別館「滄ノ蒼」

1、崩壊前

 薄暗い洞窟の空気は生暖かく、妙に有機的だ。そのなかにあって、機械部品のかたまりだけが人工的に黒く、自律的な動きや唸るような音すら異質だった。
 キャタピラが止まる。なにかのアームが、駆動音をたてて回転する。きっちり60度回転、ぴたりと止まる。甲高く震えていた音がにわかにひゅうと低くなり、ボディがぱかりと割れて、砲塔が現れた。青白い光が走る。

「――セリス!」

 焦ったロックの声は、彼女には届いていたかどうか。びしゃり、と白い頬から血が飛び散った。身体が吹っ飛ぶ。二転、三転、転がった先で、セリスは滑らかに跳ね起きて、機械的なほど正確に、また剣を構えた。

「ディッグアーマーか。……ロック、駆動部品を壊せ! レーザーと魔法はこっちで引き受ける! 追跡プログラムが動作しているはず」
「無茶するな!」
「言われなくても」

 セリスは眉一つ動かさずに、べっと唾を吐き出すと、正しい手本のような身のこなしで、切っ先を敵にぴたりと向ける。
 地面に染みこんだ唾液には、血が混じっていただろう。その匂いが、あるいは彼女の流す血の匂いが、獲物はこちらに居るぞと、機械の奥底にプログラムされた何かを呼び寄せるのかもしれない。砲塔が、そちらを向く。ウイン、と機械音がして、後部のカバーが広がった。
 セリスと目が合った。今だ、と、うすい蒼に力がこもった。
 まばゆい光が、砲塔から放たれる。それはまっすぐにセリスに向かって……、いや、彼女が掲げた剣に向かって吸い込まれていく。

「――っりゃああ!」

 ロックは短剣を逆手に、飛び込んでいった。ボディのあちこちを這い回るケーブルをぶった切る。なにかのジョイントに柄頭を叩き込み、規則正しく上下運動する部品を蹴り曲げる。モーターの駆動音が変に高くなった。
 もう少し。もう少しで、こいつを壊せる。

 ……セリスの顔も体もひどいことになっていた。
 転がったときに切った口の端、レーザーが切り裂いた頬はもちろん、擦過傷から滲んだ血が服越しにもわかる。アームかなにかだってヒットしていたはずだ、そこは痣になっているだろう。捻挫も骨折もしていない様子なのが幸いだ。
 なのにセリスがまず最初にしたことは、ロックにケアルを唱えることだった。
 ロックが、あ、とかう、とか言う間もなくさっさとロックの腕に柔らかな光をたたきつけると、自分の傷には油だけ塗って済まそうとしたのだ。
 その手を押し留めながら、ロックは怒鳴った。

「……なんで、」
「……え?」
「俺の傷のほうが軽いだろ! お前の怪我を先に治せよ! だいたいポーションだってあるんだ、傷の具合をろくに見もしないで勝手に始末を終わらせるなよ!」
「必要ない」

 うすい蒼の目がロックを見上げる。そこに浮かんでいるのは戸惑いだけだ。なぜ反論されるのかわからない、という目。単なる事実を言い含める調子で、続けた。

「本当に、必要ないと判断したんだ。魔物が現れるたびに、奴らに向かって飛び込んでいくのはお前のほうだ。だからお前の傷を先に治すべきだ。それに、ポーションの残りもあまりなかったはずだ。私の魔力の残りも温存しておくべきだから、このままで良い」
「いや、あのさ、傷……」
「本当にもたなくなったら、ポーションを使わせてもらう」
「痛いし、傷痕が残るかもしれないだろ? ……お前、女なんだからそんなの残ったら……」
「なら余計に、必要ない」

 セリスはキッと眦を吊り上げた。怒った――ムキになった? そんなふうに感情らしきものをあらわにしたのは、初めてだった。ロックがそう気づきかけても、セリスの話し方は平板で、揺らいだものを遠くに押しやってしまう。

「私を女扱いなんかするな。必要ないから。
 さっきお前は言っていたな、この洞窟を抜けたら、砂地や森や、結構な距離を歩いていかなきゃならないんだと。ナルシェは砂漠のむこうなんだと。――だったら、お前がまずそこに無事たどりつけることを考えたらどうだ」
「考えてるって。だからお前も一緒に、」
「はっきり言おう。私は手負いだ、脚がまだ治りきってないんだ。戦力としてものの役に立たなくなったら捨て置いていけ。足手まといになりたくない」
「あのさあ」

