別館「滄ノ蒼」

嚮後に向けて放て



 州境に発生した低気圧の塊が、ニューヘブンにまで風雨を投げつけてきている。
 サーフは嵐に降り籠められたことを理由にして、ヒートのアパートに居座っていた。雨の中を歩くのが面倒だの寒いだの靴が濡れるだのと並べ立て、勝手に湯を沸かしてインスタントコーヒーをすすり、ソファの全面を占領して自分のラップトップを眺めている。大きな猫がのびているようなものだ。
 ヒートはため息ひとつでサーフを放っておき、レポートのファイルを立ち上げた。数日に一度の割合で、なんらかの提出期限はやってくる。嵐だろうが猛暑だろうが、容赦なく問われ続ける学問の成果を表明しなければならない。野心も上昇志向もたっぷりあるとはいえ、いまだ学生の身分なのだ、ヒートもサーフも。
 つけっ放しのTVの情報は変わり映えしない。一定時間ごとに紫外線量と天気のアイコンが表示されるのもいつも通りだ。こんな天気で紫外線量もくそもあるものか、と思わなくもないが、雨だろうが雪だろうが割り込んでくるその情報は、すでにどの端末においても画面の一部と化して久しい。
 紫外線量;少、天気;雨。
 窓を見やればそのとおり、斜め45度の雨の筋がひっきりなしにガラスに線を描いている。

