別館「滄ノ蒼」

04

 
 次の秋が深まった頃、セリスが立ち寄ったのは、入り口に欅の大きな木のある街だった。今年の冬はどこに投宿しようか、この街でもいいかもしれない、そう思い出して、道具屋に足を向ける。去年のあの部屋はなかなか居心地が良かった。設備も環境も悪くなかったし、冬の間の部屋の空き具合を聞いておいてもいいかもしれない。
 道具屋をのぞくと、女将がちょっと笑って、前掛けで手を拭きながら出てきてくれた。どうやらセリスを覚えていたらしい。
 
「シェールさん、だったかい? ずいぶんお見限りだったじゃないか。またこの街に来たんだね」
「去年はお世話になりました、女将さん。この街は変わりないみたいですね」
「相変わらずさ。『大崩壊』のときに沈んだ街の跡が一つ見つかったとかで、少し騒がしい連中がいるけどね」
「まあ、それじゃあいろんな人が来ているのね」
「で、どうするんだい? 部屋を見るかい? あんた、今年はどうするの」
「ちょうど考えているところなんです」
「そうかい、よければまた部屋を取っておくれ。……あ、そうだそうだ。手紙を預かっているんだった、ちょっとお待ちな」
「手紙?」
 
 誰からだろう、とセリスは少し考え込む。女将が出してきた手紙の、差出人を見ればロック・コールと署名があって、どきりと心臓をはねさせると同時に、ああそうか、考えてみれば自分がここに寄る可能性は彼しか知らないのだった、と思いだした。
 開封してみれば、一筆箋にごく簡潔に、
『今年もその部屋で過ごすのか?』
 と書かれている。
 セリスが立ち寄らなかったらどうするつもりだったのだろうか、と小さく呆れたが、ロックにとってはどちらでも良かったのだろう、と思い直した。返事が来ても来なくても、この街にちょっと立ち寄って、別のどこかで冬の手作業を探して。そうするつもりなのだろう。
 そこまで考えて、はたと気づいた。
 
「返事、どうしたらいいのかしら」
「返信は差し出し元の宿屋に言付けるものだろう? 出すんなら持っておいで、400ギルで送り返してあげるから」
「そうなのね。ありがとう」
 
 その場でセリスは、去年と同じ部屋をとった。そして便箋を用意して、一言、
『去年と同じように過ごす予定』
 と書いた。
 
 世界を救う旅をしていたころは、何か月も先の予定など考えることはほとんどなくて、せいぜいが明日明後日、あるいは来週の予定を仲間たちと話し合う程度のことしかしたことがなかったから、先の予定を人に教えるのは新鮮な感覚だった。それに、寒くなり始めたせいか、人恋しさが肌にしみてきていた。
 ロックがなにかしているときの横顔は、以前と変わらず好きだ。去年、そう思った。一心にやすりを動かしていたり、注意深く部品に色をつけていたり、あるいはただ湯が沸くのを見ていたり、口笛を吹きながらコーヒーを淹れているときだって。
 また、あの横顔が見られるかもしれない。そう思うと、ドアがコンコンと叩かれるのが待ち遠しかった。
 秋の初めごろにいた街で、新しく気に入った茶の銘柄をみつけたのだった。ロックが来たら、それを淹れてあげよう。彼はお菓子でも持ってくるかもしれない、どうせ雪に降り籠められるあいだ、のんびりお茶をする時間はあるだろう。
 思い出してみれば、飛空艇ではよくお茶をしていた。エドガーやマッシュに教わって、ティナもセリスも茶の銘柄やミルクやお菓子との組み合わせに詳しくなった。リルムとストラゴスにマフィンやクッキーの焼き方を教わったり、ときにはカイエンが茶を点てて、それをガウとモグが神妙な顔をして見ていたり。そんなとき、セッツァーは皮肉げに口の端を持ち上げながらも付き合ってくれた。
 あの白い飛空艇の広間にいなかったひとは、そんな話を聞いてくれるだろうか。
 まだ返事を送ったばかりだというのに、もう冬が来たような気分になりながら、屋台の食べ物を買いに出た。
 