 さすがに怒鳴りつけたくなったロックよりも先に、セリスは淡々と続ける。――まただ。

「連戦の戦場での当然の判断だ」
「だーかーらー……」

 ロックはがりがり頭をかき回して、うなった。深く深く息を吐き、精一杯冷静に、かつ穏やかに、言葉を選ぶ。彼女に届く言葉はあるか。ふざけるな、わからないのか、そう切り捨てては今後のためにならない。目的地はまだまだ遠いのだ。うすくて浅い蒼が、不思議そうにロックを見ている。

「……俺はお前の部下じゃない。そこ、まず、わかってるか?」
「解っている」
「だったら、『命令』するなよ。『相談』してくれ。違い、わかってるか?」
「……知っている」
「じゃあ、お前が思ったこと、考えたこと、俺に言えよ。一人で勝手に決めないでさ。そしたら、一緒に考えられるから。それが仲間だろ」
「……」

 セリスはうつむいて、少しためらう仕草をしてから、「やってみる」と小さくうなずいた。
 ――こりゃ、長丁場だぞ……。
 もう一度ロックは息を吐いた。至極あっさりとした口調で、「じゃ、大きい傷だけポーション使っとこう。な?」と口に出せたのは、年上のプライドだ。
 

      §


 キャンプの場所を決めると、ロックの動作は速い。あたりを見回して風向きを確かめると、そこらの大枝を地面に引き下ろして固定し、陰を作る。あたりに紛れるようにさりげなく、そこで横になろうというのだ。

「おし。寝場所、完成っと」

 手を払うと、焚き火の位置を決めたらしく、石を拾って重ねていく。手際よく落枝を重ね、マッチを擦って放り込む。ふうふうと数度、息を吹きかけると、炎が燃え上がった。
 セリスはしばらく所在なさげに立ち尽くしてロックを眺めていたが、ことりと小さく首をかしげると、「枝を拾い集めれば、いいか?」と言った。

「お、ありがと。ずっと燃やしておきたいからさ、できるだけ集めて」
「わかった」

 炎の上に網を渡し、コッヘルを乗せて水を注ぐ。それがふつふつ言い始めるまでの間に、さらりと荷がひろげられる。干し肉の袋、薬草、塩の袋。缶詰。ひとつ切り開け、火の上へ。荷物の横あたりからクラッカーの缶を取り、ぱかっと開けて、数枚、これは網の端の方へ。セリスがそっと寄ってきて、近くの地面に落枝を重ねた。

「なーセリス、スープ食べるよな。ピモピモ草って大丈夫か?」
「……私は、遠慮しておこう。一人で食べるといい」
「なんでだよ。食べなきゃもたないぜ」
「あまり残ってないんだろう? 糧食が」
「そういう問題じゃないって。まだ先は長いんだぞ」
「……命を助けて、連れ出してもらった。それで十分、」
「何言ってんだよ」

 コッヘルの湯に、ぽこぽこと泡が上がってきた。干し肉を細かく裂いて投げ込む。乾燥穀物の袋からもひと掬い。薬草の袋を取り出し、ぱりぱりになっている部分をちぎり入れる。その辺で摘んだ草も放り込み、そのままスプーンでガチャガチャかき混ぜる。
 じっと見ていたセリスの眉間が、どんどん怪訝そうに深くなっていく。

「大丈夫なのか? ……その、黒い草とか、食べられるんだろうな」
「んー、まあ、いけるいける。多分」
「多分って」

 なんか青くなってきてるんだけど!? という抗議の声を無視して、これまたさっき拾った椎の実を割っていく。ちょいちょいとスライスし、網の上に並べる。コッヘルの内容物をマグカップに注ぐ。多少裏漏れして火に落ち、じゅっ、と言った。じりじりと焦げ目がついてきたナッツをぱらりと浮かべ、ずいっとセリスに差しだした。

「とにかく食べろよ。ずっと、水しか飲んでないだろ? 毒も何も入ってないから。見てたろ」
「そういうことは……疑ってない」
「じゃあ、早く食べろ」
「でも」
「だから何で、」

 さらに言いつのろうとしたセリスの腹から、ころろろ、と音がした。

「……!」
「あははっ」

 ふはっ、と吹き出すと、ロックはマグカップをセリスの手に押し付けた。耳を赤くしてゆっくり座りこみ、じとりと見上げてくる彼女には構わず、網の上のクラッカーをひっくり返した。コッヘルを取り上げ、スプーンを手にとって、地図に視線を落とす。