 ヒートがファイルを送信していると、窓ガラスががたがたと鳴った。
 様子を見計らっていたのか、サーフはソファから立ち上がって、ヒートの膝の上に乗り上げてきた。
「……おい、重いぞ」
「……ん、何か言ったかい?」
 知らん顔で、ヒートの首に腕を回し、のしかかる。
「視界を塞ぐな」
「知らないってば」
 サーフはしばらく鼻先で金茶色の髪をかきわけて遊んでいたが、ふいに耳朶を咥えて舌先で弄んだ。
「おい、……っ」
 僕が何をしようとしているのか、君は当然わかっているだろう、と言わんばかりだ。ぴちゃ、と耳元で音が立つ。おそらくわざとやっているのだ、ことさらに淫蕩に、何度も唾液の音をたてて、ヒートを耳から犯そうとするようだ。
 ぴちゃり、じゅ、と音を立てて耳朶を吸い、咥え、耳の下の肌を舐める。逆側の手は、髪をふわふわとなぶり、毛先を指に絡めて遊んだ。
「……やめ、ろ」
 ヒートはくっと息を詰め、かすかに漏らした。頭を抱え込まれる格好なので身をよじることができなかった。認めたくもないが、息はすでに熱くなりかけている。
 こうして触れられるのはもう数度をこえるが、サーフの舌先はひどく気まぐれで、不意打ちで刺激され続けるようなものだ。
「今さら何を言ってるんだ。ちょっとでも嫌なら僕を突き飛ばせと言ってるじゃないか。最初っから」
 わかっているくせに、と言いながら胸元をすり寄せて、ヒートの肌の弱い所を探り、擽る。長い指が、シャツの裾から忍び込み、腹から胸の筋肉の境目をたどった。
「……あ、」
 鼻にぬける甘い吐息をサーフが漏らす。自分の胸をヒートの胸に擦り付けて、自ら快感を探す。だが、快楽点をかすめたとたんに、サーフは肌を離してしまうのだ。
 膝の上に収まり直して、おとなしくなった。少しの間ヒートの首筋に鼻を押し当てていたかと思うと不意に顔を上げ、窓の外を見やった。
「やあ、ひどい風だ」
 ざ、ざあ、と水の音が強くなったり弱くなったりする。遠雷の音がときおり混じり、2筋ほど離れた大通りを、消防車が行き過ぎていった。
「風神(ヴァーユ)と雷神(ヴァルナ)がずいぶんお怒りのようだね」
「……え?」
 リアリストなはずのサーフが、そんな妙に詩的な表現をしてみせるので、ヒートは違和感を感じたのである。
「神話の神を、信仰しているのか?」
「……はぁ?」
 怪訝そうに、サーフは片眉を跳ねあげて頬をゆがめた。
「……もし君の信仰とやらへのお誘いなのであれば、御免こうむりたいんだけどな」
「……いや、そんなつもりはない。教会なんかもう随分と行ってないしな。多神教の徒だったのかと思っただけだ。
 そういえばお前の信仰を聞いたことはなかったか。この国にいると、信仰といえば当然、天にまします唯一神へのものだと思ってしまうが」
「――嫌いだね」
「嫌い?」
「嫌いさ。信仰なんてものはね。神ってのはただ『在る』だけの存在だ。地上を這うものを個別に認識なんかしない。うじゃうじゃ動いているのを眺めて、気まぐれに何か投げ与えて、飽きたら無視するだけなんだ。そんなものに対して、なんで『救い』なんか求めなきゃいけないのさ」
 虫ケラを救って、掬いあげて、それからどこに放り出すって言うんだ? そのカミサマって奴は。そう言って、サーフはまた、ヒートの顎の線を舐めあげた。
「……ヒゲ、ちゃんと剃ってるのか?痛い」
「知るか。最低限の身だしなみが整っているなら文句を言われる筋合いはないぞ」
「僕が構うじゃないか。ほんと、雑なんだから」
 今度は指先でヒートの顎をなぞりつつ、喉元から胸に向かって唇を這わせる。
「君だって信じちゃいないだろう? 唯一無二の『善い存在』なんて」
「……ああ」
 信じられるはずがない。
 そんなものが御座すのならば、唯一無二の存在だった彼女が、なぜあんな目にあわなければいけなかったのか。どうしてヒートは何もすることができなかったのか? なぜ、なぜ――
 沈んで行く。止めた方が良いとわかっていても、その思考はいつでも、ヒートの視界を暗く塗りつぶし、うつろな怒りと悔恨の沼の底に突き落す。
 だが、耽溺していこうとする思考は、肌の感覚に中断させられた。
 腹から下が、少しひやりとした。
 空気にさらされたのだ。ようやくそう認識した時には、がちゃがちゃというベルトの音がすでに左右にわかれていた。ぬらりと温かなものに触れられる。次に、内臓がまるごと掴まれたかのような感覚。ぬるぬるとリズミカルに背中を走る快感が、何かと連動していた。そこまでされて初めて、ヒートの思考は動き始め、状況を認識した。
 黒髪の小さな頭が、ヒートの股間に埋まっている。
「おい、何っ、してる、そんな、とこ……っ」
 持ち上げた手は、サーフの指先に捕らわれた。両手首を椅子に押し付けられる。それでも、温かな刺激を与えられ続けるヒートの中心は、当然の反応を示して猛る。
 雁首をなぞり、先端だけを含んでちゅうと吸ったかと思えば一気に根元まで深く咥え込む。口腔の内側の壁にぴったりと添わされると、身体の内の熱さがダイレクトに伝わってきて、その部分が硬く量感を増した。
「く……っ、う、」
「ふ、ぐ、んん……っ……気持ち、いい?」
「訊くな、そんな……こと……っ!」
「ふふ、キモチイイん、だ」
 舌を伸ばして、竿を舐めあげる。雁首に舌先を絡ませ、唾液は溢れだすままにまかせ、根本に指をからませてしゅっしゅと扱いた。ぢゅ、と音を立てて一度、吸う。先走りを舐めとり、口を薄く開いたままヒートを見上げて、にいっと笑った。
 再び自分の脚の間に顔を埋めたちいさな頭を、ヒートはぼんやりと見下ろす。
 この美しい頭部の中には、想像もつかない冷徹な精神が詰まっているのだ。
 思わず、そこに手を伸ばす。後頭部に触れ、軽く引き寄せようとしたところで、サーフは彼の手を軽く、ぱしりと振り払った。今度は指先だけで手首をつかむ。女のようになだらかな手をしているくせに、サーフの力は妙に強い。
 じゅぷ、ぐぼ、下品な水音をことさらに響かせて、唇と舌だけでサーフはヒートを追い上げた。
「う、っふ……んあ、」
 唾液の音の隙間から、淫蕩にとろけた声が漏れ、ヒートの聴覚を犯す。ヒートは呻き、きつく歯を食いしばった。裏筋を温い舌先がたどり、じゅるりと音を立てて再度深く咥えこんだ時、びくっとそこが大きく震え、サーフの腔内に液体を奔らせた。

 魔性が、ゆるりと顔を上げる。
 繊細に整った顔が、ヒートを見上げた。熟達したプログラマが、彫像の曲線を完璧にトレスして設計画面上に描き出してみせたような造形だ。1ピクセルのずれもない造作の真ん中で、赤い唇がぬらりと蠢いた。
「屈辱的な体勢だな」
 サーフはくくくっと笑った。細い舌先を突き出して、舌にまとわった白濁を見せつける。そのままべろりと唇を舐めた。ねばついた液体が、薄い唇をグロスのように彩った。
 彼には珍しい笑い方かもしれないと、ヒートはぼんやりと思いながら、荒く速い息を吐いていた。
 風雨がガタガタと、激しく窓ガラスを殴りつけている。