 凩がかたかたと窓を揺らして、ぐっと気温が下がった日、あいかわらず袖をまくったジャケットにほつれかけたバンダナをぐるぐる巻き付けた格好で、ロックは現れた。
 腕をさすりながら「また、よろしく」と言った彼に、小さく笑いをもらす。今回は、ロックは2つとなりの部屋を取ったらしい。彼のことだから、きっと持ち込む荷物は最低限で、ザックを寝台に置いたその足でセリスの部屋を訪ったのだろう。土産だと言って差し出されたのは愛らしいリボンのかかったパウンドケーキで、セリスはさっそく茶葉をとりだすことにしたのだった。
 向かい合って座る。カップはお互いに持ち寄ったブリキのやつだ。ありあわせの皿にケーキを切り分けて、二人の真ん中に置く。ブランデーの匂いがふっと広がって、お茶の湯気にのって鼻に届く。甘い香りに唾液が湧いた。ざっくりした口あたりの、じゅわりとブランデーの沁み込んだケーキは、思ったとおりお茶とよく合った。
 ぽつぽつと話すのは、今年の春以降に何があったか、どんなものを見たり聞いたりしたか、あちこちの街で聞いた噂話、新しくできた道や橋や、どこに古い洞窟があるか、といった話。
 あらためて実感する。もうブラックジャックに乗っていたころとは違うのだと。
 あの頃は、話すことといえば探索の予定や内容だとか、明日の天気がどうなりそうかだとか、仲間の体調やドロップ品の話だとか、そんなものだった。むしろセリスはロックと話すことは案外少なかったから、この人は座って話をするとこんなふうに聞いてくれるのか、と意外に思う点も少なからずあった。
 お茶に口をつけるときの所作を、みつめる。すっとソーサーからカップを持ち上げて、音がしないうちにカップが傾いて、透明な赤褐色が水位を減らす。決して焦ってはいないのに、すばやく見える動き。端々に性質がでるものだなあ、と思いながら、カップを引き寄せた。お茶がやや冷めてきているから、ふうふうと冷ます必要はない。そっと含むと、香りが広がって、鼻に抜けていく。
 
「……? どうしたの?」
 
 視線を感じて顔をあげれば、ロックは頬杖をついてやわらかな視線をセリスに向けていた。目が合うと、視線はふいと落ちてブリキのカップに吸い込まれ、小さく笑って、つぶやく。
 
「なんでもないよ」
 
 お茶に口をつける、その所作を見られていたのだと気づいて、セリスもカップの中に視線を落とした。
 赤褐色の水色がひと口ぶん、水位を減らしている。カップを持つときは指先をそろえて、ガチャガチャ音をたてないように持ち上げて、これまた指先をそろえて添えたソーサーに戻すように、と教わったものだ。
 沈黙が落ちる。お互い、何も言わないままお茶を口に運び、ケーキの切れ端に手をのばす。かすめあった指先の温度があたたかで、ときどき小さくカチャリと音を立てる食器だけが存在を主張した。
 窓の外はやさしく薄暗く曇って、風がかたかたと窓を揺らしていて、静かな空気が心地よかった。
 
 不意に蘇ったのは、彼の唇と手のひらの感触。
 鼻梁がすっと細くて、唇は薄くてすこし乾いていて、やや強引に抱き寄せられた。
 そんなことをまだ覚えていたのかと、自分でもあきれるけど、あの熱さは身体にしみついてしまっていたのだろう。
 一度、キスの途中で身を離そうとしたことがある。
 だれかに見られているような気がして、空を見上げたのだ。けれどそこには夕暮れ色のなかに、ぽつぽつと星が散っているだけだった。
 は、と息を荒く吐いて、鋭くセリスをみつめ、ロックは呟いた。
 
「何? どうした? ……痛かった?」
「……星が、」
「ああ、あれ?」
 
 ちらりと振り返って、彼はぐい、とセリスの顎を向き直らせ、早口で言った。
 
「あれは『王妃の座』っていう星座。二つ並んだあの先端が、北を目指す目印だ。……これでいいか?」
 
 コクリと頷けば、もう一度唇を塞がれ、音を立てて貪られた。
 
 恋をしていた。あのとき、ロックに。
 予感がする。
 また恋を始めても、いいのだろうか。
 ただお茶を飲んでいるだけでこれほどに心地よい相手だと、知ったのは初めてだったから。
 視線を窓の方に逃がすと、フェンネルシードの小瓶と目が合った。
 
 
 
