合ったり殺されたりした人数の痛手が大きい。あの『ツボミ』が落ちてくる前のように、教会の『掟』が遵守されている状態であれば、ハーリーQが倒れた時点で、無傷の兵を大量に編入できたはずなのである。
 なので、エンブリオンの参謀役は掃討作戦を提案したのだった。
「大したものではない。連中を拘束あるいは究追し、こちらへの編入を促すだけだ。兵士20名程度を連れて行けば十分だろう」
 というのが、作戦規模の見立てである。
 対して、「俺がやる」と真っ先に手をあげたのは言うまでもなくヒートだった。どうやら、先日のスワディスターナ制圧では暴れたりなかったらしい。常に先鋒を務め、真っ先に敵に突っ込んでいっていたはずだが。
 頭から敵の血しぶきを浴びては笑っていた彼の姿を、サーフは思い浮かべた。荒れ狂うというよりも踊るように飛び跳ね、転がり、叩きつける双頭の悪魔、あるいは燃え上がる火の神。周りを焼き尽くさねば『ならない』、それが彼の業だ。
「負け犬の残兵ごときじゃ喰い足りねぇかもしれんがな、もう少し暴れさせてもらうぞ」
「抵抗する兵はともかく、ニュービーは無駄に殺すな。アートマすら使えん連中だぞ」
「俺たちに従わないなら殺す。当たり前だ」
「拘束と説得が目的だと言っている」
 ゲイルは眉間を押さえながら、「この戦闘志向は過剰表出と思われる。理解不能だ」と言った。
「……この鉄面皮野郎」
 ヒートが噛みつきそうな顔になった。サーフはさりげなく身体をずらし、彼の視線からゲイルを遮る。どうどうといなしながら、素早く思考をめぐらせた。
「じゃあ、こうしよう。俺は掃討作戦の近くのエリアを巡視して回る」
「……監視役のつもりか? 余計なお世話だっつうんだよ」
「ボス、それはお前が行うまでもないことだ。いらぬ所に戦闘が飛び火しないようにするだけなら、俺の場所からでも把握できる」
 二組の視線が、同時に抗議の色を帯びて反対の方角から飛んでくる。その両方を「まあまあ」と目顔で押さえ、意見を付け加える。
「俺が行くのは、あくまでも『巡視』だ。……実はあの拠点だが、少し構造を把握しきれていない箇所があるんだ。ちょうど、今ゲイルが提案した作戦の場所が近いようだからな。もし何かあれば互いに援護に回れる距離だ、スワディスターナの完全な掌握のため、掃討作戦と同時にやっておこうかと思う」
 それを聞いたゲイルは黙し、少しの間考えこむ。すぐに彼の頭脳はシミュレートを終え、「了解した」と応えを返した。
「7名程度の兵士を護衛に連れていくべきと考える。哨戒部隊から3名、防衛部隊から4名を選抜しておこう」
「頼む。……ヒートは掃討部隊の人員を編成しておけ」
「……わーった」
「派手な戦闘をしてあちこち壊したら、こちらから見物に行くからな」
「……ちっ」
「ついでに応援の旗を掲げて、鳴り物でも鳴らしてやるさ」
「いらねえって。なんだよ応援の旗って」
 ヒートは息を吐いて肩から力を抜くと、ふいにサーフをじっと見て、「お前な、」と言いかけて口をつぐんだ。
「じゃあ、3時間後に目的地へ出発だ。準備を」
「「了解」」
 話をまとめたサーフに、ヒートは軽く手を挙げて応え、ゲイルは軽く頷きを返して、それぞれの踵を返した。
 
 作戦室から出たところで、サーフはヒートに行き会った。
「お前なあ……」
「どうした?」
 ヒートはがっちりした腕を組んで立っていた。片手の指先が、軽く反対の腕をとんとんと叩いている。『ファイアボール』の印。くろぐろと牙をむいた、彼の業だ。
「さっきの話なんだが。……本当は、あわよくば俺たちの戦闘に混ざりたいとか思ってるんじゃねぇか? お前」
 ふっと口元を緩ませるだけでサーフは笑い、思い切りヒートの尻を蹴り上げた。
「痛ってえ! 何しやがる」
「頼りにしてるぞ、作戦隊長」
「邪魔するんじゃねぇぞ。後ろから高見の見物をしてるんだな」
 ヒートもサーフの尻を蹴り上げる。銀髪の男は「痛い」と笑い、二人は並んで歩き去った。



        §



 薄ぼんやりした緑色の照明が、廊下の隅を照らしている。
 スワディスターナを掌握したとはいえ、元対立トライブの拠点の照明の色をいちいち変えて回るほど、エンブリオンは暇も物資も有り余っているわけではない。元の設備は、ほぼそのままだ。トラップや時限爆弾のたぐいが仕掛けられていないか、あるいはシステム等を統合してもセキュリティに問題がないかを確認しただけである。
 工兵部隊が作った図面を目の前の通路と照合させながら、サーフの一隊は進んでいた。
 ときおり新たな情報を書き加えつつ、回廊を進む。サーフの背を守る兵士たちは油断なく側方と後方に銃口を向けながら、素早く角を曲がった。
 ――と、空間が開ける。同時にやや明るく、見通しが良くなった。
「……ここだな。時間もぴったりだ」
 サーフは独りごちる。すいと流れた銀の視線を、周りの兵士たちも追いかけた。