「体が言ってるじゃん、生きたい、進みたいって。……そういうのって、自分が思ってるのと違っててもさ、だいたい正しいもんだから。従っておけよ」
「……いただこう」

 おそるおそるマグカップに口をつけたセリスが、ちょっと目を見開いた。

「……!」
「ちゃんと食えるだろ」

 はふはふとスープをかきこみながら、明日は兎の穴でも探しながら歩かなきゃな、とロックは言った。

「干し肉がそろそろなくなるからな。補充できるといいんだけど」

 ついでに毛皮を売れたら御の字だぜ、などと呑気に言っている。セリスは慌ててマグカップを置いた。

「……やっぱり、糧食が足りないんじゃないか……!」
「いや、いつもこんなもんだって。背負う荷物はできるだけ軽くなきゃいけないし」
「でも、だからって、二人分なんて、」
「遠慮するところじゃないだろ、それ」

 ロックはスプーンの柄の方で、ぱきっと網からクラッカーをはがす。端のほうが茶色く焦げて、小麦のあたたかなにおいが立っていた。ぱりぱりと咀嚼し、スープを口に運ぶ。もうひとかけを取ると、問答無用でセリスのマグカップに突っ込んだ。

「あのな、こう言えばいいか? ……いいから食える時に食え。いつでも動けるようにしろ。足手まといになるな」

 セリスはきゅっとうつむくと、小さくうなずいて、マグカップを口につけた。



 コッヘルが空になった。ざっとすすいで、茶袋にそのへんの草を入れて煮出す。今度はセリスも何も言わず、湯に色がついていくのを見つめている。頬にうつる炎のいろはすでに赤っぽく、きんいろがちろちろと影との境目を揺らしていた。

「……野営くらい何度もした」

 ぽそり、セリスの声がこぼれる。ロックは何も言わず、耳を傾けた。

「けど、食べるものは決まっていたし、作り方はよく知らない」

 堅パンに、肉と豆と何かの野菜の煮込み。3通りの味付けが順繰りにやってくる。手早く残さず、決まった動作でてきぱきと済ませるのが肝要だ。セリスは将校だったから、食事は従卒と一緒に決まった時間にやってきて、30分後に何かの指示と一緒に下がっていくものだった。

「駐屯地にいれば、士官用の食堂で食べる。メニューは似たり寄ったりだ。肉と豆と何かの野菜の煮込みに、米かパンに、ピクルスとサラダと。毎日毎日、3回づつ顔を合わせるわけだから、給養員たちの顔はすぐに覚えた。けど、話したことはなかった」
「……まあ、だろうなあ」
「話をしながら食べたこと自体、あまりなかったように思う。作戦や訓練の話をするわけにはいかないし」
「……だろうな」
「あの、」
「何?」
「面白くないだろう? こんな話」
「いや?」

 コッヘルを取り上げてセリスを促せば、彼女はマグカップを持ち上げる。茶らしきものを注いでやると、マグを両手で包み、ふ、と息を吐いた。淡くてうすい目の色が睫毛の影になる。崖の上から見た海の一番深いところのいろに、すこし似ているかもしれない、と、ロックは思った。

「続けて」
「……ありがとう」

 数瞬、間があいた。何を言おうか考えているらしい。
 白い頬の表面で、朱色のひかりが揺れる。焚き火がはぜて、ぱち、と言った。

「あの」
「何?」
「おまえも、休暇には実家に帰るのか?」
「……なんで?」
「……その、」

 セリスは少し考えこんだ。警戒させてしまっただろうか、と首をかしげ、言葉を補おうと口を開く。それがわかったから、ロックはじっと、視線だけで彼女を待つ。

「それぞれの家の味というのが、懐かしいだとか嬉しいだとか、兵士からよく聞いたから」
「……お前、家には帰らなかったんだ?」
「そうだな。博士の研究所が、家といえば家か。私はそこで育ったから」
「研究所って、『魔導研究所』……か。『鬼才』シド博士の」
「知ってるのか」
「まあ、な」

 名前くらいはね、と付け加えた言葉は、嘘といえば嘘だ。さすがに帝国本土にまで乗り込んだことはないとはいえ、帝国軍の陣地や酒場の兵士の内偵でもすれば、帝国が抱える魔導の機構、ひいては研究所の功績の姿が、おぼろげながらにも見えてくる。敬意のこもった畏怖とともに語られるのは、研究部長であるシドの名前だった。長きにわたって――幻獣研究が始まった頃からずっと、その地位にある人物。為人はよくわからない。