        §
 


 夢を見た。
 神々が戯れに、世界を創るのである。
 或る一柱の男神は、言う。ヒトが見れば、それは黄金色の靄が渦を巻いているように見えただろう。彼はうねり、弾け、奔り、躍動する神である。彼は宣う。言上げする。
「これを『箱庭』と名付けよう。ここには、『根を生やすもの』が必要だ」
 見る間に、「箱庭』の中には木々が生じた。下草が伸び、蔓が這った。根をはり、腕の先をのばし、光の射す方へと首を向ける。それは覗きこむ神々の方でもあるのである。
 また或る一柱の女神は言う。かれの姿は、ヒトが見れば、やや緑がかった銀色に輝く靄が渦を巻いているように見えただろう。かれは流れ、掬い、静かに潜行する神である。かれは宣い、言上げする。
「この『箱庭』には、『水』が在るべきである。それは『空』から供給されるだろう。地の底を流れるための水路も、忘れてはならない」
 すぐに、ちいさな楽園の中はその通りになった。
 また或る一柱の神が言う。かれの姿は、ヒトの子が見れば、闇が宙のただなかに口を開けているように見えたことだろう。かれは男でもあり、女でもある。ふたつの性別を併せてそなえた神である。かれは宣う。言上げする。
「ああ、この『箱庭』には、『音』が必要だ」
 しゃらり、とどこかで錫杖が鳴る。
 それが、世界の始まりの合図である。
 音は風となり、『箱庭』を吹き抜け、内でうつむいていた生き物たちが動き出す。土は養分を蓄え、潜行する水の流れがそれを運び、海で蠢くものたちを養い始める。 



        §
 


 僕はヒートの腕がわりかし気に入っている。線が角ばっていて関節の目立つ、彼の性格がそのまま形になったような大きな手。
 そこからそのまま繋がってきてかたちを成した前腕もだ。やはり印象は角ばっていて、動かすたびにはっきりと筋が浮く。
 ヒートの目が、そこそこ気に入っている。特に右目。
 そこはいつも、無造作におろされた髪に隠れていて、真正面から覗き込んで髪を持ち上げてやらないと見ることはできない。眼鏡をかけている時だけ、彼は前髪をかきあげて、いい加減に眼鏡の弦に引っかけるので、右目があらわになる。
 くっきりした眉。彫りが深くて、密に生えそろった睫毛は僕より長くて、頬を寄せると、まばたきするたびにばさばさと肌をくすぐる。
 いつもそれを覆い隠している、髪。それもわりと気に入っているのだ。明るいところで見れば金茶色で、暗いところでは赤毛に変わる。なかなか似合っていると思う。けど、「似合っている」なんて言ってやりはしない、絶対に。あの赤が似合っていることなど、僕だけ知っていれば良いからだ。
 ヒート自身だって知らないことを。
 ひどく触り心地が良くて、もふもふした大きな生き物でも撫でているような気分になるから、僕はしょっちゅう手を伸ばして、指先で払ったり指に絡めとったりする。そのたびに彼は少し居心地が悪そうに、目を細めたりこちらに視線を投げたりするから、僕はまたそれを揶揄う。
 彼の背中の広さも腰骨の位置も、
 髪の色が光の加減で変わることも、
 胸板の触り心地もみぞおちの深さも平熱の高さも、
 僕はそれを知っている、彼の家族を除けば知っているのはきっと僕だけだ。そのことが、僕を満足させている。

 ……ねえ知っているかい、ヒート・オブライエン。
 君は僕のものだっていうのに、君はそれを知らないままでいるんだ。
 居ればいい。僕のために、ただ、そこに居ればいい。君自身が望んで、そうすればいい。僕が呼べば届くところに。僕の姿が見えるところに。ずっと。