 年が明けて少し経って、毎日毎日雪が舞って、窓枠の外側がつめたく凍りついて、やかんの湯気が硝子を曇らせる季節になった。
 ブーツに滑り止めを巻き付けて、紐をぎゅっと締める。大きめのマントをすっぽりとかぶって外に出ると、びう、と冷たく濡れた風が頬にぶつかってきた。
 一歩を踏み出すたびに、しゃくり、足元でちいさな音がして、積もった雪が潰れて水に変わる。
 何日も何日も、灰色のそらから雪が降り落ちて、ようやく雪の層が掛布団くらいの厚みになった。それでもこの地方の雪は水っぽくて、街中の石畳を真っ白く変えるのが精一杯だった。雨が降ればつるりと溶けて、家々の屋根もむき出しになるだろう。
 それでも長靴の底から冷たくしめった雪の気配は忍び込んできて、足先を冷やす。マントをかきよせる手の先は手袋に包まれているが、それでも指先は氷を触っているみたいだ。
 セリスは箱を背負い直した。木工協会に納める部品たちが入っているのだ。一歩先をゆく足元をみつめて、滑らないように足に力を入れて、歩く。
 
「大丈夫か?」
 
 ひょいと振り返った彼が、セリスに手を差し出す。雪に慣れた感じで、すいすいと普通に歩いているように見えるが、なにかコツがあるのだろう。冒険者としての経験値の差だろうか、長年の慣れだろうか。
 
「大丈夫よ」
 
 ごく自然に手を取ってうなずいて見せると、彼はほっとしたように息を吐いた。口元から、白く、雲が出る。
 
「もう少しだ」
 
 ロックもまた、箱を背負い直して、前に向き直る。しゃくり、しゃくり、足音はふたりぶんならんで、通りを進んでいく。吹く風にまじって霙が飛びすさび、マントの表面をぬらしていくけど、ゆびさきは繋いだまま、そこだけがあたたかい。
 
 
 
「シェールさん、ちょっと」
 
 帳場からそう声をかけられたのは数日後、女将のところに家賃を払いに行ったときだった。
 店子としてすっかり馴染んだから、セリスには女将も気楽に話しかけてくる。その日は、給水管の具合が悪いから修理をするのだ、だから少しの間水が止まる、などということを伝えられて、「わかったわ」と返事をした。
 
「明後日の2時から、3時間位ね」
「そうそう。あんたの連れにも伝えといておくれ」
「え、連れ?」
「コールさん。くっついたんだろう?」
「そ、そんなんじゃないです!」
「そうなのかい?」
 
 不思議そうに首を傾げる女将に、いたたまれなくなる。驚きのあまり、かっと耳が熱くなった。一緒に協会に出かけるところでも見ていたのだろうか。
 女将は声をおとして、内緒話のようにセリスをのぞきこんでくる。
 
「あんたたち、どう見たって連れ合いなんだけど」
「へ」
 
 間の抜けた声を出してしまった。女将は好奇心に目を輝かせてセリスを見ている。
 
「違いますよ……前から、少し知り合いだったんです」
「そうだったのかい」
 
 怪訝そうな色を宿らせて、女将はよいしょと背を起こした。とんとんと腰を叩くと、「まあいいさ」と言って後ろを向き、暖炉の火をがさがさとかきたてた。
 
「どっちにしても、あたしから言うよりあんたから伝えてもらったほうが早そうだから。頼んだよ」
「え、え?」
 
 女将がさっさと引き取ってしまったので、セリスはわたわたしながら荷物を抱え直し、ひとつ息を吐くと、踵を返して階段に向かった。
 
 
 
         ◆
 
 
 
 セリスへ、ティナより 
 ひさしぶりね、セリス。
 こちらは変わらず、みんなで暮らしています。ロブとマールが8つ、カイとエルダとナビーが10の誕生日を迎えて、だいぶ畑仕事や計算ができるようになりました。ディーンは熱心に、子どもたちに読み書きや計算を教えているのよ。アレンに手がかからなくなったら、教師になるための勉強をしてみたいんですって。今まではカタリナとアレンを守るので手一杯だったけど、もうカイたちがウサギを捌けるようになったくらいだもの、新しく何を覚えたっていいのよね。教師の勉強のためには何が必要か、こっそり調べているところなの。何か知っていたら教えてね。
 わたしはといえば、この間、はじめてモブリズの歌を知ったの。ずっと、子供たちがときたま口の端にのせる、きれぎれのメロディしか知らなかったのだけど。その歌を教えて、と言ったら、みんなで声を揃えて合唱してくれたわ。『狩りの星』が空の真ん中をすぎたころに、薪を集めながら歌うことがあるんですって。このあたりは冬の真ん中に少しだけ雪が降って、積もらないで溶けてしまうから、外にいてもあまり濡れることはないの。きっと冬の終わりがせまってもまだまだ寒い中、身体を暖めるのにみんなで歌ったものでしょうね。
 