「シド博士、か……。どんな人なんだ?」

 さりげなく、世話話の調子で。マグカップに茶を足しながら、話をふってみれば、セリスは警戒する様子もなく、答える。

「優しい人だった。……甘くはなかったけど」

 セリスは軽く肩をすくめて、目元をふわっと緩ませる。

「花の育て方を教えてくれた。絵本を贈ってくれて、読み聞かせてもらったこともある」
「そっか。……お前、研究室には?」
「あまり。あちこち立ち入るなと言われていたから」
「……そうか」
「でも、博士を訪ねるたびに、3時にもなってからチーズなんかをかじっていたな。昼食が面倒だと言って。私にはお茶を淹れてくれて」
「……研究熱心なんだな」
「そうだな。いつも、顕微鏡をのぞいているか試験管を見ているかで。……仕方ないから、私がサンドイッチを持って行くことにした。博士は、喜んでくれた」

 はかせ。そう言うときだけ、セリスの顔はほんの少し、ふわっと柔らかくなる。うすい蒼の視線は、どこか遠くを見ているみたいになって、大切な物の置き場所を探すような陰りを宿す。

「だから私は、サンドイッチの作り方は知ってるんだぞ」
「あはは、そっか。その時には頼むわ」

 何か言おうとしたのか、セリスの手がマグカップから離れた。少しの間、手持無沙汰そうにさまよって、襟を少しかきあわせた。口をつぐむ。胸元で、ペンダントかなにかが、ほのかに焚き火の光を反射する。今になって気づいたけど、細い鎖に通された楕円形の板が二枚組になっているらしい。
 どこかで見たようなデザインだ。なんだったっけ。
 何だったか。
 何だ、

 ――ドッグタグ。

 その単語を思い浮かべて、知らず、背筋がぞわりとした。

「……それ、」
「これか?」

 視線に気づいたセリスが、ペンダントを持ち上げる。なんとも思っていない調子で、
「帝国軍の識別タグだな」
と言った。

「兵士番号と、被験体番号が入っている。私が帝国でどんな立場だったか、証拠になるだろう」
「……お前、それ、……外さないのか?」
「なぜ?」

 ことりと首を傾けて、セリスはロックを見上げた。炎に照らされていても温まっていなさそうな、ごく浅い海のいろ。

「証拠品をなくすわけにはいかないだろう?」
「だからって、」
「それに、そもそも外せないんだ。継ぎ目がないから」
「そうじゃなくってさ。……壊したっていいじゃん」
「……なぜ?」
「厭じゃないか? そんなの……」
「……『厭』?」

 うすい蒼の視線が戸惑ったようにゆらめいて、じっと考えこむ色になった。
 

      §


 ロックはどうやら、日の傾き具合で時間がわかるらしい。というのは、道行きですぐに知れた。
 特に時計など見ている様子もないが、ちょっと空を見上げたかと思うと、
「そろそろ1時だから、昼飯にするか」
と歩をゆるめるのだ。
 セリスは比較的、口数少なく後を歩いていることが多いのだが、その声が聞こえると、荷物の中のクラッカーや缶詰を思い浮かべる。「昨夜の兎の残りがまだある」、とか、「水を汲んでおきたい」と応じ、ロックが「ああ、じゃあ……」と答えるのが二人のペースになっていた。
 それは、ぱらぱらと雨が降っていても変わらない。フードを軽く持ち上げたロックは今日もまた、
「1時だな、飯にするか」
と言ったのだった。
 今日は歩き始めるのが遅かったから、大して空腹ではないはずだ、お互いに。セリスは内心そう首をかしげたが、いつものように応えた。

「缶詰はもう、残り少ないはずだ」
「そうだっけ、どうしようかな……クラッカーと干し肉の残りは……あー、ちょうどいいか」
「ちょうどいい?」
「もう明日中には着く距離だぜ、ナルシェ」
「……そうか」
「じゃあ、干し肉を片付けちまうか。んで、今日はなるべく歩く。雨からも逃れられるといいんだけどな」