 回廊の斜め下、階数で言えば2階下。通路の先であろう方角から、ばたばたと音が響いてきた。
 ちょうどそこに、ヒートたちの部隊がいるのだろう。首尾よくニュービーたちを捕捉し、従わぬ者たちと戦闘に入ったらしい。
 サーフは通路の角に飾られたオブジェを調べるよう指示を出しながら、軽く唇の端を持ち上げた。階下の足音の数と重さから、相手方の人数を推測するのは身についた習性だ。4、5、……7か。重装備の様子はない。タタタ、タタタ、と散発的に銃声が響く。エンブリオンの銃の音も、それに応じるように、タタン、タタン、と発せられていた。
 ヒートたちはどうやら多少手加減して、悪魔に変じずに戦っているらしい。もしかしたら、捕捉した相手方はニュービーばかりで、悪魔に変じることのできる者がいなかったのかもしれない。だとすれば、アサインメンツの残兵はまだ他にいるということだ。ヒートたちは予想よりも、制圧に時間を食われるかもしれない。
 それでも彼らは、残兵を掃討して帰ってくるだろう、間違いなく。捕捉した敵の装備や身のこなしから正確に戦闘能力を感じ取る感覚の鋭さは、トライブの中でもヒートが随一である。ぐるりと彼らを見渡し、「なんだ、喰える奴はいねぇのか」などと舌打ちして銃を構えたのただろうな、とサーフは思った。
 不意に、階下のざわめきが移動した。
 叫び声、銃声。ばたばたとそろわない足音。走っている。いや、走って来る。追い立てられたニュービーたちが、ちょうどこちらの方角に転進しはじめたのだろう。
 サーフは護衛兵たちに、身を低くして様子を窺うよう指示しておいて、自分は素早く回廊の手すりの陰に隠れた。いつでも挟撃体制に移れる構えである。
 現れた。
 4、5、……7人。いかにもサハスララから出てきたばかり、という風情の軽装備の者たちが、各々の銃を構えたままあちこちを見回している。戸惑ったように目を細め、バイザーを直そうなどとしている者は、このなんとなく寄り集まった集団のリーダー格だろうか。しばし待ってみたが、どうやら自分と同じ平面上にしか注意を向けていないらしい。上の階層にいるサーフたちの視線には気づかなさそうだ。
 こちらが身を隠したまま狙い撃ちするのは簡単だ。だが、目的は彼らの殲滅ではない。自分たちは捕捉されているのだと、気づかせてやるほうが良いのだ。
 サーフはひとつ、息を吸った。はね起きると同時にハンドガンを操る。ニュービーたちの目前の床を、一直線に薙いだ。彼らが一斉に、あっと声をあげて狼狽えると同時に、更に跳びあがる。
 回廊の飾柱の上へ。
 一息の動作で、危なげなくまっすぐ立つ。2階分の落差をものともせずに。あたかも飾柱上の彫像のように。自らの姿を世界中に見せつけるかのように。そして。
 ――右往左往するものたちを、睥睨した。

 ざわり、とニュービーたちが揺れた。息を呑み、惹きつけられたかのようにサーフを注視する。
 あいつが。
 あいつがあいつがあいつが。
 あいつは。俺たちを潰そうとしているトライブの。
 リーダーではないのか。
 あいつを。
 あいつをあいつをあいつを、
 殺せば、
 もしかして、俺たちは、俺は、

 銃声。怒号。ガガガガガ、と耳障りな音を立てて、サーフの足元の柱を銃弾がかすめ、あさっての方向の壁がえぐられる。撃ち込まれる銃弾は、白皙の頬に赤い線を描きだしはしない。サーフは自分に向けられる銃口の、緻密さと射程距離を正確に把握していた。
 身を守るためのハンドガンすら持ち上げることもなく、銀色の視線が、すうと動く。ニュービーたちの後方だ。熱量の塊のような者が近づいてくる。音高く床を蹴る足音、オレンジのペイントの施されたマントが翻る。――赤。
 かれは歩を止め、視線をあげてサーフを認めると、怒声をあげた。
「お、っま……! 何してやがる!」
 歯を剥いてサーフを睨みつけたまま、ヒートは一番近くにいたニュービーを銃床で殴りつけた。昏倒する。其奴をまたいで次歩をすすめる。グレネードランチャーをぶっ放そうとした、その瞬間だった。
 バイザーのニュービーの周りが、ゆらりと歪んだ。
 否、空間など歪むわけはない。彼の姿は淡い光に包まれたのだ。
 続けて、隣の者が。そしてその隣の者が、次々と淡い光につつまれる。
 次の瞬間、黒々と瘴気をまとったな悪魔たちの姿が現れていた。
 陰々と燃え上がる炎の形。ゆらめく影の中に、顔のような物が、赤く燃える。
 モウリョウが5体。――悪魔への変身能力を持ったニュービーの出現だった。
 
 兵士たちは息を呑み、後ずさる。がちゃがちゃと銃を構えなおそうとする。自らもアートマを持っている者たちのはずだが、とっさには変身しようと思い至らないらしい。
 その中にあって、茫然とするよりも前に行動を起こすことができるメンバーが居れば、状況への対応に先手を打つことができるものだ。エンブリオンにおいて、その役目は言うまでもなくヒートのものだった。
 唸り声が上がる。否、それは咆哮だった。
 変身の光が鋭く渦を巻く。次の瞬間、魁偉な双頭の赤が姿を現し、牙を鳴らした。半拍ののち、階上の手すりの上でも青白い光が閃き、ひと呼吸ののち、異形が骨刃を振り出した。その時にはもう、火神はモウリョウたちに向け、鉤爪に炎をまとわせている。
 『ヴァルナ』が跳ぶ。
 2階分の高所から、小さく鋭い氷塊がいくつも、モウリョウたちの足元をうがった。数体が避け、数体が氷塊を受けたのか、身もだえして後ずさった。音もなく水神は着地する。ふ、と息を吐くと、霧がモウリョウたちの視界を奪った。弱点である冷気を避けようというのか、彼らは防御効果の幻炎をまとう。そこへ、後方から熱風が吹き付けた。
 『アグニ』が長大な鉤爪で薙ぎ払ったのである。
 モウリョウたちは、ゆらゆらと滞空したまま大きくよろめいた。鉤爪を打ちこむ瞬間、『アグニ』はとっさに炎を消していたらしい。ギイ、ギイ、という濁った悲鳴が立ち、残った数体が反撃する。横に回り込んだ火神に向けてとびかかり、ある者は火の玉を投げつけた。肩をそびやかしすらして、赤と金の巨体は攻撃をはじき返す。それが途切れたかと見るや、身体をぐるりと反転させた。
 背中合わせになっていた悪魔が、――神が現れる。
 凍り付いた骨刃が、モウリョウたちを一息に刈り取った。
 ギ、と短い声があがった後には、白く霜のついた切り口だけが残った。悪魔たちは一斉に飛びかかり、貪りつく。びしゃ、ぐしゃ、と音を立てて黒い血しぶきが壁に飛び、喰い散らされた体液が床を汚した。
 

