別館「滄ノ蒼」

4,風ノ名前

 潮に湿った風が、袖を舞いあげた。
 
 人けのない浜である。
 空には重く雲が垂れ込めて、視界全体をいやに白っぽく染め上げている。
 海はごうごうと、腹に響く音をたてているが、波は沖から白い線となって近づいてき、やや盛り上がったかと思うと頼りなく倒れ込み、あわあわしい音をはじ けさせる。規則正しく水のはじける音、潮のにおい。打ち寄せては引いていく波は、しかしミンウの足もとをぬらすことはない。波打ち際は一丈ほど向こうにあ る。
 ひたひたとかすかな足音をたてながら、彼は濡れた砂の上を歩いていた。
 白い長衣の裾から、規則正しくサンダルの足先が踏み出される。使いこまれた革につつまれた爪先は、長旅のためか皮膚が厚く固くなっていた。
 立ち止まり、海を見やる。
 霧満ちた海上に、うっすらと塔の影があった。そこが、ミンウの目的地だ。ミシディアの町で「鍵」を受け取り、何者の侵入も拒むあの塔に入らなければならない。
 彼は再び、前だけを見て歩く。
 
 ごう、と海が、腹の底に響く音を立てた。
 同時にミンウは振り返った。
 海と、風と、それ以外のものの気配を感じた。なにか不穏な、金属の音。たとえば鎧、あるいは武器のこすれあう音だ――
 
 感じたとおり、6~7騎の黒鎧の騎士が、はるか後ろから馬をとばしてきた。
 濡れた砂がしぶきとなって蹴ちらされる。点ほどの大きさだった彼らは、あっと言う間にミンウに近づいてきた。
 ミンウは身分高い騎士にするように、脇にどいて進路を譲り、黙って礼をとった。
 駆け去っていくかと思われた騎士たちは片手で馬を操りつつ、片手を腰の剣の柄にかけ、速度を落としていく。隙無く小さく散開して、彼らは白魔道師を取り囲んだ。手綱を引く。
 黒鎧の彼らが騎乗する馬はいずれも、黒い毛並みのものでそろえらえていた。先頭を走ってきた騎士は、ひときわ重厚な、細かい意匠の施された鎧に無兜、半首で顔を半分隠しており、黒っぽい短髪をしている。
 がちゃがちゃと具足が鳴った。馬が、ブルル、といななき、足踏みする。濡れた砂の音が立った。
 鎧とこすれあう馬具。そこにほどこされた意匠は、翼を広げた双頭の猛禽。
 ――パラメキアの紋章だった。
 
 尊大な問いが、白魔道師に向けて放たれる。
「こんなところを一人で旅するとは。何者だ?」
「……ミシディアの魔道師でございます」
「ミシディアか。――中立地方だな」
 もしも本名を名乗れば、ミンウは即、彼らに捕らえられてしまうだろう。旧フィンの宮廷白魔道師の名前は、当然パラメキアにも知られている。反乱軍参謀としてもだ。
 礼をとる白い袖の陰から、そっと先頭の黒い騎士を見上げた。姿勢よく黒駒を御する身体は、鋼のように鍛え上げられたものだと、厚い鎧を着けていてもよく わかる。そこまで長身というわけではないが、隙なく抜きはなてる態勢で剣にかかった手が、もしも一度抜き放たれれば、どんな体格の者も一刀両断になってし まうのだろう。
 ミンウは今、手にもった杖のほかに、腰に短剣を帯びている。しかしもし、騎士たちが斬りかかってきたら迎え撃つのは無理だろう、転位(テレポ)の詠唱ができる時間はあるだろうか――そう考えながら、ローブの陰で、短剣の柄を握り締めた。
 無兜の黒い騎士は、ゆったりと馬首を寄せてくる。
「その服装は――白魔道師か」
「いかにも」
 射抜くような視線が、黒い半首の隙間から放たれた。
 ふん、と鼻を鳴らして、騎士は逆手に剣を握ると、ミンウの肩にぐっと柄頭を突きつけた。
「――気に入らんな」
 礼を取ったままのミンウの目だけがわずかに細められた。
「お前に恨みがあるわけではないが……、白魔道師というと、どうも、嫌な思い出がある」
 