 そしてセリスはいつものように黙々と、ロックは地図に視線を落としてなにか書きつけながら、食事を腹に収めたのだった。
 

      §


 ナルシェの空の色は、いつも鈍くて暗くて、寒々しい。
 重い雨戸を細めに開ければ、冷たい雪雨がびしゃびしゃと吹き込んでくる。マッシュは大きな肩を震わせて、雨戸を閉めた。分厚いカーテンまで引いて初めて、赤くかんかんと燃え上がる暖炉のコークスが、部屋中に熱をいきわたらせ始める。

「……なあ、兄貴」
「なんだい? 弟よ」
「あのさ、俺、明日は二人で探索に出るんだけど」
「そうなのか。しっかり着込んでいくんだぞ」
「わかってるよ。……でさ、相方が」
「何か問題が?」
「いや。そいつが、……ロックだっけ? 大丈夫か? あいつ」
「ロックは腕のいいリターナーの工作員だ。的確に任務を遂行するし、要領もよく義にも篤い。悪いところといえば、そうだな。針金を持たせたら多少手癖が悪い、くらいか」
「そういうことじゃなくてさ」

 マッシュは暖炉に近づいてきて、エドガーの足元の絨毯に腰を下ろす。胡座に足を組み、まっすぐ背中を伸ばして。すっと分厚い手のひらを膝に下ろすと、肩の筋肉がぐっと動いた。

「あいつさ、食欲ないからって篭ってたことがあっただろ」
「ああ、そうだったな。胃に来る風邪が流行っているようだ」
「うん。で、一昨日の話なんだけど――」


 マッシュはちょうど、昼食の後片付けの当番だった。
 空の皿を積んで、洗い場のセリスのもとへ運ぶ。食事に出てこなかったのはロックだけだなと話しかければ、旅の途中は体調を崩した様子などなかったから、ナルシェについてから風邪でも拾ったのだろう、ということだった。

「まだ食欲ないかな。後で何か持っていってやるか」
「そうだな……」

 セリスは少し困ったように頬に指先をあてて、リンゴやミルク粥や蜂蜜はあるだろうか、と言った。

「ははっ、セリス、そりゃ風邪は風邪でも子供に食わせるやつだぜ」
「……っ! 悪かったな、寝込んだ記憶なんて子供の時にしかない!」

 耳に朱色がさしているセリスが食器を籠に置くと、カチャン、音が立った。マッシュが見れば、洗ったのをただ重ねているだけだったので、さっと立てて並べ直す。見やったセリスが、ああなるほど、と小さく口を動かした。

「まあまあ気にするなって。パンをミルクに浸して、卵でも添えて持ってってやろう」
「……米って、あまり食べないんだな?」
「そうだなあ、ドマだと主食らしいけど。この辺はそんなに雨が降らないからな」
「そうなのか」

 そんなことを言っていると、食堂に誰かが入ってきた気配がした。
 マッシュが顔を出してみれば、灰茶色の短い髪の男だ。バンダナをしておらず、丸首シャツ一枚の格好なので、一瞬、誰だろうか、と思ったのである。

「あれ、お前、もう大丈夫なのか?」

 声をかけても、彼は答えない。ゆらりと動いたかと思うとすとんとテーブルにつき、そこらに残っていた食べ物を、無表情のまま口に運んだ。

「おい、お前……」
「1時だから」
「は?」
「え、どうしたんだ? ……って、ロック? 大丈夫?」
「うん。……1時だから、来た」

 言いながら、ロックの手は余り物を口に詰め込んでいく。茶色に見える目が、伏せると緑みをおびるのだと、マッシュは気づいた。時々うつむいて口元を押さえている。吐き気があるのではないだろうか。

「ちょっと待てよ。……なあ、それ美味いか?」
「あー……、うん、たぶん。美味い」
「……本当か? 味が付いてない茹で野菜だぞ?」
「……そう?」

 ちょっと宙を見やって、ロックはもごもごとそれを咀嚼し、ごくんとのみこんだ。

「……うん。固い」
「……ほかには?」
「んー……」

 ちょっと困ったようにロックはもう一口、もごもごと噛みしめて、「食えるよ、ちゃんと」と言った。
 明らかに味などわかっていない無表情だ。「1時だから、」と、彼は言ったか? 1時になったから、吐こうが何をしようが食物を腹に入れようというのか。
 何度も口元を抑えながらそれを飲みくだす。