 埃が、収まっていく。
 見回してみれば、思ったよりも壁や床がえぐれたり、漆喰が剥がれて粉が舞ったりしている。案外激しい戦闘であったらしい。
 視界が人間のものに戻っていくのと同時に、兵士たちの姿が埃の中から現れてくる。その中でひときわ目立つ者がいる。他の兵士たちよりも頭半分ほど抜けているせいもあるが、何をおいてもその色だった。――赤。薄暗くて埃っぽいこの場所でも、容赦なく目を引く長身。
 彼はゆらりと振り向くと、ぎっと眉を跳ね上げる。ガシガシと音高く踵の音を鳴らしながら、勢いよくサーフに歩み寄ってきたかと思うと、思い切り襟をつかんだ。
 周囲の兵士たちがいっせいに、はっと息を呑む。空気がぴりっと強張った。平然としているのはサーフだけである。冷静な銀の視線の元に向かって、ヒートは怒鳴る形に口を開いて顔を近づけ、そして、……ふいに手の力を抜いた。
 はく、と、彼の薄い唇が開閉した。鋭かった赤の視線が下を向き、濃い睫毛の影になった。
 ゆっくりと、彼の手が離れていく。大きくて掌が厚く、平らに切り詰められた爪が節のめだつ長い指の先についている、そんな手だ。圧するような熱気。熱い手。一瞬ためらうように動きが止まり、するりと持ち主のもとへ引かれていった。
 数瞬、なんともいえない妙な沈黙が降りた。
「……次、行ってくる」
「頼んだ」
 ヒートは派手に口をへの字にすると、勢いよく回れ右をして、ガシガシと踵を鳴らしながら歩いて行った。
 サーフは軽く肩をすくめ、目を白黒させている護衛兵たちを振り返ると、「意外なところで手を取られたな」と言った。
「こちらも、調査に戻るぞ。元の階層に上がろう」
「あ、……こっちです、ボス」
「ああ」
 8人分の規則正しい足音が、階段の方へ足を向けた。
 うすぼんやりとした緑の照明が頼りなく不規則に点滅しながら、相変わらず廊下の端を照らしている。



       §


 
 レーションの味をどう感じていたのかなど、覚えていない。
 確かなのは、必要な栄養素であり、定期的に摂取しなければならないモノであると認識していたということだ。『食う』のは単なる体力回復行為。それ以上でもそれ以下でもなかった。
 ベンダーにタグリングを差し込み、戦績を読み込ませる。しかるのち、レーションのアイコンをタップすれば、鈍銀色のパウチが出てくるのだ。何でできているか判らぬ半固体のぼそぼそした塊が、その内容物である。
 いつもそれを口にするのは、柱の陰から敵の様子を窺いながらだったり、武器を着装しながらだったりした。いずれにしても、戦闘の合間に急いでかきこむものだったから、味など覚えていないのも無理はない。
 ……と、今なら思う。
 戦闘、戦闘、眠り、また戦う。永遠に続くかと思われる毎日だった。いくつ昼夜が入れ替わっても、鈍色の雨が止むことはなかった。鈍く光を反射する水溜まりを踏みつけ、戦闘服にしみ込むことのない雨を払い落とし、進む。戦い、戦い、眠り、また戦闘に入る。その繰り返しだった。どの記憶がいつのものなのかすら、胡乱に入り乱れている。

 帰還後、アジトの扉を開けたサーフが最初に顔を合わせたのはゲイルだった。いつも作戦会議室のモニタの前にいる彼が迎えに出てくるのは、珍しい。
「……、無事の帰還に感謝する、ボス。予想時刻より7804秒早い」
「戻ったぞ。ロストなし、物資の消耗のみだ。スワディスターナのデータを更新してくれ」
「了解した。あわせて、哨戒部隊の編成について変更案を作成しておこう」
「ヒートたちは?」
「戦績と地点情報が送られてきたところだ。まもなく帰還すると思われる」
「そうか」
 口をつぐむと、サーフは軽く腕を組んで参謀を見やった。
「そういえばさっき、俺の顔を見て少し妙な顔をしたな、ゲイル」
「どういう意味か」
「説教したいのを、飲み込んだのかと思った」
 いつもの無表情を全く動かすことなく、ゲイルは応える。
「お前の意図が理解不能だ、ボス」
「遠隔モニタリングしていたと思うが……、と言えばわかるか?」
「ああ、……?」
「さっきの戦闘参加の件だ。俺はわざとニュービーたちの前に顔を晒したからな。そのことについて、お前は説教するかと思ったんだ」
「お前が自ら前線に飛び出すのは、戦果を予想してのことだ。現在、戦果の実現率は100パーセントだ。故に、俺はお前に説教などする必要がない」
「そうか。……だろうな、知ってた」
 必要がない、などと言いながら、間接的に釘を刺してくる。それでも参謀の硝子玉の目は、色を宿しはしないのだ。……否、「釘を刺してくる」とサーフの方が勝手に感じ取っているのだろうか? どちらにしてもこいつは一番変わらないな、と思いながら、サーフはゲイルの肩を叩き、小さく笑った。
「……着替える。掃討部隊が帰着したら、知らせてくれ」