 どんなにろくでもない廃墟のただなかに堕ちたって、君が居ればきっとそこは地獄じゃない。



        §
 


 夢を見た。
 前の夢で見た、あの箱庭を、神々が覗きこんでいるのである。
 一柱の男神が言う。かれは、今日は鈍い青に沈んだ色の靄を辺りに渦巻かせている。
「しばらくぶりにこれを見た。今は、こんな中身になったのか。数少ない生き物はよくわからない進化を遂げているし、土も水も枯れている」
 一柱の女神が応える。かれは今日、赤く輝く靄のなかにいる。
「この『箱庭』には、もう飽きた。目新しいものや役立つものはないと感じる」
 また或る一柱の神が応じる。かれは、ふたつの性別を併せてそなえた神である。
「では、終わらせよう。この『箱庭』を、無に戻すのだ」
 しゃらり、とどこかで錫杖が鳴る。
 それが、世界の終わりの合図である。
 音は風となり、『箱庭』を吹き抜ける。内で蠢いていた生き物たちは動きを止めてうつむき、溶け去る。枯れた土は飛散し、水だったものは闇にのまれる。そして、何もかもが記号原素に戻っていく。



 ……また夢を見た。
 神々が戯れに、世界を造っているのである。
 一柱の男神が言う。かれは今回は、形ある姿をまとってはいない。
 かれの『声』だけが言上げする。その『声』は、生き物の聞く『音』ではない。同席者、あるいは同じステージに存在するモノたちに直接伝達する、式、フォーミュラ、あるいはひとかたまりの符号、そういったものである。
「……これで、この一定のコードが地を這うモノに『成る』ことがわかった。前後に付属する式と代入する数を変更すれば、様々な姿をとらせることができる」
 一柱の女神が応える。かれもまた今回は、何の色もまとってはいないのである。
「では我は、付属式内の変数を演算してみよう。這うモノたちの歩行形態と内部構造が適切な形をとる時の値を求めるのだ」
 また別の一柱の神が応じる。かれは今回は、高低2種類の『声』を操ることで、ふたつの性別を併せてそなえた神であることを示している。
「では我は、導き出された付属式に代入する数値を演算してみよう。這うモノたちの適切な行動アルゴリズムが導き出せるはずだ」
 どこかからか、大風が吹いてくる。
 『空』の端で、『山』のくぼみで、『海』の底で、あらゆる変数が、モノたちの這う姿を描き出す。
 ――生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。



        §
 


 サーフがオペレーティングルームに入ると、ヒートは彼の服装を見て取って、やや苦々しい顔をした。
 黒いVネックニットに、ライトグレーのカーディガンを羽織っていた。名札をつけているので、これが今日の仕事着のつもりなのである。
「……crp値が多少高いんだ、感染症リスクを少しでも持ち込むな」
 ヒートがカルテを示しながら言えば、サーフは知らん顔で箱を机に投げ出した。本物の玩具にまぎれて、絵カードや生活用品のミニチュアなどが詰め込まれている。
「また血液検査をしたのかい?……道理で、看護師が出て行ったときにほっとした顔をしてたわけだ」
「白衣を着ろ。私物の衣類になんざ何が付着しているかわからん」と重ねて言われれば、「意味がないじゃないか」と返す。
「僕はね、いつもセラに対面する時は応用行動分析的手法に基づいて、……まあいいか。要するにだ、わがままなお子様の相手をするには白衣なんて必要ないからさ、むしろ弊害がありえるんだ。クライアントに合わせてるだけ」
「そんな言い方をするな」
「事実じゃないか、行動学的にも医学的にも」
 小児内科の教科書には書いてなかったかい?と、サーフは鼻先に嘲笑をにじませる。
「白衣というのは威圧的なものだよ。特に、子供や精神を病んだ者にとってはね」
 言うと、ヒートはかすかに頬を引きつらせた。きっと、また妹を思い浮かべたのだ。彼の中では未だ、妹はおずおずと慕わしげに見上げてくるばかりの存在なのだろう。
 そう分析して、サーフは笑みの形に頬を歪める。
 君は妹しか見ていないじゃないか。もうとっくに、どこにもいないのに。何度、そうヒートに投げつけてやろうかと思ったことだろう。
 妹の幻、亡霊、アニマと言ってもいいだろうか。そいつがヒートを捕まえて離さないのだ。いまだに。彼を手に入れているのはそいつなのだ。話しかけることも触れることもできないくせに。ヒートの勝手な罪悪感を煽り、記憶の中の姿を過剰に美化させて、一番だいじな存在が座るべき椅子に、「女神」と大きく書きつけて居座っている。
 実に不愉快だ。
 いつか、ヒートは妹のことを、「嫌でも思い出す」と言っていたか。だったらサーフを見ていれば良いのだ。他の者のことなど思い出させないでいてやるのに。

