別館「滄ノ蒼」

16:12

「兄貴どこ?」
 モンクは甲板に顔だけ出すなりそう言った。それを見やって、賭博師は鼻から煙を吐き出した。

 出入口のハッチを持ち上げて、きゅうくつそうに胸までをのぞかせている魁偉な筋肉の塊――年がら年じゅう曇り空になってしまったこの世界の、薄ッ暗く波 長の短い赤土色の光の下でも、活き活きとした生命感を保っている――は、何度見ても、なぜだかどうにも何かの小動物を思い出してしかたない。
 来たか、とセッツァーは思った。
 少し前、ファルコンをここに停めて数分後から、何やらでかいものが艇内を走り回っているような気配は感じていた。足下から、ひしひしと騒がしい気配が這 いのぼってくるのだ。子供がいっしょになって跳ねまわっているような声が聞こえたので、ああこりゃマッシュだな、と思った。となれば、なんでソイツが騒い でいるかはおおかた予想がつく。さんざん艇内をひっくり返しているのだろうと思うとこめかみが軽くひきつったが、奴は意外とちゃんと後片付けをする。まあ いいだろう、と思いなおした。兄貴のほうであれば悪口雑言を力いっぱい投げてやるところだが。
 くまなく艇内を探し、最後に甲板にたどりついたとみえるマッシュはもういちど、
「セッツァー、兄貴知らない?」
 と言った。

「――知らねえな。とりあえず上がったらどうよ」
 マッシュの体格だと、昇降口のハッチは狭すぎて、甲板と扉の間に上半身がぴったりはさまったみたいに見えてしまっている。実にきゅうくつそうに首をすくめているので、見ているほうが気の毒になってくるほどだ。
 ……そうだあれだ、子犬というかプレーリードッグに似ているのだ。巣穴からのびあがって、つぶらな瞳できょろきょろまわりを見まわしている小動物。
 こんなでかい野郎をつかまえてそんなモノを思い浮かべるのもどうなんだよ、と、賭博師は自分で自分の思考回路に唇の端をひん曲げた。ごまかすようにマッシュから視線を外し、煙草を口に運ぶ。
 空を見上げた。
 鼻先をかすめる風は冷たくもぬるくもなく、吹いた次の瞬間には別の方向に向かって飛び去る。一面の景色の中で動いて見えるものはただ、ぐんぐん動いてい く赤灰色の雲だけ。雨を降らすわけでもなく、切れ間から空の色を見せるわけでもない、死んだ魚のようなのっぺりしたその色だ。
 その間に、マッシュはハッチの隙間からぬけだして、セッツァーのそばまでずんずん歩いてきた。
 近くに立つと、マッシュのほうがセッツァーよりも頭半分以上も背が高い。体は厚く、量感もある。どうしても押されるような雰囲気になるのがほんの少し面白からず、賭博師は舵にもたれたまま顎を上げた。
「――で? 誰に聞いても奴の行方が分からなくて、ここまで来たってわけか」
「そうなんだよ……ほんとに誰も見てなくてさあ。お前が最後なんだよな」
 しゅんと肩をおとす筋肉の塊をみて、あっこれはやっぱりプレーリードッグだよな、とセッツァーは思った。そして再度、自分を小さく罵る。
(だからなんでこのデカブツがそんな小動物なんだよ……)
「なあなあ、ほんとに兄貴どこにいるか知らないの? セッツァー」
「……知らねぇっつってんだろが。知ってたとして、聞いてどうすんだよ」
「もちろん追っかけてくんだよ! 決まってる」
「で? 追いついて、それでどうするんだ。どこまでも奴の後にくっついて、足元にまとわりつく気か。お忙しい国王陛下に構ってもらう気なのか」
「違……!」
 マッシュは激昂しかけて、一瞬のうちに空気の抜けていく風船と化す。金色の短髪も気持ち元気をなくしてたれさがり、小さくうつむいて鼻を鳴らす子犬になってしまった。
「そうなのかなあ……俺? 兄貴はたったひとりでも堂々と立ってて、いつも間違わなくて、誰より国のことを考えてて、仲間をまとめて――俺、兄貴が前だけ見てられるように、守りたいだけなんだけど。やっぱり邪魔してるのかなあ……」
 少々容赦なさすぎたかもしれない。子犬を蹴とばしてしまったような気分になって、セッツァーは言葉を飲み込んだ。急いで携帯灰皿を取り出し、それに煙草を押しつける。
「……俺は奴の味方なんざする気もねぇけどな。っていうかむしろ関わりたくもねぇけどな。お前が今言ったことは正しいし、奴の考え方ももっともだと思ってるぜ」
「どういうことだ? セッツァー」
「俺が見たとこ、お前が真っすぐ立ってるって信じてるから率先して汚ねぇ仕事を引き受けようとしてるんだ、奴は」
「そうか、兄貴は……そうだ……ちゃんと事を進めようとすれば自分が一番苦労したり嫌な思いしたりする、って、そうわかってることほど、一人で一番前に出て、一人でどんどん進んでいっちまうんだ……そういう人なんだ」
 再度、モンクはうつむく。
「それは、フィガロや……俺を守るために?」
「むしろ逆だ。国とか弟とかを守るって言いながら、甘えてんだよお前に」
 守る守るって気張ってる奴ほど本当は自分が守られてるもんだ、ってのは本当だよな、んで全く気づいてねェのな、そこが気にくわねぇんだよ俺は、と言って、賭博師は喉の奥でくくくッと笑った。
 床を見つめてじっと拳を握りしめていたマッシュは、小さく言う。
「……それ、兄貴は俺についてきてほしいってことかな?」
「さぁな。ま、お前は好きにすりゃいいんじゃねぇの? 行こうが行くまいが、奴は嬉しがるだろうよ」
「……なぁセッツァー、お前もしかして兄貴と話とかしてた?」
「どうだかな。――どっちにしたって、あのヒトがこう言ったどうだったとぺちゃくちゃ嬉しそうにお喋りするような、小娘みてぇな趣味はねぇぞ俺は」
 少し嫌そうに片目を細めて視線をはずし、賭博師は舵にもたれなおす。その様子を見ながら、こいつはたぶん八割方兄の行先を知っているだろうな、とマッシュは踏んでいた。一歩踏み出して、言う。
「お前が黙ってるなら、ええと……ファルコンのカーテンを全部、くまさん柄のに変えてやる!」
「……打ち合わせでもしやがったのかお前ら」
「打ち合わせ、だって?」
 ということはつまり、やっぱりさっきまで兄貴と一緒にいたなお前ー! とモンクは声を上げ、賭博師の襟元をひっつかんでがくがく揺すった。辟易したように賭博師は顔をしかめ、「うるせーよお前は!」と怒鳴り返した。
「それとこれとは別だっつってんだろが! だいたいファルコンのどこにカーテンのかかるようなでかい窓があンだよ、っていうかどういう嫌がらせだよそれは」
「じゃあ、ファルコンの椅子という椅子全部にくまのぬいぐるみを設置してやる!」
「くまさんから離れろよ熊男。……ゆさぶるなっつぅの! 離せよ」
 ぜーはー言いながら、セッツァーはぱっと飛びさがって身構えた。反射的にマッシュも足を踏ん張り、両手を構える。色気のかけらもなく見つめあって数秒、黒コートの男は盛大に肩口から緊張を抜けさせる。
「あのな。今から俺は独り言を言うからな――」
 処置なし、という風に両手を広げて、賭博師は肩をすくめた。
「――それでお前らがどうなろうが俺の知ったこっちゃねェからな。兄貴がなんかやってやがったら弟のお前がケツを拭いてやるんだな、薬の密売人のフリした人間の密売人を相手にするなんざァ穏便にすむわきゃねぇんだからよ」
「なんだって……!? 早く言えセッツァー、兄貴はどこに行ったんだ!」
「ちっと黙ってろよ。独り言ってのは渋く決めるもんだぜ」
 セッツァーは踵を返して、舳先のほうに歩きだす。一瞬だけ強い風が吹いて、黒い刺繍のほどこされた襟がばさりと揺れた。
 ひょい、と顎を上げるだけで長い髪を振り払い、賭博師は大きな声でひとりごちる。