 防具を付け直し、携行品を補充したりなどしていると、ぴこぴこと通知音が鳴った。アジト出入口に通行があったという、守備兵からの伝令である。
 通常であれば、帰還した隊はまず、アジトのサーバにタグリングを接続してデータを同期する。ゲイルから通信が来るとすればその後のはずだった。それよりも先に通知が届いたということは、隊長のヒートが直接、サーフ宛に通知を送れと守備兵に言いつけたのだろう。
 ややあって、アジトの出入口のほうから通路がざわめく気配。それがゆるやかに近づいてきて、やがて扉がほとほとと叩かれた。
 相手が誰かを確かめることもなく、サーフは扉を開け、予想通りの長身を迎え入れた。
 とたんに、手首を掴まれる。次の瞬間には壁に肩を押しつけられていた。
 目をぱちりと見張って見上げると、赤い瞳が燃え上がっていた。
「……おいてめぇサーフ。言いたいことがある。わかってるな? さっきの戦闘のことだ」
「何だ? 知ってて行動したつもりだがな、自分でも」
「あのな! 『ボス』じゃなくてお前に言ってんだよ!」
 そこでサーフは察した。どうやらヒートは、兵士たちの手前、リーダーを怒鳴りつけるのを止めたのだったらしい。
 帰ってくるなり、挨拶も報告も着換えもなしにこの態度だ。まだ埃の匂いをまとっているし、自分を見下ろしてくる赤い瞳は見慣れた激しさだ。……ヒートは、期待していたほど思い切り暴れることができたのだろうか? 戦果は疑うまでもないが、目の前の問題に全力投球してしてしまう癖は変わらないようだ。いつものように、ひとしきり発散させてから意図をただしたほうがいいだろうか。
 
 ……などと思い巡らしていると、脳天に怒声を浴びせられた。
「――聞いてやがんのかサーフ!」
 サーフはかりかりとこめかみを掻きながら、応じた。
「……聞いてるさ。兵士の代わりはいる、リーダーの代わりはいない、だからわざと身を晒すような戦術は危険すぎる――だろう」
「甘いっつってんだよ、お前は……!」
 ヒートの手に、力がこもる。壁に押し付けられた肩に、さらに強く、コンクリートの感触。サーフはぱしりとその大きな手を跳ね上げ、襟首を掴みかえす。半瞬後、逆にサーフは身体を反転させ、ヒートの肩を壁に押し付けていた。防具がぶつかる音が、鈍くゴツリと言った。
 銀色の視線が、鋭く赤を見上げる。
「危険を危惧したのはわかる。……だが、聞いておくぞ、ヒート。俺の力では捌けない事態だと思ったのか? だとしたら、――舐めるな」
「そうじゃねえ! ……そういう事じゃ、ねえ」
 ……そうとも、とヒートは唸った。
「解ってんだよ。奴らの武器はたいした射程じゃなかったし、お前なら片手で抑えられる程度の腕だった。連中がいくら狙ったところで、銃弾の方がお前を避けるだろうよ。だがな、『解っている』のと『受け入れる』のは別だって言ってんだよ」
 ヒートはさらに言いつのる。
「嫌だって思ったんだよ。お前が誰かに組み敷かれる可能性に。頭が。――勝手に。お前の実力がわかってても、受け入れられねえ」
「……状況判断に優れていると思ってたんだがな、感覚が鈍ったか? 『飢え』にでも引きずられて」
 てめえ、と、ヒートの唇が動いた。サーフの襟首に手を伸ばそうとして、ためらったように、急にその動きは鈍った。
 大きな手が、頬に触れる。『ウォータークラウン』の刻まれた、なめらかな頬に。
 そっと、そうっと、ひどくぎこちなく、体温の存在を確かめるかのように、押し当てた。
「……俺の知らないところで、勝手にいなくなろうとするな。……許さねえ」
 熱い熱い、手だった。

 それは不意だった。
 ぞわ、と、大きな虫のようなものがサーフの背骨をたどったような感覚がした。
 知らず、ヒートの手先の温度に神経が集中した。視線が絡んだ。赤い目がサーフを睨みつけている。その色を見つめると、ぞく、とまた虫が腹の底を這った気がした。
 ごくりと喉が鳴る。
 どうにも身体の奥が気持ち悪い。落ち着かないのに、目を離したら締め上げられそうだと感じるのに、離れようとも振り払いたいとも思わないのが不思議だった。
 ――この赤に、触れてみたい。
 ――舐めたらきっと、『甘い』のだ。
 ――『甘い』とは『旨い』の意である。
 同時に脳髄に、知識が割り込んでくる。『甘い』も『旨い』も知らない言葉だったのに、それはアートマを身に受けてから知った血の味と同じものだと、『解って』いた。
 それがひどく不安をあおった。
 気持ちが悪い。落ち着かない。名も知らぬ大きな虫が背中に張り付きでもしたような。
 サーフはヒートと睨み合う。真正面から。
 一瞬、そんな知らぬ感覚を与えてくるヒートが、知らない男のように見えた気がした。