「同じ数値ばっかり眺めるのはやめたらどうだい」
 そう言って、サーフはぽんと操作卓のスイッチを落とした。ディスプレイに映し出されていた少女の姿がブラックアウトする。室内の照明も常夜灯だけになり、立ち上がったままの機器のランプだけがひどく明るい。
「おい、何する」
「何するって?……ナニを、だろう?」
 サーフは出入り口をロックすると、いくつか操作卓に指をはずませる。当然のようにヒートの膝の上にのし上がると、彼の肩を背もたれに押し付けた。
「……やめろよ」
 倦んだような声音で、ヒートは応じる。緩慢にサーフを押しのけようとするが、明らかにその腕には力がこもっていない。数え切れぬほどの回数、肌を求められ続けた結果、こういう時にはサーフは薄笑いを浮かべたまま行為を止めないのだと、知っていた。
 その回数は、3回目まで数えて止めた。
 やめろと言っても遠慮なくサーフは彼を暴き、彼はそれを拒否できない。サーフはヒートの熱をあおり、ヒートはサーフの行為に反応を返すばかりだ。
「勤務中だぞ」
「時間外勤務じゃないか」
 だから、誰も来ないさ。楽しそうに言って、サーフはヒートのシャツのボタンをはずしていく。緩慢に見えても実はすばやい手の動きだ。
「おい、……っ」
襟を押し広げ、鎖骨に唇をおとし、骨に沿って舌を這わせる。肩関節をつかむと軽く噛みつき、最後にぢゅっと吸い上げた。
 胸板をゆっくりと撫で、のしかかる。優しく蕩けた視線がヒートを覗きこみ、目尻を緩ませる。ヒートのシャツは押し広げられて、腹まであらわになっていた。唇を噛みしめて、ヒートは視線を横に逃した。
 サーフは構わずに、手を胸板から下になぞっていく。股間に伸ばし、柔らかくそこを包んで揉んだ。ゆるりと勃ちあがってきたのを確かめると、満足そうに口の端を吊り上げた。
「――色魔」
「……お前がな……っ!」
 よしよしとヒートの頭を撫で、するりと指先を髪に通す。耳元から頬骨、唇までをなぞると、ヒートの歯列の間に親指を滑り込ませ、かき回した。
「……ぐ、んっく……」
 口を開かなければ親指を咬んでしまいそうだ。ヒートは口腔を広げる。それでもそれ以上に指が這入ってくるのを止めようと、サーフの親指の付け根を唇で咥えこんだ。
「う、く、……ぐ、あ、」
 親指の先が唇の内側を撫でる。動きを舌で抑えつけると、ぷちゅり、と水音が立って、唾液が唇の端から溢れた。
「上手」
 ヒートの歯列をもう一度なぶってから、サーフは指を抜いた。唾液がつと親指を流れ落ちて、サーフはそれをべろりと舐めあげた。

 ヒートの首に腕を回し、頭を引き寄せる。吐息の温度がわかるぎりぎりの距離を保ちながら腰を落とし、そこ同士を触れあわせた。そのまま腰を前後させる。互いの局部が熱を持って膨らみ、ぎゅうと押し合いはじめると、ことさら見せつけるようにのけぞって、先ほど少女が映し出されていたディスプレイに流し目を送る。
「処置室との相互カメラは……うん、切ってあるな」
 大仰に、サーフは操作卓に視線を投げてみせ、ヒートに向き直った。
「君がどう思ってるんだかとても心配なんだけどね、ねえヒート。僕はね、自分のこんな格好をどこかに映し出されて興奮する趣味はないよ」
「本当かよ。誰かに、……よく知っている誰かに見せつけるのが好みかと思ってたぞ」
「まさか」
 サーフは喉の奥でくつくつと笑った。
 彼にしては珍しい笑い方だ、と、ヒートは人ごとのように思った。常であれば、馬鹿にしたような薄笑いや、痙攣的な高笑いの印象が強い。猫をかぶっている相手であれば、それは優しい微笑になるのだろう。案外、それ以外の笑い方を見たことがあるのは自分くらいなのかもしれない。