 ――あきらめろ。降伏せよ。
 起動し始める大戦艦のうなりを背後に見せつけながら、勝ち誇ったように言い放った、帝国のダークナイト。
 反乱軍の戦士たちに先んじて大戦艦を完成させた彼だが、その身の間近まで、破壊工作に潜り込んだ一行を近づけた――中には白魔道師が混じっていた、という記憶は、どうやら功績の汚点として数えているようだった。
 黒い鎧の、その声。その姿。圧力のような重力のようなひずみを感じさせる、黒い炎を噴き上げるようにも見える存在感。ダークナイトは――あの頃よりもずっと強くなっている。今やその姿は、重厚な風格すら感じさせる。
 同じことはミンウにも言えるだろう。とぎすまされた感覚の鋭さが顔にも表れて、頬の線はいささかやつれ、眼光は炯々として、視線の先にあるすべてをえぐり込むような印象を与えるようになっていた。
 
 馬上からミンウに柄頭をつきつけたまま、無兜の黒騎士はふと一歩、馬を寄せると身をかがめた。
「ダークナイト様!」
 従う騎士たちが声を上げる。ダークナイトはかまわずに、白魔道師の耳に吹き込んだ。
「どうだ、……一緒に来ないか?」
 ミンウは答えない。わずかに目を細め、強い視線を相手に向けた。
「俺に従って来い、白魔道師。癒しの技を持つものは、パラメキア軍……我が陣には稀少なのだ。とりたててやろう」
 湿った海風が舞う。
 ざざあ、と波の音がした。
「……帝国には、」
 静かな、よくとおる低い声が、答えた。
「帝国には……私の技など必要な方は、いないのではありませんか」
「なんだと?」
「帝国の兵士は魔物ばかりだ。この世ならぬ世界の理(ことわり)に従って動く者ばかりだ。白魔法というのは、詠唱の対象者をこの世の理に無理矢理従わせるものです。あなたの下にいる者たちにとっては、白魔道師など敵にこそなれ、戦力にはならないのではありませんか」
 黒い騎士は、今度は白魔道師の顔をのぞきこんだ。
 顔を近づける。互いの息がかかるほど。鼻先が触れ合うほどに。そして、
 
「……白魔道師だからこそ――だ」
 低めた声が再度、頬が重なるほどの近くから、ミンウの耳に忍び込んだ。
 
「白魔道師ならば――この世にいてはならぬ者たちだけではなく、其奴らを呼び出した者にとっても、敵なのではないか?」
 
 ぴしり、と。
 空気が張りつめた。風がやんだ。
 ざざ、ざ、と、波の音だけが飛沫をあげた。
 黒い騎士は、つまりこう言ったのだ。「自分の下で、皇帝に対抗する力となれ」と。
 誰も動かない。きりきりと張りつめる。白く煙った海上。遠く望まれる塔の影。
 肩先につきつけられた剣の柄と、それを握りしめる掌だけが、熱い。
 
 ざざざ、ざ、ざ。
 ざざ、
 
「はははは!」
 ダークナイトはふいに笑い声をあげ、ミンウにつきつけていた武器を引いた。
 周りの黒騎士たちが、ぎょっとしたようにわずかにあとずさる。
「戯言だ」
 ダークナイトが身を起こすのと同時に、黒い鞘が、がちり、と剣を呑みこんだ音をたてた。
「……忘れろ、魔道師」
「先を――急ぎますので」
 ミンウは深々と礼をとり、黒い騎士の言葉を打ち切った。
 ふん、と言って馬首を返しながら、騎士は魔道師から目を離すことなく、斬りつけるような視線を放った。
「だがな……いいか、白魔道師。覚えておけ、いつか俺は――」
 黒いつややかな鎧が、そこに刻まれた数々の傷跡が、翻りながら言った。
「俺は、お前を――いや、お前だけではない。ミシディアを、この世界を、手のうちに納めてやる」
 馬たちがいななく。駆けだす。馬蹄の音。湿った砂の音。遠ざかっていく。
「――いつか、必ずだ」
 
 潮に湿った風が、袖を舞いあげていく。
 波が寄せては返し、生まれては消える泡々しい音が、再び規則正しく耳につきはじめる。
 辺りから人の気配が消えるまで叩頭しつづけていたミンウは、ゆっくりと頭をあげた。
 駆け去っていく小さな馬影を鋭い目で見やると、今度はじっと海に目をこらして――
 波間に煙る、塔の影を見つめた。
 
 
 
(2011.12)