「……データを、」
 サーフは意志の力で視線をヒートから引き剥がすと、低くつぶやいた。
「データを同期してこい。……お前の持っている分が、必要だ」

 靴音が廊下を遠ざかっていくのを聞きながら、サーフは知らず、片手でもう一方の二の腕を擦った。
 ……きっと、少しばかり寒かったのである。



        §



 投降してきたニュービーたちの適性検査などは、いつものようにアルジラが担当したらしい。
 各々のデータをサーバに入力しつつ、大まかな能力値を説明する。それを聞きながら、ゲイルは即座に彼らの所属予定部隊を振り分けていった。彼らがもしアートマに目覚めることがあれば、その特性に応じて所属を調整することになるだろう。
 サーフが入っていくと、二人は振り返って目礼する。すぐに作業に戻るが、ディスプレイをサーフが見やすいようにか、やや間隔を空けた。
 画面をのぞきこむ。新たな兵士たちの個人識別番号、名、表現性別、顔写真。能力値5項目。新たに書き加えられた、射撃適性。近接攻撃適性。身体的特性。……etc。etc。
 ざっと眺めたところ、やはりタグリングを所持していない者など居ない。黒髪の者もだ。
 並べてみると、改めてセラの異様さが際立つ。今のところ、彼女のデータはサーバに入力すらしていないが、そのままの方が良いだろう。「個人識別番号から基本データを引き出せない以上、手入力のイレギュラーなデータにならざるを得ず、システムにエラーを起こす可能性がある」などと参謀は言ったものだが、それ以外にも何かサーフたちの不利益になりそうな理由がありそうな予感がした。
 アルジラの白い頰が、モニタの人工的な光を受けている。
 画面上の出力結果を見つめる。入力−出力。刺激−反応。
 ……『刺激』とは何か。
 情報の入力、と定義しただろう。今までなら。
 では、『気持ちが悪い』という反応を導き出す刺激とは何か。
 サーフはアルジラの頰に手を伸ばした。

「……いやだ。なにするのよ、ボス」
 頬をふに、とつまむと、アルジラは戸惑ったように目を見開いた。
「アルジラ。これは、『気持ちが悪い』か? 恐怖を感じることは?」
「そんなわけないじゃない」
 跡がつきそう、やめてよ、と言いながら、彼女はサーフの頬をぎゅっとつまみ返した。
「痛い。いひゃい」
 サーフがアルジラの頬をふにふにと突くと、彼女は肩をすくめて笑い出した。両手でサーフの頬をぐにぐにとつまみ返す。
「いひゃい。痛い痛いいたい」
「もう! いやだってば!」
 二人してけらけら笑っていると、もうひと組の視線がこちらを向く。
「……何をしている、ボス。それは『遊び』か」
 理解不能だ、と言いたげに、ゲイルが振り返った。
「データの更新が終わった。確認を要求する」
 サーフは手を伸ばし、ゲイルの頬をつまんだ。そのままぐにぐにとひねったりのばしたりする。
「ボひゅ。ひゃにをしている」
「……やっぱり、気持ち悪くも不安にもならないな」
「俺もひゃ。気ホち悪いとは思わない。いひゃい」
「痛い、か? 肉体的に危険を感じるという意味か」
「ヒくたいてヒには、ハいしたヒ険ではにゃ、いひゃいいひゃいいひゃい」
 サーフはしばらくそのままぐにぐにと遊んでいたが、ふいに手を放す。
 ゲイルは相変わらずの鉄面皮のまま、頬を擦った。
「ボひゅ」
 慌てて口をつぐみ、もう一度ごりごりと頬を擦って、言い直す。どうやら口が変な形で固まっていたらしい。
「ボス、遊んでいる暇はない。再編成した防衛部隊を急いで出発させるべきだ。258秒ごとにスワディスターナの監視を破られる確率は1パーセント上昇するだろう」
「俺が『遊んで』いるのだと、お前はわかったんだな。ゲイル」
「……ちょっとした無駄な行動や不要な動きを、『遊び』と定義している。アートマの力を受けてから、お前はその頻度が上がった。是正すべきと考える」
「――防衛部隊の出撃を命じる。掃討漏れのニュービーや残兵は、発見次第捕捉、報告するように」
「了解した」
「射撃訓練は通常通りだ。指揮命令系統と兵士のデータの確認はしておこう」
「わかったわ、ボス」



        §



 レーションの味をどう感じていたのかなど、やはり覚えてはいない。
 鈍銀色のパウチの吸口を咥えたまま、サーフは武装を外していた。防具を肩から落とすと、少し開放感があって、こもっていた体温が発散されていく。アンダーシャツ1枚になって、少し人心地がついた。
 パウチを吸うと、少しの半固体が腔内に流れ込んでくるが、その味には快も不快も感じることなく、するすると喉を通り過ぎていく。ただ、体力は確実に回復するのだし、不味いとも思わないわけだから、アートマがジャンクヤード全体に散ってからこっち、レーションには同類たちの血肉でも混ぜ込まれるようになっているのかもしれないが。
 またパウチの中身を吸う。ぺこんと包装が凹む音がした。
 
 ヒートが入ってきた。
 ちらっとサーフの方を見やると、彼も武器をおろした。マントを落とし、手袋をとり、防具をはずし、金具を緩める。上半身があらわになったところで、ふうと息を吐き、ごきごき首を動かしている。
 彼の厚い胸板が呼吸に合わせて動く。
 かすかに汗の匂いがして、サーフはすんと鼻を鳴らした。
 パウチを口から外し、ダストボックスに投げた。ヒートに手をのばす。右腕をとって、じっと視線をおとした。
「? ……なにやってんだ」
 ヒートが不審そうに見下ろしてくるのにかまわず、サーフは彼の腕を少しひねってみた。『ファイアボール』の印は、変わらずそこにある。くろぐろと口を開けて、触れるものに食いつこうとする、持ち主の業。
 齧ればきっと『甘い』のだろう。
 レーションしか口にしたことがないはずなのに、『甘い』というその味覚は脳をよぎり、じわりと唾液がわいた。
 ――りん、と。
 どこかで、銀の鈴の音がした。
「おい、……っ」
 何しやがんだよ、という声は尻すぼみになった。
 サーフが彼の右腕を持ち上げて、アートマのあたりに軽く歯を立てたのだ。
 硬く弾力のある筋肉に跳ね返される感覚と、少し乾いた皮膚の表面の、ごく薄い塩気。業の印とはいっても、他の皮膚面のどこと変わるわけでもない。医学的には単なる痣なのだ。悪魔への変身のたびに光ろうが熱くなろうが、何かチップが埋め込まれているわけでもなければ組成が変化しているわけでもない、というのが、ゲイルの検査の結果だった。

