別館「滄ノ蒼」

5,力ノ名前

「招魂魔法(レイズ)は、死んだ者には効かない」
 ミンウが言った言葉は、ずっとフリオニールの心の底に残った。
 
 
 
        *
 
 
 
 暗く渦巻く、ぬるい水の底に沈みこんでいくような感覚がする。したたかに酔って倒れこんだときのような、無数の手が全身を掴んで泥の底に引きずり込もうとする感覚。
 嫌だ。いけない。引きずり込まれたら、戻れない。それはわかっている。手をのばすが、つかめるものは何もなく、むなしく宙をかいた。叫び声をあげようとしても、喉から声が出ない。
 体がじわじわと沈んでいく。ひた、ひた、腹のあたりに冷たいものが満ちてくる。
(助けてくれ……!)
 ここは夢の中だ。わかってはいたが、思わず強く目をつぶった。
(いやだ……マリア、ガイ、……ミンウ……)
 生々しく、涙すら滲んだ。
(う……うわあああああ……っ……!)
 とぷり、と。
 ぬるい泥が胸をこえて、喉元まで浸そうとした、そのとき。
 白く明るい光が、ふいに射しこんだ。どこまでも強い、力をもった光だ。……それを、つかまなければ。フリオニールは必死で手をのばした。暗い渦は、まだ 彼の体を離してはいない。強制的に沼に引きずり込もうとするそれを振り払おうと、足をばたつかせる。降り注ぐ光は、しだいにどんどん強さを増していく。 もっと、もっと。手をのばす。ぐっと背中をそらせ、必死で目を開け、しかと光の中心を見据えると、
「……フリオ。フリオニール」
 名を呼ばれた。
 誰だ。呼んだのは誰だ。俺をつかみあげてくれ、光の下に連れ戻してくれ。精一杯手をのばす。声は、まだ出ない。ひたり、泥水の気配が、引いた。その瞬間――
「フリオニール。目を覚ませ」
 パン、と軽く頬を張られた。
 不意に、視界が開けた。あまりにも唐突に、フリオニールは現実に戻ってきた。
 同時に、全身が衝撃に包まれた。
「がっ……うあああ……!!」
 腹のあたりを中心に、鈍器が肉体を貫いてぐりぐりと回転しているような感覚。
 完全に覚醒した。
 どくどく言う音が体中に脈打つ。頭をしびれさせる激痛。のたうちまわることすらできず、息をつめて背を丸めるしかない。
「大丈夫だ。――回復(ケアル)」
 ミンウが掌を向ける。やわらかな白い光がフリオニールを包んで、消えた。次の瞬間にはもう、嘘のように痛みも衝撃も、消えていた。
「……え?」
 驚いて、フリオニールは身を起こした。手を動かす。体のあちこちを見回す。普段通りだ。顔をあげると、泣きそうな顔で祈るように両手を握りしめ、こちらを見ているマリアと目が合った。
「……フリオ」
「ええと……大丈夫、だ」
 フリオニールの横に膝をついていたミンウは、ほう、と安心したように息をつくと、立ち上がり、言った。
「――動けるか? 立ってみろ」
 フリオニールは素直に立ち上がって、伸びをしたりはねてみたりした。
「おかしいところはあるか? あるなら、それが魔法の副作用だ」
「……なんだかふわふわする、かもしれない。自分の体が自分じゃないみたいで、少し後ろから眺めているような感じだ」
 ごきごきと首や手首を鳴らして、「ほかには、そんなに……」と、フリオニールはもういちど自分の体を見回した。ミンウは、ふむ、と言って顎に手を当てる。
「――副作用は軽い方、か」
「なんか気持ち悪いな。こうして剣を握ってみても、ちゃんと力が入っているのかよく分からないんだ」
「戦闘中だとそんなことは言っていられないぞ」
 少し目を細めて笑った白魔道師は、ついとフリオニールに近づくと、勢いよく彼のシャツをまくりあげた。
「いいか? よく見るんだ」
 マリアとガイが小さく息を飲む。フリオニールは目を見開いた。
 先ほど激痛があった左腹の中ほどに、ばくり、えぐられた傷口が真っ赤に口を開けていた。だが血は流れてはいない。乳白色に発光しているように見える、ごく淡い、透明な膜のようなものが、そこを覆って水っぽくゆらめいているのだ。
「回復(ケアル)の効果だ。魔物による傷自体を治すわけではなく、傷を負っていても『健康な人間と同等の状態』に『なっている』のだ。この効果が続いている間に、身体が本来もっている治癒力がその傷をふさげば、傷は完治する」
「ということは……」
 マリアが、声をしぼり出すようにして言った。
「もしも、重ねて傷を負ったりしたら、回復効果が傷の重さに破られてしまうこともある、ということ?」
「そういうこともあり得る。回復(ケアル)は、熟練するほどに大きな傷を『覆う』ことができるようになるが、いわば、副作用と引きかえに健康体と同等の、仮の姿を与えるようなものだからな。そこに重ねて傷を負った場合、痛手(ダメージ)はより大きい」
「それじゃあ……」
「ケガ、しないのが一番いい」
 思わず自分の肩を抱いたマリアのかわりに、ガイが受けた。
「鳥も獣も、ケガ、避けるのを親から習う、最初に。それに、ケガしてても、ポーション、きらう」
「その通りだ」
 ミンウはガイに向かって大きくうなずいた。
「この世の理(ことわり)に従って、命あるものは育ち、傷つき、病を得、老いて死んでいく。白魔法は、あるべき理を設定し、それに身体を無理やり従わせる、不自然なものなんだ。
 もしも、白魔法を使って、もともと健康な命を長らえようなどと考えるなら――的外れもいいところだ」
「白魔法は……傷も病気も治して、死んだ人を生き返らせるものだと、俺は思っていたよ」
 ふらふらするのがおさまってきたらしく、フリオニールはひとつ大きく頭を振って、言った。
 
