別館「滄ノ蒼」

8月16日(1)

 ――声が。
 声が、ずっと聞こえている。
 太陽に熱せられては、月の光に芯から冷やされる、それを繰り返すだけの砂の中には、わずかばかりの生き物がしぶとく棲んでいるだけだというのに。
 どこからか泣き声が、ずっと聞こえる気がしている。
 頼りなげで。
 ぐにゃりとして、熱くて。
 やわやわしく力強い、
 赤子の泣き声が。



        *



 斬りつけるように涼やかな、なのにどこか熱気を含んだ、夏の夜の風が流れていく。
 沙漠の上空は、機械のうなる音以外に耳に届くものがない。鳥の鳴き音も翼のはためきもかき消され、雨の音も雷の音も、時折はるか遠くにうかがうことができるばかりだ。
 そこから板子一枚――正確にいえばドア一枚隔てて石造りの階段を下れば、この世界が立てる音からは完全に引き離され、今度は人のざわめきが感覚を満たしている。
 城内には客人を留め置くための階層があるが、そこからわずかに外れれば、人の気配を感じつつも身を隠すことのできるスペースは意外にあるものだ。
 たとえば廊下の角の、円柱の陰だったり。階段の手すりの死角だったり。行きかう人々の声や足音は聞き取りつつも、ぼんやり座っていられるような、そんな 場所。口の悪い者などは、「逢引用のきわどい場所をあっちこっちに造りやがったんじゃないのか、設計した奴はどういう趣味をしてるんだ」などと言うものだ が。
 ちょうど今、そういった場所のひとつで優雅にささやかれたのは、残念ながら愛の言葉でも慰めの愛撫でもなく、物騒極まりない台詞だった。

「お前だったら、」

 ……しかも、この城の主が余裕の笑みを浮かべつつ口に乗せた、言葉だった。

「お前だったら俺を、どうやって殺す?」

 夕食のメニューでも聞くような調子に、聞かれた男も、淡々と答える。
「毒だろうな――遅効性または蓄積性の毒」
「やはり、それかい?」
「言っておくが、俺自身はやらん。毒の扱いは専門外だ。流儀でもない」
 フィガロ王は斬りつけるような視線を相手に向けたまま、専門家の意見は参考になるよ、と言った。

 暗殺を生業とすると言われる男と、某国の国王は、一定の距離を保ったまま立っている。腕を伸ばして届く範囲の、きっちり半歩外側だ。話している内容ゆえ ではなく、この二人の間の物理的距離がこれ以上に縮まったことは未だにない。必要最低限の回復や小声でのやり取り以外には。
 互いの職業柄、暗黙の了解――というよりも、二人の身分を知っている周囲の人間のために、その距離の緊張感はずっと保たれていた。

「そもそもお前を殺そうとする場合、俺のように刃を武器とするアサシンは使わんだろう。戦場で殺るのでない限りな」
「城内で後ろからぐさり――は、さすがにないということかい?」
「一国の王を殺すのに物理的攻撃のみを頼るのは、下策に過ぎる」
「まぁ、そうだろうね」
 何かを思い浮かべるように顎のあたりに手をやって、エドガーはさらに、言葉を重ねた。尋ねるというよりも、確認する口調で。
「刃を使わない、暗殺する側としての理由は?」
 ごくわずかに見えている目元で、わかっているだろうに――と呟き、アサシンは応える。
「ひとつ。傷による死は事件性が高すぎる。内政の混乱、政変、外交政策の転換、その他もろもろにつながれば依頼主の目的――暗殺によって得るはずのもの ――自体が頓挫しかねん。ひとつ。刃による暗殺は、見つかり次第すぐに下手人が特定される。ひとつ。そもそも一国の君主になど、物理的に近づけない」
「お察しの通り――というべきかな。一人きりになることはまずないね。扉の向こう垂れ幕の裏天井の上、常に誰か近衛の手の者がいる」
「今は大丈夫なのか? ツッコミはしないが」
「居るよ」
 黒衣の男はわずかに目を細めた。ほんの少し、彼の身にまとう空気が張りつめただけのようにも思えたが、その一瞬に気配をさぐり、辺りに視線を走らせたのだろう。相対する男はそれに気をとめない様子なので、そのまま目を伏せて、続ける。