「なんだ。『甘』くはないな。これは」
「当たり前だろ」
「……『甘い』という言葉。お前は、知っていたか?」
「知らん。だが、判る。何でかは知らんがな。『甘そう』だって表現が思い浮かぶようになったのは最近だな」
「そうか」
 俺もそうだ、と言って、サーフはもういちどヒートの腕を甘噛みする。ぞわ、と背中に虫の気配がよぎった。
「……やっぱり、これは気持ちが悪い」
「気持ちが悪いだと?」
 ヒートは少し傷ついたような顔をした。それでもサーフの手を振り払おうとはしないのである。
「ざわざわして落ち着かない気分になるな。武器もつけていないのに、射撃手(スナイパー)に狙われているぞと宣言でもされたような。腹の底がぞわっと重くなって、お前に全部預けてしまったような」
「……え」
「……リアルタイムデータは、呼吸速度と血圧および血流が多少上昇している、か――」
 視界の右端に映しだした自分のバイタルデータを非表示にすると、赤い瞳が妙に静かにサーフを見据えていた。
「……ヒート? どうした」
「……ああ、なんだ。お前はまだ、知らなかったのか」
 うっそりと、ヒートは嗤った。
「それは、気持ち悪い、じゃない。逆だ」
 ヒートはサーフに右腕をつかまれたまま、左手でサーフの頭を引き寄せた。親指のさきで頬をなでる。水と王冠の印。白い肌に黒ぐろと刻まれた、サーフの業。
 そこに顔を寄せ、舌先で軽くつついて、言った。
「……気持ちいい、って言うんだよ」
 そしてそのまま、ヒートは唇をふさいだ。
「……ん、……っ!」
 サーフの背を、びくん、と刺激が走り抜けた。酸素を求めて口を開ければ、熱く濡れたものが腔内に侵入してきた。
 びしゃ、唾液の音が立つ。互いの舌先が、互いの口腔でうごめく。 
 ――これが、『甘い』のだ。
 味わうことしばし、ヒートは惜しそうにサーフから牙をはずし、彼の背を抱きしめた。
 ヒートのてのひらも指先も、どこもサーフの肌よりも熱い。とくとく、脈の音がゆっくりと同期しはじめる。
「……こうすると『気持ちいい』だろ?」
「『気持ちが、いい』……」
 サーフはゆっくりと目を伏せた。熱くてあたたかくて、身体の奥が締めあげられるような感覚。身体中の皮膚が、鋭敏にヒートの肌の温度を感じ取ろうとする。
 思わず、ほうと小さく息を吐いた。
 『気持ちが良い』という言葉が、ゆらゆらと意味を包んで、サーフの底のほうに着地する。
 初めての感覚だった。
 ……初めて、だったのだ。
 ぞっとするのに暖かい、恐ろしいのに近づきたいと思う、この感情も、行為も。それに気づいて、思わず口に出した。