 
 
 
 
 
 ――
 兄妹たちは一緒に、森から村に駆け戻ってきたところだったはずだ。
 陽が傾きかけて、まばゆく温かい光が照っていたのを、なぜかよく覚えている。
 その頃は、野に出て魔物に遭うのはずいぶん珍しいことだった。だがその日、不運な男が魔物によって瀕死の重傷を負い、村にかつぎ込まれてきたのだ。
 大人たちが担架のまわりに集まって、大声でどうすべきか話し合っている。それを見たレオンハルトは、近づいてのぞきこもうとするフリオニールたちを止め、家の陰まで連れて行った。
 息を殺して見守っているうちに、近くの村から白魔道師が呼んでこられたようだった。人波が割れ、魔道師が人垣の中に招きいれられる。
 彼は膝をついて男を見ていたが、やがてその掌から、白くやわらかい光が放たれた。
「――招魂せよ(レイズ)」
 すると、息もしていなかったはずの男が、うめき声を上げはじめたのだ。
 大人たちは喜びにざわめく。白魔道師は続けて、回復(ケアル)を唱えた。起き上がった男に向かって、魔道師はそのまま座っているように言い、薬湯を煎じる、と告げると、近くの民家に入っていった。
 やがて薬の煮える匂いが漂い始め、兄妹は鼻をつまんで顔を見合わせると、自分たちの家に逃げ帰った。
 男は白魔道師がさしだした薬湯を貪るように飲み干し、大きな声で笑うと、謝辞を述べたのだという。
 ――
 
「――その人、たしか、しばらく胃がむかついてキャベツばっかり食べてたって聞いた」
「ああ……今思うと、魔法の副作用、かしら?」
「そうだろうな。魔法によって回復を受けた者は、しばらく胃がむかついたり目がまわったり、人によっては一時的に聴力を失ったりするものだ。私が施療院で見た中には、回復効果は現れたものの歩き方を忘れた、なんて者もいた」
 ミンウの言葉に、兄妹たちは顔を見合わせた。
 
 フィンの城下には、重症の病者や怪我人を治療するための王立施療院があった。そこでは、魔物による傷をうけた者には白魔道師による術、病気や事故に遭っ た者には医師の術が施されるのだ。だが、相当に運良くそこまで運びこまれなければそもそも治療を受けることはできず、地方の村人にとってはあるかないかす ら定かでない、遠い世界であることには違いなかった。怪我も病も、家庭薬を煎じたり、せいぜい村の薬師に見てもらうだけで治すものだった。
 