「……かえって腹をこわすぞ。止めろ」

 マッシュは低く唸って、皿をとりあげた。ロックの額に手を当てて、熱に浮かされているわけではないことを確かめ、腕をつかみ、立たせる。

「ちょうどさ、後でセリスが何か持っていってくれるって言ってたんだ。なぁ?」

 あえて軽く笑ってセリスを振り返れば、彼女は戸惑った顔のまま、こくこくとうなずいた。

「だから。な、寝てろ」
「……そっか……」

 ロックはゆらりと立ち上がり、部屋に引っ込んでいった。

 


 って事があってさ、とマッシュは言った。

「……なんであいつ、無茶な食い方をするんだ?」

 それを聞いたエドガーは眉をひそめ、顎をなでた。妙な間が空いて、マッシュが軽く口を尖らせる。

「どうしたんだい、兄貴」
「いや……改めて聞かれると、あいつと食事を共にした記憶はすぐに思い浮かばなくてね」

 ただ、思い当たるとすれば。

「……レイチェル嬢の件か……?」
「え?」
「……いや、止しておこう。本人のいないところで憶測を口に出すものではない」
「そっか」
「なあ、マッシュ」
「何?」
「……ロックは腕のいいリターナーの工作員だ。的確に任務を遂行するし、要領もよく義にも篤い。どこに出かけていっても、ちゃんと帰ってくる。どんな混乱の中に行っても、だ……生き延びることに、執着が強い。それは間違いない」
「そうか」
「だから、信用している」
「わかった」

 マッシュは明るく、にっと笑って立ち上がった。エドガーの足元に座っていたかたちが、ぬっと大きくなって、見下ろしてくる姿勢になる。

「明日、行ってくるよ。成果をちゃんと持って帰れるように、祈っててくれ」
「祈るまでもないさ」

 双子はそっくり大きな手で軽くハイタッチしあう。



 ベーコンやハムといった保存肉は、貯蔵庫の天井から無造作に吊るされている。チーズのかたまりの箱があり、それらの残りは保冷箱の下段に詰め込まれていた。上段には雪を掬ってきて入れておくらしい。少し溶けていたので、勝手口の脇で水を捨て、雪をとって足しておく。鼠よけに飼われているらしい猫が一匹、にょろりと足元をすり抜けていった。
 酢漬けの野菜類の大瓶は、棚にいくつも並んでいた。バゲットは無造作に籠に刺さっている。バターケースは調味料の瓶が並んでいるところにあった。
 これだけあれば十分だろう。セリスは袖をまくった。

 マッシュとロックの探索は、午前中に出て午後のうちに戻る予定だった。他の仲間はその間に、手分けして情報収集や掃除や物資の調達などを行う。出ていく二人の後ろ姿に声をかけると、線対象の動きでひょいと振り返った。

「ロック、マッシュ。あの、」
「お、セリス」
「どした?」

 セリスが油紙の包みを突き出すと、二人はちょっと意外そうに目をまたたかせた。

「……良かったら、お昼に」
「おっ、パンかなにかか?」
「サンドイッチだ。ハムとチーズと酢漬け野菜のだから、あまり立派なものじゃないけど」
「おー、助かる。何か釣ろうかと思ってたから」

 そっとロックをうかがって、「余計だったか?」と言えば、ふる、と首が振られた。

「……もらっとく。ありがとな」

 なんかこんなの、珍しい気がするけど、なんで。ロックの口から、小さくこぼれた。

「……いつもあなたは、お昼の時間を気にするから。……作るって約束、したから」

 ふっと伏せられたロックの目に、影が落ちる。わずかに緑色の気配がさすことに、セリスは気づいた。ひなたに落ちる大枝の、陰のいろ。初めて一緒にキャンプした時、セリスはどうしたらいいかわからなくて、忙しげに動き回るこのひとを眺めていた。

「覚えてたんだ。……覚えてて、くれたんだ」

 ありがとな、と、もう一度繰り返される。
 セリスはどうにも面映くて、行ってらっしゃいという言葉は届くか届かないかのつぶやきになって、踵を返すロックの足元だけを見つめた。

 二人は予定よりやや遅く、日が暮れる頃に戻ってきた。
 雪にぬれた衣類を着替え、採取した薬草やポーションの類を回収箱に集め、探索の結果を報告し、明日の方針を決める。いつもの手順だが、ロックは着替えを済ませるとすぐ、セリスに声をかけ、困ったように眉を下げた。