「ヒート」
「……ん?」
「……なんでお前は、これが『気持ちいい』んだと知っている?」
 どこか妬気をはらんだ声音になった。否、これは『嫉妬』というのか? 自分ではない誰かに先を越されたことに対する、悪感情。それをやはり、『知って』いた。ヒートに、『誰が』その感覚を教えたのか? 感覚に名をつけて、身の内に飼いならす手ほどきをしたのは『誰』なのか?
 ぞわ、と背骨をなにかが這い上る。睨む銀の視線を浴びて、ヒートは一瞬目を見張ったが、喉の奥で笑った。
「……だいたいお前の所為だな」
「……俺、の、せい?」
 先だってから、お前に触れられたところが熱くなって仕方ねぇんだよとヒートは言った。
「まぁ、熱くて仕方なかったんだな。中で喧しく滾っているモノを出しちまえば収まるだろうと思ったわけだ」
「……中?」
 こんな風にな、と言って、ヒートは左手を伸ばした。
 そして一瞬、止まった。
「……っ」
 ヒートは唇を噛み締めたらしい。これから行われることが嫌なら、これ以上なにも許すな、もうこれ以上俺を近づけるんじゃないと、そう願ったのかもしれない。はねのけて逃げる猶予を、サーフに与えたのかもしれない。
 それでもその先を、サーフは望んだ。好奇心のせいもあったが、止めないで欲しいと感じたのだ。
「止めないで、続けて……教えて、くれ」
「……するぞ」
 サーフの下着の隙間に、長いゆびが滑り込む。そこを握り、扱き上げた。
 ひゅ、とサーフののどが鳴る。どくどくと脈打つ血管が抜き取られようとでもしたような感覚だった。その部分に一気に血が集まる。熱をもつ。
「おい、なんだ……これ、ヒート」
「いいから」
 反射的に腰を引こうとしたが、ヒートの腿がそれを許さない。押し返されて、左手の動きのなかに追い込まれた。
 明らかな意思をもって、リズミカルにそれは動いた。同時に、大きな右手がサーフの上衣をまくり上げ、二指が胸元の突起をはさんで転がした。
「ん、……うあ、ひぁっ、」
 反射的に背中が反った。そのせいで、胸元の刺激が更に強く加えられ、サーフは声をあげた。血流の震えがどくどくと下腹部を膨らませる。敏感な感覚の塊と化したそこが、布に擦れる。
「っ、痛ぅ……なん、だ、これっ……!」
「ちょっと待て、少しだけ我慢しろ」
 下着が引き下げられる。その部分は空気にさらされてふるりと震え、解放された安心感すら感じた。再度、ヒートの手がそこに絡みつき、ぐっぐっと刺激を与えて育てた。そのたびに、ぞるりぞるりと虫が背骨を這う。底なしの黒い空間が、視界の奥で明滅した。
「……っ、は、ぁ」
 膝から力が抜けそうになるのを、壁に手をついてなんとかこらえる。そこは朽ちかけたコンクリートと錆の浮いた金属管の境目で、爪を立てたサーフの指先が、小さくがりり、と表面を削った。
「いいぞ、その調子だ」
「やめ……ッ――、んんっ、あ、」
 ――これが『快楽』か、
 何回めかもうわからない、知らないはずの言葉が割り込んでくるときの、人ごとのような冷静さ。これが『快楽』なのか? 本当に? こんなものが? 背中にぴったり添ったヒートの胸が熱い。汗ばんでぬめっている――銀の目の猫。鈴の音。身体中がかっと灼かれるようなのに、空気が冷える。痛いほど量感を増した局部にはヒートの手がからみつき、動きを止めない。容赦なくサーフを追い上げようとする。腿ががくがくと震える。――寒い。
「やめ、ろ……、気持ちが悪い、――寒いんだ」
「……ああ、そうか。……そうだったな」
 手の動きを全く止めることなく、低い声が耳元でちいさく笑った。
「お前は、昂ぶると冷えるんだった」
 これじゃあまだまだだよなァ? と言って、彼は手の動きを速めた。
「凍らせてみせろよ、俺を」
 サーフのうなじに、ぬるりとしたものが軽く噛みつく。ひくっと跳ねたなめらかな皮膚を追って、ヒートの右手がサーフの頸をたどり、顎を押さえつけた。
 親指が、口腔に侵入した。じゅく、と水音がたつ。熱い指先が舌を嬲ったのだ。舌の裏の、薄い粘膜を撫であげていく。ぞくぞく、ぞくり、また、背中の内側をなにかが這った。唇の端から唾液が溢れ出し、流れる。
「さむ、……っ、頼む、や、……っ」
「……声、出したくないなら、噛んでろ」
 いいように舌の裏を撫で、歯列をなぞりながら、熱い吐息がささやいた。
 もしも指を食いちぎりなどしたら、最も致命的なのは拇指だ。銃の暴発や手元への攻撃などで、運悪く指を吹っ飛ばす兵士は時々いるものだが、のちのちに悪影響が大きいのは拇指だと皆知っているから、何かに触れるにしても突っ込むにしてもその指を使う者はいない。アートマを身に受けてから、悪魔に変身すれば傷も欠損もとてつもない勢いで回復するものだとわかったものだが、身についた用心の習慣は消えない。
 ヒートは利き手の拇指をサーフの口腔内に預けている。噛みつかないように、サーフは拇指を咥えこんだ。そのかたちに、自らの舌を添わせる。なだらかな曲線を、知らず、味わった。
「ん……っ、ぐ、ふ、」
「上手いぞ。……ありがとな」
 また、ぐちゅりと水音が、犬歯のあたりから溢れた。唾液が顎を流れる感覚。長い拇指が舌の側面をなぞり、奥歯のかたちをもてあそぶ。当然ながら逆の手は、サーフのものを扱く動きを止めていない。すでに先端は濡れそぼっていて、身体中の体温がそこに集まる。そのせいで、手足の先が冷える。
 気持ち悪い。気持ちが悪いのだ。背骨を這う虫は、もはや長大な節足を無数に持つものであるかのように、背骨を、尾骶骨を、皮膚表面を這い回り、ざわざわとサーフの精神を底なしの闇に引きずり込もうとしている。
「あ、……ぐ、うっ、ひ」
 こんな感覚は知らなかった。気持ちいい? これが? こんな、どこか知らない奈落に突き落とされるような感覚が?
 わからなかった。
 それでも勝手に腰は揺れ、そんな恐ろしいものを与えてくるヒートの手に打ち付けてしまう。身体ががくがく震えて仕方ない。中でなにかがやかましく滾り、出口を求めて奔ろうとする。サーフの腹の底は、冷えて、冷えて――
 つぷり、と、粘つく液体がこぼれ落ちた。

 はくはくと中に残ったものを吐き出そうとする、まだ膨れたままの鈴口に、ヒートの長いゆびの先が割り入って、ぬるりぬるりと遊んだ。指全体を絡みつかせて、生暖かい液体を纏わせる。
 そのままもっと奥へ、脚の付け根よりさらに後ろへと。進んだ先、誰も触れたことなどない出入口の部分で、ぐち、と小さな水音がたち、強い圧力が与えられた。
「……っ、ぐ!」
 そこはそのための器官ではない。
 そう直感し、身体は反射的に硬くなる。だが、割り込んで来ようとする圧力に反応して、くちがひくりと引きつった。びくっと伸びた背中に、ヒートの息がかかる。指先がサーフの奥を摩る。何度も。そこがひくひくと物欲しげな反応を返し始め、前の竿が硬さを取り戻したのを確かめると、もう一度指先が、侵入点を定めた。 
「俺は」
 一気に、ヒートの指先がその出入口を貫いた。
「……ッ、ひ、あ……!」
 彼の指の長さを、視覚においてはよく知っていたが、身体の内側で、こんな場所で、知ることになるとは全く思っていなかった。
 ぐちぐちと股座の奥で音が蠢く。内臓を内側からなぶられる感触に、腹の底からえづきが湧き上がる。もはやサーフは身を震わせることしかできないでいた。
「あ、……ん、んっ、うぁ、っひ……!」
「……俺は、」
 そこに2本目の指を挿しこみながら、ヒートはさらに低く、つぶやいた。
 遠慮なく掻き回しながら、続ける。
「俺は、お前が喰いたくて、仕方がない」
「ぐ、ぁ、……っく」
 呻き声を上げるしかないサーフを、ヒートは強く抱き寄せた。
 彼のどくどくいう心臓の音が、背中から響いてくる。自分の心音とシンクロして、破裂しそうにうるさい。熱い。熱くてあつくて、冷えたサーフの身体まで蕩けそうだ。
「こうなってから、ずっとそうだ。悪魔の印とかいうモンが体についてから、ずっとそうなんだ」
 腹のいちばん奥が、また掻き回された。びくりと背中をのけぞらせると、赤い頭が肩に埋められる。あつくて熱いそこは、かすかに震えていた。

