別館「滄ノ蒼」

16:30

「――兄貴!…何、してるの」
 よく通るその声に、「ジェフ」は思わず振り返って、「エドガー」の顔になった。

 世界崩壊前と比べれば行きかう人の数は減ったとはいえ、空の灰色よりもやや濃い色に沈み込んだ人波と、それが立てる喧噪は、段差と物の多い石畳の上をう めつくし、ぬるい夕気をかきまわしている。この港町は三方を海に囲まれているためか、荷車や雑踏や商家から生み出されてくる雑多な音にどことなく、はるか 遠くから響いてくる海鳴りと潮の匂いが、わかちがたく混ざり込んでいるようだった。
 露店の多い地区からはずれれば、怪しげな暗い軒の並ぶ裏通りは客寄せの声もまばらで、瓦斯灯もない。
 曇った夕暮れの頼りない光にエドガーが目をこらしてみると、行きかう人影のむこうに、ぼんやりと大きな塊が仁王立ちしていた。声はそこから発せられたのに間違いなかった。
 小さく息を吐いてエドガーは踵を返し、その塊に近づいた。相手も、邪魔者をなぎ倒す勢いでずんずんエドガーのほうに進んでくる。寝そべっていた野良犬が一匹、飛びあがって道を開け、吠えた。
「マッシュ…。どうしてこんな所に」
「兄貴を追いかけてきたに決まってるじゃないか!」
 それにしてもよくぞこんな薄暗い中、こんな裏通りまで来て、変装済みの自分をあんな遠目で見つけられたものだ――と、エドガーは少々額を押さえたくなっ た。自分の行先をこの弟に漏らしたのはセッツァーであろう、あとでしめあげなければ。そう決心したところで、自分が賭博師に「他言無用」と釘を刺さなかっ たことに思い至って、今度は本当に額を押さえた。
「…こんな所で目立つのは、少々、よろしくない…声量をおさえてくれ」
「黙ってなんかいられないぜ。兄貴、気がついたらいなくなってて、おまけに誰にも何も言ってないしさ。やっと追っかけて来てみれば、いかにも怪しげなトコロだしさ。この地区の名前を聞いた奴らみんな、俺が道を尋ねたらどんな顔したと思うんだ?」
「マッシュ」
 遠巻きに何人かがこちらを見ているのに気づき、エドガーは弟の腕をとった。
 まわりの町並みなどより、自分たちのほうがよほど怪しいだろう。しかし、エドガーにとっては、自分以外の誰にもやらせようと思わない用事を始めもしないうちに、怪しげな連中の視線を集めるのは、実にまずいことだと思えた。
 魁偉なモンク僧をひっぱって、建物の陰に入る。マッシュは素直に兄の手にひかれている。通りの雑音がすこし引いて、視界が一段暗くなった。エドガーが向き直り、マッシュは足を止め、
「「あの、」」
 双子は同時に声を上げた。一瞬ためらって、
「「あのさ、」」
 また声と声はぶつかる。
「………兄貴から、どうぞ」
「……お前から、先に」
「……」
「………」
 妙な具合で二人は見つめあってしまった。マッシュはでかい図体で口をへの字に結んだまま動こうとしないし、エドガーはいつものやわらかい笑みを四割ほど口の端にはりつけて、無言で弟をうながしている。
 荷車の音ががらがら言いながら遠くから近づいてきて、そのままがらがらと遠ざかっていった。
 足元の地面が少しぬかるんでいる。どことなくすえた臭いがする。
 二人して息を吸い、
「…マッシュ」「兄貴」
 また、かぶった。
 ふうと息をついて、二人は全く同じ動作ですーはーと呼吸する。その甲斐あってか、今度はエドガーが口火を切ることに成功した。ことさらに大げさな身振りまでつけてみせる。
「…ふう……。おやおや、全くこれは不思議なことだな、いったいどうして我が弟がこんなところにいるのかな? これはどうしたことだ夢かマボロシか、珍し いことが起こったものだ頬でもつねってみようか、さてはセッツァーかロックあたりがけしからん店にお前を連れ出したな弟よ、そうか連れてこられたのか連れ てこられたんだな無理やり引きずってこられたのか痛かっただろうそうだろう全くけしからんことだな俺の大事な大事な――……うう……ええと、つまりは ――……ファルコンに戻るんだ、マッシュ」
「やだ」
 そろそろ目が据わりはじめた弟にすげなく返され、エドガーはがっくり肩を落とした。
「そんな聞き分けのないことを言わずにだな…」
「ダメ。戻らない。兄貴を連れて帰るよ俺は絶対」
「そこを曲げて頼む」
「だめだって」
「……まったくこの頑固さは一体誰に似たんだ……」
「兄貴でしょ」
 マッシュは大きなため息をついた。
「ほんと、頑固なのは兄貴だよ…。こんな所まで、ひとりで。誰にも――俺にもなんにも言わないでさ」
 ふい、と構えていた腕から力を抜く。
 そして二、三度またたくと太い首を軽くすくめ、ひとさし指の先で頬をかいた。
「兄貴がなんにも言わずに出てったら、たったひとりで何か大変なことをしに行くってことなんだって――俺は昔から知ってるよ」