「昼飯、ごちそうさま。……ごめんな、残して」
「そうか。時間がなかったのか?」
「……いや、食えなくてさ」
「……だめだったのか」

 表情を強張らせたセリスに、慌てて弁解する。

「いや違う、セリスのせいじゃないって。……嫌いだから食えないだけ。悪い」
「きら、い?」
「キノコのやつ」
「キノコ……」

 そういえば、大瓶の中にキノコのマリネがあったように思う。

「キノコ、だめなのか……」
「あー、なんかもう、ね。今すぐあいつを食わなきゃ死ぬとか何かが爆発するとか、そうなったら食うかもしれないけどさ」

 心底いやそうに、ロックは肩をすくめた。

「次の時には、抜かしてくれるとありがたいや。……そんだけ。ごめん」

 ロックが荷物をほどきに戻っていくのをなんとなく見送ると、セリスは流し場に足を向けた。ゆっくりと、だんだん足早に。つめたい柱を曲がって、うすぐらい土間に降りる。屑籠をのぞいてみると、くしゃりと丸められた油紙が投げ込まれていた。
 あんなになってもなお、『嫌い』と言える食べ物がある。
 そんなことを知って、なぜ鼻の奥が痛いんだろうか。なぜ、膝の力が抜けていくんだろうか。壁に体重をあずけ、ざりざりとしゃがみこんでいく。

「……良かった……」

 なぜ視界がにじむんだろうか。
 なぜ、そんなことばが溢れたんだろうか。
 わからないままセリスは膝を抱えて座り込んでいた。
 

      §


 次々と、オペラ衣装が身体にあてがわれていく。
 パニエを重ねる。ふんわり白いオーガンジーのスカート。ボディスは案外伸縮性があった。上からレースのローブを羽織って、胸元から腰までを留め付ける。マリア役には衣装替えがあるというので、本当の貴族のドレスよりも脱ぎ着しやすいのだ、と衣装係は言った。セリスの体格はマリア本人と似ているらしく、多少、裾や袖を伸ばすのにフリルやレースを縫い足すぐらいで済んでいるようだ。

「素材も頑丈なものを選んでますが、大道具の間を通るときには、こう、思い切りスカートを持ち上げてください」

 引っ掛けたりしたら大ごとである。心配そうにセリスの動作を見守っていたが、躊躇なくドレスをからげてみせた彼女に、ほっとしたように眉を下げた。足元こそ華奢な白い靴だが、パニエの中にはいつもの動きやすいパンツを穿いているのである。立ち回りを演じることになるだろう囮役だから、衣装合わせも普段着越しだ。

「アクセサリーはこれです。長さを調整しますので、……あ」

 鍍金の大時代なチョーカーとネックレスの一揃いを並べて見て、お互い、困った顔になった。

「セリスさん、その、ペンダントを……」
「はずさないといけないですね」

 衣装係はセリスの後ろから首元をみやって、更に困った顔になる。

「……え、これ、外せないんですね?」
「いえ、……あの」

 セリスは少しためらってから、
「外します」
と言った。

「え、大丈夫ですか?」
「いいんです」

 ひとつ首をふると、続きはあとに回してください、と言って衣装を脱ぎ、離席する。
 ロックを探して、セリスは廊下を歩いた。


「本当に、いいんだな?」

 チェーンを外して欲しい、と椅子からロックを見上げると、彼は少し目をふせて、それをつまみ上げた。セリスは髪を肩の前にかきわけて、軽くうつむく。

「いいの。……機会を、のがしていただけだから」
「そっか。ずっと外さないでいるからさ、なにかこだわりがあるのかと思ってた」
「そういうわけじゃない」

 本当にタイミングがなかっただけ、と言って、セリスは小さく息を吐いた。

「わかった。……じゃ、壊すぞ」
「お願い」
「動くなよ?」
「ええ」

 ロックはナイフを抜くと、セリスの首の周りで連なっている鎖の継ぎ目に先を押し当てた。
 ぱきん、と小さな音がして、ずっとつながっていた鎖がこわれていく。ああこれはいつからここにあったんだったか。たしか、がくがく震える高熱が冷めた朝には、タグが頬に触れていた。ナイフが動くのにあわせて、鎖がすこし、首にくいこむ。ざりっとこすれて、離れていく。壊してみれば、ずいぶんあっけないものだ。

「終わり。……どうする? これ」
「持っておく」
「……そう?」
「鎖ごと。……忘れては、いけない気がする」
「そうか……」
「……どうして、だろうな」

 言って、セリスは立ち上がった。ドッグタグを受け取り、鎖をなでる。どこに仕舞っておこうか。私物は宿においてあるから、とりあえずガーターに付けてある貴重品入れに落としこんだ。