「それで……その人、どうなったんだ? 歩けるようになったのか?」
「数週間かかったな。その間に足がずいぶん萎えてしまった」
「回復のための魔法なのに……、かえって弱ってしまうなんて」
「だから白魔道師は、白魔法と同じくらい、薬草の種類や弱った体に活を入れる方法などを覚えるのだよ」
 ミンウは、ちょいちょいと自分の荷を指さした。そこには様々な薬の材料が入っているのだ。これまでの旅の途中でも彼は、少し足を止めては薬草を摘んだりしていた。
「……回復の魔法と銘打ちながら、体力的な実際の回復は本人の体力頼みなのだな。白魔法は案外、限界が大きいものだ」
 病や事故で弱っているものに対しては、私は全く無力だ、とミンウは自嘲的につぶやいた。
「じゃあ、……じゃあ、招魂(レイズ)は? あれは、死者を蘇らせる魔法じゃないのか?」
「招魂(レイズ)は、死んだ者には効かない」
「……え?」
 冷たいほど厳然と言ったミンウに、フリオニールは思わず目を見張り、マリアとガイは息をのんだ。
「魂を呼び戻す、と書くから紛らわしいのだがね。招魂(レイズ)は、この世ならぬ世界の理の支配下にある魂をこの世界に呼び戻すものだ。つまり、『魔物が従っている別世界の理』に巻きこまれている魂を、この世の理のもとに取り戻すというだけなのだ」
「そんな……」
 ……そうか、それでさっき、とフリオニールはつぶやく。
「ミンウは俺に、招魂(レイズ)を唱えてから回復(ケアル)したよな」
「そういうことだ。理解していれば、順番を間違えたりはしないはずだ」
 一行は荷をしまい、歩きはじめた。
 フリオニールはシャツの裾をちょっとめくって、自分の傷跡をもういちどのぞきこむと少し顔をしかめる。
「……あんまり、見ていて気持ちいいもんじゃないよな……」
「フリオ……もう、怪我しないでね?」
 小さくため息をついてのぞきこんだマリアの顔を、フリオニールは少しの間じっと見ていたが、ふいに早足で歩きだし、ミンウと並んだ。
「……ミンウ、さっきの続きだけど」
「何だ」
「いくら回復魔法がうまくなっても、体力を元に戻すだけで傷は残り続けるというのなら――」
 ミンウはフリオニールを見やった。
「……決めたんだ。マリアに傷なんか負わせるわけにいかない」
「――そうだな」
「レオンがいない間は、俺があいつを守るんだから……あいつの兄は、今は俺しかいないんだから……」
「ガイも兄弟だ。協力して守れ」
「そうだ。マリアの身に何かあったら、俺はレオンに合わせる顔がない。だから、あいつを守る」
「ふふ。なにより、君自身のためにね」
「な……!」
 フリオニールは顔を赤くして、そんなんじゃ、とつぶやくと、ずんずん歩いていった。
 小さくなっていくその背を目を細めて見やると、ミンウは少し目を伏せて、ふ、とため息をついた。
 
(……人を助けるために、魔法を学んでいるというのに)
 彼は目の前の少年一人の心の痛みすら取り除けない。不治の病に冒された若い父親も、その枕辺にとりついて泣く彼の妻も幼い子供も、救うことはできない。
 いくら修行しようと、この世の理についての知識を得ようと、癒しの手と謳われようと、本当に人間としての死に向かっているものは、救えない。
 この世に奇跡などない。魔法は学ぶほどに、己の無力を痛感させる。
 ――けれど、……それでも。
 
 足を止め、来し方を遠く見やる。
 乾いた風が、枯色の草の原をゆらしていく。ざわざわ、ざわざわ。埃っぽい細い道が、その中を頼りなげにうねうねと貫いている。彼らはそこを通ってきたの だ。首をめぐらせれば行く方も同じで、草草の差し交わす道は、すっかり葉の落ちた森へと向かっている。フリオニールとガイは斧をふり、進路の枝を落としな がら進んでいこうとしていた。そして時折マリアを振り返り、三人は少し言葉を交わす。
 彼らは、戦士として進む道を選んだ。そのために剣や魔法を学び、力を得て、強くなろうとしている。しかしいつか――いつか本懐を遂げたとき、彼らは違う道に踏み出すだろう。この戦争に巻き込まれなければ、戦いに自ら身を投じる若者たちではなかったのだから。
 だが、ミンウは白魔道師以外の何者でもなかった。これまでも、これからも。
 才能はあった。熱心に学んだし、このために自分は魔道師になったのだと――詠唱中、怒涛のように流れ込んでくるこの世の条理を、光として見たと、そう 思ったことも一度ならずあった。この戦争が始まってからは、目の前で失われようとする命を一つでも多く救うことが自分の役目だと思い定めた。傷ついて運ば れてくる人々は、異界から呼び出された魔物にやられた者ばかりだったから、皮肉にもミンウの技は以前よりもずっと役立つようになった。
 彼はあくまでも白魔道師だった――たとえ、助けの手が伸ばせない者のほうが数多かったとしても。
 