 何歳頃のことだったか。
 双子がまだベッドを並べて眠っていたころだから、十にはなっていなかっただろう。
 二人は城の地下の倉庫で遊んでいたところ、潜んでいた魔物に襲われたのだった。魔物と言っても兎に少々毛の生えたような――普通の兎が無毛という意味で はない――かわいらしいものではあったが、四苦八苦しているうちに侍女が呼びにきたのをいいことに、二人は体よく逃げ出したのだ。
 その夜、エドガーはベッドを抜け出し、マッシュの上にかがみこんで、弟が眠っている様子をみとどけると部屋を出て行ったのだった。
 次の朝、二人のベッドの間にはくだんの魔物が首輪につながれて跳ねまわっており、エドガーは手や頬や額に大きな擦り傷をこしらえて眠っていた。絆創膏だらけで客人と謁見する王子に、侍従や大臣は目を白黒させ、父王は腹でもこわしたような顔をしていた。

「……すまない」
 なんか重大な情報を聞きに行ったんだってのは聞いたけどさ、ちょっとは俺を頼ってくれてもいいじゃないか、そう思ったわけ。そう言う弟に対してエドガーはぐうの音も出なかった。 
「だからさ、俺も一緒に行くから」
 弟は、まっすぐに彼を見つめてくる。
「……かなわないな、お前には」
「…!じゃあ、」
「――いや、……行くのはやっぱり俺だけでいい」
 視線を落としたエドガーの口元に、静謐とさえいえるほどの微笑が広がったように思えて、マッシュは抗議の声をのみこんだ。
「俺ひとりで十分だからだ。だから、お前に頼みごとを預けていく」
「……。何?」
 エドガーは顎に手をあてて、ふむふむと考えている。
「――十五分だ」
「え?」
 じゅうごふん?と思わずマッシュは聞き返す。何かしてくれ、でも誰かに会ってくれ、でもなく、十五分。
「建物の外でそのまま十五分待っていてくれ。それまでに俺が戻らなかったら、これから言う通りにするんだ」
「うん」
「ひとつ。中で何かばたばた音がしていたら入ってきてくれ。たぶんそのまま戦闘だ」
「わかった」
 にっと笑って、マッシュはうなずいた。
「で、もうひとつは…?」
「そうだな。何も音がしなかったら――……」
「何?」
「そうだな、音がしなかったら……なにもせずにまっすぐファルコンに戻り、離陸させろ」
「えっ…!?そんなことしたら、」
「そうするんだ。――そしてすまないが、内務長官が持ってきた書類に押印してやってくれ、印章の場所は――」
「ちょっと兄貴、なに言ってんだよ!?そんな――帰れないかもしれないような危ないことをしようとしてるのかよ!」
「大丈夫だ。……ありえないからな」
「何、言って……」
「俺ひとりで十分だと言ったはずだ。交渉はすぐに終わる、だから大丈夫だ」
 そう言いながら、エドガーの視線はマッシュから外れ、すい、と通りのほうに流れた。
「……兄貴!」
 兄につかみかかろうとしたマッシュの目に、ふっと何かがかぶさって、視界が暗くなる。
 エドガーの片方の掌が、やわらかく当たっているのだった。同時にもう片方の手は厚い肩を壁に押さえつけている。 
「どうしても俺を止めるというのなら、マッシュ、俺は今すぐスリプルでも唱えなきゃいけなくなる」
 肩にかかる手に力がこめられる。軽く振り払えるはずのその手が、マッシュは振り払えない。
 落ち着いた、冷静な声が、耳元でささやいた。
「行かせてくれ、『レネ』。――頼むから」
「……だめ、だっ……!」
「――そうか」
 すぐにエドガーの唇からは呪文が漏れ、掌から淡い光が発せられた。
「……卑怯だぜ、『 』――」
 マッシュの大きな手は、闇の中で兄を捕えようとして果たせず、宙をかいて垂れ下がり、同時にがくりと力の抜けた体は壁にそってずるずると座り込んだ。

(……さて、急がなければな)
 小さく息をついて、エドガーは弟の体を物陰に隠した(ついでにバニシュをかけておいたので完璧なはずだ)。魔法の効果が切れるまでに、自分の詠唱ならば おそらく七、八分ほどだろう。それまでに「人買いのケイン」から情報を引き出して戻ってくる、……何もなければぎりぎりか。裏社会の人間相手にたったひと りで乗り込むなど、弟の言うとおり上手い手ではない。その上、追って来てくれたのに無理に眠らせてしまった。
(だが)
 汚れ役は自分だけで良い、そうエドガーは思ったのだった。他の仲間の誰より、「ジェフ」が適任なのなら自分がするべきだ。そして誰よりも、たったひとりの弟にだけは――ほんの少しでも陽のあたらない場所に足を踏み入れたりなどして欲しくなかった。
 独善的だとわかっている。
 けれどそれこそほとんど意地で、すでに誰かに守られる必要など毛ほどもない弟の、せめて自分が守るべき部分だと、そうエドガーは思っているのだった。



 改めて、すぐに戻ることを固く固く自分に誓って、「ジェフ」は通りを歩きだした。
 薄寒い雲のたれこめた弱弱しい暮れ方に、その背中はすぐに紛れ込んでいった。

 

 

 

(2010.7)