「……だから、一国の王を殺せといわれたら、長期間の準備によって、もっとも自然に見える死に方と、それを可能にする方法・武器、それらを調査する必要がある」
「そして使うのが蓄積性の毒などであれば、さらに時間がかかる。気の長い話だ」
 青年王は他人事のように刺客を憐れむと、さらさらと推論を進めた。
「加えて言えば、俺に一番死んでほしい奴はかえって手を出せない。あからさまに得をする者が真っ先に疑われるからな。市井の富豪なり貴族であれば、ライバ ルや政敵がまず怪しまれるのが普通だ。君主だろうとそれは同じだ、少々規模は大きくとも商売敵が第一容疑者だ。……だから、ガストラは俺を殺せなかった」
 廊下を照らすランプの明かりが、ほんの少し揺れた。
 遠く広間からは、仲間たちが笑いさざめく声が聞こえてくる。

「ガストラは俺を殺せなかった。俺は――ガストラを殺せなかった」



 遠く、赤子の泣き声が聞こえる。
 確か出産を控えて宿下がりしていた侍女がいたはずだ。もしかしたら、生まれたのかもしれない。
 沙漠の真ん中に屹立するフィガロの城には、ゆえに城下町といえるものは周りになく、城に仕える者たちは城内に居住区を与えられ、そのために代を重ねるう ちに家族ぐるみ一族ぐるみで働く者が多くなっていた。だから、宿下がりといっても居住区にいるだけのことだ。だが、城の構造上、そこの音は王の居室周辺ま で響いてくることなどないはず……だが。
 やわっこくて、熱くて。
 ぐにゃぐにゃして壊れそうなくせに、力強い、
 赤子の泣き声が、遠く聞こえている。

「……今日が、あの子の誕生日なんだね」

 遠くを見やるような目をして、エドガーはつぶやいた。
 王と同じ日とは、随分な果報ではないのか、と問えば、ああそうか祝福を与えてやってくれとか何だとか後で言われるかもね、などと妙に間延びした応えが返ってくる。
 「王の祝福か……、」と、暗殺者はひとりごちた。
 生まれた国の、王どころか司祭――あるいは親にすら、彼は誕生を祝福されたかどうか。記憶はなく、そのようなことを教えられた覚えもない。そして自分 は、娘の誕生に祝福を与えられていただろうか。大仕事を終えた妻をねぎらい、赤子を抱いたときには何ともいえない感慨があった。村の長老と聖職者には礼を 尽くして祝ってもらったし、近所の者は祝辞を述べに来てくれた。だが、底のない空恐ろしさを、自分は足元に感じてはいなかっただろうか。
 国民のほぼ全員から言祝ぎを向けられたのであろう目の前の男との差を、ぼんやりと省みた。
 
「お前はあの子供に、……何を与えると誓う?」
「精神の自由を――それを保証する施政を」

 青年王は、ためらうことなく答える。
 おそらくその座についてから何度も何度も、振り返っては自分に問い直し、批判を加えては推敲しつづけ、祝福の言葉として赤子や子供に与えるために持っている言葉なのだろう。そして、続けた。

「俺はね……あいつの『自由』を守りたいと、思っていた。ずっと」
「お前の弟の、か」
「ああ」
 自分の思うトコロに行く自由、望むコトを行う自由、そして、何にもとらわれずに思考する自由。
 彼が今、辿りついている答えは、彼にしかできない方法でそれを守ることなのだろう。
「……俺の立っている場所は、あいつまでも縛る力があるから。だから俺とはできるだけ離れていろと。そうしていてくれれば俺はあいつの『自由』を守れると。そう思っていた」
「違うのか」
「――違った。そう願うことは、逆にあいつを縛っているんじゃないか」
「何故だ」
「あいつは、自分が『自由』であるふりしかできなくなっているのじゃないか。俺はいない、だからお前は自由だ、さぁ好きにしろ――そう宣言されたらハイその通りですと言うしかないのじゃないか」
「――……」
 暗殺者はかすかに目を伏せたが、どこか絞り出すように平坦な声で返した。

「だが、それが――お前ができる祝福であるのなら、半端な所で止めるわけにもいくまい」

 ぐにゃりとして、熱くて頼りなげで、
 やわやわしく力強い、
 赤子の泣き声が。
 ――ずっと、遠く聞こえている。

 

 

「天の川浅瀬白波たどりつつ」