 ――ニケアで一番薄っ暗い裏通り、その真ん中ほど。窓のない家が三軒続いてて、運が良けりゃそのどれかに「人買い」がいるはずだ。言っとくがろくでもねェぜ、気をつけるんだな。

「そうか。ありがとな、セッツァー」
 聞き終わるか終らないかのうちに、マッシュは勢いよく走りだした。欄干を飛び越えようとして思い直したのか、急角度で方向転換して行儀よく出入口にむかう。ハッチをくぐろうとしたところでくるりと振り返ると、ばたばたと戻って来た。
 そして最高に人の悪い笑みを浮かべると、腰に手をあててセッツァーに顔を近づけた。
「そうそう、もしもだ、セッツァー」
「なんだよ」
「兄貴を連れ戻せなかったら、俺はファルコンの外壁にでっかく『マリア命』とか書いてやるからな! わはははは!」
 それだけ言って満足したのか、マッシュはまた勢いよくばたばたと去って行った。
「…………」
 お前、実は兄貴よりいい根性してんだろ……と、のど元まで出かかった言葉を、賭博師はモンクの背中を見送りながらやりすごした。どう見ても似てないと 思っていたが、人を食った笑顔は嫌になるほどそっくりな上品さで、やはりかのモンクはいけすかない国王陛下と血を分けているのだと、つくづくセッツァーは 思ったのだった。もう少しでファルコンの舵輪にしがみついてかみしめるところであった。
 ――やっぱり、あそこん家の奴は合わねえんだよ、俺は、絶対。合ってたまるか。
 親の顔が見てみたい、という言葉を柄にもなく思い浮かべて、大急ぎで振り払い、新しい煙草に火をつける。……奴らの親父なら、あれの二乗に輪をかけて倍に拡大したような狸に決まっている。間違ってもフィガロ先王の肖像画を拝みたくなどなかった。
 
 空はあいかわらず、薄汚れた埃っぽい赤みをおびた色のままだ。
 双子が走って行ったであろう街の方角を見やって、賭博師は再び、鼻から煙をふき出した。

 

 

 

(2011.5)