「戻らないと。……衣装合わせ、途中なの」
「待てよ」

 ロックはとっさに、白いうでをつかんだ。

「……何?」
「……待って」

 セリスの肘をすくい上げて、二の腕の、後ろ側。そこに、ロックは歯を当てた。
 ああ、甘いな。あまくてあたたかくて、やわらかい。生きてる。
 そう思った後で、『甘い』という味がどんなだったか少し考えてしまった。それほどに、忘れかけていた感覚だった。
 一度口を離して、同じ場所を食む。こんどは唇だけで、やわく舐るように。

「……ふ、」

 ぴくん、とセリスの肩が跳ねる。舌先でつつけば、くすぐったそうにうつむいた。

「――やっぱり、甘い」

 つぶやいた自分の声が、妙に低くて湿っぽいなと、ロックは他人事のように思った。

「……甘い?」

 そんな味がするの? それとも言ってみただけか? あなたは食べられるものならなんでも口に入れて、味など頓着しないのに。……食べられないのはキノコ。他にあるのかは、知らない。
 いたわるようにささやかれて、びくりとしたのは今度はロックのほうだった。

「あー……知ってたかぁ」

 レイチェルを亡くした頃からずっと、ものを食べても美味しいとか不味いとかがよくわからなくなっていた。辛いも甘いも、どこかぼんやりと遠いところにある。それでも、生きて動いているためには定期的に何か腹に入れなければならなかった。
 厄介な作業。食事とはそれだ。しなくてすむならいいのに。今もそう思っている。食材を手に入れて煮たり焼いたり、クラッカーの残りや干し肉の傷み具合を気にしたり、腹具合に気を遣ったり。そんなことたちに手を取られなければ、何歩先に進めるだろうか。闇の深い方へ向かっているのだとしても。
 ぽふ、とセリスの肩に額を埋める。今ほどロックが触れたところが、すこし赤くなっているのが目に入った。無意識のうちに、咬んだのかもしれない。
 ひどく甘い匂いがした。
 木の香、薔薇の香、果実の香。そのうちどれかと問われれば、セリスがいつも身にまとうのは薔薇の香だと既に知っているはずなのに、それとは違う甘い甘い、肌の匂いだった。
 ……もういちど、同じ場所に唇をよせる。さっき彼女の首元にこすれた鎖の跡が、ごく淡く色づいているのが目に入った。今ここにある体温は、孵ったばかりの雛よりあたたかいのに、孵ったばかりの雛みたいに危なっかしい。
 迷ったようにすこし、セリスの手が持ち上がりかけて、下ろされる。握りしめられるでもなく、撫でるでもなく。どうしたらいいのかを知らない手の動きだ。


「……あの、戻らないと、」
「まだ、待って」

 
 セリスは空の容器なのだ。――いや、空の器だったのだ。今もまだあちこち、空っぽなのだ。
 『小さな女の子』や『誰かの娘』や『花の好きな少女』や、ちいさくて愛らしくて取るに足りないものを全部、帝国のどこかに置いてきた。おそらくは、魔導という中身がみっちり詰まった容器を、持たされたときに。
 あの地下室でロックと会って、容器の中身をいったんぜんぶぶちまけて、『元将軍』と『帝国からの離反者』と『元実験体』と、それから『戦いの知識』と『サンドイッチの作り方』と、それだけをごたまぜに詰め込んで、持ち出してきたんだろう。
 今はきっと、それらを器の一番底にぎゅうぎゅう押し込めて、空いた部分を空の器がのっかっているのだと思って、何か自分自身が得たもので埋めようとして、うろうろしているのだ。まだまだ穴だらけだけど、ロックが溢れださせたなにかや、すくいとってもらったり拾い上げてくれたりしたなにかで、すこし埋まってきている。
 皮肉なものだ。
 穴だらけの自分を埋めるのは、歓びだとか笑みを感じ取る感性だとか、うれしい思い出だとか、そういうものだと、セリスは思っていた。
 そんなきらきらしたものばかりではなかったのである。

 ロックはもう一度、セリスの腕に唇をあてた。そこはやっぱり甘くて、あたたかくて、孵ったばかりの雛みたいに危うかった。
 

      §

 彼女は空(うつろ)で、彼は壊れている。
 けれど、それでも、彼女がすがりつくのは彼の壊れた手だけで、
 彼がしがみつくのは穴だらけの彼女だけなのである。