 遠く、電子音が聞こえている。
 規則正しく無機質な、セラの生命活動の音。かのちいさな女神は今、無数のコードとチューブに縛り付けられて、あと数時間は目を覚まさない。もし目を開けたとしても、頭部を覆う脳波計やらなにやらと無数のコード、バイザーが完全に彼女の視界を塞いでいる。だから、彼女からは何も見えないのだ。
「誰も何も見ていないのさ、僕たちのことなんて」
 ヒートの鎖骨のくぼみに額を埋めながら、サーフはゆるりと力を抜いた。
「もしも今、ここで世界が終わっても、きっと僕らは気づかない」
 外の原野が全部崩れてもどんな天気になってもね、とサーフは言った。
「この大きな卵の外殻は、外の気温も天気も遮断しているからね。……君、思い出してみろよ。最後に雨に降られたのはいつだった? 吹雪を頬に受けたのは?」
「言われてみれば、何日も前だな……。いや、今は春だ。吹雪になるほど気温は下がらないだろう。ときたま風が吹き狂って、嵐にはなるが」
 嵐、ねえ、とサーフはつぶやいた。
「……ねえヒート、知っているかい? インドの神話だか何だかでは、劫初・劫末には毘藍婆(びらんば)という大嵐が吹くそうだ」
「……ごうしょ、と、ごうまつ?」
「世界が生成する時と壊滅する時、のことだね」
 神が世界を造るときと滅ぼす時。あるいは始原の神が生まれる時と死ぬ時かもしれないね。そいつはどんな顔をしているんだろうね?勝手に生まれて勝手に死んで、僕らを巻き込んで。全く腹がたつよね。
「夜半から、アラスカ州は嵐だそうだよ」
 そう言うと、ヒートはまた、倦んだように応じる。
「……ああ、なんだ、世界が滅んで、俺たちは今夜、死ぬのか」
「そうそう」
 サーフはくくくっと喉で笑うと、ヒートの耳の下あたりに鼻先を押し当てた。
「悪かないだろう? セックスしながら死ぬのも」
 シャツの隙間に滑り込ませたままだった手を動かし、ついと胸板を撫でる。サーフの言うとおり、二人はどうせこのままダラダラと肌を暴きあいながら夜半を迎えそうだ。
「……お前の死亡診断書、死因の欄には腹上死と書いてやるからな」
「診断名じゃないじゃないかそれ」
 サーフはまたくつくつ笑い、ヒートの耳朶を噛んだ。



        §
 


 また夢を見た。
 前の夢で見た、あの箱庭を、神々が覗きこんでいるのである。
 一柱の女神が宣う。かれは今も、形ある姿をまとってはいない。聞こえる『声』を発してはいない。
「失敗だ、失敗だ、這うモノたちの内部構造も歩行形態も、この『箱庭』に適していない」
 また別の一柱の神が応える。かれもまた、這うモノたちに聞こえる『声』を発してはいない。
「失敗だ、失敗だ、這うモノたちの行動アルゴリズムは、理解不能だ」
 一柱の男神が応じる。かれも同様に、形ある姿を持っていない。
「では、終わらせよう。この『這うモノたち』を、無に戻すのだ」
 さらり、とどこからか大風が吹く。
 『空』の端で、『山』のくぼみで、『海』の底で、あらゆる変数がゼロの値をとり、這うモノたちが動きを止め、崩れ去っていく。
 ――わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。



        §
 


 ヒートの身体だったものが転がっている。
 彼はもう、二度と動かない。ただの蛋白質と窒素の塊だ。それでも、射創(GSW)からはどくどくと液体が溢れ出てき続け、白衣はぐっしょりと染まっていく。
 手を伸ばして、頰に触れた。急激に冷えて行く彼の皮膚はだいぶかさついていて、馴染んだ肌触りとは違っていた。彼の指先を見れば、地面をかきむしったのか、爪の間が黒くなっていた。線が角ばっていて関節の目立つ、彼の性格がそのまま形になったような大きな手。何度そこに触れただろうか、何度その手を自分の肌へと導いただろうか。そこそこ気に入っていたのに、もう動かなくなってしまった。
 もう一度、彼の顔を見る。苦しそうな表情だ。薄く目を開いていたので、閉ざしてやる。長い睫毛がぴったりと伏せられた時、吐き出されずに口内に溢れていたのだろう血が、ごぼりと口の端から溢れ出した。
 肌が、襟元が、床が、赤く染まった。

 ――ああやっぱり、
 君はその色が割と似合うじゃないか、ヒート・オブライエン。

 薄れ行く人の意識の隅で、サーフ・シェフィールドは最後にそう思った。

 

 

(2018.4)