 ……苦しいのでは、ないだろうか。
 ヒートの息遣いはずっと荒いままだし、汗ばんだ肌が自分の背中に擦れるたびに、ぐちゃりと音がする。腰のあたりに固いものが当たっていて、それはサーフの身体に擦り付けるようにしながら、もうずっと揺れている。
 きっとサーフと同じなのだ。どうしようもなく昂ぶった部分が、ぞくぞく震えて底が抜けたように不安定で、内臓でも抜き取られたような寒気が次々に襲ってくるのだ。それはきっと苦しいのだ。
 何かを一度、解放してやらなければいけないのではないか。さっきのサーフのように。
 そしてそれができるのは、今、自分しかいないのだろう。

「喰われることが、……ンっ、あるとした、ら、お前にだろうな、と、……思って、た」
 サーフは息たえだえになりながらも、絞り出した。
「けど、……ぁ、お前は、やらないだろう? 俺に傷をつけるような、こと……、お前は、絶対に」
 ごく自然な信頼をこめて、サーフはヒートを振り返る。
「なんでっ……おまえ、そこまで!」
 ヒートの表情が、変わる。ぴしりと大きくひびが入ったような印象だった。……あ、初めて見た顔だ。ぼんやりとサーフはそう思った。
 次の瞬間、ずるりと腹の奥から異物が出ていき、頭が皮膚感覚に塗りつぶされた。ひぁ、と喉を鳴らしたサーフの菊座は、中にあったものを失って寂しげにひくついた。身体を反転させられる。足に力が入らず、支えを失って、ずるりとくずおれた。
 それに合わせて、ヒートも床に膝をついた。自分の下着を引き下げ、サーフの背中を抱き、逆の手で脚を開かせると張りつめた陰茎と陰嚢を包んでそっと揉みながら、最も奥の部分に自身の先端をあてがう。
 浅く息を吐いて、真紅の視線が正面から銀色の目をとらえた。辛そうな色だ。ぎゅうと眉をひそめて、唇を噛みしめている。何かが壊れたような表情はさっきのままだ。

「……最後のチャンスだぞ。ちょっとでも嫌なら、俺を殴れ、――サーフ」 
「……いい」
 ヒートの視線をまっすぐ見返したまま、サーフはゆっくりと首を振った。 
「いいんだ。……お前だって、苦しいん、だろう? ぜんぶ、受け止めて、……ッ、呑み込んで、やるさ」
「……っ……!」
 すでに溢れていたらしい先走りと、サーフ自身の体液と、一緒くたにぬめりをまとった昂りがサーフを挿し貫いた。
「う、ン、ぁ……っ! ぐ、ひぁ、」
 指とは全く量感の違う熱いものが、身体の内側を嬲った。反動で締めつけると、腹の底から吐き気すら湧いた。目の前に星が散る。サーフの腰をつかみ、押し入ってくるヒートも、唇を噛みしめたまま、うめいた。何がどうなっているのかわけがわからない。身体中が熱い異物で満たされ、はちきれそうになっている。がつがつと腰を叩きつけられると、腹の間でサーフの同じ部分が、さらに昂ってふるりと揺れた。
 
「……やっぱりお前は、『甘い』な。サーフ」
「は、……、あ、違、ンンっ……、! ァ、」

 息苦しくて、身体の底が気持ちわるくて、きもちよくて、ぐちゃぐちゃいう水音が聴覚を犯す。触れる肌のどこもかしこが熱くてあつくて、サーフは凍えそうで、ヒートを見上げ、すがりついた。

「……た、すけ、て」 

 まばたきすらできないのに、勝手に目から涙が出た。ヒートの顔がにじんだ。彼の膚のどこかに、爪痕を描いた気がした。
 腰を揺さぶるヒートの手に力がこもる。サーフの中で、彼の分身は更に硬く猛る。
 なのに彼は、泣きそうな形に顔を歪めた。
「……そんな顔、を、」 
 薄く入っていたひびが、大きく裂けたようだった。
「……そんな、縋るような顔を、するんじゃねぇ」
 そしてサーフの目を、覆った。
 涙の跡を舐めとり、首筋にむしゃぶりつく。噛みつき、肌を吸い、痕跡を刻む。背中を強く抱き寄せ、激しく突き上げた。快感にうめき声をあげ、眉をきつくひそめて睫毛を震わせた。そして、何度となくサーフの名を呼んだ。
 そうやって貪りながらも。
 見たくねぇんだ、と低く呟いた。
 祈るように。

 熱く喘ぎながら、ヒートは昂ぶりを放出し、がくりとくずおれる。同時にサーフも、かすれた嬌声を喉から絞り出した。



 ――
 ゆっくりと目を開き、首をめぐらせる。
 気づけばサーフはコンクリートの床に転がっていて、隣にはヒートが倒れ込んでいて、鮮やかな赤い頭のてっぺんが視界に入った。
 ぴったりと伏せられた彼の長い睫毛が、震えている。
 気だるくて重い腕を持ち上げ、彼の頬に伸ばした。熱い肌に指先が触れると、大きな手が重ねられ、強く握られた。

「……もう、二度と縋るな。……誰にも。――俺にも」
「……え?」
「――頼む、から、」
 ぼんやりと焦点の合わない銀色の視線を、一度ゆらりと揺らして、サーフは彼を呼んだ。
「……ヒー、ト?」
「お前は、――誰にも組み敷かれるな、ひざまづくな。誰より強いんだ、お前は……俺より、誰より、もちろん、……」
「ど……、した?」

 寝返りを打ってヒートの方に向き直ろうとしたとき、自分の中から温い液体が流れ出す感覚がした。
 べたりとしたものが尻を汚す。
 サーフはくっと息をつめた。
 不安定な息遣いに気づいたらしく、ヒートは身を震わせて強く目を瞑る。
 そして、奥歯をかみしめて、嗚咽を殺した。
「……、許せねえ」
 俺は、俺自身を、許せない。お前を組みしいて縋らせた自分を、許せない。
 サーフの手を愛おしむように握り締め、その温度を感じ取りながら、何度もそう、彼は繰り返した。



 だからそれからヒートは、
 ――ひどく苦しむことになったのだ。

 

 

(2018.4)