 フリオニールが振り返り、こちらに手を振っている。
 見上げれば、空にはどんよりとした雲がかかり、ところどころのその裂け目から、淡い色の青空がのぞいていた。
 ミンウはほんの少しの間、瞑目し、そして乾いた細道に足を踏み出す。 
 
「それでも、私は――」
 
 
 
        *
 
 
 
 
 
「……ミンウ……!」
 がくりと床に膝をついたかと思うと血を吐いて倒れこんだミンウに、フリオニールらは駆け寄った。
 紅く染まった覆面を外し、できるだけ楽な姿勢をとらせる。横向きになったミンウは、背を丸めて激しくせき込んだ。押さえた手のひらも赤く染まり、口の端から一筋の血が流れて、ローブにしみた。ガイが、必死で彼の背中をさすっている。
 白魔道師はようやくうっすらと目を開くと、とぎれとぎれに言葉を紡ぎだした。
「さあ、……行け……、扉の、向こうへ……。アルテマの、本を……」
 力なく動くその薄い唇は、乾き、ひび割れている。
 マリアは、歯をくいしばって水筒を取り出し、ミンウの口元に当てようとした。だが、すっかり肉のそげ落ちた彼の手は、どこにこんな力が残っていたのかと思うほど、強くマリアの手を押し戻した。
「私は……命数、を、使い果たしたのだ……」
 かすれた声はようやく隣で聞き取れるほどの大きさだ。それでもどこか意志の力を感じさせる、声だ。
「だから……、私に、かまわずに、行け……!」
 咳きこむたびに、ミンウの白い長衣には鮮血がぽつぽつと散っていく。その力が、次第に弱くなっていく。大股で、ゆっくりと、しかし確実に、彼は死に向かっているのだ。
 自らの身体まで切られるような鋭い痛みを感じて、フリオニールは思わずミンウに向かって身を乗り出し、回復(ケアル)を唱えた。掌に生じた淡く白い光 は、一瞬ミンウを包みこもうとしたが、すぐに儚く拡散してしまった。再度詠唱しようとして、フリオニールは唇を強く噛みしめた。
「……そうか……効かない――のか……!」
 あくまでもこの世の理に従って、自らの意志で力を解放したミンウには、回復魔法は何の効果ももたらさない。
 震えながらフリオニールの手はおろされてゆき、強く握り締められる。ぺたり、座り込んで、床に拳を打ちつけた。何度も打ちつけた。粗い石床でその皮膚は傷つき、擦傷になる。
「くそっ……なんで、なんで……!」
 癒しの魔法を学び、習熟したのに。傷ついた者を助けるために、必死でそうしたのに。その詠唱を教えてくれたひとの命を、どうしてすくい上げることができずにいるのか。
「なんで、」
 なぜ、俺は見ていることしか許されない!?
 歯がゆい。口惜しい。叫び声を押し殺して、フリオニールもマリアもガイも、白魔道師にすがりついた。いやだ、いやだ嫌だ厭だイヤダ。歯を食いしばり、フリオニールはミンウの手を握りしめた。きつく目をつむると、涙がにじみ出た。
「だめだ……だめだだめだ、逝くな! ……せめて、もう少し、……!」
「ありがとう……。だが、もう……」
「……っ……!」
「……私を……この世に、留めおこうとしては、いけないよ……。招魂(レイズ)は、死んだ者には……効かない……からな……」
 覚えているか、と、もはや声にならない声でミンウは言う。
 覚えているさ、と、フリオニールは声を絞り出す。
 小さく、ゆっくりと頷き、ミンウはほんの少し目を細めて――微笑んだ。
「……わかって、いるなら、……泣くな」
 白魔法を身につけた者として、常に精神をこの世界に開かれた、揺るがないものにしておくのだ――と。魔道師の先達として、そして志を同じくする戦士として、フリオニールをそう励まし続けた。すっかり色の抜けた唇で。
 あくまでもまっすぐに、背筋は伸ばしたまま、静かにミンウは視界を失っていく。
「さあ、……行くん、だ……」
 それが、最後だった。
 白いローブから持ち上げられかけた手が、力を失って床に落ちた。
 
 
 
 決して開かれることのなくなったその瞼に触れ、兄妹たちは強く唇を噛んで俯いた。
 
 
(2011.12)