 あなたは今、なんという街にいるのかしら。去年とは別の街かしら? それとも同じ? どんな食べ物がある街で、どんな眺めの通りがある街なのかしら。
 想像するだけでも、どきどきします。あなたが、楽しく過ごしているといいのだけど。
 いつか書き送ってくれたように、いつだってモブリズに立ち寄ってくれていいのよ。みんな、セリスの顔を見るのを楽しみにしてるわ。もちろんわたしも、あなたの口からいろんな街や遺跡の話を聞くのが楽しみなのよ。
 
 それからね、セリス。
 恋をしていたあなたは綺麗だったわよ。
 今だってまっすぐに前を見て、知らなかったものを見つける眼差しが透き通っていて素敵だけど、ときどき夕方になるとそっと外に出ていっては帰ってくる、秘密をもってそっと下を向いて、目を潤ませていたあなただって、とても魅力的だった。羨ましいようなずっと見守っていたいような、不思議な感じがしたわ。
 
 冬風の祝福がありますように。冷たい風が、あなたの行く方を吹き払いますように。
 
 
 
         ◆
 
 
 
 大寒が過ぎた祝いの夜だ。もうじき、裏庭のすみにずっと積もり固まっていた雪塊も、ゆるんで水になって溶け出し始めるのだ。
 うっすら白い雲の切れ間がすこんとひらけて、銀河がのぞいていた。
 夜は底冷えして、澄んだあおだった。
 窓の外をのぞくと、ひやりとした硝子の温度が頬に伝わってくる。吐いた息の当たったところだけ、視界が白くまるく曇る。
 隣を見やればロックが座っていて、窓越しに空を見上げている。今夜の空は何日かぶりに晴れ渡っていて、広がった夜空のやや西寄りに高く、眩しく輝く星が上っていた。そのあたりを指さして、ロックは言う。
 
「あれが大寒が過ぎた祝いの日の星座だ」
 
 と。セリスは視線をうごかして、「なんていう星座?」と言った。
 
「ブリアレオス。隣のベルモーダーにとびかかろうとするところで、心臓のところが『あらたまの星』なんだ」
「『あらたま』?」
「ほら、あの一番明るい星。あれが『あらたまの星』、年が改まったときにはちょうど、空の真上のまん真ん中に座してるから、そう言うんだぜ」
 
 その名前は、前に教えてもらったようで、そうではなかった。以前――たどたどしい恋をしていたときは、目の前のひとの唇をうけとめるのに精一杯で、その背にしがみつくのに一生懸命で。一度、北を示す星座の名前を教えてもらっただけで、ともに空を見上げて星を愛でるなんてこと、しなかった。できなかった。
 ただ夕暮れ空に薄っすらと浮かんだ星座に、しずかに見おろされていた。
 
「『あらたまの星』はとても眩しいわね。どの星座も打ち消してしまうくらい」
「そうだな。この季節の南を示す星だから。あいつに背を向けて真正面にあるのが、『七曜の座』、七つの星が連なる星座なんだ。それは見えるはずだぜ」
「そうね」
 
 セリスは思わずそちらを振り返る。北の方角は室内ではただの天井で、星座など見えはしなかったけど、記憶にある星座のかたちを思い浮かべて、やわらかく目を細めた。
 もう一度、窓の外を見上げる。あおく眩く光る、あらたまの星。周囲には細かな砂をまいたように星が散っていて、それらもまた、名のある星座を描いているのだろう。
 
「……ねえ、ロック」
「なに?」
「ベクタの話を、していい?」
「うん。どうした?」
「あのね……ベクタでは――帝国では、」
「うん」
「あの星は『貪狼』といったの。どちらかというと縁起が良いものではなかったわ」
「そうなのか。なんで?」
「ベクタの、どんより薄白い冬の空でも、はっきり見えたから。毎年、大寒の夜は身を慎んで、外に出ないようにして過ごすものだった。外に出ない――星の光を浴びないようにするものだ、って、絵本で読んだ」
「そっか。星の光は、あまり良くないものなんだな」
「そう言われていたわ」
「なんでなんだろ? 俺含めトレジャーハンターはみんな、星を方角の目印にして進むのに」
「きっと、ベクタでは空が曇っていて、星があまりはっきり見えないからね。帝国城の光に打ち消されずに見える眩しい星なんて、禍々しく思えたのかも」
 
 良いものは、あの街ではきっと、人工的なものだった。サーチライトの強い光とか。城を動かす蒸気機関の音とか。灰色のスレート葺きの建物たちの床にはリノリウムがはりつめられていて、歩くたびにきゅっきゅっと音がした。空を見上げてもうっすら灰色で、星座の名前なんて知らなくて、それが正しいと思っていた。
 そんな、何も知らなくて純粋だったころ。そのこころもちは世界を救う旅をしてどんどん変わっていって、夕日のいろや風の匂いを綺麗だと思うようになった。それでもひとを思うことには不器用なままで、何も言葉に出せずにいたこともたくさんあった。そのひとつを思い出して、ゆっくりとセリスは紡いだ。
 
「『王妃の座』の先端の、星がふたつ並んだところが、北の目印。何度も見上げたわ。けど私は、全くなんともない。無事に旅を続けられている。だからあの星のひかりは、悪いものじゃなかった」
 
 ロックははっとしたように目を見開いた。覚えていたのだろう。その星座の名前を人に教えたことも、それがセリスだったことも。
 
「そうか、教えたよな。……覚えてて、くれたんだな」
「ええ」
 
 仲間が見つからなくってどんなに苦しくても、北を示す星は、みつければいつだって変わらずに光っていた。それがどれほど心強かったことか。ふたつ並んだ先端、寄り添い合うような双子星。あの長旅のあいだ――それを終えて一人の冒険者になってからもずっと、頼りにしていた。
 
「とても役に立ったわ」
 
 ふと、ひとの体温が恋しくなった。目を上げればロックの榛色の目があって、しっかりと視線が絡まった。お互いにやわらかく見つめ合う。ごく自然に、ゆびさきが重なる。戯れるように指を絡め合い、互いの指先で手の甲に触れ、すぐにてのひらの温度を伝えあった。ロックのそこはすこし熱くて、セリスの手はひやりとしていて、おだやかに馴染んで、おなじ温度と湿度になる。
 
「セリス」
 
 呼ぶ声は熱を持って、すこしかすれていた。視線が少しだけ、揺らぐ。光の具合で、ロックの瞳の色が緑みを帯びてみえる。
 
「好きだ」
 
 ロックはすこし眉間にしわをよせて、それでも口元はほころばせて、ふっとするどい目尻をゆるめて、セリスをみつめた。
 ちょっと泣きそうな顔だ。そう思いながら、セリスも微笑んで、彼を見つめ返した。ん、とうなずいてみせる。関節のめだつ器用そうな指がのびてきて、白い頬にふれた。
 
「……すきだ、ずっと」
 
 それだけを繰り返す。眉間のしわが、ふかくなった。口元が、軽くへの字になるのを見て、セリスは小さくくすりと笑った。手を伸ばし、ロックの頬にふれる。なでる。
 見つめあうと、榛色が揺れるのがわかった。笑みを深めてみせ、こくりともういちど、うなずく。私もよ、と小さく言った声は、ゆっくりとロックの鼓膜を打った。
 
「春になったら、あなたの行くところへ一緒に行きたいわ」
「! ……ああ! そうしよう」
 
 去年だって、ほんとうはついていきたかったのだ。そうセリスは気づいた。けど、言葉にならずにただ、彼の背を見送っていた。
 春になったら、また彼はどこかに行ってしまう、ひとりで。そう何度気づいていたのだろう。行かないで、行ってしまわないで、春を迎えたくなんてない、きっとそう叫んでみたかった。でも、それを言ったらかえって彼は離れていくだろう、そんな気がして、何も言えずにいた。
 ふふ、と笑い合いながら、頬にゆびさきをすべらせあう。彼の頬はすこしそげていて、肌はやや乾いていて、髭をあたった跡だろう、ほんのすこしざらついた。耳が赤くなっているのが見える。ゆるりと細められた目の、眦のあたりも。薄っすらと涙が滲んでいる。きっと自分もそんな顔をしている。愛おしい、いとおしい。
 距離を近づけたのはどちらからだったのだろうか。
 唇がふれた瞬間、二人の間でだけ、音が消えた。
 
 一度、離して。
 見つめ合って、笑い合って。
 また近づけて、食みあって、くちづけはどんどん深くなっていく。
 
 この冬、いったんは途切れた二人の、糸がまた繋がった。
 今度は不器用にあたたかさを求めるのではなく、言葉に出して気持ちを、互いの温度を、確かめ合うことができたのだった。
 窓越しの空には変わらず、あらたまの星が炯々とかがやいている。